はてなキーワード: 長編とは
・ 登場人物がやたら多い。
1ページか、二ページそこらで、登場人物がやたら出てくる。本人の中ではしっかりとキャラクターが浮かんでいるのであるが、いざ書きだすとなかなか先に進まない。他人に読ませても「キャラクターの区別がつかない」とか言われる。他人をお話の中にすんなり引き入れるには、多くても主要キャラクターは三人か四人がベストでしょ。
・読み始めて、しばらくしても何についての話なのかよくわからない。
いきなり長編に取り掛かろうとする小説家志望にありがちなパターンである。ずーっと読んでいってもなんだかよく分からない主人公の日常が書かれてあるだけで、いつまでたっても事件が起きないのだ。セントラルクエスチョン(主人公は○○できるのか?)を提示するのが遅すぎる。遅くても10ページまでには何の話なのか提示しないと、読む方はあきてしまう可能性があるのだ。
・登場人物が画一的すぎる
女子高生が出てきたら女子高生の口調、オタクはオタクの口調や行動、ヤンキーはヤンキー、校長が出てきたら校長、婆が出てきたら婆、どれもこれも画一的で、その個人特有の人物造形ができていないのだ。女子高生だったらこんなことはしないだろうとか、ヤンキーはこんなこと言わないだろうかとか考えず、こいつ自身はどう動くかを考えるべき。
主人公が不安だと思ったときに、そのまま言葉で私は不安だと表現するのは簡単。
そうじゃなく描写で表すほうがいい。不安なら、「私の進む先に暗く淀んだ雲が漂っていた」これだけでいい。
・敵の底が浅い
これは、ダメな映画、小説、漫画すべてに言えるが、敵または悪役の底が浅すぎる。みんな似たり寄ったり、同じような口調や行動でありきたりこの上ない。書き手が主人公ばっかりに気持ちが入っていて、陰と陽の配分がなされていないのだ(不思議と悪役の存在感が薄い小説は、主人公も同じく薄いことが多い)
悪役を描くときは、どうせなら主人公より悪役の方に肩入れしてしまうくらい入念に丹精込めて造型しないと、濃密な戦いは生まれないぞ。主人公以上に、なにか独特の倫理観や、哲学を持ってないと魅力は出てこない。<リンク:共犯者 (新潮クライムファイル)>共犯者の関根元を見習ってくれ。
・退屈な生活をおくる主人公のもとに、都合良く謎の美少女が現れる。
導入で、ここまでうんざりさせられる展開は他にない。冒頭に退屈した主人公の日常が延々と描かれ、突如としてその生活に舞い降りた謎の美少女。これがラブストーリーとかになったりしたらもう最悪…。導入としてはすごくわかりやすくて、お話も運びやすいのはわかるがもう一つ何かひとひねりちょうだい!
自分の中に溜まった抽象的な[何か」を表現しました、と言う小説はたいがい、つまらない。こういう小説は冒頭にかならず自意識を垂れ流したような文章が長々と続き、ちょっと書いている本人が陶酔している。こういうのを描くのは、玄人向けというか、並外れた文章表現と客観性がないとなかなかうまくいかないのよ。最近芥川賞とった「きことわ」ぐらいのレベルなら別だけど。
なんかさらーっとしてて、自然とかそういう情景描写ばっかりの小説ってあるよね。たぶん自分の中では美しい情景が思い描けてると思うんだよ。でも他人ってそんなにあなたが感動したことに共感はしてくれないんだよ。よくありがちなのが自然と人間の死を対比させているパターンね。
・文章もテーマも立派なんだけど、全体的に大したことが起こらない、地味。
こういう小説が一番多い。文章もプロ並み、テーマも素晴らしい、でも地味なんだよってやつ。こういう人はとことん地味な話を書くべか、または自分が普段全く読まないような超エンタメ小説や劇薬小説などを買いあさって読んで、一度頭をフルチェンジしてみるのが一番ベストである。
・文章もテーマも立派だし、起こっていることもまぁまぁなんだけど、モチーフがありきたりで既視感がある。
そこらへんに転がってるような話だけじゃ駄目なんだよな。
海外の古い短編なんか読むと、こんなんでいいの!?って思うくらいシンプルなのもあるけど。それは昔の時代だから通用しただけのことであって、今の時代は「ひねり」をどんどん入れて、読者の意表をつかないと、すぐにあきられてしまう。じゃあ二転三転すればいいのかっていうとそういうわけでもないんだけど、読者を驚かせてやろうってぐらいのサービス精神がほしい。
http://anond.hatelabo.jp/20111212173754
じゃあ、奥さんに「ゲームのノベライズ」を何本か書いてみるよう薦めてみなよ。
「ゲーマーが面白いと唸る原稿が書けたら、才能があると認めてやる。出来なかったら、フルタイム勤務を探すか、もっと真面目に家事に取り組むか、しろ」と言い渡してやれば?
正直、大手の長編の新人賞取ったって、それっきりの人が出る世界なんだから、15年も前の短編の賞にしがみついてても、得るものは何もないと思う。
本を読むならシェークスピア全集読破して、全部の話のあらすじ書くとか。真剣に努力する気があるのなら、やることはいくらでもある。
1日20枚書かないと本気とは認めない。とか、生活費握ってるのなら、どうとでも言いようがあるだろ?
がんばれ、元増田。
学歴にまつわる出来事で、面倒な思いをしたのは数え切れないし、そうした面倒の原因になった人物は俺にとってどうでもいい人物であることが殆どだったが、どうしても忘れられない人が一人いる。
俺はフリーランスのWebデザイナーだ。高校卒業後は、絵を描く仕事をしたいと思っていた。当時、バイト先やネットで知り合った絵を描く人たちと良く交流した。今の仕事でもお世話になっている方もいる。当時の出会いや経験は、今ではかけがえのないものだ。
そんな人たちの中に、とても素敵な文章を書く人がいた。彼女は新しい小説の挿絵の描き手を探していた。仲のいい絵描きを通じて俺の絵を知り、気に入って連絡をつけてきた。俺自身、彼女の書くものが好きだったので、快く返答した。
それから、何度もメールでやりとりし段取りも順調に進んでいた頃、彼女が学歴を突然聞いてきたのだ。
俺は正直に・・・というかごまかす必要も感じずに・・・高卒だと答えた。それから彼女の態度は当然変わった。自分はどこどこ大で、何々を専攻していて、何々についても体系的に学んでいる。あなたに色々言われる筋合いはない。感想もいらない。あなたに私の文章を読まれたくない。あなたの存在は不快だ、と。
あまりにも突然すぎる変貌に、彼女に嫌悪感を抱く余裕も俺は持てなかった。
当然、挿絵を描く話は立ち消えになった。仲介をしてくれた絵描きにも泥を塗った形になり・・・フォローはしてくれたのだが、俺が気まずくて申し訳なくて、彼らと疎遠になってしまった。
それから7年近く経った今年、彼らのグループの一人と偶然会う機会があった。当時の創作活動の話に花が咲き、時間というものが面倒な気持ちのわだかまりを解消してくれるのだと十分に実感した。話は自然と彼女の話題になった。今でも彼女の作品がネット上で読めるのだと知った。あれからずっと、彼女のサイトも登録されたコミュニティも閲覧してはいない。
いまさら見ることもない、興味ないな、と思っていたのだが、適当にネットを見ていたら自然と彼女のサイトを開いてしまっていた。あの時立ち消えになった作品は数年かけて長編になっていた。
たいしたものだ。やはり彼女の文章は魅力的だった。同時に、何かひっかかるものがあった。俺ははたと、昔のメールを読み直した。二度ともう読むまいと思っていた彼女と頻繁にやり取りした頃のメールだ。理由はすぐにわかった。あの時話したアイデアや俺のイメージの殆どが彼女の作品に取り込まれて、生かされて、より完璧になって昇華されていた。あなたに私の文章を読まれたくない。あなたの存在は不快だ?嘘だ、そんな事を言う人の書く文章じゃない、そう思えてならなかった。
わからない。彼女が何故あれほど学歴に反応したのか、何が彼女の態度をあれほど変貌させたのか。わからないけどどうでもよくなった。ただ一つ残念なのは、もう彼女に作品の感想を伝えられないことだ。
続きです。
僕は柴田大輔さんの映画にはまっているわけですが、周りの人はなかなか理解してくれません。。。トホホ・・・
まあ、地味で個性的なので当然かもしれませんが、このブログでは、柴田大輔論を含め、気軽に日記でも書いていこうと思っています。
最近は、暑い日が続いていますが、何とか耐えている今日この頃です。
おそらく監督も炎天下の中、撮影に走り回っているのでは?と思っていますが、早く新作が見てみたいものです。
DVDの予約も入れないといけないし、なんだかバタバタしていますが、柴田監督の作品を見るのを楽しみにしているのです。
もっともCMが先だったので、映画だけでなく、広告作品やCMも結構見ていますよ。お気に入りだらけなんです^^
さて、いっちょ行きますか!
http://cinema-j.com/houga/?taxonomy=post_tag&term=%E6%9F%B4%E7%94%B0%E5%A4%A7%E8%BC%94
主役の大統領暗殺犯を追う二人の刑事――すぐキレる血の気の多い早川刑事に宮川大輔、美人にめっぽう弱い番場刑事にケンドーコバヤシ!・・・
・バカバカしいことを大真面目に!『さらば愛しの大統領』柴田大輔監督&世界のナベアツインタビュー
http://cinetri.jp/interview/saraba_interview/
監督は「3でアホになる」という衝撃のギャグを世に送り出し、放送作家としても活躍する世界のナベアツと、NOVAウサギやジョージアなどのCMを手掛けてきたクリエイター柴田大輔・・・
・世界のナベアツが長編映画監督デビュー! 大阪府が独立国家を宣言!? の疑問
http://aromacan.blog118.fc2.com/blog-entry-2108.html
ナベアツは「柴田大輔監督と共に、邦画史上『最もポップコーンとコーラに合う映画』を完成させることが出来ました。更には、・・・
http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=10597
CM界で常に新しいものを贈り出す柴田大輔が世界のナベアツとタッグを組み、「これは映画なのか!?」と、これまでの映画体験を覆すほどの、とことん「笑い」を追求したオリジナル作品を作り上げた。・・・
http://blog.goo.ne.jp/tanmen_daisuki
フォトジャーナリストの柴田大輔さんは、2007年にエクアドルに暮らすアワ民族を中心としたコロンビア難民グループと出会い、彼らと交流を深めながら、難民としての困難な状況だけでなく・・・
柴田大輔(かずさDNA研究所・室長)の公演にて・・・21世紀はバイオテクノロジーの時代であると云われている。
医学の分野では、ヒトのゲノム塩基配列の解読が進められており、全体の概略が2000年6月に発表された。
・柴田大輔のページ
映画監督の柴田大輔さんのことをさくっとまとめます。随時追加します。
あまり知らない人が多いと思いますが、最近インタビューなどの取材をはじめ、メディアへの露出がにわかに広がっています。
ファンも少ないのか、表に出ないのか、さっぱりなので僕なりに柴田さんのことを知るための情報を記しておきたいと思います。
・世界のナベアツ監督&柴田大輔監督インタビュー/『さらば愛しの大統領』
http://cinema.pia.co.jp/interviews/153874/99/
今秋公開予定の『さらば愛しの大統領』が、沖縄国際映画祭で27日にワールドプレミア上映された。監督を務めるのは、長編映画初メガホンを執る世界のナベアツとCM界の奇才・柴田大輔だ。・・・
・『さらば愛しの大統領』世界のナベアツ×柴田大輔監督インタビュー
http://www.moviecollection.jp/interview/detail.html?p=725
世界のナベアツが大阪府知事選に勝利。その上、独立国家宣言をし大阪合衆国の初代大統領に就任するも、謎の暗殺者たちに狙われるという物語をギャグ満載で描いた『さらば愛しの大統領』は、・・・
・『さらば愛しの大統領』柴田大輔監督「映画制作はマグロ漁船のようなもの」
http://journal.mycom.co.jp/articles/2010/11/03/sibacmmo/index.html
CM制作と映画制作。このふたつは同じ映像制作でありながら、表現、時間、予算などの面で大きな違いがある。映画『さらば愛しの大統領』で、世界のナベアツとともに初の映画監督に挑んだ柴田大輔監督は、・・・
・柴田大輔・語録集(監督だと思うけど、ちょっと自信なし・・・)
http://wanpakukozou.seesaa.net/
人生を宇宙の時間軸でとらえると一瞬で終わる。この一瞬をどう生きていくかが次の一瞬を決めるのである。そう語った柴田大輔の言葉です。・・・
第二回・・・http://anond.hatelabo.jp/20110708114752
第三回・・・http://anond.hatelabo.jp/20110722191805
【プロフィール】
生年月日:1973年
出身:兵庫県
伏線はあるし、キーワードに謎解きめいたものがあるから、そういった面や世界観的には面白い。
キャラクターもわかり易い個性付けされてるし、絡み合う人物相関も明かされる内に一喜一憂する。
が、面白いと思うけど、一番面白いというわけでもないのは王道漫画の読みすぎかも。
そして泣けるかどうかが非常にネック。
キャラに感情移入しているか、シチュエーションや個々のツボ、感性感受性によるから、泣ける人は泣けると思う。
が、どうもワンピースにおいては世界観萌え要素が強いせいか、キャラ達の織り成す物語も歴史書を読むような、
例えば目の前で太平洋戦争の資料映像を見せられても、資料と見るかドラマとして見るか位の違い有。
仲間とのシーンのヒロイックな場面が泣けるんだろうけど、仲間との王道たるヒロイック性に燃えないとも言う。
男の散り様とか、男がさりげない中で愛を告白するとか、ドリーミン過ぎるけど
女なので、タッチやめぞんみたいな正統派もうるっとくるし、異色所ではGOD SAVE THWすげこま君のラストも。
漫画は正直巻数が多いから薦めない。というか長編物は読むのに覚悟が居るからワンピース以外でも安易には薦められない。
何編が面白い?そこだけ読むと言われても、話が繋がらなかったりするから嫌な質問。
そもそも私自体、60巻越えで覚悟の大人買いでワンピースに着手した位のワンピにわかだし、大変。
転職に失敗した、ということは多分無茶をしたのではないかなとちょっと思った。
そんな状態でいきなり小説書くなんてブチ上げたらまた無理をしてあまりいい結果にはならないような気がする。
まずは日記書き始めてみたらどう?
何事もトレーニングは必要だよ。日々の出来事や思考のカケラ、増田は本を読むみたいだし書評を書いてみるのもいいかもしれない。
で、それをネットに公開しよう。増田書けるって事ははてなのアカウント持っているのだからはてなダイアリーを開設すればいい。
文章に限らず自分の創りだしたものが人の目につくってのを意識するのは大事だと思う。コメントが付いたら神だと思え。
そんな感じで日記を書いていって「文章筋」がついたな、と思ったら自分が書きたい小説のプロットを書き始めよう。
いきなり長編なんて思うな。思いついたワンシーンだけでもいい。それをいくつも積み重ねて切り貼りしていけば何かできている…ハズ。
増田がどんな作家クラスを目指しているか知らないけど、自分が思うとおりに完璧になんて幻想だから。
世にはKAGEROU以下の文章しか書けない奴は腐るほどいる。書き始めでKAGEROU級なら凄いもんじゃないか。
俺も一つの事をやり遂げるのが苦手だし、完璧病持ちでニートだけど、少しづつ土台を築きあげていくのが大事なんじゃないかな、と思うんだ。
あぁ、そうそう。あれだ。
急がば曲がれ
にゃふん
一時的に文庫本業者をにぎわしていたライトノベルであるが、ついに力尽きたようである。
ライトノベルはハッピーエンドの読み捨て娯楽小説であり、男性向けハーレクインロマンスというコンセプトであった筈なのだが、どうも、このコンセプトを理解していない人が増えた結果、読者に対する訴求が弱くなってしまったようである。
書き手や編集が勘違いして、少しでも売れている作品は、続編をいつまでもだらだらと続けさせるという、少年漫画雑誌のような引き延ばしが始まり、ぜんぜんライトじゃなくなってしまっているのである。
メディアミックスも、問題を大きくしている。小説は小資本で実験ができるジャンルであり、ここで成功したら、コミックやアニメといった、コストのかかるメディアに進出していくという考え方自体は間違っていないのだが、問題は、その元ネタが読み捨ての娯楽小説であるという点にある。読み捨ての娯楽小説の筈が、メディアミックス中は新作を発表し続ける事で相乗効果を期待することから、長大なサーガみたいになってしまって、全然ライトじゃなくなってしまう。おまけに、それだけの長編・大作になってしまうと、新規の読者はついてこれなくなる。惰性で買っていた古馴染みの読者がもういいやと買わなくなると、尻すぼみになって、売れ行きが落ちる事になる。しかも、業界トップを張っている有名作品の売れ行きが伸びず、平台に積まれたままとなると、他の本の売り上げにも響くのである。あのジャンルは全然売れていないのではないかと、新規の読者が入ってこなくなる。
相乗効果によって消費者からお金を絞り取るというのは、理解はできるが、モノには限度があるし、旬の時期を意識して切り替えていかないと、ライトノベル業界全体のイメージが翳ってしまうのである。
ハーレムで俺Tueeeというのが、ライトノベルの王道であるとされているが、これは、まさに男性向けハーレクインロマンスそのものの構造であり、異論は無い。しかし、それゆえに底が浅く、ハッピーエンドにするしかないのだから、パターンはあっというまに消費し尽くす。だから、文体や筆名を変えてという芸と量産の能力のある書き手でなければ通用しないコンセプトだった筈なのだが、作家性やら文芸のお作法やらで、そういった芸や能力ではなく、面白いのが書けるか否かという、私小説作家のような書き手しかいなくなってしまっているのであった。
私小説もどきのアマチュアライターと、僥倖で面白い作品が転がり込んでくるのを待つ編集では、先が無い。メディアミックスという資本の物量作戦を考える能力はあっても商品適性を判断できていないわけである。ジャンルそのものを企めるような編集者とまでは言わないが、せめて、コンセプトを理解して、それに適した売り方やタイミングといった判断能力ぐらいは、あって欲しいものである。
とある記事のはてなブックマークでその存在を知って、中身が知りたくなったのでミステリマガジンのバックナンバーを借りてきたよ。
そしてその内容が個人的にグッと来るものだったから、メモ代わりに後半部だけをここに書き出してみるよ。
九六年二月、私は、青山ベルコモンズのカフェで言葉を失っていた。狭いテーブルの上に広げられたのは、探偵ミロを主人公にした旧『柔らかな頬』第二稿。付箋が挟まれ、赤字が入っている。対しているのは、新担当編集者だった。彼は、「うまく直っていない」と告げて沈黙した。第一稿が上がった時点で、様々な注文を付けたのは彼だった。複雑過ぎるからもっと単純に、対立を明確に、タイトルを変えろ、等々。エンターテインメント小説の王道を説かれ、何とか努力して改稿した結果がこれなのだ。
私は、紅茶の染みが飛んだ原稿を書類袋に仕舞い、「わかりました。これは捨てます」と言った。彼は、私の反応に少し慌てたようだった。だが、私は周囲のざわめきすら、気にならないほど打ち沈んでいた。誰も見方がいない、これから一人でやるしかないのだ。その思いが頭の中をぐるぐると巡っていた。「これからどうしますか」と問われ、「別の小説を書きます」と意地で答えた。この時、『OUT』の構想が生まれた。行き場のない中年女たちの小説を書こう、と。行き場のない中年女とは、まさしく自分のことだった。
その年は、他の細かい原稿は一切書かず、『OUT』の書き下ろしに専念することにした。どのみち、デビューして間もない作家に、そう多くの注文は来ない。私は、原稿を捨てたトラウマを抱えつも、何とか『OUT』で勝負したい、と必死になっていた。その重圧に押し潰されそうだったし、『柔らかな頬』を捨てたことで、作家としての自信を失っていた。とりあえず、どん底にいる私が発見したのは、恐ろしく単純な事実だった。書くしか生きる方法がない、ということ。そして、それは恐ろしいほどの孤独を生きる、ということでもあった。
取材は多岐に及んだ。井の頭公園バラバラ殺人事件の取材をした記者、ルポライター、深夜の弁当工場、街金。取材対象のアポは、ルポライターを除いて、ほとんど私自身が行っていた。当時、私のような駆け出し作家には、出版社は金も時間も多くは割いてくれなかったのだ。しかし、自分で切り開いた取材先は、得るものも大きかった。結果としてはその方が良かったのである。私は一人で車に乗り、物語の現場と仮定した東村山市に度々出かけた。駅前で描写のための写真を撮り、見知らぬ公団住宅の広場を歩き回って、主婦の顔を見た。頭の中で、雅子や邦子たちが息づき、喋り、早く書いてくれ、と叫んで、今にも爆発しそうだった。
夏までにほとんどの取材を終えてプロットを作り、私は九月から書き始めた。千ニ、三百枚以上の長編になるはずだった。せいぜいが八百五十枚の経験しかない私には、初めての大作だ。ミロシリーズの一人称一視点をやめ、三人称多視点で物語の速度を速め、螺旋状に回すことを決める。十月に二百枚入稿。年末に五百枚。順調だったが、書いている間は他の作家の華やかな噂を耳にして、心が乱れた。一人でパソコンに向かう日々は、実に孤独だ。書くしかない、と思っても、小説の終結まで途轍もなく長い時間がかかるのだ。そのことを考えるとどうしても落ち込んだ。短編小説の注文もぽつぽつあったが、理由を話して断った。その頃の私は、仕事を断ること自体が冒険でもあったから、これでその出版社からは、二度と仕事は来ないだろうと覚悟した。
三月十七日の夜、最後の一行を書いた途端、涙が溢れた。やっと終わった、辛かった、と言葉にすると、また泣けてきた。しかし、ようやく脱稿した私に、厳しい現実が待っていた。初版部数は一万三千部だというのだ。内容に自信があったし、二年越しの仕事だったから、初版部数の少なさは衝撃だった。だが、これが現実だと思えば、やり遂げたという自信を胸に、次の仕事に賭けるしかない。それが作家だ。何とか自分を慰めた時、不思議なことが起きた。口コミで爆発的に売れ始めたのだ。『OUT』は作者の手を離れ、ひとりでに読者の元へ飛んで行ってしまった。
九七年の『このミス』で一位、翌九八年直木賞にノミネート。破竹の勢い、と自分でも満悦だったが、ここから『OUT』の不思議な運命が始まる。直木賞落選。次の吉川英治新人賞でも落選。ようやく推理作家協会賞で長編賞受賞。三度目の正直だった。賞にノミネートされる度に有望視された『OUT』は、その「反社会性」とやらで、メジャーの賞から弾き出されたのだ。そして、その不思議な運命のとどめは、今回のエドガー賞候補である。
『OUT』は、私という作家をブレイクさせてくれた作品だが、同時に、私をOUTな作家にしてくれたらしい。それは、決して王道を行けない奇妙な小説家としての道でもある。その始まりは、旧『柔らかな頬』を捨てた日の、打ち沈んだ気持ちにある。誰も味方はいない、一人でやるしかない、というあの思い。だが、孤独は作家を鍛える。再び、同じ思いをして自分を鍛えたい、と最近思うのである。
その1と一緒にしてもよかったんだけど
あまりにも個人的な内容だったんで一応分けた。
この作品は私の個人的なトラウマを
20年ぶりに解消してくれた作品としても私にとって特別なゲームです。
20年前のトラウマとは何かというと、ズバリ「大長編ドラえもん」のこと。
この作品、オープニングムービーが流れる直前で、
秋葉原からすべての人がいなくなるシーンが描写される。
私はこのシーン見たときに「のび太と鉄人兵団」の鏡面世界を思い出したのです。
<鉄人兵団>についてはこちら。
作品のあらましは省きますが、
この作品にいるリルルというキャラの結末が私にとってのトラウマだったわけです。
ご存じかとは思いますが、長編ドラえもんというのは子供が見る作品という制約のせいか
ほぼ間違いなく下記の3つのうちのどれかが発生します。(例外は「竜の騎士」など)
2「タイムパトロールなどの大人たちによって助けられる」ことにより
3現実に持ち帰れないものを残すことで、あれは一時の夢だったのだと悟らせる
さて「鉄人兵団」においては1のパターンで、犠牲になるのがリルルというキャラ。
彼女はロボットであり、自らの意思を持たず敵の首領の命令に従うだけだったはずが
のび太たちと交流を持つことで、自ら思考し、判断し、
最終的には自らの身を犠牲にしてのび太たちを救って消えていきます。
<詳細はこのあたりから>
http://cagami.net/dansyaku_blog/archive/000163.html
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Dice/6159/dd-7.html
この結末がすごい哀しくて記憶に残ってたのですが
シュタインズゲートにおいても、
特にクリスやもえかなどはリルルの影を強く感じたんですよね。
あるいはどこかで超ご都合主義が起きてうやむやになってしまうのか、と。
実際そういう展開になっていきました。
助かってほしいけど、あんまりご都合主義もいやだ。
特にもう社会人になっていることもあり、
個人だけ、身内だけの解決も望ましくない。
「世の中には限界がある」とか認めてうなだれるだけってのも物語を読む意味がない。
子供の頃なら受け入れざるをえないことかもしれない。
大人としては認めざるを得ないことかもしれない。
でも、何かないだろか。
この作品はその葛藤にひとつの答えを出してくれたように思います。
この問いの中に、非常に肯定的な意味として「中二病」が出てくるわけです。
この作品では「既知の悲劇の法則(カタルシスの原則)」を拒否する。
子供と大人の両方の絶望を十分に理解し、「未知」の中に希望を見出す。
全能感を妄想するのではない(オープニング時の主人公。これもわけありだけど)で終わるのではなく
力のない状態ではてしなく願望を抱く幼さと、
力はあるがルールに縛られて身動きが取れない老いとの間の中庸として
己の人生が無為に終わることも恐れずに、
大きなリスクと引き換えに絶対に不可能とおもわれていたことにでも可能性を開き「うる」。
それが自分にはなぜか可能だと信じること。
・・・自分で書いてても恥ずかしくなるけれど、そういった青臭い部分、
まさに中二病的な精神「のみ」をまるで黄金の精神であるかのように描く。
そして実際に、私の中のリルルを助け出すことに成功してしまった。
なんつーかぼかぁ感動しましたよ。
残ったものだけを見ればボーイミーツガールとしてはありきたりだったんだけれど
なんかすごく、いい。
この作品が「最高の厨二病作品」と言われるのもよくわかる。
子供じゃない、でも大人でもない。その真ん中にだって道はある。
その道を極めることによってのみ開かれる可能性がある。
僕の心のどっかが解放された気持ちです。
この「厨二病讃歌」と一緒にグレンラガンを見るととても楽しめそうだ。
最後に。
これはこの記事を書こうと思ってぐぐってみて初めて知ったんだけれど、
これは何というグッドタイミングだろう。何かの運命を感じるよ個人的に。
私はシュタインズゲートのおかげで、過去Verが提示した問題を自分の中で解決できた。
リメイク版は20年を経てどのように変化するのだろうか。
それを自分はどう受け止めるのだろうか。
やる夫長編だの、釣りスレだの、○○が▽▽するみたいだけど安価で行動決める、だの、
要するに読者参加型の創作活動だからなぁ。
作品を作る→評価される じゃなくて、
読者と一緒になって同人活動をしてるわけだから、基本的に外野からの批判はされないよね。
だって作者と一体化して作品の世界にのめりこんでるわけだから。
まっとうな小説なんかだと読者を作品の世界に持ち込むために技術がいるけど、
このやり方なら、そんな技術いらないし。上手いやり方だと思う。
自分でサイト作って同じ内容の文章書いても、誰も受け入れてくれないし読まないでしょ。
個人的な感情で言っちゃうと、釣りだの釣られただの喜んで釣られるだの釣りでよかっただの
こういう展開にしてくれだのこういうことが聞きたいだの、馴れ合い臭が強すぎて気持ち悪いし
いい加減にそういう駄作な創作活動は他所でやってくれって感じだが。
と言っても、本編は国内未上映なので、公式予告編を見ただけですが。そもそもこの手の過剰にエコを
主張した作品は好きじゃないので、わざわざ予告編も見ようとは思わなかったんですが、YouTubeで捕
鯨反対派の方たちと議論している過程でこのドキュメンタリーも話題に登ったので、ちょっと見てみよ
うかな、と。
予告編を見ただけでも、色々とツッコミどころはあったんですが、整理すると言いたいことは以下の2点
になるかな:
(1)普通は隠すもんでしょ?
(2)野蛮って何?
ということで、これらについて思うことをだらだらと書いてみます。
(1)普通は隠すもんでしょ?
予告編中でどっかのおっさんが
「They are hiding something.」
とか大見得きってます。
本編見ていないので、確かなことは言えないけど、おそらく「入り江(Cove」でのイルカの「虐殺」の
ことを隠していると言いたいのだと思う。
でも、隠すのは当たり前じゃないのかな?だって屠殺場なんだから。家畜の屠殺場だって普通はそんな
にオープンになっていないでしょうし。「虐殺だ!」と批判する人のうち、家畜の屠殺場に行ったこと
ある人はどれだけいるんでしょうか?予告編では趣味の悪いことに、おそらくイルカの屠殺シーンであ
ろう映像を街行く日本人に見せて、顔を背ける姿を撮り「日本人にも隠している!」とか主張している
場面もあるけど、多分、ウシやブタの屠殺シーン見せても同じ反応を示すと思います。
もちろん動物愛護団体からの抵抗も予想して、イルカ漁をする方たちも人目につかないような入り江に
誘導して殺しているんだろうけど、そもそもああいう形の入り江の方が追い込みし易いんじゃないのか?
という気もする。
命の恵みを理解する意味でも、屠殺するところは子供に是非見せるべきだと俺は思うけど、まあ、それは
また別の主張になるので置いておきます。
(2)野蛮って何?
このドキュメンタリーがアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞した際に、どこかのテレビアナウンサー
が「日本人の残酷さを 明白に描いている映画」とかコメントしていたけど、アホなのか?と思う。捕鯨問題
にしてもそうだけど、主に西洋人(白人)から構成される反捕鯨派の方たちはすぐにこの手の屠殺を指して
「野蛮(barbaric」だと指摘する。日本人的な感覚なのかもしれないけど、何かを殺して命を奪うということ
では、家畜の屠殺も捕鯨も、植物採取さえにも違いはないと思うんですがね。よく動物愛護団体は、家畜は人
道的な方法で屠殺されているから問題ない!とか言うけど、結局殺していることには変わりがないと思うのです
が。多分、殺される側の動物も口がきけたとしても
"Thanks, mate! I appreciate you are going to kill me in a humane way!"
とか言わないと思う。
そもそも、自分たちと違う考えやり方をすべて「野蛮」と決めつけるのって、いかにも西洋的(キリスト教的と
言うと語弊があるかも)だよな、と思う。結局彼らは十字軍の遠征や大航海時代に異教徒に対して行ってきたこと
を何にも反省していないんだろうな。自己中心的な世界観を元にそれに沿わない相手を野蛮とののしり否定し、
文明化という美名の下に西洋的な価値観を広めていった歴史に。捕鯨問題とか死刑廃止問題とか西洋的価値と日
本的価値の激突が生じている問題もその一部を構成するものは同根なんじゃないかな、と。
だいたい、他人を野蛮人扱いして、まともに話を聞いてもらおうという、その上から目線でいられる神経が理解
できないよな、と直情径行的な反発を覚えるのも事実です。
YouTubeのコメント欄でも感じたけど、もう少し冷静な議論が出来ないものかな?と思う。お互い様に。まあ、か
くいう自分も、ちょっと腹が立ったので相手をracist呼ばわりしたら、案の定、お前こそracistだ!という不毛
な批判の応酬になったことがある。結局、この手の問題は感情論になりやすいので、論理的な討論なんて出来ない
おそらく日本で公開しても見に行くことはまずないと思うけど、このドキュメンタリーのせいで、メディアリテラ
シーのない一部の日本人が感化されて、太地町の人とかが不当に非難されないことだけを祈っています。特に予告
編でも顔が写っていた啖呵切っていた人なんか、おそらくひどい目にあうんじゃないかな、と思う。あれって肖像
権の問題はどうなっているんだろうか・・・
http://anond.hatelabo.jp/20091121034715
「他人に称賛される」なんてのは、「良い作品が出来た」ことに対する結果に過ぎない。まずは元増田自身が納得できるような「良い作品」を作ることが大事だ。その点、元増田は間違ってはいない。問題は「音楽やってたらかっこいい」とか「小説書けるって、なんかエラソーじゃね」とか「絵がうまいとネットで人気もんだな」とか、創作したい理由がすべて「外から」来てることだと思う。
まずは頭を真っ白にしよう。そして、自分の部屋を見回してみ。どんな音楽がかかってる? どんな小説が積み上げられてる? どんな絵が飾ってある?
もし、いや、自分の部屋には何もないけど、他人は「音楽」とか「小説」とか「絵」とか称賛するんだろ? なんて考えてるんなら、それらの道には進んではならない。行けども行けども結果の出ない茨の道だ。なぜなら、事自体に元増田は興味を持ってないから。
自室に何かあるのなら、音楽ならコピーして、小説なら書き写し、絵ならトレースしてみることだ。そこから元増田自身の「好きなこと」が見えてくるから、何度もやっているうちに、どんな技術が使われてるか自然と吸収出来るだろう。そしたら、音楽なら30秒程度、小説なら原稿用紙5枚、絵ならA6一枚から、毎日少しずつ作っていくことだ。
原稿用紙5枚をまとめられないで、長編なんて無理だから。5枚をまとめられるようになったら、10枚。次は30枚。次は50枚。50枚が破綻なくまとめられるようになったら、連作で6編書いてみ。50×6で300枚。ほら、長編書けるようになってるだろ?
そこまで何年かかるかわからないが、何をすればいいのかわからない状態より、たたき台になる原案があったほうがいいだろうと思ったから提示した。
まず「これを書きたい」って気持ちがあれば、何か創れると思うよ。
20091121追記
何度記事を読み直しても気になるんだけど「小説を書くこと『を』挫折した」って日本語変じゃね?
「小説を書くこと『に』挫折した」んじゃね?
結局のところ長編を一つも完成させたことがないというのが、元増田の問題点なのではないか。
これはプログラム開発とかにも言えることだが、とにかくまとまったプロトタイプを作ってみることが重要だ。
それを公開してみて人に読んでもらい、破綻をきたしている部分は修正する。これの繰り返し。
不完全なものを人に見せる度胸がないのなら、そもそも小説家とか物を作る仕事は諦めた方が良い。
最初から完成品を出せると思うのが間違い。
むしろ現状が不完全であることを認め、完成品により近づけるように継続して改善し続けることが最も難しく、しかし確実な結果を出す唯一の方法なんだ。
色々と自分が嫌になったので、やけくそになって増田で思考を垂れ流すことにした。
小説を書くことを挫折した。
前々からそうなる傾向には気付いていた。書くことを全く楽しんでいなかったのだ。やれプロットの辻褄だの、やれ目を引くテーマだの、そういうことばかりを考えていて、シーンやキャラクターを生み出す楽しさを全く感じていなかった。
短編は何作かつまらないものを完成させられた。
しかし、長編は結局一作も完成させられなかった。次々に浮かんだ素晴らしき長編のアイディアは、執筆に入った途端思いついた当初の美しさが嘘のように無くなり、小説として書いていくにつれただの醜い駄文の山になった。矛盾満載、キャラが不自然、文章の流れがド下手、何よりつまらない。その時点で、もう嫌になった。
俺はそれを、「このジャンルは向いていなかったんだ」と現実逃避することにより自分を納得させ、諦める度に別のジャンルへ転向した。推理小説、SF、風刺小説、メタフィクション、現代物、官能小説、ライトノベル。少しでも興味のあるジャンルなら、あれこれと挑戦した。だけど、全部駄目。結局完成させられなかった。
最後の頼みだった自分の半生を元にした恋愛小説。それも駄目だった。書く途中で破綻している部分が何箇所も見つかり、もうそれで嫌になった。これなら書けそうと思っていたモノすら書けなかった。最後の頼みの綱だったが、書けなかった。
思えば、俺は何がしたいのだろう。何か、作ることに憧れている。
高校生の頃、ある作家に憧れ作品を作り出そうと思ったのは良いが、結局は駄目だった。色んな小説を読んで勉強をしたは良いが、全力を出し切れた、書き終わっただけで満足だと思った作品は、一つもない。
書いていて楽しくない。面白さの定義を考えている内に、何が面白いのかすらわからなくなった。従って、進むべき道筋が見えず、どういう努力をすれば良いのか分からない。分からない。何も分からない。楽しくない。自分の妄想を、ことごとく作り出せない。書き終わったとして、あまり達成感がない。自信がない。
そもそも、俺は本当に小説が好きなのか。好きじゃないから、面白さの定義すらわからないのではないか。
今分かった。俺は、ただ承認欲求が強いだけなのだ。褒められたい、ちやほやされたい、そういった類の欲望だけで創作を志し、更に言えば創作を続ける根本の理由もそれだけだから、自分の作品の不完全さに絶望し、最後まで書き上げることができない。これではとても絶賛されないからと、途中で諦めてしまう。
それでいて、小説をやめて今度は絵の道に進もうかと無意識に逃避しているのだから馬鹿馬鹿しい。絵なら小説よりも作り終えた作品の自己評価がもっと客観的にやりやすく、だから成長していくうちに自信を付けていけられるのではないかとか、絵なら小説と違ってネットの世界で受け入れられやすいのではないかとか、そういう甘えた考えばかりが頭を占めている。
デジャブだ。思い起こせば、俺は小説の世界にも作曲から半ば逃避して入ってきた。音楽理論ばかりに振り回され、作る楽しみを見いだせなくなり、挙げ句物語の世界でなら楽しんでやれるんじゃないかと甘えて、小説を書き始めた。でも、結局は駄目だった。恐らく、絵の道に入っても同じことを繰り返すのだろう。
それでも、何かの作品を作って賞賛されて、認められたいという欲望は、今現在全く枯れそうにない。
俺はこれからどうすれば良いのだろう。
二時間近く経っていた。 吐きそう。 きもちわるい。 内臓が重い。
思わずひきこもっていた部屋を出て、好きな音楽を聴いたりして、
くだらないテレビでわらいながら両親とどうでもいい話をしたり、
重圧しか感じないし、まだ不安は消えない
けど、これはこれでいい傾向なはずなんだ。そう言えよ誰か。
高校の時メンヘラってた頃から筆をとりはじめて、一二年狂ったように小説を書きまくった。
短編を一週間にひとつは書いた。三百枚だか四百枚の長編を書き上げた。
自分の肉を削っては丸めて、自分の血を吐いては塗り固めて、そうして無様に書き続けた。
幼稚で稚拙だったけれど、身内はこぞって賞賛してくれたし、涙を流したひとさえいた。
祈りながら書いた。海辺で砂のお城を建てるような、緻密な指先で。その城で暮らせるあの子を思い浮かべて。海抜数十メートルからの景色をまぶたの向こうに見やりながら。
オリジナルの文芸理論を組み上げて、誰でも小説が書けるシステムを構築した。 科学的に考証した設計図は、何よりもの安定剤となった。
これさえあれば、人の心をつかめる。だれかの心の中にいられる。 この城はじょうぶできれいだから、みんな安心して暮らせる。 みんなよろこんでくれる。
そう思い込んだ。 価値創造だと言いくるめた。 自分の身長ほどもない砂の城にしがみついた。 ひとりぼっち夕暮れの海。
つもりだった。 図に乗った。 しがみついたら、くずれ落ちた。 日は落ちていた。 なぜか震えている僕。 かじかんでキーボードがうてない。
受験勉強に追いつ追われつしてうまく合格してそれから半年以上経って、いま僕はなにも書けていない。
無い能力が枯渇したら自分の存在意義さえ否定されそうで……っていうのは、うそだ。
でも書くべきだし、書きたい。何より、自分の書いたものを僕自身が読みたい。超読みたい。
だからこうして、また苦しみはじめた。砂浜に、引き戻した。11月8日。つめたい指を 必死で もみほぐす。
音楽でも絵画でも、創作せざるを得ない人間が生み出した作品は 圧倒的 だ。
程度の差こそあれ方法論なんかより“作者を潰しかねないほどの必然”こそが傑作を生むのだ。
卑近な例で申し訳ないけれど、僕だって安定剤におんぶにだっこだった頃が一番活動的だった。
だから、 つまり、
こうして気分が悪くなってることは からだ が創作意欲に燃えはじめたって解釈していいはずだ。
他人を困らせたり迷惑を掛けたりしなければいい。それは十分学習した。なんなら体罰も再履修する。
そこさえ注意すれば、そろそろすごいものが作れるはず。 シンデレラ城だって夢じゃないのさ。
言い聞かせる。火を灯すように、指先をもむ。
ていうかそれを信じなきゃやってらんねえんだってば。
トムヨークは『病気と芸術を結びつけるのはアホだ』みたいなこと言ったしそれはそうだけど。
そういうのじゃなくて、一応 生みの苦しみ ←これでいいだろ?
彼女から連絡が薄くなったのとか友達がいろいろ勤しんで離れていくこととか他人への信じられなさとか臆病とか自己嫌悪とか駅のホームでなんとなく身を投げたくなることとかメールの来ない携帯電話をベッドにたたきつけたこととか正しさとか愛とか自分の中の暴力性とか卑怯さとかこんなやり場のない自己陶酔とか腐臭漂うナルシシズムとか癒しなのか慰めなのかわからない日々のオナニーとか不感症とか人格障害とか甘えとか足りない皮膚感覚とか愛とか = 生みの苦しみ
いいって言えよ誰か。誰か!
こんなものを書いてるエネルギーをどっかにちゃんと使用してればいいのに。
疲れていて、でも身の回りの人は心配させたくないから増田にこう書いて自分を癒す (汚いもの見せてごめんなさい)。
よかったら、今までの文章なんかぜんぶ無視して誰か僕に「おつかれさま!」と言ってください。みなさん迷惑かけてごめんなさい
色々、本を読んだり、試したりしているが、難しい。
今までやってきた方法論と考え方をある程度、整理するために、自分の考えを書きながらまとめていこうと思う。
議論はしたくないが(ハイ、チキンです)、ご意見をいただけると嬉しい。
正直、純文学は俺自身よく分かっていないので、エンタメ小説の話という事を前提に読んでいただければ、と思う。
まず、物語のパターンに対する有名な言説として、『村上龍の「穴に落ちた主人公が、穴から這い上がる」「 穴に落ちた主人公が、穴の中で野たれ死ぬ」の2つしかない』というのがある。おそらく、これはエンタメ小説の基本形だと思う。「そもそも穴はどうしてできたのか?」「主人公は本当に穴の中にいるのか?」「そもそも主人公はなぜ主人公なのか?」のようなことを延々と逡巡するのが純文学かも知れない(純文学は読まないので、間違っていたらごめんなさい)。純文学は、(面白い/鋭い/ビビットな/より本質的な)問題提起自体が重要であって、それを読者に考えさせることが主題である……様な気がする。ただ、純文学の作者にせよ、物語の基本を踏まえたうえで、あえて外すからサマになるのであろう、とは思うが。
話を元に戻すと、エンタメ小説の基本を俺なりにさらに単純化させると、「主人公が問題を解決するか/しないか」であると思う(以前、増田の「5分で物語を作れるにようになるコツ(p://anond.hatelabo.jp/20091002081424)」が話題になっていたが、この増田の考え方はそれほど間違っていないと思う)。ただし、エンタメ小説は、エンターテイメントである以上、読者を楽しませなければいけない。問題が解決するにせよ、しないにせよ、きちんと納得の行くオチにすべきであろう。そうしないと、読者は満足感を得られないだろうし、満足度が低い店に行かなくなるように、ファンもまた離れていくと思う。
もちろん、将来のファン離れを心配する前に、やる事があるのではないのか?というのはごもっともな意見だと思うが、やはり、自分でも読んでいて面白い物語を書きたいし、途中まで書いていて、自分でも面白くないなあ、と思った事がたびたびあるのでその辺を考えていきたい。
では、面白さとは何か、という話になる訳だが、「主人公が問題を解決するか/しないか」に絞って下に挙げてみよう。
(1)基本的に、読者は「主人公が問題を解決するか/しないか」分からないから、ハラハラドキドキする。サスペンス性(→suspense 不安感。特に、映画や小説などで、観客や読者が危機的な場面にはらはらする感情)。あるいは、大抵のエンタメ小説の場合、「主人公が問題を解決してしまう(読者も基本的には楽しむために読むので、ハッピーエンドも望んでいるはず)」ので、どのように解決するのかという点が重要。
(2)問題設定の面白さ(舞台設定/キャラクター設定/問題の大きさと主人公の能力のバランスなど)。”奇(変わっている事)”であり、”妙(巧妙さ。全体のバランスも含めた緻密な設定)”なほど、評価が高いのではないか?ジャンルがSFやミステリの場合、いかに凝った問題設定と解法を用意するかがキモになると思われる。ただし、あまりにもぶっ飛びすぎていると、読者が感情移入できなくなる問題も発生するような。
(3)間口の広い感情移入の仕組み。感情移入できない主人公の小説というのは、エンタメ小説の”てい”をなしていないのではないだろうか。主人公に感情移入出来なければ、他人事と捉えられてしまい、熱中して読んでもらえなくなる。想定している読者になんらかの”共感”を持たせるような主人公を用意すべきではないだろうか?(例えば、何らかのコンプレックスを持たせる)
(4)展開のドラマチック性。(1)の”サスペンス性”にもつながってくる話だが、「読者が想定している期待度を超えるという意味で、予想を裏切る」展開が重要になるのではないか。展開が二転三転して、劇的な勝利(問題解決)をするというのが理想かも知れない。もちろん、より読者にドラマにのめり込んでもらうためには、(3)の”間口の広い感情移入の仕組み”が必要でないかと思われる。
つまり、教養小説(ビルドゥングスロマン)的側面。通過儀礼(イニシエーション)としての小説。これこれこういう理由で、彼は”強く””大人に”なったのさ、というお話としてのエンタメ小説。
また、面白さとは何か、を追求していくと、以下のような視点も考えられはしないだろうか?
(1)読者の想像力を喚起させる事
例えば、文章レベルで言えば、情景が浮かんでくること。読者に、痛み/恥ずかしさ/快感などの感覚を想起させ、リアリティを持って受け止めさせ、疑似体験させる事。”体験的なもの”として、読者に受け取ってもらえるか。文脈レベルで言えば、展開の読めない”不安”感、手に汗を握る”緊張”感、問題解決による”達成”感などを過去の展開の蓄積により実現しているか?
(2)読者の欲望を刺激する事
例えば、女の子の描画。ポルノでも萌えでも女の子のかわいらしさをどういう風に表現し、読者の想像力を喚起させるか。あるいは、食べ物の描画。うまそうな食べ物をうまそうに(文章で)描画できるか。カッコイ戦闘機をどう格好良く(文章で)描画できるか。外には、ファッションなど。粋なファッションを粋に表現できるか。読者が関心がある事柄に対して、いかに”幻想”を抱かせ、”欲望”を感じさせるか、という点。
(3)教養としての側面
さりげなく、”うんちく”を混ぜる。例えば、中世ファンタジー物だったら、朝食は貴族しか取れなかった事を説明しながら、朝食を要求する元貴族の商人の心理を読者に想像させるなど(ライトノベル「狼と香辛料」にそんなネタがあったはず)。個人的には、少々苦手。資料用に読んだ本で気に入った設定はメモっておくなどしているのだろうか?
(4)虚構と現実の境界性
例えば、伝奇ものの面白さ。現実の実在の人物(や場所?)がファンタジーで出てくるというハイブリット感。あるいは、2chのどこまでネタか分からない感というか。
(5)比喩表現の面白さ
暗喩と直喩。村上春樹は独特の比喩表現で有名になった訳だが。(1)の”読者の想像力を喚起させる事”や(2)の”読者の欲望を刺激する事”に密接に関わってくる。例えば、「彼女の組んだ腕の上には双丘が気持ちよさそうに並んでいる」の様な表現などはどうだろうか。
(6)気の利いた会話
最近流行りの会話劇だが、コントや漫才、ネット上のやりとりなど、トレンドの文脈をある程度押さえつつも(気に入ったネタはストックしておくべきか)、表面だけの真似に留まらないために、自分の言葉による体験的要素も問われるのではないか。
(7)説得力のある説教
ガンダムの富野氏の説教くらいに説得力がありつつ、面白い説教するためには、独自の価値観を持っている必要がある。大抵の人は人生経験を積めば、それなりの一言を持っているはず。一人の人間としての成熟性が問われる、のかも知れない。
(8)笑いの要素
ギャグ/ユーモア/パロディ/言葉遊びなど。個人的に苦手な要素である。自分の場合は、どうも野暮ったくなってしまう。センスや基礎教養が問われるからかも知れない。とにかく面白いと思う話を大量に読み、小話を書いたりして、自分にあったやり方を発見するしかないのではないか。自分の場合は、実にどうでも良い事を真剣に議論していく話がウケが良いようだ。
(9)恐怖の要素
笑いと恐怖は近いものがある、と言われている。(8)の”笑いの要素”がうまく書ける人は、恐怖もうまく書けるのではないか。これも個人的には苦手な要素だ。ホラー映画も苦手だし。単に読者のトラウマを刺激しても、嫌われるだけだろうし……。ただ、最近のトレンドにはこの要素が絡んでくる作品も多いのではないか。また、サスペンス性を上げるという面でも重要な要素であろう(ジェットコースターのようなスリルと快感の関係というか)。それから、演出技法としては(1)の”読者の想像力を喚起させる事”と関連性が高いと思う。スティーブン・キングなどを読んで勉強すべきかも。
(10)恋愛的な要素
いわゆる一つの萌え要素、と言う訳でもないが(ほら、スベった)、自分の中にある理想のヒロイン像を具現化して駆け引きを思考実験するという意味では、裸になって踊るようなものだと思う。慣れれば快感になるのかも知れない。ただ、個人的には最近、食傷気味。
(11)バイオレンス
闘争本能を刺激する要素。”読者の想像力を喚起”させ、重みのあるリアリティとして受け取ってもらえないと、単なる茶番になるような気がする。
……ひたすら要素を羅列してきたが、要するに、”読者の感情や価値観を揺さぶる”という点が重要なのかも知れない、と思った。
(文字による心理操作によって衝撃を与える、という意味では、詐欺師に近いものがあるというか。嘘をつくのがうまい人間がお話を作るのが上手、というのも頷ける。本来、エンターテイナーというのはそういうものなのかも知れないが。ヤクザな業界というか。現在最強の任天堂さえ。というか、任天堂こそが勝つべくして勝っている”名博打打ち”なのではないか。そもそも、経営という概念自体が(ry)
あと、話題になっている、うまい=面白いでない、という件について。
テクニックは描いた量に比例する(作品の)魅力は考えた量に比例する
物語の中だるみについて。
途中からなんだか間延びしている、なんだか乗れない、と感じたとき、物語の推進力が低下している。
主人公を追い込んだり、障害を増幅したりして、推進力を高める必要がある。すなわち障害やクリア条件を上げていくのである。
主人公は最後のゴールに簡単に到達してはいけない。ハードルが最初よりも下がってはいけない。敵が最初よりも弱くなってはいけない。
考えてみれば、続刊の出ない、あの小説やあの小説も、すでに、主人公を危機に陥れる「強い敵(難しい問題)」が取り除かれてしまったのではないか。あとは、シミュレーションゲームの終盤局面のように力押しで何とかなる状態というか。主人公がリアルに死ぬ/臨死体験するくらいの危機が常にある状態で、最後の最後で、”おおかた”の問題が片付くのが理想かも知れない。
文章力の磨き方。
基本かも知れないが、自分の好きな作家の文章を写す(タイプする)。良さが理解できない作家の文章を写しても多分、意味は無いと思う。文章を写すだけのヒマがない場合は、ラインを引きながら読むだけでも違うような気がした。逆に思ったのだが、好きな作家の文章をラインを引きながら読んでいると、作者の認識力の限界を見切る事がたまにある(例えば、そもそもの問題設定の矛盾とか、作者のルーツ(根源)はどこにあるとか)。その辺が大切なのではないか。また、好きな作家は最低二回読むべきかも知れない。
(Webより引用)
正しく見るためには二度見よ。
美しく見るためには一度しか見るな。
実は、優れたツリーの裏側に何十枚もの「デッサン」がある。
例えば医者コントってテーマを決めたら、オーソドックスな医者コントを、だーっと全部考える。
それだけでも充分おもしろいっていうネタにしておきつつ、更に松本がやった作業って言うのは、 部分部分で、どれだけ予想できる笑いを裏切るかって作業。確かにこれでもおもしろいけど、ここはこうやったらもっとおもしろい、こうやったらもっと裏切ってる…そういうのを延々繰り返していって、どれが一番ベストな裏切りかなぁってことを積み上げて、ネタを磨き上げていくんだって。
例えば、小説の創作手法にシミュレーション的手法を取り入れるということなのかも知れない。つまり、何回も思考実験を繰り返して、ドラマチックな展開のものだけを商品化する、という考え方。確かに、小説は元々、思考実験的な物を含んでいると思う。
その他。
「最初からフルスクラッチすると、効率が悪すぎる(1から作るのは大変であり、ベーマガのプログラムを改造しながらプログラミングを覚えていったように、まず改造する)」「問題を小さく切り刻む」「リファクタリング」的な要素を考えると、二次創作のSSをとにかく大量に書き、慣れてきたら、規模を増大させていく、徐々に設定も作り込んでいく、の様な方向になるのではないか。
まだよく分かっていない事。
あかほりさとるの新書に、「見たいシーンを書け」と書いてあったが、全く別のWeb上の指摘で、「最近のドラマは、脚本家が見たいシーンだけ繋げていった感じで、物語的な山場や整合性が軽視されているのではないか?」のようなものがあった。その辺の解決法。
文章の勉強以外であまり再読をした事がないので、よく分からない。
何かを創り出そうというタイプの人間には多かれ少なかれ、精神的な「欠損」があります。
その欠損を埋めようとするところから、何かをクリエイトしたいという欲望や欲求が生まれてくることが多いのです。
もちろんそれだけじゃないけど、そういうケースはしばしば見受けられます。
問題はその欠損をどこまで「普遍的なもの」にまで高めていけるかということだと思うんです。
中にはその欠損の欠損性にいつまでも拘泥しているという人もいます。
それでは本当の芸術にはなりませんよね。そのためには、人はもっと広く世界を見なくてはなりません。
人生は長期戦ですから、ゆっくりとしっかり息をしながら、前に進んでいってください。
まとまらないけど、以上。
補足。
(1)確かに、とりあえず、稚拙でも一作書き上げるという考えもありかも知れない。試してみるか……。
(2)色々本の紹介、ありがとうございます。
(3)Webからの引用元を書かないのに、他意はありません。面白いと思った文章は個人的にスクラップしているのですが(ローカルのメモ帳にコピペするだけ、のようなもの)、URLまでは保存していませんでした。申し訳ないです。
(4)確かに、あるパターンの繰り返しや場面転換の組み合わせというのは、あまり考えた事がなかったですね。なるほど。……少し見通しが立った感じです。ミクロレベルとマクロレベルの視点を重視しすぎて、中規模レベルのパターン認識がうまくいっていなかったようです。皆さん、ご意見ありがとうございました。(さらに追記すると、これは上に書いたあかほりさとるの新書の話にも繋がってきますね。それなりに問題意識を持っていたけれど、もう一押し足りませんでしたね>自分)
天国に涙はいらない 全巻
吸血鬼のおしごと 全巻
リバーズエンド 全巻
ポストガール 全巻
LAST KISS 全巻
ラグナロク 全巻
キノの旅 全巻
しにがみのバラッド 全巻
フルメタル・パニック! 全巻
くらいだったと思う
賀東招二と新城カズマ、二人のライトノベル作家が、「ストーリーはいらなくなるのではないか」ということをおっしゃったわけですが。
・実用書『物語工学論』でカットされた賀東×新城特別対談の中盤盛り上がり、どーんと一挙無料公開! - 散歩男爵 Baron de Flaneur (Art Plod版) http://d.hatena.ne.jp/sinjowkazma/20090905/1252143285
・賀「最近のアニメとか受けてるものととか売れてるものとか見てて、否定する訳じゃないんですけど、もうそれが受けてるんだったら、ストーリーとかいらないじゃんて。俺らが頑張る必要があんまりないというか。かわいい女の子が出てきて、よく動いてればいいんだったら出る幕ないなあ、というか」
・賀「実はストーリーって必要ない?」
・新「うん、あんまり必要じゃないのかもしれない。少なくとも、いわゆる古典的な構造というやつは」
・賀「今そこでかなり悩んでまして……」
・新「もちろん、それを必要とする人はいるんだけど、本質的に必要か?というと」
・賀「そうじゃないかもしれない」
なんのことはない、杉良太郎とか、野口五郎とか、草刈正雄とかのミーハーファンとおんなじ酔い方なのよ。そう、ミーハーなのよ。
ここ数年、そういうファンが劇場アニメの半分以上を占めているといえるね。そういうファン向きに、観客動員を計算してつくるとね、一般にアニメといわれているものの内容とは、ちょっとちがってくるわけだ。べつに動かなくってもいいんですよ。“口パク”といって、ただ人物が立っていて、口をパクパクさせているだけの動きでも、かっこよく美形で、声優がごひいきのタレントだと、「ムフフ、キャーッ」なんですよ。こういうお客を相手に、当分はアニメの企画をたてなきゃならんとなると、こりゃあ困るねえ。
もちろん、それ以外のアニメもありますよ……(引用者略)……そういうのに、ミーハーのドマニア達を呼びよせる方法はないものかねえ、ないだろうねえ、まず相手になんかしないだろうね。
似たような内容ですよね。自分が力を入れてやってきたことはもう流行らないんじゃないか、みたいな。
・賀東・新城「がんばってストーリーテリングをしても無駄。かわいい女の子が動いてればそれでウケるんだから」
・手塚「がんばってアニメを動かしても無駄。美形のキャラに人気声優が声をあてていればそれでウケるんだから」
作家がキャリアを積むとこういう不満がたまってくるのでしょう。
※ ※ ※
で、ハルヒなんですが。
・賀「ストーリーは必要なくなる。最近の系統ですよね。おなじみのキャラクターが出てきて、なんか話してるシーンがあるだけで。別に何か起きなくたってかまいやしないんですよ」
・新「最近のラノベの中興の祖みたいに言われてるブギーポップやキノって、実はむしろ昔ながらのタイプの小説なんだよね。ストーリーテリングの比重がでかくて。ハルヒや生徒会や、らきすた、けいおん!みたいな流れとは、間に分水嶺があるんじゃないかな。ハルヒも、1巻と2巻の間に分水嶺がある。1巻て実に古典的でよくできてる小説なんですよ。我々が言うところのストーリテリング」
私も、2巻を読んでこの小説はストーリーテリングを放棄したなと思いました。具体的には2巻冒頭の、キョンが真相を明かしてもハルヒは信じなかった、というシーンで。
そのため2巻以降はストーリーがまったく進んでいません。様々なエピソードを積み重ねてはいますが、どのエピソードも最後には1巻で提示された初期設定に戻るようになっています。
あとはもう、初期設定をイジってどれだけ面白いエピソードをひねり出せるか、ということでしかないわけです。
したがって、ハルヒ小説にストーリーが無いというのは同意するところなのですが、それが新しい潮流か、といわれると、違うのではないかと思います。
ストーリーが無い作品というは、マンガでは昔からあるおなじみのものです。「サザエさん」「ドラえもん」「うる星やつら」「忍たま乱太郎」などなど。(また、小説でも「フルメタル・パニック!」や「スレイヤーズ」の短編って、そういうものだったんじゃないでしょうか。「スレイヤーズ」は、長編が終わっても短編は終わらず、長編よりも短編の方が多い状態です。)(それと、テレビドラマなら「水戸黄門」があります。)
ストーリーが無い作品は昔からあるわけですし、また人気を博した作品も少なからずあるわけです。一部のストーリーが不要な作品が目に付いたからといって、ストーリーが“本質的に”不要であると考えるのは早計でありましょう。
ハルヒが本格的にブレイクしたきっかけは2006年のアニメですが、ハルヒアニメはTV放送時には時系列シャッフルをしており、小説1巻『涼宮ハルヒの憂鬱』の最後がアニメの最終回になるようになっていました。
“古典的”で“ストーリテリング”がなされている長編が、TVアニメシリーズの軸になっていたのです。(長編の間に短編が挿入されるという構成は、富士見ファンタジア文庫の長編と短編の同時展開を彷彿とさせます。)
時系列シャッフルにより、視聴者は時系列順にみていくよりも謎が多いように感じました。アニメは原作よりも歯ごたえのあるストーリーを展開をしていた、といえるでしょう。
ハルヒシリーズがブレイクしたきっかけはアニメであり、そのアニメは原作のストーリーを最大限に活かすような構成になっていたのですから、ハルヒシリーズにストーリー要素は不要であると考えるのも早計でありましょう。
それと、結局のところ、ハルヒ小説にもストーリーが必要だったのではないかと思います。
「あのね、キョン。この団を設立してそろそろ二周年目なのよ。期限は迫ってんの。一年活動やってて結果ゼロじゃあ示しがつかないでしょ?」(『涼宮ハルヒの分裂』 第一章 p.118)
とのたまうハメになったわけですからね。成果ゼロですよ。ゼロ。
ハルヒが高校1年生のときに事態はなにひとつ進展しなかったわけですから、そのまま2年生になっても、なんにも進展しないでしょう。進展させようと思ったら、やはり“ストーリーテリング”をするしかない、“古典的”なことをやるしかない。
今からでもストーリーを進めることは可能ですが、小説2巻以降ずっとやってこなかったのを今更やりだしたって大惨事になるでしょう。
もともとハルヒ小説はストーリーがあきらめきれてないところがありました。回を重ねるごとに謎が増えたりしていますから。作中で時間が進んでいるので、今後の展開で謎が明かされていくといった進展があるのだろうと期待させてはいるのですが、実のところストーリーは進んで無いのですから、どうにもならないでしょう。謎をいつまでもひっぱってグダグダになるか、あっけなく解明されて肩透かしを食うことになるか、のどちらかになる可能性が高い。過去にもそうやって破綻していった作品があります。
ストーリーが無い作品は、ふつう、時間の流れを止めることにより破綻を回避するものです。さきほど挙げた作品、「サザエさん」「ドラえもん」「うる星やつら」「忍たま乱太郎」では、キャラクターが進級することはありませんよね。しかしハルヒは進級してしまった。進級したせいでハルヒ小説は、破綻するかストーリーを進めるかのどちらかを選択しなければならなくなったといえるでしょう。どちらも困難な道です。
ハルヒ小説は『涼宮ハルヒの分裂』以降、刊行がストップしています。どういう理由があるのかは知りませんが、行き詰まっちゃったんじゃないかなあと私は思っています。
※ ※ ※
ちなみに、「けいおん!」についてはストーリーがあると思います。メンバーが出会ってバンド結成して練習してライブして、という時間の流れがちゃんとあるわけですし。学年が進んで後輩が入部してきたりしています。SOS団の団員がまったく増えてないハルヒシリーズと違って進展していますよ、これ。
「ストーリー4コマ」という言葉もありますしね。もともとストーリーの存在しない4コマ漫画にストーリーを求める人がいたのでそいういうジャンルが生まれたのでしょう。
本当にストーリーが不要だったら、「ストーリー4コマ」なんてものは存在しないでしょう。
※ ※ ※
作品にストーリーがあっても、それが無視されてキャラクターだけが消費されていくのならば、やっぱりストーリーは不要なのかもしれませんが、ストーリーが無視されているという証拠はまだ出揃っていません。
まあ、その、ぶっちゃけ、賀東・新城のお二方には「受けてるものとか売れてるもの」のストーリーが見えてないだけなのでは? と思わないでもないです。
本当は作品にストーリーはあるし消費者も必要としているのだけれど、それが感じられないために、ストーリーが必要ないことを“発見”してしまったのではないかな、と。