はてなキーワード: 確証とは
ありえねえだろ。
これは99%虹夏しかありえねえって。
ジャケも虹夏だし。
底抜けに明るいわけじゃなくて、陰は陰としてあって、その中で前向きに生きてる感じ。
そうやって聞いてくと「親を失ったという心の傷を音楽の力で癒やし続けることで陽キャとして成立させている虹夏のキャラソン」だってことが確証に変わっていく。
単に音楽や青春が好きってよりも、音楽を好きという感情を共有できる仲間たちとの青春の中にいることで油断した途端に崩れそうな足元を固め続けている感じというか。
虹夏って基本陽キャでリーダーシップあるんだけど、結局は過去の傷から立ち上がった思い出が人格のコアになっているっていう、ある意味可哀想というか痛々しさを抱えたキャラなわけで。
属性: 実家暮らし(子供部屋おじさん)、フルリモート正社員、低年収、未婚、童貞。
まったく困ってないんだよね。
まず俺の趣味ってさ、金がかからんものばっかなのよ。読書、ネット、プログラミング、脳内空想ごっこ。これだけでもう趣味は足りてて、人生楽しいわけよ。
そんで生きるのに必要な程度の収入はあるし、それ以上もらっても満足度も大して上がらんだろうなと。
未婚ってのにも全く問題がない。オナニーしてれば充分満足。リアルの女は、99.99%は「梅毒クソ女」と認識しているので、空想のほうが抜ける。
それでまあ弱者男性だが、お前よりもたぶん主観的には幸せに生きられているんだが、それがどうした?
「弱者男性」ってワードを使いまくる奴がいるようなんだが、あいつらが何を敵視してレッテル貼りだのなりすましだのをしたいのかよくわかんねーんだよな。
まさか弱者が幸せに生きてるのがそんなに気に入らねーのか?それはお前の性格が悪いだけだし、そうやって妬んでくるアホが増えれば増えるほど、「ああ、俺は弱者男性という道で正しかったんだな」って確証が高まるだけだ。
誰が考えた基準ですか?どのようなフェミニズムなんですか?詳しく教えていただきたいです。自分は女性の権利条約をベースに話をしています。
加害される女性の数は増えるよね
とりま強姦行為に限れば明確に否。風俗の存在はレイプを減らす(お前が「加害」を一般より拡大解釈してる場合は更に突き詰める話もある)。
明確に否!!!?
すごいですね、100%の確証性ということですよね?そんな研究が存在するということですか?どの地域でですか?どのような比較研究がされたんでしょう。レイプを減らすというのは?具体的にどんな手法で調べられた話なんですか?因果関係の完全否定をするのはとても難しいですよね。ほとんど現実世界では不可能だと思うんですが。詳しく知りたいです。
イギリスかな?アイルランド?単純にどこかの調査結果で出ていたよねーという話
これは端的に原則ですね。
医師が確かそういう報告してたよね?詳しい人誰か教えて。
社会的コンセンサスはある(法令に違反していない)。お前の同意がないことは社会の同意がないことではない。
>「不正確な医療漫画を見て現実の医師の指示に従わない」「トイレットペーパーの買い占め」のような現実の深刻な影響を引き起こす懸念が高いよね
反ワク反マスクの時は真面目な顔して世界には13人の首謀者がいてワクチンは人々を選別する手段で…と語り出したがまあそういう考えもあるよなと聞き流していた。外で会うのは避けていた。
その知り合いが今度は反アミノ酸になっていた。
久しぶりに外で会って飯食った時、アミノ酸は身体に悪いからと自作おにぎりを食べていた。いかにアミノ酸が身体に悪いか語っていた。それよりも普通の喫茶店でおにぎり食べるのはええんか。
一応コーヒーを頼んでいたので店員さんから注意は受けなかったがハラハラしていた。
家に帰ってからアミノ酸の危険やらを検索したがいまいち確証が無かった。
知り合いは実家が金持ちだし高学歴高収入なんだが何故こうなってしまったのか…。それ以外は良い奴なので付き合いは続けるつもりだが少し不安だ。
正直どこまでが真に迫ってるのか…
マトモな判断力があれば、いつ捕まって殺されてもおかしくないような場所に、大した備えもせず捕まってしまったらそれまでって状況にノコノコ自ら身を投じるわけがない(と信じたい)。
なのであれは周到に安全が担保された状態で撮影したのではないかと思ってる。
実際はあのエリア内であの程度の散策ならまず目をつけられることはなくほぼ危険はない、そう現地スタッフと綿密にルート打ち合わせの上で行ったんだろう。
それを現地人に見られた=マークされた!みたいに煽って間一髪で脱出したかのように演出した。
小賢しいやり方だけど裏でちゃんとリスク管理してるならまだいい。
本当にノープランでノコノコ危険地帯に出かけていったんだとしたら、たとえ無事だろうが愚かすぎて目も当てられない。
だがもしかすると本当にそんなバカをしでかしそうな危うさも感じるから、ノープランの大バカよりはずる賢いヤラセであってくれと思うのだが、どっちなんだろう?
「右と左の区別がつかんからタトゥー入れた」みたいなツイートみて思い出した
昔、妄想してただけの疑問なんだけど、
「生まれつき、すべての知覚が左右反転してしまっている人がいたとして、本人はそのことに気が付くのか?」
というもの。
確か、「左右反転するメガネ」をかけると意外にすぐ適応する、って実験を見て湧いた疑問だった気がする
じゃぁ、生まれつきそのような疾患を持っていても、本人含め誰も気が付かないのでは?と。
そもそも右と左ってなんだ?俺がそうでない確証はあるのか?俺が観てる・感じてる右とみんなが観てる右って本当に同じなのか?
と、考えるのがしんどく無くて放り出した。誰か答えを知ってたら教えて欲しい。
#追記
いわゆる「左右盲」はどうでもよくて、
「「視覚を含めた全ての知覚が左右反転してる架空の人」が存在したとして、その人の日常生活には支障がでるのか?何も問題ないのでは?」が疑問である。
中々眠れずにそんなことを考えていました。
前提として過去に戻る際、今の記憶は引き継がれないこととします。
つまり、自分の意思決定は全く同じ状況化にある場合、毎回同じ結果になるのではないか?ということを考えていたわけです。
=====
中学時代にプログラマに憧れ、高校は情報系の商業高校を選択しました。
そのために中3から塾に通い猛勉強をしてなんとか入学できました。
高校時代は非常に怠惰で、自主勉強はせずゲームばかりをする日々でした。
ですが、情報系の授業は非常に大好きで部活もその手の部活を選択していたこともあり5教科はギリギリ赤点を逃れるレベル、情報系の教科は毎回90点台という塩梅でした。
当時の自分は強くプログラマになりたいと思っていたわけではありませんでした。
ですがなんとなくPCをいじるのが好きだったのでPCを一日中触っている職業がいいと思っていました。
また、フリーソフトをインストールしてPCをカスタマイズするのが好きで、そういった小さいソフトを開発できるようになりたいという思いもありました。
明確な理由があるためこの選択は何度やってもおそらく変わらなかっただろうと思います。
それは親も同じでした。
中学3年生、春の三者面談で父と自分が担任の教師に「笑っている場合ではありません、この学力では志望校は無理です」と怒られた覚えがあります。
父も自分も非常に楽観的な人間でした。が、流石にまずいと思い強制的に勉強ができる塾に通うことにしたのです。
面倒だから行きたくないという気持ちはありましたが、ここまで切羽詰まっては自分を強制する他ないなという気持ちが強かったのを覚えています。
そのため、この時の自分の選択も何度やっても変わらないでしょう。
問題はこれです。
自分は当初、怠惰ゆえの結果で場合によっても勉強する可能性もあったのではないか?と考えていました。
しかし、思いを馳せてみれば当時の自分は「5教科などプログラマになる自分には不要の長物」と考えていた故に「勉強しない」選択肢を選んでいたのです。
上辺だけ見ればただの怠惰でしたが心根には「ゲームなどの娯楽よりも価値のないもの、故に勉強は不要」という思いがあったのではないかと考えたわけです。
もちろん当時の自分の理性は「そんなことはない」と分かっていましたが、今までの少ない経験則や自分の重視している物事、それから娯楽の誘惑などを総合的に鑑みるに勉強しない選択をしたのでしょう。
そうなってしまうとこれも何度やってもきっと変わらないでしょう。
それどころか今でもなお自分は自主勉強ができない人間のままなわけですからこれは確証を持って言えます。
最後にこの進学先ですが、ここはほぼ選択肢はありませんでした。
自分は高校時代にいくつかの資格と大会の受賞経験があり、一応勉強さえすればそれなりの大学に入学するチャンスはありました。
これは「興味のない科目に対して勉強するかどうか」と同じ帰結でしょう。
自分の考え方をトレースするとこの選択肢も変化はなかっただろうと思います。
題名でもう結論は出ていますが、結論として多少の誤差はあるかもしれないが「過去に戻ってやり直しても今の自分と大差ないんじゃないか?」というのが自分の結論でした。
この思考の中で発見したのは「"怠惰"というものは存在せず、複数の選択肢のうち自分の考え方や経験が結果的に"怠惰"の選択肢を選んでしまうのだ」ということです。
また、この「考え方や経験」というのは幼少期の経験が強く影響しているのではないかと思います。(遺伝もあるかもですがデータが自分しかないので遺伝の影響度合いは分からないです)
つまり、幼少期の経験が人間の一生に大きく影響するんでしょうね。
そう考えると、結局人間というものは幼少期の影響がバタフライエフェクトのように広がり、成功や失敗を生み出しているのだろうなと思うんです。
もしそうなら、人がなにか罪を犯した場合、それは本当にその人だけの罪なのかな?などと変なことをぼんやり考えてしまいました。
仕事の合間に見に来たら色々言及いただいて驚きました。ありがとうございます。
さて、いくつか言及いただいている「記憶を引き継がないなら同じでしょ?」という話ですが自分の考えを追記しておきます。
自分は人間の行動にはランダム性のある部分があると考えています。
例えば「歩く」動作一つにしても呼吸の間隔や足の動く速度はつど変化が起きるのではないかと思うのです。
そう考えた場合に「時を戻す」ではなく「再度人生をやり直す」場合に上記のように同じ動きはできるのか?と考えたわけです。人生の再演算と言ってもいいと思います。
その場合、同じ「歩く」動作でも違いが起きるのではないかなと考えています。
そうなると思考にもランダム性があるんじゃないか?と思ったりしました。
そういう曖昧な考えがあってじゃあ実際にどうなんだろうな?と具体的に掘り下げていった結果がこうなったというわけです。
...しかしながら、そう思うと親というものは本当に偉大だなと思う一方で子供を育てる難しさは果てしないものがあるなと考えさせられました。自分は結婚の予定すらありませんが・・・。
anond:20221001090653の続きのようなもの。
南島原市・西有家町では「みそ五郎」という名前のキャラクターを見かけた。これは、町民・市民がゼロから生み出した存在ではなく、この地に伝わる民話に登場する人物である。
1980年代の旧・西有家町時代から、地元の有志の人々が地域興しのシンボルとして用い始めたとのことである。したがって、近年の日本各地における「ゆるキャラ」の乱立・流行とは無関係であるが、その流行が少しは追い風になったのかもしれない。今では、役場に像が設置されたり、地域特産品のパッケージにイラストがあしらわれるなど、みそ五郎は各方面で活躍している様子である。
以前、日本テレビの番組『TOKIOのザ!鉄腕!DASH!!』で、ソーラー発電パネルを搭載したカスタム軽自動車に乗り込み、日本全国の海岸線沿い道路を走破するという企画に挑戦していたことがある。その中で、TOKIOが西有家町を通過した際には、番組内VTRでも全国に紹介されたそうである。その番組を見た記憶が有るという人も、存在するかもしれない。
味噌が大好物とされる。里の者から味噌をもらえば、御返しに、巨体と怪力を活かして力仕事などを手伝ってくれたという。
また、高岩山(たかいわさん)に腰掛けて有明海で顔を洗ったとか、対岸の肥後(熊本)・天草まで一足で跳躍して有明海を越えて渡ったという巨体ぶりも語られる。
住処とされた高岩山には、今でも、みそ五郎の足跡を残していると言われる岩石が存在する。
みそ五郎は、妖怪呼ばわりされている訳では無いが、水木しげる等の著した様々な妖怪関連書籍で紹介される山中の妖怪ヤマオトコや、日本各地に存在するダイダラボッチを筆頭とした巨人伝説との共通点・類似点を持つ。
ヤマオトコも、みそ五郎やダイダラボッチほどではないが巨人であり、酒が大好物とされ、人間から酒をもらえば返礼に杣人(そまびと)らの力仕事などを手伝ってくれるという、温和な妖怪である。味噌と酒という違いはあるが、みそ五郎もヤマオトコも、共に発酵食品を好むとされる点が興味深い。
海を一息に越えるとか一跨ぎにするとか、山に腰掛けて海で顔や手足を洗うというのは、これは巨人伝説においては、巨大さを表現するための常套手段である。竹原春泉斎の挿絵で名高い『絵本百物語(桃山人夜話)』に登場する、讃岐の手洗い鬼が瀬戸内海を跨いで手を洗った話など、様々な類話が知られている。
このように見ると、みそ五郎は孤立した存在ではなく、日本各地で広く見られる、山中の温和な妖怪や、巨人型妖怪の系譜に連なることが分かる。
みそ五郎に何らかの独自性を感じるとすれば、まずは彼の好物である味噌なのであろうが、むしろ私は、呼び名である「みそ五郎」そのものに興味をそそられた。
何故「みそ『五郎』」なのだろうか? そう考えたのである。単に「味噌が好物の(大)男」というのであれば、別に「みそ太郎」でも「みそ彦」でも「みそ兵衛」でも構わないはずではないか。
みそ五郎が、有明海を飛び越えて肥後・天草に向かったのに倣い、私も同じ九州の他県へと(想像の中で)跳躍してみることにする。そうすると直ぐに、南九州の宮崎県・鹿児島県に伝わる巨人「大人弥五郎(おおひとやごろう)」の伝説を見出す。奇しくも「五郎」の名を持つことに、注目してもよいであろう。
大人弥五郎の伝説は、怪力で里人を助けてくれたり、山に腰掛けて海で顔を洗うといった、みそ五郎その他の巨人・妖怪と類似するものである。みそ五郎と異なる点としては、好物が明確でない点、特に山を根城としているとは明言されていない点、軽い悪さやイタズラをして里人を困らせるといったトリックスター的なエピソードを持つ点などが挙げられる。
有明海を挟んで「五郎」の名を共有する巨人が存在するのは、海を経由したにせよ陸地を経由したにせよ、島原半島と南九州との間に、人的及び文化的な交流があったことの名残であろう。
他に「五郎」の名前が関係する九州の伝説や民話といえば、これは巨人・妖怪ではないものの、大分県に伝わる「炭焼小五郎(すみやきこごろう)」が思い浮かぶ。これは、豊後の山中で炭焼の仕事をして暮らす善人の小五郎が、顔にアザの有る姫と結ばれ、最終的に金山の所有者となり、姫の顔のアザも消え、幸せな長者夫婦となるという筋書きである。
金に限らず、山で採掘された金属の精錬のプロセスには熔鉱炉が付き物であり、それには炭が不可欠である。炭焼小五郎の伝説は、山での金属生産に従事した、山の民の存在を我々現代人に伝えるものである。
みそ五郎、ヤマオトコも、炭焼小五郎のように山を生活や仕事の場としていた山の民の姿を反映しているのであろう。味噌・酒など彼らの好物である発酵食品をもらった返礼に、力仕事を手伝うという物語は、山の民と下界の農耕民との交易を反映したものなのだろう。
九州以外の地域も広く探せば、日本各地で更に「五郎」の名を持つ巨人や妖怪、伝説上の人物を発見できる可能性はある。しかし、何故「五郎」なのかについての手掛かりは、今のところ無さそうである。
そこで、少し外に目を向けてみようと思う。中国の書物『聊斎志異』『獪園』『劇説』などに名の見える怪異に「五通(ごつう)」というものがある。
これは、蘇州の方面に横行したとされる、五人一組の好色財神である。夜毎、人間の女性のもとへ通っては犯すという。言うことを聞けば人間に財貨を与えるが、逆らえば害をなすともいう。体格偉大とされ、別名として「五郎(ごろう)」とも呼ばれる。(参考:実吉達郎『中国妖怪人物事典』講談社)
体格が大きく、名前が「五郎」という点に、我が国の巨人・妖怪「五郎」との関係を想像せずにはいられない。女性に手を出すところや、人間に害を与えもすれば福を齎しもするという両面性は、大人弥五郎の人助けも悪戯もするトリックスター性に通じるところがある。
今のところ、中国の「五通」が我が国の「五郎」の起源となった、或いは、影響を与えたという確証は無い。無いのだが、可能性は有ると思っている。有った方が面白いからである。とはいえ、もう少し調べるべきであろう。