はてなキーワード: 自己肯定感とは
文章を読むかぎりでは自己肯定感の高低とコミュニケーション能力は全く独立した話のような……
否定的な両親に育てられ、いわゆる自己肯定感の低い人間でしたが、結構な時間をかけ、わりと努力して、自己肯定感が高くなった者です。
昨今、自己肯定感は高いほうが良いと言われてますが、元低い人間にとっては一概にそう言えないと感じているので共有できれば....。
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低い→高いのデメリット、それはコミュニケーション能力低下という副作用が発症することです。
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自己肯定感が高くなったことで、自分に自信が持てるようになり、人との会話で自分の意見をはっきり言えるようになります。
しかし、悔しいですが無意識のうちに話し方などが親に似ます。子どもの頃にされて嫌だった、否定的・高圧的な話し方に私はなっていたんです。
似るというのは、遺伝子の問題ではなく、親と接した時間が長い=無意識のうちに強い影響を受けるという意味です。
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何度も何度も後から気づいて後悔するのですが、すべて後の祭りです。
とても親しい友人や家族以外、上手く話せなくなってしまいました。仕事も同様です。
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最近は常に「私はダメな人間だ、人様に教えていただいてなんとか生きていける程度のダメな人間なんだ」と言い聞かせて、必死に自己肯定しないように心がけています。
高いところから低くするのは難しく、苦悩の日々です。
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もちろんですが、自己肯定感は高いほうがいいです。
以前の私は、希死念慮に苦しみつつ、生きることも死ぬことも人様に迷惑がかかってしまうからと板挟みで死にそうでした。
何をしても楽しくない、この世の全てが憎く、そのくせ生きている自分を殺したくてしようがなかったです。
あの頃に比べて、現在は仕事以外は全て楽しいので普通の生活なのかもしれません。贅沢な悩みですよね。
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スーパーのはしごで体動かしてたのが、出産で骨盤臓器が下垂して長時間歩けなくなり、数年経ったのに円座クッションがないと尾てい骨も痛むようになった。
室内で意図的に運動しなきゃいけないけど私は物凄く運動が嫌いだ。学校でいじめにあった記憶でやってても不快感が強い。女性に虐められたから女性が怖くて嫌いで、そういう人たちがやってそうな運動という行為にも嫌悪感が激しく湧く。運動しながら運動できるあいつらが正しくて私はいじめられて当然だったのって怒りや自己嫌悪でぐちゃぐちゃになる。全然運動しても自己肯定感なんて湧かない。拒絶反応と言わんばかりに運動が嫌だ。学校行かなきゃよかったな。
マウンテンバイクのようなものも考えたけどマウンテンバイクしながら見たい映像作品もやりたいゲームもない。フィットボクシングは体験版一日だけで腹圧が掛かって痛むので続きそうになく挫折。リングフィットもだんだんミニゲームのハードルが上がってから心が折れた。ストーリーがないモードもじわじわ負荷が蓄積されるし本当に運動だけだからどんどん辛くなってくる。
他人からの好意を素直に受け止めて、「自分は愛されてる」とポジティブに考えよう! っていうから真に受けて頑張ってたんだよ。
途中まではうまくいってたと思う。女友達も沢山できた。対照的に男友達はできにくくなったし、減った。差別的な野郎が無理になったのは別に良いんだが、なんていうか、女友達を性的な目で見る男がキツくなった。女友達のパートナー男性にはナイスな男も多いんだが、それでも何か厳しいものを感じてしまう。「思春期の女性同士の友情」みたいなものに陥ってたんだろうか。
話を戻す。自己肯定感はある程度まで育って、恋人ができたり、性に奔放な女性をワンナイトを楽しんだりすることができるようになった。30代をそんな風に過ごしてしまった。もっと若い頃に今の精神状態に至っていたら遊び放題だったろう、なんて屈折を持ったりもしていたが、それよりは今を楽しむべきだろう、と。
40代を迎えて、気付いたら、向けられる好意から恋愛的・性的な成分が抜け落ちていった。傾聴には未だ需要があったが、そんなのは10歳下の男にもできる。ぬいぐるみでいたつもりはなかったのに、ぬいぐるみと見なされる頻度が増えた。
書いてて思ったけど、単に普段会う相手と年が離れすぎただけかもしれない。別にそこまで若い女を望んでるわけではないし、もっと近い年代の相手と遊ぶべきなんだろうな。そういう人とどこで出会ったら良いのか分からないが。
あ〜〜友達でも何でもいいんだけど誰かの1番というポジションにつきたいな。でもそこにたどり着くまでにはそれに見合うだけの相互コミュニケーションの積み重ねが必要なんだよなあ。
大体は1人で事足りるおかげで誰かとコミュニケーションをとる労力を割く必要ないと思って行動してしまうから、いざというときに積み重ねが何もなくて詰むんですよ。
こういう損得を持ち出すような考えしてるからダメという説もある。
だけど人との輪に入ってるうちはそんなこと考えないんだよ。学校とか仕事とかで関わってる分には損得考えずにコミュニケーションとってるし、見返りも求めずに人に親切にしちゃう方だ(と思う)し。それなのにプライベートの付き合いを自分から進めるの一切しないんだよね〜〜そういう流れできてれば別だけど。
一度糸が切れると繋ぎ直そうとしないというか、切れそうになってる段階でぷっつり切っちゃうというか。それでふとした時に、周り見て「あれ?」って思うんだよね。普段は別にいいしむしろ楽なんだけど、今見たいに精神的に落ちてる時ダメってわけです。
ネットを観測してるとこういうタイプの人けっこういる印象だけどどう?自分の場合はSNSでのコミュニケーションを継続するのも無理なタイプです。
健全な考えをするとそういう関係構築する上で難易度1番低いのは家族なんだけど、意外とそう上手くはいかないよね。
向こうは自分のこと1番に思ってる雰囲気あるけど、自分視点だと1番にしてあげてるんだからそのぶんこちらの思い通りになりなさいって思ってるんだろうなという受け取り方しかできない。
こう書くと反抗期の延長でしかない感じするけど、うーんなんていうか毒親までいかないけども機能不全家族ではあったなあと思うから大目に見てください。今まで生活してきた中で信用できないなというか心開くのは無理だなと思ったポイントいくつかあるんで。
恵まれた家庭ではあるんだけど、こういうのって下を見ればキリが無いし、今この立場にいるのは自分1人しかいないんだし誰とも比較なんてできないよ。多分ね。
というかそもそもの問題は自己肯定感の低さだという自覚があるんだよ。度重なるセルフカウンセリングの結果ですが。
一度ちゃんとしたカウンセリングを受けるべきだと思うけど、諸々の事情により難しいというか一定以上の効果認められないだろうなというか。
うつの診断基準満たしてる気がするし現在の状況と幼少期振り返って考えてADHD的素養ありまくりだし、何かしら処方してもらった方が早いのかも。医者じゃないんで自分で診断できないけどさ。
そうそう、その発達障害的な部分で言えばずっと自分のことASD寄りだと思ってたんだけど、ひとつひとつ整理して考えるとどっちかっていうとADHDだったんですよ。おもしろいねえ。こうやって話題移り変わってるのもそれっぽくない?
まあくっきり線引きできないのが発達障害の難しさなので話半分でお願いします。自分の今の現状で全然ADHDじゃなかったら絶望しちゃうからね。それも病院避けてる理由かも。でも本当にADHDだったらコンサータとかストラテラとか飲めばなんか変わるんですかねえ。
めちゃ話が変わってしまったのでこのくらいにしておきます。試しに考えを出力してみただけでした。
一応タイトルに戻っておくと、誰かの1番的なポジションにつきたい(というか誰かに全肯定されたいという方に近いかも)けど、それを求めるにはコミュニケーションの積み重ねが大事。それ抜きに誰かにリターン求めるのって傲慢だよなあという話。
おしまい。
人間がお互いに精神的に安定して自己肯定感や安心感を得られるための双方の精神的貢献
みたいなのを足したい
友人や人間関係が勝手に出来てると思ってら奴が多すぎる。相手の与えてくれる承認や許しやその他精神的な貢献に甘えてタダ乗りしてるだけの状態を肯定する奴。
まずは本当にお疲れ様。読んでいるだけで胸がしめつけられた。増田は日々めちゃくちゃしんどい生活を送っていると思う。少しでも自分を労ってほしい。
残念ながらこれは離婚したほうがよい案件だと思う。私は2016年ごろ、同じようにモラルハラスメントに苦しめられた友人(35歳・女性)の離婚を心理的に支えた経験がある。そのときのことも踏まえて以下、書く。
こういう案件になると必ず「なんでそんな男と結婚したの?」などと無邪気な二次加害をしてくる人が登場するのだが、あなたは悪くない。モラルハラスメントをしてくる人間は外面がよく、社会的には評価され信頼されているケースが多い。また結婚当初は良き夫だった男性が、仕事その他の躓きによって自信を喪失し、パートナーを虐めることで欠落を埋めようとだすことも普通にある。人間とはそれ自体が複雑なもので、相手の内面を読み切るのは未来予知と同様不可能だ。あなたは悪くない。
モラルハラスメントをしてくる人間との離婚は容易ではない。彼らは概して自己肯定感が低く、パートナーとの別離が現実化してくると極度の不安に駆られこちらにしがみついてくる。「愛してる」「俺が全部悪かった」「悪いところは全部直す」「もう一度やり直させてくれ」などと泣き言を言ってきて、残念ながらこれを信じて元鞘に戻り、また延々とモラハラをされるケースも多い。離婚の最中は当事者はなかなか冷静ではいられず「私が我慢すればいいんだ」というような自暴自棄な発想に陥りがちになる。
この局面において必要なのは、冷静に背中を押し続けてくれる味方だ。あなたに信頼できる親族、もしくは友人はいるだろうか? いる場合はひとりでも多くに相談してほしいし、いない場合は自治体のDV相談窓口、民間シェルターなどを当たってほしい。とにかくリアルの味方を作り、精神面や情報処理の面で自分のコンディションを保つことが大切。
ブコメでも同じような意見があったが、33歳バツイチの女性はまだまだ全然モテる。
これは自分の目で確かめたほうがよいと思うので、30代女性の多い婚活アプリ(ゼクシィ縁結びやMarrishなど)に登録してみるといい。日々山のように申込みがくることがわ分かるし、なんならマッチングしてメッセージのやり取りをしてみてもいいかもしれない(不倫は離婚の場で不利になるのでNG。メッセージのやり取り程度)。自分の婚活市場における価値の高さを実感できると思う。
ここまででエントリへの返答は終わりだが、以下もう少し踏み込んで書く。ここから先は具体的な作戦の話なので、メンタルが元気になり、味方ができたあとに読んでほしい。
離婚の提案をしたのち、相手が素直に協議に応じてくれれば楽でいいのだが「離婚しない」とゴネだすと戦いになる。家庭内で起こるDV・モラルハラスメントは客観的立証が難しく、いざ調停や裁判に移行した際に離婚事由として認められない場合もある。
ここで効いてくるのが証拠だ。相手の暴言の音声を複数録音できればそれがよいし、録音が難しければ暴言の記録を日記としてつけておくだけで有効になる。このへんはシェルターやDV相談窓口で聞いてみてほしい。また、資金に余裕があるならサクッと弁護士を入れてあとはお任せにするのがよいと思う。それ以降先方と話さなくていいので、心理的に大変楽になる。
相手が資産を開示してくれるといいのだが、いざ離婚となった際に相手の財産状況が分からないと財産分与が取れないので、相手の所持している財産を把握しておく。通帳のコピーだけでなく、車や不動産など大型資産の掌握、積立型の生命保険・小規模企業共済、株・投資信託の把握なども忘れずに。具体的な金額がわからないなら、口座がどの銀行や証券会社にあるのかを知るだけでもよい。
また自分はこっそりとネット口座を作っておいて、資産を引きだしてそちらに移しておくとさらによい。財産分与の際、相手に財産を知られなければ取られない。別居後にこれらのことを行うのは大変だし、分割する資産は別居時を基準とするので、同居しているいまがチャンス。
あなたと夫の収入格差が分からない(共働きなので同程度かな?)のだが、別居開始後から婚姻費用の分担請求というものができる。別居後、資金的に不利な側が別居前と同程度の生活水準を送れるようにするための制度だ。
例えば……
ならば、毎月4万円程度の婚姻費用を夫から受け取ることができる。詳しい金額は算定表(https://www.courts.go.jp/tokyo-f/vc-files/tokyo-f/file/santeihyo.pdf)を参考にしてほしい。これは離婚成立時まで延々ともらえ、私の友人のモラハラ元夫もこれに音を上げて離婚に応じた。この辺もシェルターや弁護士に教わってもらいたい。
人生はまだ長い。私は虐待由来の人間不信からずっと独身のワーカホリックとして生きてきたのだが、38歳で結婚して去年41歳にして初子が生まれた。第二子妊活もしているのだが、なかなか難しいとも思う。私なんぞに比べればあなたははるかに未来が開けているし、いくらでも可能性がある。よい選択になることを祈ってる。
反出生主義というとあまりいい印象は持たれておらず、「生きてるくせにダブスタだ」とか「生き物として間違っている」とか言われがちである。
私は反出生に賛成なのだが、理解できる反出生主義とちょっとバカそうな反出生主義がいて、これはどのジャンルもそうだが人数がいるだけ考え方が少しずつ違い、その中の変な層ほど声がデカくその主張を聞いた人が「こいつらバカじゃん」となるのはとてもわかる。
例えばフェミニスト。まじめに女性を守ろうと一生懸命動いてる人もいれば、ただ怒りを男にぶつけたいイライラしてるだけの女もいる。
例えばヴィーガン。自分に合った食事をひっそりとしている人もいれば、屠殺場で大暴れして人の仕事の邪魔をする人たちもいる。
例えば動物愛護。自分の手の届く範囲で助けられる動物をしっかり世話する人もいれば、考えなしに受け入れて結局金銭面で面倒見切れず崩壊する人もいる。
どのジャンルにもバカが居て、そいつらが目立つのであまり知らない人からしたら全体がバカそうに見えてしまうのが悲しい。
本題だが、私の場合の「反出生主義」というのは、「資格のある人だけが産みそれ以外の人は子供を産まないで欲しい」というものだ。
妊娠出産を免許制にして許された人のみが子を産み育てて欲しい。
虐待して死なせたり、金がないせいで子供の可能性を潰したり、将来親の介護を押し付けたり、とにかく悲しいことが多すぎる。
・人として当たり前の倫理観(浮気、不倫をしない、人のものを盗まない、人の嫌がることを故意にしない、人の悪口ばかり言わない、子供をバカにしたり否定したりしない、子供を性的な目で見ない等)
・子供と同レベルで言い争うことをしない知性(悪いことをした時なぜダメなのかを子供に理解させることができる)
このように人柄、知性、資産が合格であれば子供を産んでいいと思う。
かなり合格者は少なくなるだろう。しかし本来そうあるべきなのではないか?
なぜそう思うのかというと、私の友達に同い年の女性で同じタイプの発達障害がいる。
こだわりが強く、何か気になること(角にピッタリ物がハマってないなど)があるとそれしか考えることができなくなり、新しい物が苦手で排他的、わからないことや興味がないことは全て放置で挑戦せず、何か一つのことにハマるととことんやる。地図が全く読めず、名前を覚えるのが苦手、運動が苦手、片付けができない、感覚過敏で音や匂いや食感に苦手な物があり、感覚鈍麻で突然体調を崩す。
仕事は接客業のバイト。感覚で生きているので会話はしっかりできるが基本受身。リアクションの良さで乗り切っている。
そんなほぼ同じタイプの友達二人だが、違うのは親ガチャが成功か失敗かというところ。
家の資産はかなりあり、小さい頃から親に可愛がられ、自己肯定感も高く、今は結婚して家と車を親に買ってもらい幸せに暮らしてる。
Bさんは親ガチャ大失敗。
小さい頃から親に否定されバカにされ、自己肯定感が低く、今は鬱で仕事もできずに実家暮らし。
この差は親の人柄が一番大きいとされる。
同じタイプの発達障害だが、親の人柄がよかったAさんはそれを気にせずそういうものだと受け入れ生きている。
親の人柄が最悪だったBさんは常に何かに怯えながら自分が悪いという気持ちに苛まれ生きている。
さらに資産問題。まだBさんは実家に住めることを許されているが、これが許されない場合は生活保護か風俗しか道がない。
他の場合の話。
買い物をしている時に3歳くらいの子供にずっと怒っている母親がいた。3歳児は恐らく何か発達障害なんだろうか、何を言われてもケロっとしており怒られたことをまたすぐにやる。
それにうんざりした母親は子供に向かって「お前気持ち悪い」と悪態をつく。
悲しくなった。
その後、道端でまた見かけたが電柱の隙間に追い詰めてまた子供を怒っていた。多分ずっと怒られる人生なのだろう。終わりだ。
自我が芽生えた頃には自分はなぜ人と同じことができないのか悩み、唯一の味方であるべき親に否定され続け、逃げ道はない。
発達障害を抱える人にはよくある話だ。
これも、親に知識がなく子供のうまい操縦の仕方がわからずただ怒鳴ることしかできない無能だったがための悲劇である。
発達障害は確かに大変ではあるが、障害の種類で法則性があるので合う育て方が分かればお互いが楽になる。
うちの子に限って!と障害を認めない親が悲劇を生んでいる場合が多いので一定の年齢になった時に検査を義務化して欲しいものだ。
障害は確かに生きづらいが、普通の人が成し得ないことをやってのける可能性があるので武器にもなるし、向き不向きがわかれば本人も親も楽になるのでウィンウィンだと思う。が、障害者への差別が奥底にあるのだろう、ネガティブに捉えて認めたがらない人間の多さにうんざりする。
話が逸れたが、このように親ガチャで同じような子供でも雲泥の差がある人生を歩むことになる。
ところで先程「子供の操縦の仕方」や「なぜダメなのかを理解させることができる親が合格」などと言ったが、子育ての大変さをネタにしたツイートや漫画で「子供はそんな思い通りにいかない」という主張はわかる。
それを覚悟して産むのだからそんな漫画やツイートをする時間があるのなら子供の面倒をみたり家事をすべき。もしくは愚痴を言うのではなくもっとプラスになるポジティブな趣味をみつけるべき。
思ったより子育て大変だったと思う人間は正直バカなんじゃないかと思う。
何をしても泣き喚く子供、どこでも走り回る子供、普通に生活していればわかるはずだと思うが…
しかもネットで検索すれば子供の大変さなんていくらでも出てくる。なぜ体験するまでわからないのか不思議でならない。
友達にも子供を産んで、夫や子供の愚痴を言う人はいるが、話の一つとして聞くし否定はしないが心の中で「まあ自分で選んだ道だし自業自得だよね」としか思わない。
明らかに間違った子育てをしてる友達もいるが、少し「ちょっと危ないと思う」くらいは言ってあとは何も言わない。それで聞かないような人の子育てには介入できないからだ。
親ガチャ失敗というだけの話。
生きてても産んでもいいという私の「反出生主義」は他の人からしたちょっと違うかもしれない。
だが普通に考えて全く産まないのは絶滅するし、バカが多すぎるから悲劇が起こるのであって、ちゃんとした人間が産み育てればより良い世界になるはず。
あとたまに見る「反出生主義なら死ねばいいじゃん」という意見は根本が間違っていて、生まれてしまった命は精一杯楽しく生きてもらって、これから発生する可能性のある悲劇は減らそうという考え方が反出生の主たるものだと思う。
自分は子育てができるほど人ができていないので子供は産まない。産めないように病院で処置もした。
親は子供の催促などはしてこないが、ごめんなという気持ちが少しある。
友達の出産は祝う。ただ優秀な女性ほど心の底で悲しさを感じる。子供を産むと母親になりどんなに才能があろうが数年は仕事や趣味を休むことを余儀なくされるからだ。子供を産まなければもっと上まで登れるのに。
ネットでやたら他人に噛み付く反出生主義、友達や周りに思想を押し付ける反出生主義、正直迷惑している。
発言することは自由だし、他の人はこう思ってるのかと理解できるのでこのように「見たい人が見れる場所」では発信していいと思う。
色んな人がいて色んな場合がある。
私の思う反出生主義は「自分で考え、他人に押し付けず、手の届く範囲でやれることをやり、できるだけ自分と他人に嫌な思いをさせないこと」である。
直接伝えるのはいくらなんでもキモすぎる、そもそも会わせる顔がないとかそういう話なので、ここに置いていきます。
恐らく家庭環境に由来するっぽい自己肯定感の低さから、深く立ち入られることが怖くて、逃げるように関係を絶ってしまってごめんなさい。
みなさんが正面から(恋愛的なものに限らず純粋な好意も含めて)好意を伝えてくれたり、態度で示してくれたりしたことは、「誰かに大切に想ってもらえていた感覚」として心の奥底にずっと居座っていて、今になって、あの時向けてもらっていた感情を純粋に受け入れられるようになりました。
当時は自分は大切にされるべきではないと思い込んでいたので、その好意は嬉しかった一方で、それ以上に自分の(自分に対する)認識と、かけ離れた感情を向けられるのが気持ち悪くて受け入れられませんでした。
関係が深まるまでの本当に短い間、お付き合いしてくれたり、なんとなくでも一晩だけ付き合ってくれたりして性的な承認をくれた人たち。
「ごはんいこうか!」ってよく飲みに連れて行ってくれて、社会の中に居場所があると思わせてくれた上司や先輩、かわいがってくれた取引先のおっちゃんたち。
会社を辞めてしばらく放浪していた時に、「それならしばらくウチにおいでよ!」って泊めてくれたり、ご飯をごちそうしてくれて、まともな家族のあたたかさを教えてくれた、じいちゃんばあちゃんたちと、おっちゃんたち。
救うつもりなんてなかったとしても、その時からずっと僕の魂は救われ続けていて、おかげで嬉しいことは心の底から嬉しいと思えるようになりました。
こんなことを書いているのは、結婚してつい先日、子どもが産まれたからで、会わせる顔がないのでせめてもの自己満足でここで報告したかったのです。
今はもう少しだけ生きていたいし、安心して帰れる家もできたよ。