はてなキーワード: 一所懸命とは
私の物欲は、満たした途端にどうでも良くなってしまうことが多い。本日カッコいいchromebookをお買い上げしたところであるが、各種セットアップを行ううちにすでに面倒くさくなってきている。
いつもカフェでパソコンを広げて仕事だか勉強だかをしている人を見て、「なんかカッコよくていいなぁ…」と憧れてはいたのだが、仕事の資料やデータは外部に持ち出せないので、外でゴリゴリ仕事をすることができない。だから大枚をはたいて高性能なWindowsパソコンを買っても無駄になるのは目に見えている。…ということでタブレットにキーボードを付けたようなchromebookにした次第。
昨年のモデルでお値段5万円弱。もっと安いのもあったけど、ブラックフライデーとかいうので全体的に安くなっているみたいだし、CPUがCeleronの機種は何となく信用できない気がして、ハイスペック機とロースペック機の中間ぐらいのにした。
google系の機械は、スマホであれタブレットであれ、同じアカウントでログインすると、なるべくアプリとかいろいろな情報を同期しようとする。私はスマホのように画面が小さいものとタブレットやchromebookのような画面の大きい機械で多少棲み分けをしたいと思っているので、スマホとこの手の機械にインストールするアプリをまるっきり同じにしたいとは思っていない。緊急を要する用事を手軽に確認できるスマホと、大画面で長文を打ったり写真をじっくり見たりできるタブレットやchromebookとは違うのだ。
泣き所は通信機能だ。スマホやタブレットだと、ネットにつなぐときにスマホ用のシンプルな画面を見に行くようにできているらしいが、chromebookはパソコンの画面を見に行ってしまうのでデータ量が多くなってしまう。わざわざコイツだけのためにWimaxとか契約する気になれなくて、とりあえずSIMカードの会社のサービスでやっている、無料Wi-Fiサービスに登録してみた。だいたい有名どころのチェーン系カフェでは使えるようになっていて、私のようなライトな使い方をする分には不自由なさそうである。
今日は前から使っているタブレットを持ってドトールに入ったところ、すぐに無料のWi-Fiにつながってくれて感動した。今までスマホにもタブレットにもSIMカードを入れてあるのでそういうサービスに無頓着だったんだけど、このchromebookを購入するにあたり、一所懸命研究した甲斐があった。が、逆にいえばカフェとかに行かないとネットにつながらないんだよな…。決して重量級の機種ではないけど、いちいち職場とかに持っていってその場では使えないのはいかがなものかという状態だ。やっぱりキーボードのないSIMカード入りタブレットの方が使い勝手が良いのかもしれない。
せっかくなので新しいchromebookでこの文章を打っているが、キーボードがあると無駄に長文を書いてしまう私にはあまり向いていない機械なのかも知れない。カフェでパソコンを広げてカッコよく仕事するのが夢だったんだけどなぁ…。せいぜいコイツを使ってあちこちに駄文を書いて歩こうかと思う。
辺境の僻地のど田舎の人外魔境のゴミの掃き溜めの猿山に、高度に文明化された都市で生きている清潔で公明正大でインテリジェントな最強の東京人たる俺様がわざわざ行ってやりました、ってニュアンスの「まで」だよなこれ
東京人が俺を馬鹿にしてる東京人が俺を馬鹿にしてる東京人が俺を馬鹿にしてる東京人が俺を馬鹿にしてる東京人が俺を馬鹿にしてる東京人が俺を馬鹿にしてる東京人が俺を馬鹿にしてる東京人が俺を馬鹿にしてる東京人が俺を馬鹿にしてる東京人が俺を馬鹿にしてる東京人が俺を馬鹿にしてる東京人が俺を馬鹿にしてる東京人が俺を馬鹿にしてる東京人が俺を馬鹿にしてる東京人が俺を馬鹿にしてる東京人が俺を馬鹿にしてる東京人が俺を馬鹿にしてる東京人が俺を馬鹿にしてる~~~~~~~~~~~!!!!
一生やってろ馬鹿
こういう上司がイヤなのは分かるけど、有能すぎる上司も意外と面倒くさいよ。
直接何か注意されたり叱られたりすることはほとんどないけど、明らかに私の何倍もの仕事を抱えているのにすごい勢いで仕事を片付け、机の上はいつもピカピカ。さすがに朝も早くから夜遅くまで働いてるけど、たぶん求められていることの120%ぐらいやってるんじゃないかと思う。上司の存在自体が私に対する嫌味に見える。
職種が違うこともあって価値観が全然違う。私にとって、今の職場にいることは非常に不本意だ。そんなに出世したかったわけではないけど、完全に出世コースから外れた人間が行くポストだ。上司と同じ職種の人々に下僕として扱われているようで非常に気持ちが悪い。彼らは業務のスケジュール上我々のスケジュールに合わせて仕事することが難しい。が、こっちが帰ろうとしているときに「○○(文房具とか消耗品の類)がない」とか「コピー機や印刷機の調子が悪い」とか言われても知らん。仮に私が彼らに合わせて残業とか早朝出勤したって、プロの業者が動いてない時間に言われたら対応のしょうがない。むしろ「お前ら早朝とか深夜とか変な時間に事務仕事するな」と言いたくなる。
こっちは「この職場なら定時に帰れて自分の時間がとれるから」と言われてしぶしぶ異動して来たんだよ。仕事は必要最小限やれば良いと思ってる。コンビニじゃないから毎日24時間営業をやる気はない。むしろ残業代の予算とかないから、余計な時間に働かせないで欲しい。
ついでだから書いてしまうと上司は教員で私は学校事務だ。事務の仕事に誇りを持って一所懸命やっている人には申し訳ないけど、私にとってこの仕事は生活の糧を得る手段でしかないし、求められる以上のことを自らやるなんてバカだと思っている。仕事をつまらないと思うと余計いろいろなことがイヤになる。自分でやりがいを探して働く方がモチベーションが持てて良いかも知れないが私は今の仕事が嫌いだ。
私もまさにそんなワナビーの一人です。元々仕事でも何でも全力で頑張るということができないタイプで、好きなことならもう少し一所懸命やるかなと思ってたんだけど、睡眠時間とかその他日々の生活のために必要な細々としたことを犠牲にしてそれでもその趣味に打ち込むということができません。
同じ趣味の人々がいるサークルに入っているけれど、どんどん努力の差が作品の差になっていって、自業自得とはいえ悲しくなります。ネットで知らない人の作品を見ることも多いけど、あまりのレベルの高さにため息ばかりついています。
ただ、貯金だけはわりと得意なので、それを頼りに定年より早く仕事を辞めて好きなことだけやって生きて行きたいなと思っています。好きなことだけで食べていくのは難しそうなので、今の職場つながりで勤務時間の短い非常勤とかやりながら、アマチュアでも自分の作品を売れるWEBサービスなどで自分の作品を少しでもお金にできたら良いなと思っています。
たぶん考えが甘いと言われそうだし、実際甘いんだろうけど、お金は生活の糧として欲しいんじゃなくて承認欲求を満たすために欲しいんです。それで極端に安値をつけると本気でそれで食べて行きたい人に迷惑をかけるかも知れないけど、自分でもそんなに高いお金をいただくに値する代物だと思えないので、安めに値段をつけると思います。
就職したときからずっと仕事が好きになれなくて、「好きな仕事を選べない」「1つの仕事に慣れたらすぐ異動させられて全然専門性が磨けない」と人事制度に不満ばかり持ちながらも、そこそこ高い給料と充実した福利厚生が捨てられなくて25年以上経ってしまいました。今さらですが、与えられた仕事を熱心にこなせない人は趣味にも全力投球できないのだと気付きました。
長くなっちゃったけれど、元増田さんの言うことはよく分かる気がするし、自分の同類が沢山いることに苦笑しました。才能とかセンスも大事だけと、努力を継続する力がないと大成しないんだと改めて思いました。特に結論らしい結論はないけど、努力の足りないワナビーの感想でした。
現時点で、国際語となっている英語には、すでに多数のバリエーション(つまり方言)が存在しているのだ。イギリス英語、アメリカ英語、オーストラリア英語が違うことはよくネタにもされるので普通に知っているだろうが、英語を母語とする話者が一定いる地域が誕生すればそこには必ず方言が誕生するのだ。仮に日本が公用語を英語と定め、数世代あとに日本人が英語を母語とするようになっても、気候、歴史、文化等々が他とことなるこの地で話される英語は必ず「日本的英語」、ジャパニーズイングリッシュ、英語の日本弁になってしまうのだ。つまり「統一」など最初からできないのだ。(そして、極めてリアルに想像すれば、方言である「日本的英語」は、英語話者の中では、おそらく社会的に差別される方言になるのだ。日本でも、方言話者がどのように扱われるかを見れば、それは簡単に理解できるのだ。)
なぜなら、言うまでも無く、日本という地や文化、歴史等々についてこれまで書かれた文献はそのほとんどが「日本語」で記されているのだ。日本に住む者にとって極めて重要な情報源のほとんどが「日本語」なのだ。にも関わらず、それらの文化的リソースを、数世代後の我々の子孫はそれを母語レベルで理解することができなくなってしまうのだ。これはものすごいロスなのだ。もちろん、「その代わりに膨大な英語圏に関する文化的リソースを手に入れられる」じゃない?と反論したいのだろうが、それは怪しいのだ。なぜならば、言葉と文化はセットだからなのだ。文化的な背景、自然、文物に対する理解がない中で言葉だけを習得しても、それは月面で育つ地球人のようなもので、言語的文化的資産の十全な継承などおぼつかない、それは単に「全く新しい文化を一から作る」のとほとんど同じことなのだ。それは「古文・漢文」がかなりの割合で読めなくなってきている現代の日本が抱える問題でもあるのだ。
移行期間といっても、切り替えるだけなら実はそれほど時間はかからず、おそらく数世代で完了するのだ。上で触れた「文語→口語」の切り替えなど、一世代もかからなかったのだ。つまりそういうことは大した問題ではないのだ。ただ、その先に誕生するのは、上で述べたように「日本語的英語を使い、英語文化のバックボーンはなく、かつ過去の自分たち自身のリソースへのアクセス力までも失った、新しい文化を一から創出しなくてはならない1億人」なのだ。人口1,000人の小さな島で起きたことなら、その悲劇を理解する人すらやがていなくなるだけで終わるだろうが、世界に大きな影響を与えるそれなりの規模の国家で行ったらどうなるか、想像するだに悲惨なのだ。まあ、日本が没落することで喜ぶ国があるとすれば、その国にとっては喜ばしいことなのだ。
英語が公用化された第一世代は、日本語が入り交じった、たどたどしい英語を使うのだ(これを「ピジン」という。)一部の人は、留学などを通して「正しい英語」を身に付け特権階級化するが、だいたいの人はピジンの方を使うのだ。そうして次の世代になると、最初からピジンを母語として使いこなし始めるのだ(これを「クレオール」という。)上の方で、日本の公用語を英語にしても、使用されるのは「日本語的英語」になる、というのは、つまりこの「クレオール」のことを指しているのだ。
たとえば「洋食」。カツ。カレーライス。いずれも食のクレオールなのだ。仮に「正しいカツレツとは○○である」とか「カリアー&ライスは一バリエーションであってそもそも英国式はカリアースパイスドシチューだ」みたいな蘊蓄を並べて啓蒙しようとする人がいても、残念ながら世間では「かつ丼」やら「カレー」が登場し、オリジナルの「カツレツ」や「カリアー&ライス」とは全く別の料理が定着し文化になってしまうのだ。かつ丼もカレーもうまいから仕方ないのだ。言語でも、それと全く同じ事が起こるのだ。仮に最初に一所懸命カツレツを作るフランス料理人を招いて教えてもらったところで、最終的に定着するのは「かつ丼」なのだ。従って、「日本語を廃して英語を公用語化しよう」なんて主張しても、「日本の食を全て『フランス料理』にするために和食を廃止する」ことにはならなくて、単に「日本の食を全て『かつ丼』にするために、和食を廃止する」みたいな訳分からないことにしかならないのだ。そもそもかつ丼がうまいのは、和食がうまいからなのだ。つまり本末が七転八倒なのだ。
ここまで書いて何だが、元ネタの話に戻るなら、結局「言語は滅ぶもの」なのだ。これは避けられないことなのだ。日本語だって、10年前と現在ではかなり違うのだ。むしろ、言語は日々滅びており、そして日々滅びることをやめたとき、言語は「死ぬ」のだ。方言が生まれるのも、見方を変えれば「標準語の滅び」だし、方言が消えるのも、見方を変えれば「標準語(という新たな方言)の誕生」なのだ。そこに貴賤はないのだ。だから、言語学者は「言語が滅びてはいけない」というような価値判断をもって言語に向き合うべきではないのだ。もちろん、自分が研究対象としていた言語の話者が絶滅したら途方にくれるのは理解するが、それは文化史論的な見地から言うと、一つの現象に過ぎないのだ。たとえば、関西では最近TV等の影響もあり、日常的にかなり関東風のイントネーションで話す姿を多く見かけるようになってきているのだ。これは、一種の「滅び」でもあるし「誕生」でもあるのだ。なのに、「滅び行く関西弁を守れ」とか言い出したら、それは愚かなのだ。そういうのは、たとえば生物多様性が失われる……といった話とは全く違ってただの懐古厨なのだ。そのあたりを勘違いすると、元ネタの言語学者のように妙なエッセイを書き散らすことになるのだ。
日本語廃止論への反論は、上に書いたように政策的にマイナスであり、そして現実的にも不可能だという話に尽きるのであって、「滅び行く言語を守れ」みたいな感情論に落とし込んではいけないのだ。感情論は現実の利の前には極めて無力なのだ。
「手段が目的化してる目出度い人」と「それを真に受ける人」がいる
たとえば、
2020-09-26
仕方ないから俺様が「努力」と「収入」の間には何の因果も相関も無いことを証明してやるよ(anond:20200926175901)
まず、A君とB君の2人がいます。
2人は同じ会社の同じ部署に同期で入社。一年目の給料は全く同じでした。
違ったのは2人の仕事への向き合い方。
A君は元々頭がよく飲み込みも早いので、仕事は楽々こなせます。仕事の片手間ではてなブックマークや増田を嗜んでいます。
一方B君。彼は要領が悪く、頭の回転もあまり良くありません。それでも一所懸命努力して、なんとか一年必死に仕事にかじりついてきました。
先に書いた通り、給料は全く同じです。
年収を上げることが目的ならBくんが苦労アピールよりも先にすることは、
『向いていること』もしくは『やっても苦にならない、もしくは生活に支障がないレベルのストレスで済む』仕事をするだよ
Bくんはまずその職につけているのか自分自身に問う必要があると思う
そして、その職につけたら、必要なのは成績ではなく、苦労アピールと太鼓叩き
いったい、どこの誰が、自分より若くて優秀なものを引き立てようというのだ? 自分の席が奪われるじゃん?
あと、涼しい顔で俺はなんでも出来るぜーってやってるスマートなヤツよりも、
(必要なことはこなしつつも) 泥臭くて不器用で自分をヨイショしてたててくれる人物を “しょーがねーヤツだなぁ” って可愛がりたいよね?
Bくんのような苦労してますアピールも処世術として必要だけど、
丁寧な説明をありがとうございます。カメラとしての操作系とかファインダーの見やすさなどを考えるなら、今まで使っていたCANONのEOS 80Dの方が良かったような気がします。ただ、山登りとか長期の海外旅行などで首にぶら下げて歩くときの負担感が半端でなかったので、軽いカメラを求めてα6600を買った次第です。
カメラ屋で相談したときは、私の手持ちのレンズと今まで使っていた機種からしてEOS 90Dを推されたのですが、「それじゃ今までと何も変わらない」と思ってソニーにしました。カメラ屋は有無を言わさずマウントコンバーターを付けてきました。その時は高倍率のキットレンズが付いてきただけでそれ以外のEマウントレンズが手元になかったので良い買い物でした。
私は某写真サークルに属していますが、その中でも熱意や腕前やセンスの違いがあり、一所懸命早起きして有名撮影スポットに出かけ、極力人のいない時間帯に撮影に行って写真を撮ってくる人はマイクロフォーサーズ機でも素晴らしい作品を生み出すことができます。
私はそこそこの機材を持っているつもりですが、「アマチュアなのに睡眠時間を犠牲にして撮影に行くのは無駄」程度の熱意しかないので、仮にお金をかけてフルサイズ機を揃えたとしても、そんなに良い写真を撮れる気がしないのです。
むしろ高性能のカメラを追求するより、気楽に持ち歩けるカメラを持つことで、シャッターチャンスを逃さないとか、身近なところで良い被写体を探す努力をした方が良いのではないかと思っています。その写真サークル内にソニーのフルサイズ機ユーザーが何人かおり、その動体撮影性能に感動したのでソニーにしたところはありますが、フルサイズ機を持つことにこだわるあまり機材が重く、持ち歩くのが負担になってしまったら意味がないと思います。
フルサイズ機と大型レンズの組み合わせの方が高画質の写真は撮れると思いますが、小型軽量というのも重要なスペックだと思います。いただいたアドバイスに対するお答えにはなっていないかも知れませんが、とにかく今ある機材を使い倒すことから始めるのが良いと思っています。「やっぱりフルサイズが良い」と思ったらそれから買えば良いのです。水族館のように光の少ないところで撮ると「APS-C機はノイズが多くてイヤだ」と思いますが、光が十分にある屋外で撮るならば、軽くて持ち歩きが苦にならないというのは大きなメリットです。
ソニーからCANONに戻すとか、ソニーのフルサイズ機を買い足すとか選択肢はいろいろありますが、外出自粛期間からのリハビリとしては、とにかく軽いカメラで写真を撮る習慣を取り戻すのが大事だと思っています。自分でも何を言いたいのかだんだん分からなくなってきましたが、画質オタクになるよりも撮りたいものを撮ることを優先したいというのが今の気持ちです。