はてなキーワード: ケガレとは
元増田じゃないけど、実際は政府はそこそこちゃんと仕事してるよ。
そりゃ、いくつかはひどい事例もあったと思うけど、無謬性を求める心が「想定外」を埋むのであって、少々の失敗はちゃんと責任を取らせた上で忘れるのも健全な社会運営には必要なのではなかろうか。
・リスクを考慮した上で安全基準を決め、運用についても政府が責任を持ち、信頼性を担保する(偽装などがあると何も信用できない状態になるので、偽装するインセンティブが生まれないようにする)。
・リスクがどのぐらい考えられるかを周知する。
ぜんぶやってる。根本的に、勉強する気がない人のところに知識を届ける効率的な手段がないだけ。
流通が「ゼロベクレル宣言」とかしちゃうからね。もうアホかと。
安全側に振って生活してるんじゃなくて、安心側に振って生活してるだけ。今マーケットに出てるものは、科学的・疫学的にみて十分に安全とみなされているものであって、それを食べることによって発生するリスクは知られていない。「安全側に振って」って言う奴が同じ口で生肉規制に文句言ったり、煙草吸ってたりする事例を見たりすると特にそう思う(あなたがそうといっているわけじゃないが)。
友人の子供ならともかく、友人本人であれば、ちゃんと物事を調べない馬鹿者がここにいるのだな、としか思わない。可能性だけの話をするのであれば、人工甘味料を長期間摂取してガンになるリスクのほうがよほど未知だよ。次々と新しい化合物が導入されてるし。
ケチャマンって言葉がありまして(下衆な言葉だしもう死語だけど)、キメェからできれば遠慮したい男が普通です
んで、ケガレ観念があった前近代の時代は、ケガレイコール気枯れであって、近づくと活気を奪われてしまうんですよね
近づきたいっすかね?
おぞましくて近づきたくないものであると設定することで暴力にさらされるリスクを軽減したのだという横増田の論は、民俗学の世界観では的外れじゃないですよ
そもそも、集落に何人女がいると思ってんですか?
「女の家」と言って、月経期間の女が何人か集まって作業や雑談をしてたわけでして、孤立はしませんよ
確かに差別ではあるんですけど、差別することで手を出したくないようにするって発想も確かにあるんですよ
アイヌが子供にうんことかいう名前を付けて神様が手を出さないようにしていたって話、聞いたことないですか?
(和人もしてたんですが、マジョリティの理屈なんて聞きたくないでしょうからマイノリティの理屈で説明しました)
「女性は差別されてきたんだ!許されざる差別だ!女性への抑圧だ!それ以外の解釈は許さん!」って前提と結論を最初から決定しているフェミニズムの世界観の方がよっぽど異常だと思いますよ
月経に関する知識を「忌み嫌って遠ざけてきた」男と、別にどうでもいいよっていう増田みたいな男が居るわけで、
問題なのは忌み嫌う系統の男の方が威圧的に主張するから、女がそっちにあわせて行動することなんだよね。
http://anond.hatelabo.jp/20110813021554
ネガティブ発言よりポジティブ発言のほうが幸せになれます。少なくともその場は。そしてポジティブ発言をする人は幸せになりやすい。これも真実。ポジティブな人は幸せになれる。彼らは幸せを発見するのがうまく、現状を見捨てて良さそうな世界に乗り移るのがうまい。幸せになれない人たちは見捨てて幸せになろう。
人間には二種類いる。真実に重きを置く人と、あるべき未来に重きを置く人。いや、両方があるべき未来を思っているのだが、そのやり方が違うと言うべきか。
ネガティブなことは往々にして真実である。それを改善することにより、よりよい未来へたどり着ける。ポジティブ教の人たちはそれを否定する。ネガティブな真実に目をつむり反省しない。「改善点がわかる建設的な状態」になるまで発言しない。改善点が無い場合はどうするか?それを見ないふりをする。その圧力が「ネガティブなことを言ってはいけない」運動である。
ポジティブ教の人たちもネガティブな真実に気づいてはいる。気づいていて、言いたい。気づいているが言えない。言いたいが言えない。なぜならそれはポジティブではないから。ネガティブな発言をしてしまうと身がケガレてしまうから。
だからその抑圧がネガティブ発言をしている人たちを封殺する。気づいているんだけど言わないだけなんだよどうしようもないだろそんな不都合な真実には目をつぶれよ圧力である。
ネガティブ野郎はそのことに気づいている。自分もポジティブな発言ばかりしていたいのに、でもこの要素が改善されなければ正しい未来にたどり着けないだろう?そういう願いを込めてネガティブな発言をする。真実から目をそらすな。現実から目をそらすな。かわいそうな人たちを見捨てるな。
見捨てて乗り移った方が幸せになれることに、ネガティブ野郎も気づいている。気づいているが見捨てられない。それは現状に依存する諸々を幸せにしたいからであり、乗り移る勇気がないからでもある。
だからその抑圧がポジティブ発言にいらだちを覚える。おまえらはどうして真実を見ないのか。
これが争いの原因だと思います。
「世界の素晴らしさをふれ回る」をされたところで「はいはいいつもの不都合な真実から目をそらす活動ですね釣られません」になるだけなので全然効果ないと思います。両方疲れるだけ。「世界の素晴らしさを体験させてあげる」レベルの力のいれ具合じゃないと変わりません。
あれ?あんたはダムどうこうって言い出した奴と同一人物か?妙にものわかりがいいじゃないか。
いや、何を極論と呼んでるのか知らないが、俺はこのツリーには2つ上の「はっきりと反原発派の本音を白状してくれてありがとう」の記事しか書いてないよ。
これを「建設的に」見直すとしたら、人事も含め危機管理体制の刷新だ。
技術なんて関係ない話なんだよ。
「安全神話」なんてのはマスコミと愚民大衆がどこからか後付けで作り上げた実態のないものだが(俺自身、「神話」的に安全だなんて思ったことも、そんな風に信じてる奴を見たことも一度もないぜ?)、それはともかく後の部分は全くその通りだな。
非常に実用的な視点だね。そこには全面同意だし、そこまでわかってるならこちらから何も言うことはないよ。
技術がどうこうと言ったのは、もっと低レベルな、あなた言うところの「極論言ってる一部の馬鹿」(一部とはとても思えないが)向けの話だから。あなたはそれより一段階上の話をしている。
ダムだの何だのと比較するとキレる奴ってのは、原発批判じゃなくて原発ヘイトをしてるからね。「事故が絶対起こらず放射性廃棄物の問題がない原発」ができたって原発潰せっていうに決まってるよ。というのは、原発に「ケガレ」を見出していて、他のものは清潔で無害だと無邪気にも思いこんでいるからだ。あるいは、原発関係者ってのはショッカーみたいな悪い連中で、金のために人類を滅ぼそうとしているとか思っている。
まずはその思いこみを脱してもらう必要がある。だからこそああやって挑発的なことを書いているわけだ。
あなたは「はじめに反原発ありき」でこれでもかこれでもかとコピペ並にdisを繰り出してくるようなレベルではなく、「何が悪いか」と具体的な問題点を指摘して、きちんと判断の境界線を引くという、まさにフェアで「建設的」な議論ができるわけで、そもそもこんな増田のdisり合いに出てくるのが「手合い違い」なんじゃないかな?
横だけど。
確かに。
・他人の精液が入ったコンドーム
・他人の精液が入ったマンコ
・他人の精液が入っていないコンドーム
・他人の精液が入っていないマンコ
どれがダメなんだという話。
精液なのか、入れるという行為なのか?
元増田が上二つがイヤなのは書いてある。
しかし、
・他人の精液が入っていないコンドーム
はどうなのだろうか?
精液が入ってなくても、一度装着したものは勘弁願いたいところではないか?
おそらくこれは物理的な「汚さ」だ。
そして
・他人の精液が入っていないマンコ
も現実的にはありうる。
コンドームをして入れていたら、マンコに精液は入らないからだ。
これでも、このマンコにいれたくないとするならば、それは精神的な「ケガレ」だ。
ここは、分けて考えないといけない。
萌えは個人の趣味趣向にすぎないかと。逆にそれに過ぎないものがひとり歩きしてる感じもするな。テレビなんかで。
田舎に旅行行って、田んぼの横とかにトタンで囲まれた無人自動販売機があっても誰も好んで話題にしようとはしないでしょ。むしろ見えてないという前提で
とか空々しいこと言うでしょ?日本人だけが、目の前に見えてるものなんだけど、それが邪魔だったり都合が悪かったりすると見えないものとして扱うことができる、などと東洋史学者の貝塚茂5が笑いながら対談してるのをどこかで読んだ記憶があったりしますが思い出せません(苦笑)もしかしたらケガレ思想とか被差別部落の問題かなにかを扱った本だったかもしれないですが。まぁそれはともかく、いくらトタンの中で売られているものが
「これはとても素晴らしい出来なんですよ」
と言われて手渡されたりなんかしても、フツーはまず目をそむけますよね?なにが素晴らしいのか?それがズリネタで使用するおっさんの求める文脈や目的に限っては、素晴らしいからだとわかるからです。他の用途で素晴らしさを見つけるのはまことに骨ですから。マルセル・デュシャンみたいに前衛美術です、っていきなり美術館に洋式便器がゴロンと置かれたりしても困るじゃないですか(笑)それと同じで。
http://d.hatena.ne.jp/Hash/20090504/1241449893
新しくて刺激的なものが好きな若いヤツは一度東京に出てみろよ、楽しいぞー!っていう記事。
そこで、田舎どころか超過疎地育ちの自分がGWに帰省して故郷の田舎で思ったことを書いてみる。主に残念な情報。
1.会話の話題=噂話+病気自慢+最近亡くなった人情報(死因と発見時の状況説明付き)
近所の人の茶飲み話での話題が、ほぼこれ。自分の実家も祖父と祖母がずーっとこの話題で盛り上がるので、ほかの家族は終始無言。昔は、もっと明るい話題に切り替えようと祖父母以外の家族で努力したこともあったが、無駄だった。今では、彼らがボケるか死ぬまで我慢するしかないんだとあきらめてる。
今回も「ちょっとしたことでも、何か明るいニュースとかあるんじゃない?」と祖母に尋ねてみたが、「そんなもん、ない!!」と即答された。みんなで焼肉食べてるときに町で起きた焼身自殺について朗々と語りだしたときはマジで困った。もうやだこんなばあちゃん。
2.自治会でだれか亡くなったときは、自治会メンバー全員が仕事を休んで葬式の手伝いをする
もちろん忌引きなんて使えず、有給休暇を使うことになる。2、3日間仕事を休まなくてはならない。葬儀業者を入れて斎場で葬儀をすることは珍しく、たいてい故人の自宅で葬儀となるため、自治会の人たちが手伝いをする。男性は土葬用の穴掘り(最近は火葬も多いけど)や会場設営をして、女性は遺族や手伝いの男性達のために食事の支度をする。葬儀が完全に終わるまでは遺族は「ケガレている」とされて台所に入れてもらえなくなったり。
3.近所に救急車が来たような音がしたら、その救急車がどこの家に行ったのか近所みんなで情報共有する必要がある
「XXさんからはお見舞いが来たのに、YYさんからはお見舞いがなかった・・・。」みたいな人間関係のこじれを防ぐために必要、らしい。
同じような理由で、地方紙やケーブルTVのニュースでは、「お悔やみ」のコーナーがあって近日中の葬儀情報が提供されている。
なんか書いてたら陰惨とした気分になったから、こんなところで止めとく。
・・・今?しがらみがなくて他人に無関心な東京で楽しく暮らしてるよー!
なるほど、そういえばそうか。
正確に言えば「キリスト教でいう『純潔』概念を、日本人は『清浄』観で理解した」ということになるんかな。それにしても増田の言う通り「色ごと=ケガレ」とは(その職業人も含めて)思われてなかったというのは事実だよなあ…。むしろ『聖俗一元』的な感覚の方が主流だったわけで。
今、急に思ったんだけど、「洗礼」って「(水による)キヨメ」なんだろうか。西欧的な文脈で、浄・不浄の概念が宗教と結びついて捉えられてきたことは本当に無いんだろうか?
けっこうどうでもいいけど
日本人はそうなんだ。普通に生きて、頑張っている人は褒めない。ずっと、悪いことをしていた人が、ちょっと良い事をすると、「君は本当は良い人だ」と褒める。
これって日本人がそうなんじゃなくて、どっちかというとキリスト教的価値観だと思うよ。
さて(放蕩した弟が再び家に戻ったとき),年上の息子は畑にいた。家のそばに来ると,音楽や踊りの音が聞こえた。召使いたちの一人を呼び寄せ,どうしたのかと尋ねた。召使いは彼に言った,『あなたの弟さんが来られたのです。それで,あなたのお父様は,弟さんを無事に健康な姿で迎えたというので,肥えた子牛をほふられたのです』。ところが,彼は腹を立て,中に入ろうとしなかった。そのため,彼の父親が出て来て,彼に懇願した。だが,彼は父親に答えた,『ご覧なさい,わたしはこれほど長い年月あなたに仕えてきて,一度もあなたのおきてに背いたことはありません。それでも,わたしには,わたしの友人たちと一緒に祝うために,ヤギ一匹さえ下さったことがありません。それなのに,あなたの財産を売春婦たちと一緒に食いつぶした,このあなたの息子がやって来ると,あなたは彼のために肥えた子牛をほふられました』。(新約聖書「ルカによる福音書」15:25??http://www.cozoh.org/denmo/Luke.htm#C15V1)
殺人犯と、まったく犯罪ではないAV出演の過去を持つ女性を等しく並べる里中さんの感覚は、つまり「不浄・ケガレ」観という奴で、そちらの方がいわゆる典型的な日本人発想。「キヨメ・ハラエ」をしない限り「ケガレ」が消えないという感覚。
逆ね。逆。
など若年層と一部の発達障害と思われる大人の間で十数年前から語られる処女崇拝。もう語られているだろうが、2つの点で問題点があるのかなと思ったので整理しておく。
一つ目は宗教的・霊的・スピリチュアルななにかを処女に求める傾向だ。
昔から巫女は処女でなければダメ。婚前交渉はダメ、など処女による閾が提示されてきた(と僕は友達やネットで聞かされて育ってきた)。
男尊女卑の時代からだが、これは女性が毎月血を流すこと、それから処女を失ったときに一部の女性は血を流すということに由来する。
血と死は昔から"ケガレ"として遠ざけられており、処女の中でも初潮を迎えていない頃合いはもっともケガレていないという見方があった。
そこから貫通を経験していない女性にはケガレがない→神秘的な何か、力や霊的ななにかが宿るという宗教的な視点が現れたのではないか。
女性の体を神聖視し、初めてその体に傷をつけること。宗教的などと大きな言葉を使ったが、実際は小さな崇拝といったところだろうが。
女性をモノとしか見ていないとか、男尊女卑の名残だとかそういう見方もできる。
彼女が別の男を知っている。それはつまり自分が比べられる対象になることが含まれる。
日本は性的な産業が一般的にはなっているものの、まだ若年層には閾の高いものとなっている。要は練習の場がないのだ。
もし自分がそういう体験が無い場合、相手が自分の未熟さをどこまで許容してくれるか、性格から推測する以外に担保はない。
特に日本の男たちは優しい。
相手を満足させてあげたいのに他の方が満足できたと言われると(実際に早々言われる機会はないけれど)自尊心と他人に対しての貢献心までが傷つくことになる。
世の中が性に開放的になっている一方で、失敗に対して不寛容になっているように体感する現代では、処女崇拝は失敗をごまかし一度しかない経験を共有するという意味では恋愛的戦略なのだろう。そういう戦略しか知らない男が多すぎるのであろう。
恋愛なんて、つきあったりHしたりするのは意外と簡単だ。
ただ付き合いを続けるのは難しい。二人がつきあうことで、相手の家族や友達、職場、自分の周りの人間関係によい影響を与えなければならない。