はてなキーワード: 事象とは
犯罪者はそもそも犯罪を実行に移す時点で気が狂っとるからもう一度気が狂うほどの刑罰を科したら正常に戻るんではないかとおもうんだな。
ところでこの「答えになってない」って勝手な判断で繰り返す増田に対しては、答えになってないヤキソバパンなどの言説を投げつけると一周まわってまともになる事象が最近観察できた気がする。
ふとしたきっかけで、昔の女友達と遊ぶようになった。相手は少し年上で10年前は片思いしていた。だけど、その時は別の男性と彼女は交際していたのでその恋は実らず、彼女が数年後破局した時には少し疎遠になっていたのでアプローチすることもなく、年月だけが経った
あれから10年、歳はとったものの相変わらず綺麗な彼女。正直な話、浮気・不倫の気持ちがこちらにはあったが、彼女側は既婚者の自分に対してその気持ちはなく、清い友人関係のまま数年続いた
だが、その間に新たに分かった事があった。
美しさと引き換えに全てを投げ売ったロックな彼女だが、既婚者の自分がこれ以上深入りしてはいけないのは容易に判断できた。まだ若かった自分は、見た目だけに惹かれていた。別れた元彼は同年代だったが、もし自分が付き合っていて、この本性を知った時、年下の自分は別れられただろうか?
老いと金に日々四苦八苦している彼女を金の力で抱くことは容易そうだが、それは見える地雷を踏むような物
こればかりは自分の運に感謝したい。あの時彼女がフリーじゃなくて良かった。今なら美人の彼女が破局した理由が分かる。彼女は結婚願望の高い事故物件だった。出来ることなら、この事故物件がどうなっていくかを見届けていきたいが、怖いので静かに去るとする
うまくまとめられないと思うけど、気持ちを吐き出したくて書き留めることにしました。
タイトルの件については検索したらいくらでも出てくるし、検索してこのブログがかかるようなものだと思うので説明は省きます。
前置きとして。私は広島出身の者です。
小学校入学前に初めて平和記念館へ行き、小学生中学生で平和学習と何度も平和公園へ訪れています。
原爆の日は夏休み中の登校日で黙祷をし、原爆を題材とした映画鑑賞をするのが毎年恒例な小学生時代でした。
就学前の資料館への訪問で強烈に"怖い"という感情を持っていたので、映画鑑賞は開始10分も経たないうちに気分が悪いと保健室へ行くのも毎年恒例でした。
祖母は原爆被害者で被曝者健康手帳を持っており、小さい頃から原爆についての話を聞いて育っています。
さて本題に戻ります。
今回の件を見かけた時に真っ先に感じたことはビルボード以降アンチ記事が目立ち始めた。でした。
過去の事象を持ち出し、テレビ出演がキャンセルになるほど問題視される。異常だなと感じています。
そこで怒りの発端となる原爆です。
何を根拠、信念とし怒っているのでしょう。
広島で生まれ育ち、被曝した祖母から生の話を聞いてきた私は今回の件はどちらかといえば擁護派なのかもしれません。
なぜなら、原爆の悲惨さを知っていて原爆を揶揄する為にあのTシャツが存在すると思えないからです。
現にTシャツのデザイナーからもそのような意見が出ているという記事を見かけました。朝鮮の独立を祝う象徴に過ぎないと。
無知は罪なのでしょうか。
そして、広島出身であり原爆被害者を家族にもつ私がこの件を憎まないことは罪なのでしょうか。
また、自分が受けた原爆教育の経験があってもこの件が必ずしも許されないことだとも思いません。
そして日本で活動する韓国人に日本の歴史を学ぶべきだとも思いません。
ただひとつ。
広島で生まれ育っていない縁のない人間が広島を持ち出して批判していることは許せません。普天間問題と同じです。
この目でジミンの様子を観察しました。
彼らの真意がどこにあろうと。私は自分が見て感じた彼らが全てで、彼らの真意以外の意見は私の見て感じた彼ら以上になり得ないです。
そして彼らの真意は表に出ることがない。それでいいと思っています。
公演レポートを見ただけで判断してファンを辞める方、溢れんばかりの批判記事を鵜呑みにしている方。
韓国叩きにこの件を利用している方。
きっといなくならないでしょう。
私のこのブログも本当に広島出身者なのか本当だとしたら頭がおかしい、そんな風に思われるだろうなと思っています。
>「全ての女は男をATMとしか見てないクズだし電車に乗れば痴漢冤罪で小遣いを稼ぐ」
意味がわからない。でも一人でも例外があるかもだから「男」括りするってこと?(しかもATMと浮気では随分確率が違う気がするが)
でも男性が彼女がいてもAVや風俗で他の女性と性行する事を想像したり、その辺の可愛い女の子に見とれて心惹かれたりするのは1000%あるよね。(後者の事例は可能性があれば確実に浮気するだろうし)
男性の不名誉的な事象を否定したがるのはいいが、事実を覆い隠すことが悲惨な女性を増やす。
昨今やたらと出来事やら創作の表現やらを指して「これは多様性にあふれている!」みたく主張する人を見かける。ええ見かけちまうんですよぉこれが。
(「多様性」の部分は男女平等だとか反差別だとか、まあ他のリベラル的ワーオに置き換えていただいて構わないが)
だが、彼彼女らがそう推す事象や表現は「…いやそこまででもなくね?過去に溢れかえってるもんじゃね?」と思ってしまうような
取るに足らない、別にそこまで持ち上げるほどでもないものがぶっちゃけ9割以上なのである。
何故こうも「多様性」という言葉を使って持ち上げたがるか?と考えるときに私は「多様性空回り現象」という言葉を考えた。
彼彼女らは正義感がムダに強いからネットにそこかしこある「多様性が大事だ!」というコラムみたいなのに感銘を受けて、
「そうだ!多様性だ!」「多様性は大事だ!」と錦の御旗に掲げるのである。まあそれは良いことだ。うん素晴らしいことだ。
だが普通「多様性」の定義を先にして、それに事象や表現を照合してこれは多様性あるものか?と考えるのがスジだろうに、
彼彼女らは違うのだ。
ただ自らが好んだ事象や表現について持ち上げたいためだけに、「多様性」の定義なぞどうでもよくあやふやなままで、
『多様性ってイマい持ち上げワードだなっ使おっ☆』な気分で「これは多様性にあふれている」と言っているだけなのである(大体自覚は無いので余計タチわろし)。
これも結局は「自分は多様性に理解ある人間である」というアッピルを強引にしたいモチベーションに他ならないのである。
とにかく「自分は多様性に理解ある人間だ!間違いない!」という思いだけが先行してひたすら空回りする…
まあ現状はまだまだ「多様性」という概念は世間に浸透していない(せいぜいネット論壇の範疇)…
だが今後10年くらいの間で教育やらニュースやらで世の人に知れ渡るようになればなるほど、
針小棒大に「これこそ多様性だ!」と叫ぶ人がどんどん増えていくと私は予想するよ。
お前ら、覚悟しといた方がいいゾ?
HDMI切り切替器で機器がうまく変換できない事象がありずっと調査していて、原因の目星がやっとつきました。
*HDMI切替器で、複数の機器の映像を一つのモニターで使いたかった。
恐らく、4k対応機器を、4Kに対応していない切替器に接続したのが原因です。こんな単純な事だったとは。
映像出力の規格も複数あるので、持っている機器に接続できる規格、持っているディスプレイに繋げられる規格はちゃんと調べないと駄目ですね。
それは私達が火を触り熱いと感じるからだ。
これは経験的な話になる。
火を触る、熱い、火は熱いのだと言う具合に。火を触らなければ熱いと理解できなかった。
経験から抽象し、経験することを除き、熱さを痛点とすれば火は痛いのだ。
もちろん火に熱した鉄板が熱いということも、鉄板が火を前提にしているわけではなく、鉄板を熱した火を前提にしている。
では、なぜ痛いのか。
これは私には知識がなく語ることが出来ない。
つまるところ、私達は経験的な物事を語っているに過ぎないということだ。
火は熱い、火を触れば分かることだし、大体の人間は火は熱いということを経験から知っている。
火を触ることで発生する、痛いという事象が私達の心の中で発生する。
痛点が無い人間であっても、痛点を持てば感じることができるだろう。
火を触って熱いと感じるか、痛いと感じるかはその本人以外に分かることはないのだ。
火を触って熱いと感じるのが普遍的な事象で、痛いと感じるのはよくわからない。
それは私達が火を触って熱いと感じるかどうかを統計すれば結果は明らかになる。
先程言ったように火を熱いと感じるか痛いと感じるかはまた別なのだが、
多分一緒にしてしまうだろう。
では、火は熱いのか、痛いのか、統計しても分かることはない。
これは言葉の問題なのか、統計の問題なのか、それとも心理的な事象を普遍化する試みが問題なのか
まず、火が熱いのだろうが、痛いのだろうが分けることに意味はない。
タイトルを変えるなら、なぜ火は私達の皮膚に刺激を与えるのか
だが、やはりこの言い方だと痛点のない人を想定していない。
やはり心理的な事象ではなく、外部の事象から考えるべきだろう。
皮膚を熱することでどういう事象が発生するのか、火が熱いことで特有の現象が起き、それが熱い状態だと記録できるかもしれない。
多分、火を熱いということを心理的な事象から普遍化する試みは失敗するはずだ。
心に発生する事象が、熱いか痛いかどちらが生成されるかよくわからないからだ。
もし、熱さを痛みだとしても、何か別の表現をしてくる人もいるかもしれない。
なにか経験論を心理的な事象に反映することを反論したくなってこのような文章を考えてみたが、いまいちか。
校則違反で校外学習外す、鹿児島 肌着の色、公立中女子生徒 | 共同通信 - This kiji is
https://this.kiji.is/431037591501063265
次の問題が目についてので持論を少々。
ではそれぞれについて。
勝手に読み違えて猛烈に怒っている人はたくさんいる。相手の言っていることを正確に受け止めた上で批判しなくては届かないので落ち着いた方がいい。
どんな文で書かれた校則かはわからないので類推する他ないのだが、「色指定」パターンか「ふさわしくない肌着を禁ずる」みたいなパターンかと考える。これは本当に不要なルールだろうか。これが設けられている理由は、透け防止や学校の風紀維持であり、トラブルを未然に防ぐために決められているのではいか。この「トラブルを未然に防ぐ」目的に対して行き過ぎた校則かどうかが論点になるべきだが、「黒のタンクトップがだめだった」「校外学習に参加できなかった」という事象に引っ張られすぎてしまい、そこが議論されずに不要認定されている。
なぜ肌着を注意したら人権侵害なのか考えた。すると「普段見えないはずの部分を権力や立場を利用して無理矢理見た」という非人道的行いがあったと考えているのではないかと思った。もしそうならば話が飛躍しすぎている。仮にそのような検査方法が取られていたなら、300名に対し制服を脱ぐよう強要し確認したことになるが、こっちの方がニュースになる気がしてならない。ニュースになっていない以上、透けた肌着を校則に照らし合わせて注意したと考えるべきだが、それが人権侵害に当たるという主張も飛躍しているといえる。
校則は法律と関係ないのだから強要するのはおかしいといった論調があった。一理ある。一理あるが他人と共生する社会生活においてその考えは通用しないことは自明である。それに特別権力関係論といものも有るらしい。法律より軽くても、法律上従わせることができる関係が存在しているのはどうやら確からしい。そうなってしまえば、校則違反は法律上問題ない という主張は正当とは言えない。
これらの問題を抱えたブコメは総じて元記事の問題提起を無視していると考える。
元記事は「校則の妥当性」と「校則違反の処罰の妥当性」を提起していると言える。
「校則の妥当性」についてだが、先に書いたように「色指定」か「ふさわしくない肌着を禁ずる」みたいな校則とするとトラブルを未然に防ぐ目的で制定された校則と考えれば妥当と言えるのでは無いか。このように言うと、では色付き肌着がもたらすトラブルは何か、や、トラブル発生までの論理的なメカニズムを示せという意見があるだろう。人を従わせ罰することができるルールなのだから合理的な理由を求めるのは正しいことだ。だが、校則制定でその手法を採用できるかと言われればNOだろう。なぜなら色付き肌着がもたらす影響を論理的に展開できないからだ。カラフルな肌着を着てても何も起こらないかもしれないし起きるかもしれない。起きたとしても肌着が原因だったかなんてわからない。では論理的に説明できないのならば、何か起きてから決めましょうとなってしまう。学校がそのような態度でいて誰が得をするのでしょうか。だから、トラブルを未然に防ぐ目的に対して行き過ぎた縛りであるかどうかという観点で考える必要がある。この観点から言えば行き過ぎているとは思えないので妥当だと考える。
「校則違反の処罰の妥当性」についてこそ、この記事は考えるところが多いと思う。
みんなも考えて欲しい。
つまり2004年頃から議論になってる自己責任論はリバタリアンとリベラルの思想闘争というか。
どこまで国家が国民(つまり日本国籍を持ってる人)を助けるべきか?
という話に過ぎない。
重要なのは「自己責任論」という言葉に踊らされすぎて具体論まで落とし込めてないことだと思う。
「自己責任」という用語で議論される範囲があまりにもでかすぎる。
例えば、俺は生活保護費を受けざるを得なかった人をことさらに責めるべき
と言われると同意できない。
もちろん、嘘をついていたとかなら別だけど。
本来であればそういう個別具体的な文脈と経緯に基づく詳細な議論が必要なはず。
であるならば、今回議論しなきゃならないのは「自己責任論」じゃなくて
の話なわけでしょ?
もし、以前と同じようにあらゆる事象をごたまぜにしてメディアや市民が
「自己責任論は~」
っていう風に曖昧模糊とした用語で議論した場合以前と同じように何の結論もでないよ。
両者の溝は縮むことも離れることもなくただの平行線でずーっと進むだけ。
これって名前付いてないのかな?
「私がAと思うんだから皆Aにするべき」とか
「このグループでは皆Aで揃えましょう」みたいな、差を許容しない同質化の考え方と
「私はAだけど、隣の人はBで構わない」とか、基本個人の自由で不干渉みたいな異質許容の考え方
世の中にある用語はどうにも歴史的に要らない意味が拡張されてて当てはまりづらい
どちらが良いかと言えば、正直どっちもメリット・デメリット出てくると思うんだけど
どちらをより好むかで、その人の性格が分かれる印象がある
規律・規範・ルールで縛る なのが同質化側、真面目で保守的でお硬い印象、和を大事にする、最たる例は学校や軍隊
自由で最低限のルールにするのが異質許容側、行き過ぎるとアウトロー、他人とは別の行動するタイプ
世界的には異質許容が主流なように見えてるがそうでもない
「『一部の異質なこと』を許容する」ことを同質化しようとする動きも多くて、あれは同質化側だと思ってる
これ厄介で、自分は異質許容だと思ってるようでいて、実はよりマイノリティーを許さない同質化側がいる
社会的に認められた「異質」は「許容を同質化」するが
社会的に認められていない「異質」は「排除を同質化」するタイプ
あれはやっぱり同質化
社会的に認められているかどうかってのは個人の観測になるから、ややグラデーションが存在するし、年齢によって下手すると真逆の答えを出す
だから一瞬その人がどっち側の性格なのか分かりづらくなるが、何個か話を聞いてみるとやはりどっちかに偏る
もちろん両方をバランスよく使ってる人も居ると思うんだけど、有能な経営者とか
___
我ながら説明がわかりにくい
言いたいことは「同質化タイプと、異質許容タイプの人が分かれているのでは?(名前付いてないのかな)」って主張
そして色んなラベリングをされながらお互い殴り合ってるけど、一個のルールで説明つくのではないかと
例えば
・「Bのグループは考え方Aになるべきだ」が同質化
・「Bのグループは考え方Aになるべきだ」は、同質化
に見えるけど、①が異質許容、②が同質化であるとすれば、それぞれ矛盾したことになり一貫性がない
主体が考えて決めたのか、社会のコンセンサスで決まったのか、誰かに影響されたのか、あるいはそれ以外なのか(感情的など)
もし、主体が考えて決めたのではないのであれば、「主張」はまだ成り立つのではないかと思った
例えば同性愛の話をすると
それをベースに考えれば
これを最近にすると、「同性愛は許容すべき」が社会的に主流だから
主張が逆転してるんだけど、考え方の根っこはお互い変わってないんだよ
最近は「◯◯の人たちが以前と逆のこと言ってる。彼らは本当に◯◯なのか?」みたいなことを言われるが、こういうからくりなんだと思ってる
そういう風なラベリングがされたら、話がスムーズなんじゃなかろうか
ていうか、同じ結論の中でも同質化/異質許容が混ざってると思う
どうしても「同じ結論」「同じ思想」でグループは分かれちゃうからしょうがないけど、内部でお互い仲悪い印象
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こんな分かりづらい意見聞いてもらえて嬉しいのでもう少し書かせてくれ
差別なんかで
みたいな話がたまに出るんだが、あれの考え方もこの話に似てる
異質許容タイプってのはおそらく、世界を一貫性を持った小さいルールベースで理解したいタイプで
「差別はいけない」を「グループを作って排除する行為」と捉えている
そのため「差別するものを差別する」という行為が頭の中で矛盾してバグる
差別をもっと深掘りすれば「肌の色で差別してはいけない」「性別で差別してはいけない」みたいな社会共通認識があるが
何故それが特別化を理解できないので、異質許容タイプは受け入れられない
一方同質化側は、「差別」を特別ななにか(例外)だと脳内で定義できている
(ただ、「それは差別だ/差別じゃない」に揺れがあるのでボーダーラインで矛盾を起こす)
(どちらが良いという話ではなく、会話がぶっ壊れる理由の話)
2.同質化が嫌いで、異質許容を同質化したいタイプ(不寛容排除タイプ=寛容同質化タイプ)
3.同質化が嫌いだが、異質許容を異質許容するタイプ(関わりたくないタイプ)
それをもとに3タイプの人が嫌韓になったが、結局別々の道を辿っている
実は1は少なく、その後攻撃的になったのが2だと思う
最近の所謂フェミニストへの反発や、何か立法で制限を加えるといったときに反発するのが2だ
(これについては名前ついてそう)
よくそういう一群を指して「あいつら」とか言われるのは、思考タイプが同じだからではないだろうか
「ルール vs 定義は話が平行線になる」と言ったほうが説明しやすいかもしれない
見てて思うけど、悪の組織が人間のネガティブな感情を元に怪人を作り出したりして戦うのって理にかなっているよな
実際に計測した訳じゃないから正確な数値は分からないけど、正直、人類全体で考えるとポジティブな感情よりもネガティブな感情の方が圧倒的に多いと思う
にも関わらず、最終的にはヒーロー側がポジティブな感情を集めて勝ってしまうのは何だか納得がいかない
まぁ「勧善懲悪だから」と言われたら仕方ないし、メタ的な事言えば「そういう脚本だから」「子供向けだから仕方ない」って話になっちゃうんだけども