はてなキーワード: ケガレとは
http://www.huffingtonpost.jp/ryan-takeshita/confused_feelings_b_14892368.html
http://www.huffingtonpost.jp/arisa-ido/talking_to_my_boss_about_my_period_pain__b_14892362.html
このあたりの記事を読んで、生理の話題に拒否感を抱く男性が多いのはなぜか?って話を妻としてたのだが、私と妻で見方がまったく違ってた。
私は、生理は性の話題だから、公の場でエッチな話をするものではない、という規範意識がはたらくものだと思っていた。
一方、妻は、生理は不浄なものだから、うんちやおしっこの話題と同じように不潔なものとされるのではないか、という意見だった。
考えてみると、多くの女性にとって、生理は、排泄物が出てくるのと同じような部位から月一で血がでてくる生理現象なわけで、それを処理するのも自分だし、思春期以降ずっと相手にしているし、「汚いもの」という意識がまず最初に来てもおかしくはないのかなと思った。
一方、男性としては、どうしても生理というものにそこまでのリアリティを感じることができなくて、せいぜいが「できない日」とか「女の子の日」といった、生殖と結びついたヌメヌメした印象を抱くに留まってるんじゃないかなと。
※もちろん民俗学におけるケガレの概念も知ってるけど、都合のいい理由付けをして女性を排除したり保護したりする意味合いのほうが強くて、実際うんちやおしっこと同じレベルで経血を「汚い」と思っている男性ってそんなにいないんじゃないかな、と私は思ってる。
このあたりの感覚、私と妻が個人的にそう感じてるだけなのか、ジェンダーによってわりと一般的な傾向があるのか、どうなんだろう?
http://anond.hatelabo.jp/20150829085753
飲んだり食べたり憎んだり愛したり、そういう人間の営みの中で
「穢れ」を持ち込むのは許されないというのなら
その祭事にかかわるシンボルマークに、「選考の透明性」だの「俺の感覚的にダサい」だの
それが神様ってことでありハレってことだ
そうじゃない、オリンピックは民主的に進行される人としての祭典だというなら
お前らが気に食わないだか世間が許さないだかしらんが「神様」に代弁さすな
「日本人にとってケガレは重要な概念で~」とかいうならば、それが何かくらい分かっとけ
自分の都合のいいように神様切り貼りして、あまつさえ神様のふりをして他人を攻撃すんのが
お前の言う「古きよき日本人」かって話だよ
恥ずかしい、ほんとうに
みんなで遊ぼう←いまここ
だと思うんだけどどうしたら雰囲気とか伝わるの
わざわざ言うと
デザインという企画付属部品の作成についてその基準を満たすかどうかという問題について
1.ださい
2.似てる
家紋とか色紙に書くサインとか決めるのであれば何の問題ないけど
みんなで参加するイベントの話なんだよ
せめてみんなになんか説明でもあったほうがいいんじゃないって
1.業界ではださくない
おとうさんが息子の絵をこれはいいものだって売りつけただけだよ
穢れと言っているのは全体またはロゴを指して
日常から完全に切り離された独自性のあるものを今回は必要としていたので
今回は適していない
日常的な素材がまじってたとか会社の人間関係についてが作成由来に混じっていたとか
人間としての経過経歴によるものでロゴと今回のイベントという選定からはずれていた
2.選定方法についても1と同じ
1.皆で共有するべきものはだれの手にわたってもその時点では清潔であるべき
利用にあたって目的と意味を同じくしていれば自由に消化できるもの
いわば業界を仕切っている血族の肉が共有物として掲げられている
2.選定方法についても1と同じ
禊が必要だとか言われてるけど粛清ということでボツにしてその事象を清める意味(撤回再選考)なのか
・デザインは今回の問題の烙印として最初の問題の3つを示す「コピー職人の証」に純粋化される
・デザイナーは私生活を企画デザインに持ち込んだ「コラ職神」として神格化される
・もし禊いで清められた純粋な「コラ職神によるコピー職印」をオリンピックで使うというのならそのを意図は何なのだろうか
お清めが必要といっている不浄派であれば
・デザインは多く因縁があるためそれらと対峙して解決しなくてはならない
・デザイナーは使用してはならない素材から遠ざからねばならない
・因縁と打ち勝ち使用すべき素材に絞られた結果出てきたデザインは先のそれとは異なっているはずである
ということなんだよね
これらをふくめてダメじゃんって騒いでるだけなんだけど
この「気に入らない」に同調する人がコメントを投げ合ってあつまった状態をみて
「穢れ」と「気に入らない」の違いを聞いてどうするの
「穢れが気に入らない」って言ってるんだよ
人が多く集まっているから一人で戦うには多勢に無勢なので相手団体の戦力自体を削ごうと
原動力である「穢れ」が「気に入らない」という原理的なものを分解に来たのかもしれないけど
よくわからない個人的な理由でおかしいという武器で同じ戦法を持ちだそうとしても
やっぱり数の差はうまらないとおもうよ
すでに数が集まっている「穢れ」って個人的な理由の戦力に対してこの武器で対抗できると見越すのは
飛鳥・奈良時代までは100年単位で割と頻繁に遷都をしていたが、平安時代以降、頻繁な遷都は行われなくなった。
これは、飛鳥・奈良時代当時の人間が都に掛けられた呪いを非常に恐れていたからという話が伝わっているが、
その呪いの実体とは急激な都市化により流行した各種風土病であった。
遷都を行い0から都市建設をすると、一時的に衛生環境が改善され風土病が抑えられるので、当時の人間は「やっぱり呪いには遷都が効果的なんだ」と思い込んでしまっていた。
これが収まったのが平安時代。きっかけは仏教、特にケガレや物忌みの概念の普及
これにより人々に身体や身の回りを清潔にする習慣が普及し、都市生活を行ってもそんなに衛生状態が悪化せずに済むようになったので
という与太話を思いついたんだけど、これって似たようなこと書いている本とかないかな
http://anond.hatelabo.jp/20150804051451
あくまで自分の場合は、なのでこの通り思えなくても何も問題ないし気にしないでくれ
TV見てたらアメリカの性被害後の取り組みについて知る機会があってそこからセルフカウンセリングした
ざっくり言うと
・乗り越えようとしている自分は独立した強い人間と自信を持つこと
・↑そうすると被害の記憶を客体化して自分と切り離せるようになってくる
私の場合は「ケガレ」の思想に呪縛されていた(変質者にあった自分は汚いんだと思った)ので
ケガレの思想なんて地域的なものじゃん(これは高校倫理で習ってた)と思い出して軽くなれた
あと、拙くも乗り越えようとする自分に自信を持つようにして、被害の記憶を今の自分から切り離した
いつまでも染み付いて離れない呪いじゃなくて、今の自分にコントロール可能なものとして見た
カウンセラーなど専門家の力を借りられるとより良いけれど、合う人がいればでOK
英語ができるならアメリカのPTSDなどの克服のサイトなどを見ると無料だし力強い
そして大切なのが何か楽しいことを見つけ、心に余裕を作ること
友達と遊ぶとか趣味に打ち込むとか仕事頑張るとかそういう普通のことでOK
良い1日を。
「音声や照明って、なんでそんな職種を一生の仕事にしたんだろうと思う。歳を重ねても声を録るだけとか、それでいいの?」
叩いてる側が「職業に貴賎なし」とか言ってて、はぁ?となる。
いやまぁツイッターとかの純粋な、いわゆる2ちゃんねる的ケガレの洗礼を受けてない人だったら普通の反応だと思うよ。
でも大半の奴らは普段バリバリに職業差別的発言をして悪びれもしない連中だろ?
ちょっと前にあったよな水商売のアルバイトした経歴のせいでアナウンサーの内定取り消されたやつ。
あのときこいつらどんな反応してた?ナチュラルにゴリッゴリの職業差別をこれでもかというほど炎上させてたぜ?
テーマは最近またホットな、放射線がもたらす健康影響について。自分自身は、もともと(事故直後から)「これぐらいの量でそんな深刻な影響が出るかよ」という考えで、行政が発表する各種の数字や、これまでに得られている学説等は原則として正しいとするスタンス。これまでの3年間で、放射線による健康被害を憂える人に対して、対話を即諦めたことが三度ほどある。
一回目は2年ほど前、30代前半のリアル友人(女)と会話していた時のこと。彼女は震災後に妊娠したのだが、不幸なことに死産だった。彼女は当時ホットスポットと呼ばれる地域に住んでおり、今のマンションは売って引っ越すのだ、と話した。「私がこんな場所に住んでいたせいで、子供にかわいそうなことをしてしまった」と言う彼女に、私はいちおう、おそらくそのせいではないし、あなたは悪くないよ、と言ってはみた。「でも、わかんないから」とだけ返され、その会話は終わった。
二回目は半年ほど前、別のリアル友人(30代前半、女)と。震災後はデモに参加するなど、かなり反原発側に傾倒していた。居酒屋で会った彼女は「最近は西日本産の野菜を買うようにしている」「東日本のものは食べたくない」と話した。私は「福島なんかでは検査を頑張っているし、(彼女の好きそうな)ナチュラル系のスーパーでは検査結果を明示している」「第一、こんなタバコの煙が流れてくる居酒屋で、酒を飲み塩分たっぷりのツマミを食いしている方がよっぽど体に悪くね?」と反論してみた。それに対する答えは、「でも、なんか気持ち悪いじゃん」。私は対話を諦めた。
三回目はつい最近、Twitterのフォロワー(たぶん30~40代ぐらいの、たぶん女性)と。ときたま反原発の話題をRTしているので、まあそういう思想の人なんだろうな、ぐらいに思っていた。そして最近の『美味しんぼ』鼻血騒動。この人は「低線量被曝だってどうなるか分かったもんじゃないのに、体制側はシロと言い切る! グレーゾーンにあるものをシロと言い切るのは無責任!」(大意)とツイートしていた。百歩譲ってグレーゾーンにあるとして、それをクロって言い切るのも無責任じゃん…と思ったが、@を飛ばす気力もなく、そっとリムーブした。
この3件に共通するのは、「ケガレ」の感情なのかな、と思う。科学が何と言おうと、放射線は怖い、気持ち悪い、不快だ。誰だかが今回の話題に「これは科学の敗北だ」とコメントしていたが、ある意味で正しい気がする。科学的話法、科学的コミュニケーションの敗北。いまだに根気強く対話しようとしている科学サイドの人は凄いなと思う反面、感情的に放射線を怖がっているような人には、もはや科学的根拠を伝えても通じないのではないだろうかと思う。
今回の騒動を見ていて、もうこのテーマに関して、データや学説、論文を持ち寄った対話を行うのは無理なんじゃなかろうか、と感じた。ケガレの感情を持った人が科学サイドの言い分に対抗しようとすると、学界ではマイナーだったり、すでに否定されたような学説やデータを引っ張ってくるんじゃないのかな、と推察する。そうすると、科学サイドの人はそれを否定するので、ますます溝が深まるわけで。
反原発サイドの人はこの際、感情だけ――何と言われようと放射線は怖い、気持ち悪い、ストレスだという気持ちだけ――で訴えたらいいのではないだろうか。そうすれば私のように感情論が苦手な人は閉口して静かになるし、「放射線が怖い」というその気持ち自体には共感する人だって多いだろう。科学サイドの人も、そういう人を科学で殴ることはもうやめるべきだろう。いくら殴っても説得できないどころか、対抗して謎学説が生まれるだけだろうから。
一人目の友人は、結局その後引っ越して、元気な子供を生んだ。楽しそうに暮らしているのを聞いて、ストレスから解放されて何よりだな、と心から思っている。
山本太郎参院議員が天皇陛下に『直訴状』を手渡しした、という話は既にあちこちのSNSでも議論され尽くしており、態々書くまでも無いような気がするのだが、一点だけ気にかかる事がある。
それは少なからず山本太郎参院議員の行動を「自らの身を顧みず天皇陛下に直訴状まで渡す熱い脱原発活動だ!」と評価(賛同)する人が多い件について。
もちろん彼らが所謂「放射脳」であり、まともな判断力を持ちあわせていないんだ~と一般的な「ネットの意見」風に言ってしまえばそれまでの事なのだろうが。
このエントリでは「天皇陛下を政治利用する」事や、「直訴状」について、あるいは「ウヨク」だとか「サヨク」だとかは特に取り上げない。そのレベルに無いからだ。
山本太郎参院議員の今回のこの行動(事件)ははっきり言ってそれ以下のレベルのかなり稚拙な行動であったのではないか、という話。
山本太郎参院議員は所謂「脱原発派」の中でも特に急進的で過激な活動に参加している事は有名な話であり、
度々「脱原発デモ」に参加して時には過激すぎる活動(暴力沙汰)などに発展している…というのは彼の行動に賛成する人でも多分知っているだろう。
その活動の一環で、「福島に関する現状を知ってもらいたい」として天皇陛下に「直訴」の手紙を手渡すに至った、というのがまず前提である。
しかしそもそも、氏は普段から「東北で生活するのはあり得ない。がんになるのを待っているだけ」「このまま放射能汚染が続くなら、俳優業引退・疎開も考えている」等と放言し、
挙句「自分の10円ハゲは被曝が原因」「国会で出される弁当はベクレている(放射能汚染されている、という意味)」等と国会議員にあるまじき「適当な放射能に関する発言」のオンパレードである。
(なお、これらの発言はいい加減であてにならない、「原発推進派による陰謀にまみれたインターネッツメディア」ではなく全て新聞や雑誌等のメディアによる取材の物であったり、
はっきりと映像メディアで前後の会話から公開されているため言い逃れのしようがないものである。)
氏の普段の発言は、福島県や東北の事を『放射性物質を含んだ粉塵が吹き荒れる死の大地』『汚染された地に住んでいる人たちには致命的な健康被害が出ている』という脳内イメージを前提で語り、
それに伴う小学生の「バイキン」遊び(いじめ)のような福島県、及び福島県民への差別を助長するような事を公的な立場で述べているのと同じ事ではないだろうか。
これがいち活動家であればよかったものの、彼は現在参議委員議員である。発言には全て責任が伴ってくる。
そしてこのような氏の普段の言動から見て、はっきり言って福島県の現状を知っているとは言いがたい、というのは福島県民でなくてもお分かりになるだろう。
福島県民や東北在住・出身者からしてみれば、怒りを通り越して呆れる、というレベル。
そのような状況にある人が、「直訴」と称そうがしまいが誰かに「知っていただくための手紙」を出す事自体が極めて失礼に当たる。
本人は立場を「一度横に置いて」と主張していたが、立場を横に置いて、差出人と宛先の人物が友達であったとしても失礼通り越して、縁を切られるレベルである。
(そもそも立場を横に置いて、というのは下の人間が上の人間に対して使うべきではないが)
レベルとしては今から韓国旅行に行く友達に「南朝鮮はレイプ国家、渡航を中止せよ」とどこぞの匿名掲示板の怪文書を手紙にして渡すのと全く同レベルだ。
妄想や不明瞭なソースからの発言を普段から好き放題言っている人間が「教えてやる」手紙を書き、
それを誰かに出すのはその手紙を出す相手にも、その「現状を訴える」相手に対しても滅茶苦茶に失礼な話で。
しかも渡した相手はよりによって何度も被災地に赴いている人物であり、間接的に「お前は放射能で汚れているのだぞ!」というメッセージにもなりうる。
氏の普段の公的活動を見ていると、『脱原発』というメッセージとは別に「福島県はケガレているから差別しろ」というニュアンスが含まれているように見えてならない。
そもそも原発が必要か、必要でないかという話は別にして、このような「福島県を差別して日本から抹殺し、脱原発しよう!」という方向性で良いのだろうか?
仮に原発が0になったとして、今度は新しい問題が出てきたらその度に周囲に住んでいた人間を「ケガレ」としてどんどん排除していき、
最終的に「ケガレていない人間」だけが生き続ければいいのか?そうした言説や行動は、明らかに間違っていると思う。
今一度、脱原発活動に賛同する人でもこうした山本太郎参院議員やその周囲で推し進められている「放射能ケガレ」言説について考えてみていただきたい。
今は他の県から「福島県は汚染されている!福島県産の野菜は捨てろ!福島の子供とは遊ぶな!」と主張している人も、次に「ケガレている」人間として
「ただそこに住んでいただけ」で攻撃されたり汚物のように扱われ、排斥されて容認できるだろうか?そもそもそんなケガレ思想を『脱原発』の場に持ち込む必要があるだろうか?
自分たちが主張する原発0への運動が正しいと思うのなら、ケガレた地や人に対する差別のニュアンスや事実に基づかないいい加減な現状は切り離すべきだ。
「子どもたちのために核の心配のない世界を残したい!」核の心配を排除するのにケガレによる差別思想をまき散らす?
何かが起こったらその周辺地域の住民は差別され、産出物は全て放射性廃棄物扱いされるのが子供たちに残してあげたい未来なのか?
『脱原発活動』に今一番必要なのは、このように言葉だけは強く無責任に誰かを差別するような言説を撒き散らす人や過激な(犯罪じみた)活動をする人ではなく、
正しい知識と現状把握を元に今後どうやって実現していくかを話し合い、代表意見として適正に提出・発言してくれる人物だ。
こうした無責任・無知なイメージによる言説で、過激なパフォーマンスを行う人はたとえ脱原発に賛成していようがいまいが決して『味方』では無い。『敵の敵は味方』ではない。
むしろ、大雑把に敵と味方を分けるとすれば『余計な事をして戦況をどんどん悪化させる敵』に近いとすら思える。
残念ながら、既にインターネットメディアでは「放射脳」という言葉ができてしまうレベルでこうした無責任・無知な言説や「ケガレ」思想=脱原発活動のイメージが撒き散らされてしまったが、
今後きちんと『脱原発』及び『核の無い世界』を実現していきたいのであれば、必要なのはこうした『無責任なパフォーマー』やそれに賛同してもてはやす、擁護することで
きちんと今後の事を主張し、話し合っていく人達の足を引っ張り続けることではない、と私は思う。