はてなキーワード: 土地とは
萌え絵で突飛なプロフィールあれば儲かる!みたいな安直さとそれに注力しすぎて、いちばん大事なその土地の良さとか、その地域に住むものとして地域と地域に住む人を大事にする精神とか、客としてくる人に対する敬意とかを見失ってるんだよな。
道後温泉のしか知らなかったけど、120もあるのか。あとフェミが叩いている箇所は普通にまぁ叩くに値する内容だと思った。だってキショいもん。
美少女イラストに「土地神だから大丈夫!!」ってオタクが言っても普通わかんない。そもそもなんで美少女イラストなの?温泉ごとに描いてる人が違うみたいで統一感がないし。地元のモデルとか芸人じゃダメなのか。だからオタクきもい。
結論を言えば、ご当地のゆるキャラはその場所にいくことでしか出会えないものだから意味がある。ピカチュウやディズニーはその場所にいかなくても問題ないキャラであり、意味合いが全然違う。
良い例がでてるけど、例えばディズニーキャラが何の縁もゆかりもない温泉地にいたところで違和感がある。ご当地キティとかは各所に出ずっぱりになっておりその場所毎にコラボをしているから意味があり、ミッキーが田舎町にポツンとあっても訴求力としてはしまむらのハンカチ程度だろう。これはキャラクターの特性とその土地や物がかみ合っていないから。ディズニーは東京ディズニーランドという場所に紐付いていると日本人は考え、それ以外でのディズニーは人寄せパンダとしてあまり機能しない。もちろん限定グッズとして出せばそこそこ売れるだろうけど、普通に考えて「なんでこんなところにディズニー使うの」となる。違和感が勝る。
ピカチュウも同じ。イベントでピカチュウが出るのは全然良いけど、ならそのピカチュウを追ってファンが来るのか?よほどその土地特有のイベントに絡まなければ意味は無いだろう。例えばその土地の年1の祭りにポケモンを模したでかい山車がでており、そこにピカチュウが毎年ゲスト参加するなどの動きがないと注目はされない。
逆にご当地キャラやゆるキャラはそういう地方の中で根付くことを目的に作られている。くまモンなどの特殊な例を除けば、その土地にいけばそのキャラに会えるということ自体が訴求力になる。ピカチュウを地方のイベントにだせばそれはそれで人の目を集めるだろうけど、それは「芸能人が来た」感覚であって決してその場所にいく理由があるわけじゃない。長期的にその場所がピカチュウと関連付けられなければ金の無駄になりかねない。
だから長く愛されるキャラとしてのゆるキャラがある。安いしその土地だけのものとして売りに出せるから。
世界的な人気になることがディズニーやポケモンの使命なんだろうが、その土地に根付くことが目的のゆるキャラがそういうものになるべきとは余り思わない
田舎って凄いよ。みんな代々続いてる土地と家持ってて生活に困らないから
いつもならイラストに難癖をつけるところなんだろうが、今回はケチのつけようがないためパネルに記載されていない(宿先で見ることができない)プロフィールをネタに燃やそうとしている。
この時点でおかしいだろう。萌えパネルが気に入らないとしても「not for me」で済ませればいいものを、わざわざ公式サイトをつぶさに見て、何か燃やせる要素がないか探し、プロフィールに狙いを定めたのだから。フェミやリベラル界隈がふだん吹聴してる「多様性」なるお題目は「私たちの権利だけを認めよ」というエスノセントリズムであって色んな人の色んな権利を認めようということではないとよく分かる。
しかもフェミは、2021年11月現在120名ほどいる温泉むすめの一部のプロフィールをことさらあげつらっているにすぎない。
まず、120名のうちほとんどは穏当なプロフィールであることを確認しておきたい。フェミはそのうちのわずか数名を強調することであたかも温泉むすめ全体がそうであるかのように印象操作している。同時に、わざわざそんな数名のプロフィールを抜き出せるほどに公式サイトと調べあげ瑕疵を探したとも言えるだろう。なぜそこまで執念を燃やすのだろう? それはただの萌えフォビア、オタクフォビアではないのか?
そして決定的なのは、温泉むすめプロジェクトが日本全国の温泉地や地方都市の魅力を国内外に発信するために作られた「地域活性化プロジェクト」であり、温泉むすめは人ではなく土地神であって、それぞれの土地の伝説等に依拠してキャラがつくられていることへの無理解だろう。
スカートめくりが指弾されている定山渓泉美は、その名の通り定山渓温泉の温泉むすめだ。プロフには「河童伝説からイタズラが好きなむすめ」とある。定山渓温泉といえば河童伝説であり、河童といえばいたずら好きと尻子玉だ。スカートめくりはそこから来ているのだろう、と容易に推測できる。定山渓泉美のキャラデザも広いデコは河童の皿だろうし、基調カラーが緑なのも河童を意識してのことだろう。
夜這いネタが指弾されている小野川小町は小野川温泉の温泉むすめ。小野川温泉といえば小野小町が偶然発見したことが開湯の由来になっており、「小野川」がそもそも小野小町に由来する。小野小町といえば美女として有名だがそれにちなんだ後世の創作として「百夜通い」がある。深草少将の求愛に「百日通えばあなたのものになる」と返したという伝説だ。「今日こそは夜這いがあるかも」という小野川小町のプロフィールはその伝説に依拠している。
肉感もありセクシーで叩かれている和倉雅奈は和倉温泉の温泉むすめだ。和倉温泉といえば織姫で、織姫といえば大国主と少名毘古那(スクナビコナ)をもてなした人物として知られる。プロフィールにある「スクナヒコの晩酌に付き合う」はそれに依拠している。キャラデザもショールを羽織っており、これも織姫の羽衣に由来するものだろう。「肉感もありセクシー」というのは織姫由来の美女表現の1タームであり目くじらを立てるようなものでもない。
このように、フェミが叩いている温泉むすめのプロフィールもオタクに媚びるために適当にでっち上げたものではなく、日本全国の温泉地の「地域活性化プロジェクト」として、それぞれの土地のそれぞれの伝説から丁寧に組み上げたものに他ならない。キャラクターやそのプロフィールを通して温泉地の伝説や温泉地のことに興味を持ってもらおうという試みを、フェミの視点のみで切り取って攻撃することは妥当だろうか?
そういった知識も理解しようという姿勢もなく、関係者の努力に対する敬意も当然なく、自分たちが嫌悪するものを叩ければそれでいいという態度は多様性に対する理解の欠如であり、まさに「エスノセントリズム」、まさに「フェミニストイズム」に他ならない。
一部フェミの萌えフォビア、オタクフォビアは本当に目が余る。やっていることが「女性の権利拡大」ではなくミサンドリーの発露であり、自分たちが気に入らないものに「性差別」「性搾取」とレッテルをはった徹底的な攻撃だ。そろそろいい加減にするべき時だろう。
1年ほど前、平日の夜9時ごろにタクシーを利用した。去年の今頃、妹の家庭内暴力が問題になってとうとう警察沙汰になったので大学受験を控えていた私は勉強場所を求めて母の実家に避難することになった。
母の実家の最寄駅の前には一貫教育を謳った学校が鎮座しており、またその周辺にはゆったりとした住宅街が広がっている。母も生まれてから結婚するまでその土地にずっと住み続けて、駅前の学校に幼稚園から大学生の間までずっと通い続けていた。
さて、夜9時ごろに私は予備校から母実家の最寄り駅に到着した。祖母から「タクシーに乗って帰ってきてね」と連絡が着ていたこともあって、そのまま駅前のタクシー乗り場からタクシーに乗った。
母の実家は駅から大体徒歩で10分程で着く場所にあり、駅までの道のほとんどが真っ直ぐなので案内がとても楽なのだが、その日はそうもいかなかった。というのも駅から最短距離で家にたどり着くには最後にそこそこ大きな階段を登らなければならず、その階段が危ないからと門の前の車道まで車を回らせて帰って来なさいとお達しが届いていたのだ。
車中ではそんな祖母からの心配のメッセージが届いていたこともあり、慣れない道を私なりに一生懸命案内していた。
「あ、あの〜。階段の上にある家の前まで行きたいのでその先の道をぐるっと回って頂きたいのですが……」
「そうです!この先の住宅街の道に入ってもらって…」
そんな私の拙い案内でもドライバーさんは一生懸命に理解しようと努めて下さった。
しかし、住宅街の道に入った瞬間、ドライバーさんの方から私に話しかけてきたのである。
『なんだ〜。この道行くなら「〇〇先生の家を曲がって〜」って言えばよかったのに』
〇〇先生とは上に書いた母の通っていた学校の創立者の先生の名前だ。
『〇〇先生って知ってる』
『あそこ〇〇先生のお家だから。今度からそういえば分かりやすいと思うよ』
『まあ△△学園通ってないと分からないよね』
そんなことを言われながら料金を支払い家の門を開いた。
私の案内で理解できたならわざわざ訂正するようなこと言わなくて良くない??ていうか人ん家勝手に目標にするなよ〜〜「あの赤い屋根の家を…」とかなら分かるけど、何の変哲もないただの民家を目印にするの良くないでしょ〜〜。。。。
今は亡き△△大学で働いてた祖父の顔が目に浮かぶ。祖父や母がどれだけその学校や街で生活を営んでいたとしても、私はタクシーのドライバーさんに嫌味言われちゃうくらいこの町のこと何にも知らないんだな。。
門から玄関までの道をとぼとぼと歩く。当時受験生だった私にとってエスカレーター式に受験を終わらせ、なおかつ自動的にそこそこな学歴を手に入れた母は羨望の対象だったので、「△△学園とは縁がない」と断言されてしまったのも切なかった。その時の気持ちも相まってこの出来事をよく覚えている。
高校生の時はよくタクシーを利用していたのですが、今回書いたようなドライバーさんにはほとんど当たったことが無かったので尚更よく覚えていました。舐められたのかどうかは正直分かりませんが余計な一言ではあったのではないでしょうか。ていうかナビ入れてくれ!!〇〇先生の家知ってるなら案内させないでくれ!笑 短距離でなおかつ(説明が)複雑な道を走ってくれたドライバーさんには感謝してもしきれません。が、ちょっと気になっちゃいましたね。眞子さんがタクシーで移動しているという報道を見て、なんか話しかけられたりしてるのかな…と考えたことから思い出しました。
「すみません、お聞きしたいんですけど、ここはどこですか!」
とクソデカヴォイスで尋ねてこられたので、やばい、認知症のお客様来ちゃったかな? と緊張が走った。
しかし、幸いにもそのお客様は認知症で迷子になった人ではなく、ただ単に道に迷ってしまったお客様だった。
「国道n号で○○まで行きたい」
とのことだったのだけれども、具体的オーダーなのに逆に解りづらく、AさんがスマホでGoogleマップを見ながら道案内をしようとして悩んでしまった。
で、お客様が更に「××線を通って隣町から来たのだけれど、▲▲線を通りたい」と仰有ったので、私が
「もし■■町を通るルートでもよろしければ、」
と仰有った。お客様の顔立ちと訛りが■■町の人っぽいので、たぶん旧ほにゃらら街道を教えれば▲▲線への経路がわかるんじゃないかと思った。それで、
「すぐそこの通りが旧ほにゃらら街道で、真っ直ぐ行くと郵便局がある交差点に出ますので、そこを左折してください」
と言ったら、ちゃんと通じた。あーよかった。道順を教えるのはあまり得意じゃないのだが、今回はなんとか切り抜けた。
スマホでマップを見るなりすれば人に道を聞く必要のない時代……のはずなのに、道に迷ってコンビニに来る人は、いまだにしばしばいる。以前勤めていた店舗には、店舗周辺の地図が貼られていたけど、当店には無いので不便。
飲みかけのチルドカップと充電中のスマホを窓の横に置いて、テーブルを上げる。充電中のスマホはきっと、東京に着くまで充電中のままだ。
キラキラとまぶしい朝日に照らされるチルドカップ。一口だけ飲んで、文庫本を開く。思い出したようにリクライニングを少し倒すと、いっそう眩しく感じられる太陽を遮ってカーテンを下ろした。
座席の前に馬鹿みたいに吊るさがってるレジ袋のくすんだ白も、新幹線の轟音に震えていると、ひとり旅を共にする仲間に見えた。
追いかけていた文字の羅列が、本と私の視界の間からだんだんとすり抜けていく。バラバラとこぼれる言葉にため息を落とし、窓の外に目をやった。どこか分からない街並みが、どこか分からない工場が、わたしの心のスイッチを「旅行中」に切りかえてゆく。車内のチャイムが鳴り、あの感じを思い出す。心地よい疲れの中、チャイムが鳴り、見慣れた景色が現れて、無事な旅の終わりを実感するあの感じ。ああ、今日の帰りは夜行バスを取っていた、と気づく。旅行の醍醐味は新幹線の帰りなのに。
乗り換えた自由席は存外に空いていて、すっきりした空気を吸い込みながらリクライニングを倒す。背もたれに寄りかかってもなんとなく落ち着かず、結局前に屈んで覗き込むように本を開く。こうすると、文章の波の中にゆっくりと沈んで行ける気がする。
パタパタと横を通る足音がして、わたしを囲んでいた波から浮上する。もうすぐ着くのか、と顔を上げると背の高いビルがあって、切り替わる途中だったスイッチは、旅行中へ完全に倒れた。
駅を出ると妙に人が溜まっていた。四角く空間を埋めるように並ぶ人々はみな少し年下であることに気づき、修学旅行生だろうと推測する。そろそろ修学旅行も行けるようになったのか、とひとり遠出している自分は棚に上げて思考が巡る。どの建物も、どの道路も見たことがないのに、駅の前をちろちろと歩く鳩だけは地元と何も変わらない。その変わらなさに安心とおかしみがある。
駅前の地図をさっと確認して歩き出す。こういうときに、考えすぎずに歩いて行けるのは私の好きなところだ。
会場に着くと、物販の列はまだ20人ほどしか並んでいなかった。新幹線を乗り継がずに在来線でも良かったかな、と思いながらも、これなら余裕で欲しいものが買えそうだと列に並ぶ。
もう一度文庫本を開き、世界とわたしの間を閉じる。さらさらと引き込まれる。
後ろに並んだ2人組が話し始めて、話し声が世界を切り裂いていく。ポーチの中にしまっていたイヤホンを取り出して耳に填める。これみよがしだったかな、と少しだけ思った。
会場内は独特のにおいがして、部活で訪れた地元のアリーナを思い出した。アルバムの新曲が延々とたれ流されて、点在するスピーカーを通過するたび音が大きくなって、小さくなって。その繰り返しがなんだかおかしくて、軽い足取りで先に進む。
ショッパーを肩にかけて会場を後にする。街並みは地元に似ているのに知ってる建物がひとつも無いのは恐怖にも似た寂しさがあり、それが肌寒さとなって身体を撫でる。並んでいる間に陽射しが暖かくて、コートを脱いだことを少し後悔した。
地元から数百キロ南に来たというのに気候は変わらず肌寒くて、耳にびゅうびゅうと風の音が流れ込む。耳の中に音楽を詰めて自分に蓋をしてしまいたかったけれど、見知らぬ土地で聴覚を投げ出すのは危ないと我慢する。耳に抜けていく風に、コートを脱いだことをもう一度後悔する。
岸田総理が介護職や保育職の賃上げを目指すと表明したことで、一定の評価を得ているようである。
しかしながら現場の職員が潤う可能性は低い、なぜなら賃上げをしても結局雇用主にピンハネされるからだ。
ピンハネについては、例えば保育業界の話だが、以下の記事が詳しい。
https://toyokeizai.net/articles/-/415046
簡単に言えば、人件費として保育園に委託費を交付しても、雇用主が他の用途に使えてしまうザル運用なのである。(委託費の弾力運用)
まずそのザルをどうにかしないと、現場の職員が潤うことはなく、保育園の駐車場に高級外車が駐まり、園長の腕に高級腕時計が光るだけだ。
自分が知っている例だと、処遇改善加算を得るために職員に研修を受けさせ、加算が付いた分だけ職員の基本給を減額するというひどい話もあった。
そんなの研修の受け損じゃないかと思ったが、受けないと給料を減らすと言われたらしい。こんな労基法に反するようなことを平気でする経営者もいるのである。
また保育業界は若い女性が多く、社会経験が少ない職員ばかりのため、搾取されていることに気が付かず、そのまま寿退所することが定常化してしまっている。
そして低賃金の業界に戻ってくる人は少なく、新たな若人が犠牲になっていく。
つまり、本当に職員の賃上げをしたいのなら、真っ先に委託費の弾力運用について制限することを掲げるべきなのである。
ではなぜそれをしないのか、それは票や集金につながるからである。
介護や保育など対面の職は、パソナなどの企業が参入しているものの、基本的には地域密着の中小企業(社会福祉法人、学校法人)が多い。
私立の幼稚園や保育園なんかは、地方の地主が、遊んでた土地を活用するため開園したというのがよくあるパターンだ。
地主は既得権益者であり、保守的なことが多く、自民党の支持者であることが多いのは皆感じていることだろう。
実際に、億単位の使途不明金が発生して先日話題になった全日本私立幼稚園連合会は、自民党と非常に近しい関係である。
http://www.yochien-joho.com/headline/?date=20130717
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/286319
自民党からすれば、介護職や保育職の賃上げ政策は、聞こえもよく、支持者に報い、見返りも期待できる最高の政策だ。
財源の確保さえできればいくらでもやりたいだろう、今回選挙に負けなかったことで、弾みがついたというところか。
この世の動物で一番犬が嫌いなあたしには全くビタイチ理解できないわけだがそれはさておき、この世の全ての犬の飼い主にお願いしたいのは、世の中には犬が怖い人犬が苦手な人がいて、そういう人にとって、飼い主にとっては可愛い犬であろうとも、こっちにしてみればただの危険動物でしかない、ということを認識し理解して配慮をし、家の外に連れ出すときは必ず最小限の長さのリードをつけて自分の手が直接届く範囲から決して犬を離さず、家やマイカーなどの中では必ずケージに入れろ、ということ。リールで伸縮する(しかもリード自体も何メートルもあるような)リードをつけて散歩させてる飼い主とか、リードもつけず抱き上げて屋外に連れ歩く飼い主(リアル隣人がマジでこれ。しかもうちも隣家も土地込み持ち家なので引っ越しも無理)を見ると、マジで殺意が湧くぞあたしゃ。
その愛犬がずーっとお世話になってた動物病院があったんだよね。
まぁ動物を飼うにあたって、動物病院は絶対に関わる施設だとは思うんだけど。
うちは県内をちょこちょこ引越ししてて、お世話になった動物病院っていうのは、犬にとって3件目?とか4件目にあたる病院だった。
引っ越した先で適当に入った動物病院だったんだけど、先生がすごく丁寧で、治療費が安かったんだよね。
その土地から引っ越して、別の動物病院も行ってみたけど、結局お世話になった動物病院に戻った。
下道走って1時間半。高速乗ったら30分とか40分ぐらいだったかなぁ。遠方に住んでる時は2時間半ぐらいかかったこともあったけど。
高速に乗って動物病院に行くとき、いっつも家族と「高速代金払っても、近所の動物病院行くより安いわww」って笑いながら行ってたのをよく覚えてる。
最初は安いから、という理由だったかもしれないけど、私はそこでドクターに対する信頼を教えてもらったんだよね。
自由診療でいくらでもお金儲けができる仕事のなかで、本当に丁寧でさぁ。
動物にも飼い主にも寄り添ってくれる病院って、たくさんあるようでそう多くはないんじゃないかなと思う。
言葉の通じない生き物と生活するうえで、信頼できる動物病院がどれだけ重要なのか、それがどれぐらい安心感を与えてくれるのか。
尿管結石の手術、歯茎が膿んだ時、夏バテによる食欲不振、足ひきずって痛いふりしてる時も先生に診てもらった。
肉球の間までしっかり見て、さわって、診察台からうちの犬下ろしてさ。院内の奥に歩いて消えて、戻ってきて「折れてないですね」って。
「もしかしたら家に帰ったら「あっおれ足痛かったんや!」って思い出して足ひきずるかもしれないですけど、折れてないです。大丈夫です」って。
めんどくさくても、レントゲン取ったら金額上乗せできただろうに。
確かその日の会計680円。高速代金の方が高くて母親と一緒に大笑い。
老衰による腎不全で、最後のほうに元気がないからって連れて行ったときも、うちの犬の顔見てすぐ体調悪いの察してくれた。
先生たちが「もって一週間です」って行ったら本当にぴったり一週間で死んじゃった。老衰だからね。仕方ないんだけどね。
本格的な介護はその一週間だけ。痙攣一回、あっさりぽっくり一瞬で。苦しみ少なく、わが愛犬ながらよい最後でした。
愛犬が死んだのは数年前で、私は今は動物と生活をしていないので、ついさっきたまたまホームページを見て知ったんだけど。
先生の挨拶の最後には、救えなかった動物達、ごめんなさい。って書いててさ。
いやいやいや、救った命の方が多いでしょ。どう考えても多いでしょ。どんなに低く見積もっても救った命の方が多いでしょ!
おれはすごい医者だぞ!!いっぱい命を救ったぞ!!ってえばっていいでしょって思った。
犬を飼う上で、「先生のところに行ったら大丈夫」と思えるドクターに出会えたこと、本当に幸運だったと思っています。
愛犬を最後まで先生に診てもらえたことはもちろんですが、先生の作った病院は、飼い主にとってもよりどころで、安心できる場所で、信頼できる場所で、動物に対する不安を取り除いてくれる場所でした。
こんなところで言っても届かないだろうけれど、先生の丁寧な説明はいつも不安を軽くしてくれました。
胸張ってください。動物の命だけじゃなくて、ユーザーの心まで救ってくれる、本当に素敵な先生でした。
私またいつか犬を飼ったら、先生に診てもらうつもりだったのになぁ!笑
長い間お疲れ様でした。
救ってくれてありがとね。