はてなキーワード: 第三者的とは
このエントリは多分世間一般に言う腐女子にしか関係ないもので、第三者的には関係ない話です。
腐女子じゃない人による腐女子叩きは本筋と関係ないのでご遠慮くださいね。
「腐女子」という呼称を嫌ってる人がいる、というのは知ってる。
LGBTQへの理解が急速に進みつつある昨今、「同性愛の物語を好む人を腐ってるというのは自称も他称もやめませんか」という言説があるのは腐女子の端くれとして把握している。
事実同性愛は腐ったものではない。2020年代を生きる者としてその認識に異論はない。
だから「腐女子(腐男子)」というのをやめないか、とその言葉そのものの使用を縮小させたがる傾向にある。
が、待って欲しい。
ざっとネットで検索したところ、少なくとも2015年にも同じ議題を投稿している掲示板を見つけた。だが結局6年経った今、その掲示板に挙げられている呼称は浸透していない。
「BL好き」とか「BLを好む人」でいいのではという意見もあると思うけど、結局それは代替"単語"ではない。
今どき海外のドラマに腐女子が出てくることも珍しくない。日本語字幕の文字数には1秒3文字という制限がある。その限られた中で「BLを好む人」として「腐女子」と書けば今の日本人のほとんどがその意味を理解できるだろう。代替単語としてはそのくらい短くて、かつ浸透しやすいものじゃないと腐女子並の市民権は得られない。
方法としてはドラマだの漫画だのバズるメディアが代替単語を使い始めるのが手っ取り早いとは思うけど、ここまで確立されてる単語を塗り替えるのはこのネット社会では簡単なことではないと思う。そもそも「腐女子」という単語の歴史も結構長いでしょ。そんな簡単に塗り替わるわけがない。
「Shipperはどうか」という意見がある。実際私のいる海外BL界隈では「最近ドラマでBLにハマったんだろうな~」って人がShipperと使っている印象がある。
が、待って欲しい。
海外のスラングとしての「Ship」は「カプ」という訳が概ね正しいと認識している。つまり男女の指定がない単語だ。
My shipと検索すると男男、男女、女女のめいめいの推しカプが出てくる。
つまりカプを指定していないShipperの正しい訳としては「カプオタ・カプ厨」が正しいのであってBLだけを指す「腐女子」とはニュアンスが異なる。代替単語にはなっていないのだ。
このことを理解しないまま「私Shipper(BLだけ好き、HLやGLは嫌い)なんですよ~」「私もShipper(HLが好き、BLやGLは嫌い)なんですよ~」なんて会話を想像してみて欲しい。事故である。完全に事故である。
もう既に男女指定なく使われている単語を腐女子(BLを好む人)が横からかっさらってBL専用単語に仕立て上げるなら、それは色々と腐ってる行為ではないだろうか。じゃあもう腐女子でいいでしょ腐ってるんだから。
理想としては腐女子だの百合豚だの、同性愛の物語を好む人の呼称なんざ撤廃してHLと同じように特に何も単語がないニュートラルな趣味として扱われるのが理想なんだと思う。
ただ現状、宗教的に/生理的に同性愛が受け入れられない人がいる中でそれは不可能に近いし、オタクは割と何かに属することを好む人が多いので属性を示す単語がなくなることに不安を覚える人も多いだろう。
そんなわけでダラダラと書き連ねましたが代替単語もない上に世界が変わり切ってない中で「腐女子」って単語を一方的に狩るのは勘弁してほしいっていうぼやきです。
あとマジでShipperって単語を腐女子の代替単語として使うのをやめて欲しい。人から勝手に言葉を奪うな。この2点に尽きる。
非常に憤りを感じている。
今朝方流れてきた以下のような言説。このような差別発言は今に始まったことではない。
「土日くらい休ませて」というパパへ。
https://www.instagram.com/p/CQDvgRTDA-N/?utm_medium=share_sheet
このような言説により、普段育児に参加しているしていないに関わらず、「休む」という言葉を封じられる。これは男親に対して顕著であることに疑いはなく、女親に対しては「休む」ことを推奨する言説がほとんどだ。
深夜に夜泣きでミルクをあげることを男親がやることだってもはや珍しいことではないし、そもそも育児とは何歳のことを指しているんだ?24時間体制なのはそれこそ乳飲み子の間。幼児くらいになれば保育園幼稚園もあれば夜に「異常時以外で」ケアが必要なことはない。異常検知にしても幼児側のアウトプット(泣くなど)のアラートで検知してるのであって、常にウォッチしているわけではない。そのくせウォッチして消費しているかのような言説を宣う。
その上で男親はフルタイムで働くことをもはや前提とされている。主夫なんてものが市民権を得ているのは「意識高い系が遠目から第三者的にそれを観測した場合」のみだ。近くにいる場合は蔑すむまではいかないまでも下に見ている。
俺は文章が下手なので、俺の憤りが貴様らに的確に伝わったり、言説としてちやほやされることもない(作文的弱者、発言弱者)。だからこういう男性属性でもって(先の例では「土日くらい休ませて」と言う者のみ対象にしているように見せているが明らかに男性という属性への警告という内容である。そうでなければ「パパへ」と絞る意味がない。パパは必ずしも男性ではないと言うならそれは書いたときの動機でなく後付の屁理屈と推察せざるを得ない。それはさらに卑怯な行為だと俺は認識する。)偏見を持つ、さらにそれに屈服することを半ば強制する同調圧力に対してしっかりと皆に届く形で異を唱える“代議士”が欲しいと本当に思う。(ただしその“代議士”には所謂ミソジニーの様な言説はやめてほしい。男の方が大変だとか言いたいのでなく、とにかく偏見とそれへの屈服の強制をやめろと言いたいのだ。)
俺は憤りを感じているが、それを上手に言葉にできない。作文としては子供のようなものだ。だが“よしよし”してほしいのではない、筋を通してほしいのだ。
あくまで第三者的立場からだと悪事や因習や同調圧力や有害な人間に対して「なんだそれくだらねえよ」、「こいつ馬鹿じゃねえの?」という至極当たり前の感想を抱けるけれども、
ひとたび自分が当事者になるとまるで人格が乗っ取られたかのようにそういう判断が全くできなくなるタイプの人はめちゃくちゃいて(例えるなら、テレビの内部告発者のドキュメント見て感動したり義憤に駆られたりするけど、いざ自分の会社から内部告発者が出たらその勇気ある人に対して心底怒りを抱くし軽蔑するような……)、
逆にコミュニティのクソ事案にリアルで触れる立場になっても常識的な判断を失わない人ほど、極端なレベルで社会性と社会的ステータスが高いか、極端なレベルで低いかどっちかという傾向がある(主観)。後者は例えば元ヤンだったり、中卒だったり。
そういうブレない傾奇者ってニュータウンにはめちゃくちゃ少ないのよ。
grdgs そうやって自分が高みから見下したつもりで冷笑的に言論の萎縮を図るのって気持ちいいみたいですね。一部の人にとって。普段言論の自由が何より優先って言っている人はよくそういう態度とりますよね。
言うほど高みか?どちらかというと、人間の認知能力なんて良くて生活圏の把握くらいしかできないんだから、自分も含めた99%の人間はその場の感情に振り回されながら殴り合うしかないという前提は共有されるべき、的なことを言いたかったんだけどね。
実際、元増田はかなり高度なことを要求していて、まず『一枚岩ではないアンチフェミに対し解像度を上げて理解』しつつ『アンチフェミの根幹にあるフェミニストへの不満を掬い上げ』『フェミニズムへの反感を無くす(=アンチフェミを無くす)』ことが必要だと説いている。非常に建設的な提案だと思うが、同時に非常に非現実的な理想論でもある。なぜかというと、まず一度敵であると認識した相手、ここでいうアンチフェミ(もしくはフェミニスト)を、感情を度外視して冷静に理解することはスーパーマンでないと成しえない特殊技能だからだ。ほとんどの人間は自分と相反する意見を見ると強い嫌悪感を催して攻撃か逃避に走るしかなくなる。
あからさまな攻撃に見えなくても多くはこれに当てはまる。例えば、はてなで定期的に行われる「ブクマカは属性当てはめゲームをしているだけで差別そのものには興味がない」みたいな指摘はわかりやすい。より正確に言うなら、ゲームを楽しんでいるというよりは「自分の感情に任せた攻撃」という体裁の悪い行為を既存の反差別の枠組みを使って自他から覆い隠した結果生じた矛盾、ということになるのかも。要は社会的正しさや合理性、経済性、伝統…etcといった既存の第三者的な理論や研究・権威を掲げているからといって、イコール冷静な議論を試みていることにはならないのだ。
ともあれ、活発に活動する動機を持ったほとんどの人間が、普段の生活や過去の経験から強い問題意識をもって活動を始めている以上、こうした攻撃性からは逃れられないと言っていいと思う。
でも、それを否定したいわけではない。ほかのブコメにもあるように、「それでも何か意味がある」と信じて殴り合いの仲裁に入るのも泥沼でもがき続けるのも、自分は決してやめるべきではないと思うし、そうした人間のおかげでこれまでも社会が変わってきたんだろうという実感がある。
ただ、だからこそ元増田が求める冷静さはあまりにナイーブで、ともすればちょっとした出来事で大衆に失望して理想を全て投げ捨てかねない不安定さを感じてしまって、つい口をはさみたくなってしまう。結局のところ考え方の好みの問題なんだが、これも『冷笑的に言論の萎縮を図る』ことになっちゃうんかね。
えー、「し、り…がる」?とおっしゃった?
これはですよ、まさに、あの、大変し、失礼な言葉だと思うわけですよ。この部分においてですね、委員ご指摘のことは、まず訂正が必要であると、わたくしこう思いますよ。
そうじゃありませんか。
そもそもですね、愛というのは、これは寛容であります。まさにこの、一人の人を愛する中においてですね。まさにこの…いいですか。
ちょっと……後ろの方でいろいろ言われているわけですが。いま、こうして誠実に答弁しておるわけですから、不規則な発言はですね。やめてもらいたい。
誠心誠意、言葉を尽くして、えー。
つまりですね。
ですから、この一人の人と、交際させていただくうえでですね、それはいろいろなことが起きてまいりますし、ときに疑念を抱かせるようなことが起きる場合には、これはもう誠心誠意向き合わせていただくわけですが、それでもですね、この愛というのは、寛容ということにおいて、しているわけでありますから、したがってこれはですね、一方的に、第三者的に、これを論病するということはですね。差し控えさえていただきたい、その上で、個々の事案については、誠意を込めて、対応させていただくと、こういう所存であります。
……こんな感じか?
なかまをふやすためにいじめをしたり敵をつくって反抗したり悪態をついたりするけどいじめられる側ってなかまをふやそうとも問題を解決するための努力をしようともしていないようにみえるけどいじめられる側になにも非がないとしてなにも対策を講じないのはいじめが悪いことだと言っているかとるに足らない事だとしているのとかわらないのでは?
問題をまず問題だとするのに自分がうけているいじめをともに不快だと感じてもらうための方策が必要だよね
自分がつらいのとかってどうやれば共感できるのか 共感に関しては男子よりはるかに秀でているといわれる女子のいじめのほうがより陰湿で凄惨なことを考えるといじめで仲間をつくる方法はすでに正解が見つかっているようだけれども「いじめられていることについて問題性を共感する」方法がいまだになにひとつないという証明になっているかもしれない
ということはつまりまずなにより「いじめが悪い事である」ということを解決に向かわせるべくなにより問題であるということと、具体的にどう解決するかを対策すべきなのじゃないかな
「かわいがり」と称して常識出来ではない練習量を課すことがいじめなのかどうか おきもちなんじゃないのってことを本人の限界を第三者が勝手に推し量って無理って言っていいかどうか
無理を繰り返すことで成功した偉人の話はいじめを正当化させかねないから禁止とか
実際いじめにみえる程度に指導しないとどうしようもない性格してたとかしてなかったとか
その人に与えたストレスが将来的に得になるか損になるかを総合的に判断できてしかも予知的な事に補償も用意できる第三者的な組織がそれをいじめだと判定できないと
どのみち個人がそうおもったから助けたとか手をだしたとかしてもあとから考えたら望みをかなえてもらったおかげでいま不足していることや損がでてるということになるかもだよね
ひとりにしといてとかほっといてとかをリーダーにさせたり仲間うちで話題にしたりからんできてうざくてそれっていじめだよっておもってたけど社会にでてから役立つとかあるかもしれないし
逆にほっといてあげたらコミュ障でひきこもって毎日子供部屋からオンラインゲームに常駐してて軍師みたいなアドバイザーになりたいとか言ってるそれって「望みをかなえてもらった」結果なのか疑問だし
傍観してるってのは個人が何人あつまって傍観しててもとめようもないし止めたらいいのか止めないほうがいいのかそれがどの程度悪くてどこまで関係性を突き崩すべきか判断しようがないと思うんだ
ガイドラインとかつくってそれ以上のストレスは与えられるべきでないとしたり 基準値をこえたらどう対処するかを明示していてそこに圧倒的な力量で介入される準備がないと傍観者って何人あつまっても結局傍観者でしかないから最大数の傍観者でいうところの「当事者以外のみんな」が傍観者で しかも無言なら肯定といわれたらもうそれは世界が肯定していることになるのでいってみたらいじめは正当化されてるともいえなくもないよね
ガイドラインがあればね 本人も選択できると思うよ 基準値以上のストレスがないことについて問題を考えるようなら過度なストレスを個人の選択で得られるようにしてもいいと思うし
与えることがいいことだとおもって指導目的でいじめをしている人はいないと思うのでコミュニケーションの達成目標もわかりやすく自己批判を他者に押し付けた鏡像の敵づくりとして行動化してるいじめをほかの目的で共通意識を育むように指導すればいいのだろうし たとえば軍隊的な特訓をなかよしチームに課していじめとかよりも強い団結心を養わせるとか
ガイドラインを作成するにあたっての環境調査でそういうのってわかるかもしんないよね
実際のところわたしたち個人が何人あつまっても政治も世間もかえられないので民主主義っていう同じ意見の人間があつまって10人が10個アイデアを持ち込んだら合計で100のアイデアができてしまうけれども
共通の認識としてお互いがまもりお互いが出し合ってお互いが守り合うというコミュニケーションが生まれるところのまずゼロポイントともいえる最初のあるべきあたりまえの多数決、10人のアイデアのうちの共通している
一つを一つのルールとして、段階的にほかの各のこり9アイデアの優先順位と譲歩内容をくみ上げていくべきなんじゃないの?
一個人が不快だといったから、権利を違反しているといったから、人権ひとつが10の平均よりも重いといきなり判別してなんでも言ったもの勝ちにしているとそれこそ
「いじめをうけている人間がいじめられているっていわないから、そんなの存在しないことになってしまってる」傍観者も存在しないし傍観者が個人の裁量でいいと思っていることを行うと
それ自体がいじめかもしれない あとからいじめだっていってもおかしくないと考えることもできるとかいうことになりえるんじゃないのかな
最終的におもったことまとめると
・個人がそれぞれ大きく声をはりあげたり、声のでかい人がまわりを巻き込んでそういう状況を局所的につくったとしても、そこだけの正義とかそこだけの悪とか判断してもそれはその局所的でのみ言えることで「いじめ」だとかそういう広義の単語の意味合いについてなんら影響するものではい
・環境を構成する個人たちが団体として行動をする指針をとりきめ、それを介入させる条件を作成し行動しないと意味ないのでは 意味ないってつまり言っても無駄だしやろうと個人でとりくんだところでそれが救済になるのか迷惑行為になってしまうのかもしかしたらいじめそのものであるかもしれない
・そういうとこから 意見があるなら意見を出すってだけはいじめとか迷惑行為そのものとかわらんし 悪い事をみつけて問題だと思ったり言い事だと考えて行動したいときにはまず「団体をつくろう」という行動に出るべきなんじゃない?
ってこと思いました
嘘松だろう。
フルPPE
やばくね?
しかしそんな「民間病院は協力的でない」理由は、「病院が損したくないから」「重症化した時のリスクが怖いから」でしかないらしい。
??
てか、"協力的でない"ってなんだ?役割的にコロナ患者を受け入れるor受け入れないの2択だから、
受け入れてない民間病院にいる自分という設定なら、さっきのと矛盾しないか?
仕事を離れてもここ1年ほど私用での外出はほぼせず、買い物もネットで済ませ、親兄弟にも合わず、所謂自粛をずっとしている。恋人もいたが会わない期間が長すぎたね。見事にふられた。仕方ないね。
身内が医者(医局所属)だが、飲み会はしてるし、研修生も受け入れてる。
親・恋人にも会ってるし、同期の医者も上司も皆、そういう行動していた。
(さすがに12月後半から厳しくなったが)
1年間私用の外出をしないということはやっぱりコロナ対応医師ということだろうか?
病院というところは無限に金を食う場所であり、そんな中で病院経営を成り立たせながらできることには限りがあるが、それでもやれるだけやるしかなかった。
このまま順調に感染が爆発すればまた遠くない日にそうなるんだろうなぁ(外勤に行けなくなる)
繰り返すが、コロナ対応医師が、今は外勤いけてるってことだよな?
正直、今の感染爆発に至るまでの経緯をずっと末端医療者側から見てきた僕としては、「もう止まんねえだろうなこれ」という思いはある。まあここ数日減ってはいるけど。
重傷者は遅行指標で患者はどんどん増えてるが、"ここ数日減ってはいるけど"ってどういうこと?
ニュースで聞いた"感染者数"であれば、ずいぶん第三者的な視点で物事を語ってるように見える。
・・・一応言っておくと、自分もコロナ対応医師と看護師たちには感謝の思いしかない。
ただ、そこに負担がいきすぎているので、受け入れ可能な施設のある民間の病院で
受け入れるようにすべきだという意見だ。
そうすることによって単純に死者が減る。民間病院はなぜそれをしない?
死者を放っておいて協力しない民間病院を批判することと、コロナ対応とそれに近い位置にいる
そして、近くのカフェでゲラゲラと談笑してるジジババを見てる自分としては、
若者が自粛しないことも過度に非難したくないし、一生に1回の成人式に行くことも批判できないと思うし、
それはもう法で縛るしかないと思ってる。
ある日Twitterで、「夫を松潤扱いしてみた」というブログを拝見した。
ただ私を松潤扱いしてくれるような人は周囲にいない。
では自分で自分を松潤だと思いこみながら生活してみるのはどうか………いや、無理だ!!!ゆで卵嫌いだし、あそこまでストイック生活できない!!
早速松潤になることは諦めたが、他のジャニーズになりきって生活してみるのも面白いのではないかと考えた。
そこで厳正なる審査を経て、選ばれたのはSnow Man向井康二氏だ。
2 タイ語喋れる
3 服装が好み
5 個人的に好き
4に関して。
私はとてもとてもズボラだ。とにかく部屋を片付けられない。掃除機がかけられない。布団から出られない…と言った悩みを抱えている。
しかし雑誌等での発言を見る限り丁寧な暮らしをしていそうな向井康二になり切れば少し改善されるかも知れない。
(なお今回の向井康二生活は、雑誌などで見かけた向井康二エピソードを元に「康二くんならこうするのでは?」と想像しながら行ったものであり、必ずしもこれが向井康二さんの生活であるとは限りません。もし全然違うやんと思われる向井康二さんがいらっしゃいましたらひっそりご連絡ください。)
少し前のnon-noでモーニングルーティンを教えたくれたのでそれを参考にしながら1週間を始めた。
普段なら5度寝するところだが、今の私は向井康二。2度寝でちゃんと起きて、朝食。
雑誌にはカプチーノとヨーグルトと書かれていたが、ヨーグルト嫌いなのと朝からカフェイン取ると気持ち悪くなるのでスムージーとパンで代用。実家生活以来の朝食だった。
この日は大学の授業があったので日中はそれに専念することした。
夜は友人と夕飯に。そこで大変なことに気がつく。
「カメラ忘れた…」
向井康二ならきっとこういう時もカメラを持ち歩いて写真を撮っていただろう。その友人が普段私が被写体として撮影してる友人だったので、余計悔しさを感じた。
帰宅後は酒のせいもあってメイクも落とさずそのまま寝落ち。やっぱ初日から100%向井康二にはなれない。無理ない範囲で適度に向井康二要素を入れていくことを決意した。
久しぶりにパックなんぞしてみる。パックするとなんか肌の調子が良くなって気分が上がるような気がしないでもない。
昼は暇だったので、Weiboの投稿を真似て数年ぶりにギターを持ち出して弾いてみた。難しくて早々にやめた。
夕方は久しぶりにスーパーへ。朝食用のパンと夕飯の食材を購入した。久しぶりの自炊、意外と楽しいかも。
夜もパックして、就寝。パックした自撮り写真をノリで室龍太的存在の先輩に送ってみた。
この日は向井康二氏のようにお風呂上がり以降スマホを見ないことを実践してみた。
寝る前にブルーライト見なかったせいか、いつもよりすっきりとした目覚めだったような気がする。
この日は母の誕生日だったので、少し照れ臭いがテレビ電話してみた。普段LINEで済ませがちだが、悩みの相談乗ってくれたりアドバイスくれたりと、たまには電話してみるのもよいなと思った。来月帰省することを決意。
大学の講義を終えて暇だったので、カメラを持ってお散歩へ。何気ない景色をフィルムに収める。身近にSnowManという最高の被写体がいるなんて向井康二羨ましいなとふと思った。
夜も引き続き自炊。ついでに友達からおっそわけしていただいた"つけのも"も頂く。いや逆ゥ!!(CV.向井康二)
そういや向井康二さん、ベッドの上コロコロするって言うてたな…と4日目にして思い出す。試しにコロコロしてみたら、まあ色んな髪の毛やらなんやらひっついてくるわ。
普段あんま気にならないけど、たまにはコロコロするのもいいなと思った。
ついでにカーペットもコロコロ。久しぶりにコロコロ使ったから、コロコロくんも目が回ったことだろう。
この日はリモートではあるが久しぶりに働いた。家の中で数時間働くだけで疲れるのに、コンサートやリハーサル等何時間も動き回るジャニーズの皆さんの体力半端ないなと尊敬した。
夜は友人とディナー。今回はちゃんとカメラを持ってきた。ちょうどフィルムを使い切ったので、その足で現像に出した。データ楽しみ。
この友人は宮舘涼太さん的な子で、なんと言うのか独特で面白い子だ。ちなみに彼女は馬術部なのでリアル白馬の貴族だ。いや、普通に一般市民やけどな!と私の中の向井康二がツッコむ。
วันนี้จกินอาหารกล่องวันกับเพื่อน.
ฉันกินพาสต้า
(私はパスタを食べた)
กลับบ้านและเรียนภาษาไทย
(家に帰ってタイ語の授業を受けた)
สัปดาห์นี้ฉันเป็นโคจิ
(今週私は康二だ)
พูดภาษาไทยได้นะ
(タイ語喋れるよ)
แค่ยังไม่เก่งค่ะ5555
(でも上手ではないんだけどねwwww)
5555555555555
(だから多分この文章も間違ってると思うと言いたかったが上手く文章化出来なかったので取り敢えずタイ語のwにあたる5((タイ語で5はハーと言い、それを連続させるとhahahaとなる為。ん、なんか突然ジェスさん出てきたな。))を生やしてみる。)
ここ最近タイ語の授業がついて行けなさすぎて、苦手意識を持っていたけど、今日の私はタイ人のオカンを持つโคจิ。やればできるっ!!とはいえやっぱり躓いてしまった。難しすぎるやろこの言語。でも明らかにタイ語能力は向上してきた。この調子で頑張ろう。สู้ๆ!!!
朝食時に紅茶を淹れてみた。なんかちょっとだけ生活がアップグレードした気分。
この調子で部屋もアップグレードしてみようと思い、地層のように溜まっただしっぱなしの洋服をひたすら整理することにした。
洋服好きの彼は収納にも拘っているようだが、今持っている設備ではそれを真似することは出来ないので、代わりに愛情持って服を畳んで、いつもより丁寧にしまった。ここでふと気がついたが、これはもはや向井康二でもなんでもない。普通の人や。
でも普段避けがちなことでも、「今日の自分は〇〇(本名)じゃないから!」という意識を持つと、第三者的視点から自分の行動を見つめ直すことができるような気がする。普段の自分ならなんとも思わないけど、もし別の人がこの部屋の有様をみたらなんと思うだろう…と考えると自ずと次の行動が見えて来るような気がする。知らんけど。
こうしてもはや向井康二だか誰だか分からないけど、私以外の私になった私は久しぶりに洋服が散乱していない床を目にすることができた。
ついでに地層の底から化石という名の無くしたと思ってた指輪を発掘した。
君にいいことがあるように…
この日も朝食はトーストfeat.紅茶。やっぱ紅茶って美味しいなと思った。
昼過ぎ近所に住む友人を呼び出してお散歩がてらミニ撮影会をした。うん、最強にかわゆいお写真撮れた。二度目になるが、最強の被写体が身近にいる向井康二さん羨ましい…とはいえ私の友人もSnowManに負けないくらい最強の被写体だけどね!とSnowManに対して謎の対抗意識を燃やす。
話は変わるが、自分の撮った写真を喜んでくれる人が存在するだけで、カメラマンやってて良かったなと思う。私の場合喜んでくれるのは被写体のみだが、向井康二氏の場合被写体となったメンバーの他に大勢のファンも喜んでくれるのだから、きっとカメラマン冥利に尽きるんだろうな。うーん、やっぱ一度ガチで向井康二になって、各方位に喜ばれるようなお写真を撮りたい…
今日は夕飯の時間が短かったので、グリーンカレーとそうめんでちゃちゃっと。そう、松竹座でお馴染みのアレだ。たまたまそうめんとグリーンカレーあったので組み合わせみたら美味しかった。タイでもこんな感じの組み合わせ食べたことあったな…とふと思い出す。
巷でいう"担タレ"のようなことをした1週間だった。
結末を一言で言うと「私は向井康二にはなれなかった」一方で、「苦手なことをそれが得意な人になりきって行うと少し苦手意識が薄れた」ような気がした。
人は往々にして「自分は〇〇だからできない」と決めつけて、可能性を自ら狭めてしまうことが多い。私も朝起きられないことや、部屋を片付けられないことがもはや自分にとってのステレオとなっており、自らそのステレオタイプ化した自分を打開することを恐れていたのかもしれない。
私はこのある一種のズボラさの原因を、性格云々ではないところにあるのだと予想している。それはきっと医者に行くと診断が付くかもしれない。薬を処方されることでマシになるものかもしれない。
ただ私は怖いのだ。
仮に薬を飲んで整理整頓できる規則正しい人になったとしたら、果たしてそれは私なのだろうか。
今まで積み上げてきた「私」という人格はどこか消えてしまうのではないか。
それが異様に怖いのだ。
しかし短期間だけ別の人に"なり切れば"、元の自分の人格を持ったままいつもとは違う行動を起こす勇気が出るのだ。
今回たまたま選ばれたのは向井康二氏だったが、別に芸能人でなくても良い。身近な友人やアニメキャラ、妄想上の人物でも良い。
そと間だけでも自分が苦手なことが得意な人になり切ることで、少し勇気がでたような気がした。
他人に完全になり切るのは最早本人からしたら恐怖だろうし、自分の人格そのものを否定することになるので、推奨は絶対にしないが、短期的に誰か別の人物になり切って行動するのは良いかもしれない…と思った1週間だった。
「お前、以前はこう言っていただろう。ダブスタだ」
ダブルスタンダードとは、「一人の人間が」「複数の同質の問題に対して」「異なる基準で意見を表明すること」だ。
上記のようなことを言う前に、少なくとも以下の視点でチェックしてみてほしい。
あなたが相手を勝手に「均質で同意見の集団」と考えて、本来は異なるべき集団間から意見を抽出してはいないか?
ある観点において同じ意見を提出した人にもそれぞれ個人の思想があり、他の観点において対立している可能性がある。
同じ法人や組織に属している者同士ならともかく、ネット上でたまたま同じ意見を表明している者同士で見解を統一させる義務は元より存在しないことを忘れないでほしい。
一人の人間が複数の議論に対し違うことを言っているように見えたとする。
しかし、議論の前提に大きな違いがあり、同じ判断基準を適用できる話ではないということはないだろうか?
あなたよりその人の方が、多くの前提を持って話しているということはないだろうか?
似ているだけの議論を安易に「同じだ」と考える前に、両方の前提を洗い出して見ることは重要だ。
第三者的な目線で話を聞いていると、ダブスタだと指摘されている人が実際異なる主張なんてしてないことも多い。
むしろあなたの論理力がその人の論理展開を追うのに足りていないことはないか?
あなたの側が党派性重視に陥っていて、党派性に関わらない判断を「ダブスタだ」と判定していないだろうか?
例えばある時は左派寄り、ある時は右派寄りの思想を表明したように見えても、その人にとっては左右関係なく一つの基準で考えた結果かもしれない。
あなたの思っている「基準」と、その人が判断に使用した「基準」は、本当に同じだろうか?
ここまでチェックしてなおダブルスタンダードだと思うのであれば、指摘をすればよい。
しかし、だいたいの場合はダブスタ指摘という回りくどい絡め手よりも、根本的に問題と思われる点を直接指摘した方がよいと思われる。
かつて師匠と呼んでいた人が、「人間が向き合った際に格闘技で決着をつけるなんて不平等極まりない。本当の戦いは体重差のない武器を使った戦いだ」とおっしゃっていた。これ自体は一見頷ける話に見えるが、よくよく考えてみると決闘という場において武器同氏の二人が並んだ際に、身長差すらない場面があるとしても何がしかの優劣は確実に存在することに気づく。例えば反射の良さや目の良さ、筋肉の質が速筋か遅筋かなどだ。
仮に筋肉の質が全く均一だとしても内部的な反射の良さは確実に差がある。これは相手にとってはギフテッドかも知れない。しかし一方の人物からすればハンデに見える。より半径を広くして人類がこの優れた反射の持ち主と同じくらいの反射神経を持っていたとすれば、持っていない対峙者にはハンデにしか見えないだろう。
これに似た状況が元々歩ける人、生まれながらに車椅子の人などの差異にも見いだせる。車椅子は第三者的に見ても当人から見てもハンデである。多数決が正しい世界では少数派はハンデになる。
話を戻そう。普通の能力を持ってないと人はハンデだと感じるが、実際のところハンデと思えるほどの能力差がある、という話なのではないか。つまり人は実は大抵の場合ハンデ持ちだと言える。配られたカードは元々不平等だという話は巷で開かれるし、配られたカードで勝負すべきという言説も聞かれる。これは勝者が言うときと敗者がいるときでは少々事情が異なると思っている。少なくとも敗者の配られたカードの差、あるいは勝負の言説には覚悟があるように思えるからだ。
何れにせよ、ハンデがなければうまくやった、という言説に関しては真なりということもできるし、言っても仕方がないとも言える。
(自分にしてみても厳しい状況下において制限された行動をどう取るかというハンデの中で戦っている。それも自己責任ではなく他人がもたらした賑やかしと冷やかしのためにそうなっている。それでもそこを悔やんでも仕方なく、意味もない)
言われてみて初めて気づいた、その通りだ……!!めちゃくちゃ主観だった……!!!
ありがとうございます。第三者的にどっちでも良い、たしかにその通りすぎる。納得したので、機をみて確かめてみようと思います。
童貞のまま先日22歳を迎えた。自分を振り返ってみてその理由について考えてみた。
感情とは外部の状況に対する人間の心の動きであると僕は知っている。周りの人を見ていると喜んだり悲しんだり怒ったりごく自然に感情が動いていることがわかる。
しかし僕はそうやって外界に対して素直に反応することができない。もちろん笑ったり泣いたりするけどそれは他の人の目があるからである。
例えば女の子に振られた時
「これは悲しい気持ちになるべきだ、一旦泣こう。」と考えて泣くし、
「一通り泣いて見せたからあとは彼女が気まずくならないようにしよう。」と考えて30%くらいの笑顔で別れる。
小さい頃から少し勉強ができ、少し運動ができ、少し反抗的だった。
「存在しているだけで鼻につくからせめて表面だけでもちゃんとしてくれ」と中学校の先生に言われたことを覚えている。今考えてみるとなかなか大人気ない発言だ。
常に他人から見て適切だと思われる自分が取るべき感情と行動を選択してきた人生であったしそれに違和感を感じてこなかった。
他人が僕に求めている感情の変化を見せて相手を納得させる。自分が人間的な心を持っていることを示す。行動も表情もそのために選択してきた。
怒られている時は神妙そうな顔をする。デートの時は楽しそうな顔をする。進路選択の相談の時は真剣そうな顔をする。
いろんな顔をしていろんな感情があるように振る舞っているけどいつも心の中では
「このシチュエーションではこんな感じで振る舞えばいいんだよね?」って自分で確認しながら生活している。
みんなは本当に自然に怒ったり泣いたりしているのか。その感情を動かすエネルギーはどこからやってくるのか。僕にはわからない。
恋愛とはそれ自体が感情の塊である。好きだって気持ちはもちろん感情であるし恋人になれば喧嘩することもある。喧嘩も感情表現の一つである。
そうやって感情をぶつけ合ってお互いを理解していく。それが恋愛だ。頭ではわかっている。
おそらく今彼女は自分の独占欲を求めていると感じたら僕は自分が嫉妬しているというメッセージを発する。
弱みを見せた方が良さそうな場面だと判断したときには辛そうな顔と泣きそうな声で彼女に縋る。たとえ困っていることがなくてもとりあえず自分の不幸そうな話を嘘にならない範囲ですることもあった。こうして自分の弱みを共有することで絆が深まっているかのように感じて貰うことが恋愛において有利だと考えたからだ。
彼女の悲しい話は同情に満ちた顔で聞くし真剣に考えている顔をする。
これらはこうすることで丸く収まるものだと計算して行動しているからであって自分の心に素直に表情や行動を変えているわけではない。
僕は童貞である。これまでそんな機会がなかったことはない。いい感じの女の子と同じベッドで寝たこともあるし、キスをしたこともある。それ以上のことも。
でもそれに幸福感や快感を感じたことはなかった。一歩手前のような状況までは何度かなったが、最後までしたことがない。
性行為の時も自分の行動で相手がどう思っているのかを計算して動いてしまう。
我を忘れて2人だけの世界に没頭できない。どこか第三者的な目線で考えてしまう。
裏を返せば女の子の求めることは大体できてしまうわけだが自分の気持ちがそれで盛り上がるわけではない。
そうして性行為が大して楽しくないと感じてしまい、ここ2年ほどはたとえ一緒に寝ようともキス以上のことをする気になれない。
世の男はいつも女を抱きたがり、多くの人は体の関係で結ばれている。多分ほとんど事実だ。女性もそれを求めていることが多いことも。
僕はそれがとてもめんどくさい。めんどくさいと感じているからこそあまり価値のあるものだとも思えない。
不貞行為に腹を立てる必要性を感じたこともないし、不特定多数との性的接触を穢らわしいと感じることもない。
ただその連関の中のどこにも自分が入っていないことには少しだけ孤独を感じる。
自分は人間として、生物として劣等個体であるように思えてくる。
大学生ももうすぐ終わり、来年から新しい生活が始まると思う。新しい環境でも孤独以外の感情を感じないまま道化を演じ続けることになるのかな。
TBSラジオ山里亮太の不毛な議論2020年05月27日放送分の冒頭15分で
「今回のことは、僕は一生思っていきますし、考え続けます」と締めた。
番組で山里自身が木村さんを揶揄するコメントをしていた加害性やその謝罪については一切触れず、
同じSNS攻撃の被害を受けた立場として第三者的に話したのが悪い印象を与えたようだ。
まずは放送時間全部使って木村さんのことや自分のことについて語るべきだった。
テレビ放送に乗らなかった木村さんの印象や思い出をスタジオメンバーだからこそ知る話として
たくさん語ってほしかった。
山里の言葉のセンスは、悪口や自己卑下で笑いを取るときだけじゃなく、悲しんだり、悔やんだり、
思い出を語ったりするするときにも発揮されることを示してほしかった。
山里自身も多くのスタッフや家族を支えている立場上、自分の責任と言い切って謝罪するのが難しいのはわかる。
だから、もっと主観的に自分の中の喪失感、罪悪感や、今の芸風についてこの機会に素の状態で話してほしかった。
絶対に素を見せない山里だからこそ、今回一度だけ素顔を出してほしかった。
弱者でクズキャラで巧みに悪口を言う芸風を確立したのは確かにすごい。
それを若林には「マウントをとらせて下から関節を決める」なんて言われていたが
その若林がうまく弱者キャラを脱していったのを見ていてどう思ったのか。
山里が次第に人気者になり後輩も出てきて結婚もしてどんどん強者になっていくうちに
悪口芸がパワハラに見えて通用しなくなってきた実感は、空気に敏感な山里本人も絶対感じていたと思う。
ましてやプロのタレントでもない出演者に、反論されない場所から悪口を言うテラスハウスで、
バランス役の徳井がいなくなった空気の悪さは絶対に誰よりも感じていたはず。
またNSC時代から今の芸風を確立する間には、様々な試行錯誤があったはずで
そういう今の山里ができあがる過程を振り返る良い機会だったかと思う。
悪口芸にしても先輩に怒られたり、素人をいじりすぎたりした失敗が多数あったはずで
ずっとやってきた中で自分なりの踏み越えてはいけない一線があったはず。
それを今回踏み越えてしまったのではないかという自問自答を言葉にできたのでは。
そして今後誰かの悪口を陰湿に言う芸ではもう笑いはとれなくなってしまったと思う。
それもわかっているなら、自分から今日限りでクズキャラや悪口芸はやめると言っても良かったと思う。
いままでこれ一本でやってきたしすぐには切り替えられないかもしれないが
これから誰かを傷つけるような悪口で笑いを取ることをやめるよう努力し続けると宣言すれば
それが今回の件を一生考え続けるということだと思う。
しかし・・・こういうこと言いたくはないが、認識の正しさのために指摘すると・・・花ちゃんは完全に被害者だったのだろうか。
自殺をしたから完全に被害者である、という観点も違うのではないか。
テラスハウスに出たのも何某かの圧力に依るもので、自分の意志の介在はあったとしてもほぼ洗脳状態であった(例えばプロレス団体の維持存続のためとか)。
そのうえで、テラハによるヒールレッテルを個人のためでなくその圧力側への貢献のために受け入れていた場合。
では「完全に被害者ではない」とうケースは何か?
テラハに出ることで自分が「利益を得たい」と考えていた場合である。
つまり構造は理解していて、それでもリスクより自分の利潤が大きいと考えた場合。この場合はリスクの見積もりをミスったことになる。
もちろん「完全に悪者」ということは無いだろう。既にある「悪構造」をカウンター的に利用しているのであって、「悪構造」は既にそこにあった。花ちゃんが作り上げたものではない。
しかし、「リスクを軽視したことによる被害」は一般的には見積側にも一定の非が認められる。
結果として自死を選んだことは不憫なことであるが、問題の本質を冷静に分析する必要がある場合は、彼女自身を一度横におき、「なにが悪かったのか」というのを切り分けることが必要に思う。これは近しい人間にはできないことであるので、第三者的視点を持つ人間がやるべきである。(他人であっても過度に思い入れたり、攻撃したいものを攻撃する棍棒にしようとする人間には務まらない)
ネット民らしく、Twitterで見ただけなのでこれも切り取りの一つに過ぎないのかもしれんのだけどワイドナショー。
例のハッシュタグってどうなの? 世間一般の方の目にはどう写ったんだろう。
この件に対する芸能人の方のコメントについて、放送後に世の中のお気持ちが垂れ流されているのでちょっと気になって。
んで見たんだけど、そんな青筋立てるような発言なのかね。
指原さんは 「自身の影響力を正しいと確信できる場面でしか使わない」だし、兼近さんも「自分で生み出した影響力なんだから使いたいと思う場面で使うのは自由」ってだけで、そこに件のハッシュタグの中身に対する議論は含まれてないんだけど、前者わかりやすく「中立」の立場をとってて、後者は「件のハッシュタグは正しい」というメッセージになってしまっているから、指原さんは批判の的になっている感じだけど。
そもそも指原さんも兼近さんも、例のハッシュタグの中身に対して賛否の表明はしていなくて、そこにまつわるエトセトラに触れたに過ぎないのに、なんでこんなにTwitter内で評価が分かれるのだろう、ということを考えたときに、今世の中で一番日本の政治を語るのにふさわしくない媒体がTwitter
なんじゃないかということに気づいてしまった。Twitterの政治必死勢は、自分の意見と違う意見をとにかく踏み潰そうみたいな傾向が右にも左にもあって、それを眺めていると本人たちには何らかの根拠がきっとあるんだろうけどいかにも盲目的で、第三者的には決め手に欠けるというか、かゆいところに手が届かないというか、どうもしっくりこない。
大体、例のハッシュタグ賛同派から素晴らしいって言われてる兼近さんの発言だって裏を返せば、影響力は使っても使わなくてもいいってことであって、必ず使わなければいけないなんて一言も言ってねぇし、批判を受けてる指原さんはその言葉の通り、「使わない」という宣言をしただけなのになあ。
ただまあ、この傾向からわかることは左右どちらも不勉強な中立を、普段政治色のないインフルエンサーを使って巻き込みたいと思ってて、だから「不勉強」って言葉を使って、中立を決め込んだ指原さんが気に入らなかったのかな、と思ったりした。