はてなキーワード: 書き手とは
っていうことなんだよね。
まともなセンサーあれば体臭の話よりそっちの臭気がキツすぎて「うおっぷ」ってなるんだけど
例によってはてブ民は文章から情報を掴む能力死んでるのでどうでもいい体臭の話をしている。
正直もう全文おえっぷなんだけど、
自分のことを「ちょっと面白い主人公」だと思ってるおじさん特有のくっせー文章やめてほしいんだよな。
フミ〇〇〇〇とか〇ッ〇ーみてえな悪臭が発生してるんだわ、こいつの文章全文から。
わかる?
チョコザップやればいいっていうけど、多分俺がチョコザップいったら「凄いクサイオッサンが出没して臭すぎて辛い」ってツイッターで晒されて、数ヶ月も通ったら職場でそれが話題になっちゃう気がするんだよね。
でも家に運動するスペースはないし、かといって近所を走っても「クサイおっさんが街を走っているんだけど、あれはゾンビなのでは?」みたいな感じで都市伝説化しそう。
ボクがボクがボクがボクが。
こいつの文章ってすべて同じで「周りの人がめっちゃボクに関心ある」って前提で成り立ってるんだわ。
ボクがみんなの話題に。ボクが都市伝説に。(なるわけねーだろバカ)
俺と話すときだけおもむろにマスクをして口呼吸を始める新卒の子とかさ、職場で大掃除する時に俺の椅子にだけファブリーズしまくる人とか、近くを通るたびに小声で「くっせえ」」と言ってくる高卒のクソガキとか、ソイツらに対して「せんせー!増田くんが可愛そうですー!」と言った所で職場全員-1VS俺になるのが目に見えてるから体臭を解決しようとしてるだけなんだよね。
テレワークとかも考えたんだけど、今の体臭で面接に行ったら「えっ・・・コミケ前には風呂に入るのに面接ではサボるんですか!?」みたいな感じで落とされそうじゃん?
俺が近づくと空気清浄機がブオオオオオオオオと激アツグラボみたいな声で泣き出すから何らかの臭い物質を周囲に放射しているのは間違いないらしい。
わかる?
こいつこれ悩んでるんじゃなくて「ボクを中心に巻き起こるドタバタ面白エピソード」を披露してんだよ。
ボクまたなんかやっちゃいました?つってるだけ。
俺はこいつの文読んでるあいだじゅう悪臭で鼻曲がりそうだったけど
この臭気を全くかぎ取らずに表面の話題に反応して体臭対策のアドバイスしてるブコメの奴等は
こいつがおじさんじゃなくて若い男だったとしても言うべきことは同じ。
「誰もお前にそこまで関心ねーぞ」ってだけ。
ただ20代前半くらいの若い男がこいつと同じこと言ってるならまあ、
「若いし自意識過剰なんだね」「そういう時期あるよね」などと酌量される余地もある。
ボクの話するのがだーい好き。おじさんはねえ。おじさんはねえ。
自分のことを面白いだけじゃなく「ワンチャン可愛い」ぐらいに思ってるぞこれ。
つうかとにかく運動したくないよ。
運動、嫌いだよ。
そもそも運動がただでさえ嫌いなのに「お前臭すぎる」って虐めてくるような奴らに媚びるために運動したくないよ。
運動したくないy-。
こんな風に自分の気持ちを書きつらねるだけでコンテンツになると考えるのってたいていは若くてバカな女なんだけど
それをおじさんがやっているのは相当な傑物。
健全に自己肯定感が高いとかそういうのとは別の何かを感じない?
俺は別に「もっと卑下しろ」とか余計なお世話を言ってるんじゃない。
よくある「「自分の人生の主人公は自分!」みたいなそういうのはいい。
けど他人から見た自分、周囲の人にとっての自分は別に主人公ではないという認識、
そこが毀損してる人間は「ポジティブ」でも「人それぞれ」でもすまない人格異常の匂いがする。
つうか出張で汗だくの日にちょっと空いてる電車に乗ったら、俺の周りだけ人が全く近寄らないし、新しく乗ってきた大学生が「え?なんか匂わね?」「壊死おじじゃね?」とか話してて俺と目が会った直後になんかギョっとした顔してから別の車両に移ったりとかしてるのはさ、流石にもう俺だって自分が歩く公害だと認めるしかない気がしてくるわけよ。
それでもさ、体臭で人を差別するような態度を取るような奴ら、社会は気に食わないっていうかさ。
たとえば韓国からの技能実習生が「キムさんってキムチ臭すぎて一緒に働きたくないから一人で出来る仕事やらせてるよ―。教育出来てない気がするけど臭いから隔離も仕方ないよね―」とかやられてたらそれはもう流石に国際問題じゃん?いやいやその前にお前が臭い問題だよってかもうええわ
どうよこれ。
これ一読してパッとわからない人間はもうしょうがないんだけどさ。感覚器かないんだろうから。
これは「ボクチン面白いでしょ!」って言ってるだけだぞ。全文。
であればこいつが延々悩んでる(ふりをしている)超人的な体臭の正体とは何か?もうわかるだろ。
要するにこいつは
「周囲の人間全員ボクのことを気にしている!
誰もボクの影響から逃れられない!
ボクはそんなつもりないのに!嫌なのに!でもそうなっちゃうううう!」
つってるだけ。
職場で迷惑かけまくってて立場ヤベーって話なのに、職場の年上の人間や上席の人間の反応はまったく気にしてないの。
家でも迷惑かけて「虐め」られてるはずなのに、妻子のリアクション描写皆無。
近くを通るたびに小声で「くっせえ」」と言ってくる高卒のクソガキとか、
新しく乗ってきた大学生が
こいつの体臭にリアクションするのは新卒の子だの高卒のクソガキだの大学生だの、ほぼぜーーーんぶ若い人間。
まとめると
・ボクから放散される人とは違う何かが周りにリアクションを取らせている
もうこれどういう人間なのかわかるだろ?
虐められてるだのなんだの卑屈っぽく言いながら
異様に自意識強くて自分大好き丸出しなのも全部繋がってるよな。
自意識や自己愛が強すぎる、要するに人格障害が丸出しなために周囲に嫌がられてるんだけど
当人はそれを自分の才能やセンスやカリスマ性の影響、自分が特別な存在である証拠と思ってる。
周囲の反応だってむしろモテてるぐらいに心のどっかで思ってるから。それぐらい認識歪んでっから。
「若い人間に指向的に”体臭”をまき散らしたがっている主人公幻想おじさん」の話だということはわかる。
もうちょっと詳しく言うと、読み専がネットストーカーしていた同人書き手のことが大好きになってしまって困っている。
とあるコンテンツにどハマりした。そのとき映画を上映していて、友人に誘われてみたのがきっかけだった。
コンテンツ自体と同じくらい、出てくるキャラおよびカップリング二次創作が好きになった。ハマりたての情熱はすごくて、地方民御用達の通販に飽き足らず、久しぶりに片道ウン万かけて同人誌即売会に行くようになった。
数ヶ月後、ジャンルのオンリーがあるというので喜び勇んでピクシブで新刊サンプルをチェックしてまわっていたとき、神がかったカップリング本のサンプルに出会ってしまった。
良い。そう直感が囁いた。
出会いがあまりにもうれしくて、その勢いで「とても好みで読むのが楽しみ。本を出してくれてありがとう。絶対買いにいく」という内容の匿名メッセージをその書き手に送った。すぐにツイッターもフォローした。
イベント当日は心臓をバクバクさせながらビッグサイトに行って本を買い、その際にサンプルを読んでとても楽しみにしていた旨を伝えた気がする。あまり記憶がない。
ビッグサイトを後にしてすぐさまカラオケに飛び込み、これはレジェンド入りの同人誌だと痛感しながら読み進めた。文字通り全身で悶えた。たまらなかった。こんなに好みド真ん中の作品を書く人が本当に存在するんだと感動した。
私は同人誌やWeb作品の感想を伝えるのが好きだ。私自身が全然創作できないのもあると思うが、とにかく大好きな作品を褒め称えたくてしょうがない。さっそく数日後に感想を匿名メッセージツールで送った。幸いにも好意的に読んでもらえた上に、WEB上で返信までくれてとてもうれしかった。この返信をもらったのはもうだいぶ前なのに、いまだにこのもらったメッセージを読んで幸せな気持ちになれる。プリントアウトしてあるから、私が死んだら該当の本と一緒に燃やしてほしい。地獄でも絶対に読みたい。
ツイッターをフォローしたことにより、どんどん情報が入ってくるようになった。私は書き手…今後はAと表記する。Aのアカウントだけのリストを作り、毎日チェックするようになった。今思うとこの時点で自分がおかしいと気づくべきだった。
Aは日常ツイートが多くて、そこから垣間見える人柄もとても好感が持てた。
最初はネットストーカー度合いも、気候についてのコメントが似ていたから同じ方角に住んでいる人かな、と思う程度だった。日本が縦に長いのもネットストーカーには優しい作りだと思う。日々ツイートを追いかけていると投稿内容にだんだん既視感というか、まさか?と思うことが多くなってきた。
ある投稿を見たとき、思わず息を呑んだ。これは私が先週末行った店では?特徴的なロゴなどはスタンプで隠されていたけれど、料理の写真や投稿されていたエピソードから推察するに絶対絶対あの店!
心拍数が急上昇し頭がガンガンし始めて、震える指でお店のインスタを検索した。投稿された写真と見比べても予想は当たっているようにしか思えない。血液が循環しているということをあれほど実感したのは久しぶりだった。
生活圏がかぶっている。もしかしたら知らず知らずのうちに私を狂わせたきっかけのあの映画を私達は共に地元の映画館で見たのかもしれない。近隣で上映している映画館は一つしかなかった。知りたいという欲がどんどん止まらなくなって、指が勝手に彼女のアカウントから映画についてのツイートを検索する。おそらく、私たちは同じスクリーンで映画を見ていた。
Aは長年アカウントを運用していたので読むべきものがたくさんあった。誰かのツイートを1週間ごとに区切ってアカウント開設から全て読むのはもう一生ないんじゃなかろうか。たわいのない生活のあれこれ、購入したグッズ、仕事の話、美味しい食べもの、そのときにハマっているジャンルの話、ずっと好きなキャラクターの話、見た映画の感想、原稿の弱音、今度出す同人誌、旅行先の写真、もう存在していないアカウントとのやりとり、句読点の打ち方、今とは少し違う文体。
生きている。ため息が出るほど彼女のことが知りたい。話してみたい。推しカプのこと、今までのジャンルのこと、好きなカプの傾向、心ゆくまで話したい!こういうとき、さっさとツイッターなどで話しかけられればいいのだろうが、ネットで人に話しかけたことのない読み専同人女には作法がわからぬ。というか心理的なハードルが高くてそういったアプローチはツイッターのいいねを含めて一切できなかった。できることはもう、ツイッターをひたすら読み込むことだけだった。
花火が見えたという投稿を見て、流れるように近隣の花火大会の日程を検索し始めたとき、心底自分が怖くなった。驚くほど自制心が効かない。地元というアドバンテージを活かして居住地を含めた個人情報にあたりをつけるところまできてしまった。LINEも本名も、ツイッターに書いてないことはなにも知らないが、逆に言えばツイッターに書いてあることはなんでも知っている。私は彼女にクソデカ感情を抱きすぎていないか?というのをこの辺りから気づき始めたような気がする。遅すぎる。
そんな折、なんとAがまた同人誌即売会に出て新刊を出すという。すぐさま東京行きの交通チケットをとった。一般参加の待機列形成時間ぴったりにビッグサイトに向かった。差入れと既刊の感想を綴った手紙を渡したが、話しかける勇気はなかった。もちろん新刊も最高だったし、うれしくて泣きながら読んだ。本当にこの人の書くカプがあまりにもツボすぎる。
新刊の感想をまた匿名メッセージツールで送った。まる一日悩んだが、つい欲が出て近隣に住んでいるかもしれないということを一緒に書いてしまった。そこからは倍速で事が進んだ。差し支えなければアカウントを教えてほしいと返信が来て、それから長文でDMのやりとりをして、週末に地元で会うことになった。スピード感にくらくらした。
実際に会ったAはビッグサイトで会った彼女とも、ツイッターで見る彼女ともなにも変わらず、本物だった。カフェの閉店まで5時間話した。夢みたいだった。
それからいまいち距離感が掴めないままイベント会場でも会っているし地元でも何度か遊んでいる。イベント会場で会った回数の方がまだ多いかも。もう正直大好きだから会えるだけで夢見心地だ。会って話すのがすごく楽しいし、一緒ににおいしいものを食べるともっとおいしいし、本の感想を直接言えるのもとてもうれしい。カプの話するだけで笑顔があふれる。話すこと語ること全部解釈一致!大好きすぎる。
これはかなりの自惚れだと思うのだが、最近のAの本は、ところどころ私の性癖に配慮して書かれている気がする。感想でここが良かった、こういうところが好きだと主張したところや何気なくコンテンツ本編についてツイートしたことが次の本で形を変えてちゃんと書かれていて更に好きになってしまう。信じ難い……気のせいかな……。いや、気のせいでもいい。こんなの大好きのかたまりだ。
いまだにネットストーカーはやめられない。言っておきたいが決してAがザ・個人情報ツイートをしているわけではない。彼女は何も悪くないし投稿にも十分気をつけている方だと思うし、そもそも私が悪いし不道徳だと思う。ただ、たわいのない情報でもそれが十数年分あると推察するのに十分なくらいの証拠になってしまうのは確かだ。実際、血液型の情報は10年以上前のツイート群をつなぎ合わせて発掘した。私から彼女に輸血できるのがうれしい。輸血が必要なときはいつでも言ってほしい。
まぁとにかく投稿内容には本当に気をつけてほしいし、日常をアップするのは……絶対にやめないでほしい……。日常ツイートを見るのが大好きだから、その日の出来事全部教えて欲しい。
こういうベタベタした好意にドン引きされるのが怖くてあまり深入りしないように心がけている……つもりだが、失敗している気がする。私は残念ながら声がでかくなりがちでいつも慌てていて、騒がしくてかなりテキトーで……ネットストーカーの結果、おそらくAのちょっと苦手なタイプだろうな、と考えている。ずっと仲良くしてくれるかどうか、自信がない。
向こうが想定しているより10倍くらい私はAのことが好きだと思うし、こんな気持ち悪い斜め上の好意を抱かれていて本当にかわいそうだと思う。LINEも本名も知らない誰かをこんなに好きになって、本当に困っているけど幸せなのかもしれない。よくわからない。会う約束をするとうれしくて何週間も前から心が浮ついてしまうし、Aからいいねが飛んでくるたびに、メッセージをもらうたびにスマホを握りしめて大喜びしてしまう。大好きだと思うたびに泣きそうになる。
実は誕生日が数日しか違わないのも、同じタイミングで同じジャンルにハマってることも、過去ジャンルで同じカプが好きなこともちょっと運命的すぎて本当に困る。嘘ですごめん、それについては全然困ってない。
彼女は私といつまで遊んでくれるのだろうか。仲良いオタクと同じ老人ホームに入って…というよく聞く幻想がずっと頭をチラついている。歳をとってもジャンルが別れてもおばあちゃんになっても住むところが離れても他に大切な誰かがいてもずっと一緒に遊んでほしい。できるだけ長く一緒に過ごしたい。どうすれば人とずっと長く仲良くいられるんだろう。とても困っている。
長らく読み専腐女子だった私。
人気カプだから、漫画にも小説にも、プロ作家含めて上手い人だけでもめちゃめちゃたくさんいた。
ふつうの仕事についてる人も初心者から上級者までいろんな作品を作っていて。
大好きな作品がたくさんできた。
創作できる人はすごいなー。と思っていた。
いやになるほど苦労した、でも楽しかった。
10冊しか売れなかった、でもプロの本に混じって買う人がいてくれたのがすごいと思った。
いい体験だった。
でも、他の人の推しカプに以前のように夢中になれなくなってしまった。
大好きだった作品もなんだか色褪せて見えて。
自分で創るけど、下手だし遅い。
他の人のを読んで夢中になれてたあの頃に戻してくれ…
夢中だったあの頃の思いが戻ったら、
カプオンリーとか、webイベントとか、お題を決めたアンソロ作るとかを、やってみたい。
熱意を持って創作をしていれば他の描き手・書き手さんも意外と優しい。やろうと思えば今でもできるのだろう。
でもアンソロやイベントを主催するのは、大変なことだ。他の人のこういう作品が読みたいと強く思うからこそできる。
そこまでの気持ちはない。
一作一作が思いを込めてつくられた一期一会の宝物なのだと思う。
なんか違うって思いたくない。
どうしたらまた夢中で読めるのだろう。
この話に関して書き手ではなくイベントを運営してる側から少しだけ
まず、男性向け女性向けイベント、圧倒的に、圧倒的に圧倒的に女性向けイベントのほうがクレーム多いです
男性向けは本当に犯罪レベルの時しか(売上ギった奴がサークル参加ででてるとか)クレーム入れてこないのもあるが女性向けは
・男性が変な目で見ていた、男性が徘徊していたなどの男性目撃情報(クソ多い)
・サークル配置が気に入らない(めちゃ多い)
・◯◯っていうヤバい人が買い手・売り子・サークル主にいます・来ます情報(旬のジャンルだと毎開催1通は確実に来る)
が99%
そう、男性がいること自体にクレーム入る事かなり多いんですよ現実問題として
そりゃね、やべー男いないとは言わないよ?実際つまみ出した事もあるし。
んでまあ連絡貰って行って確認したら大体自意識過剰が98%2%がマジモンって感じ
最近のイベントってオンリーは特に先鋭化と小規模化進んでるし、大規模イベは人の流れが早すぎて流れを止めるようなトラブルはすぐに分かるから
監視の目も行き届いてるしはっきり言って安全度合いは上がってる、でも上がってるけどクレームのメールは一向に減らない
ブコメ➡慣れろと言われるのわかってるから増田とかで書くんでしょ、それこそわかれというか
元増田ではないが痴漢されたくて薄着で満員電車に乗るんでしょ的な強引解釈すぎる。
俺はそんなつもりで増田を使った事はない。
日記や書き捨てに使ってる奴もいるだろメシの話しかしてない俺がそうだが。
書き手の動機は無限にあるのに結局自分が言いたい事を言うために増田を都合よく解釈している。
増田とブコメは双方向もしくは一方向からのみ反応しなければならないし当然されるものである的なローカルルールになっているのか?
ここはこういう場なのだと安心して他人に強い言葉を使っているとどんどんエスカレートしていくんだ、恐ろしいぞ。
俺は後悔している。
と、敢えていちいち丁寧に応じてやったところで何も無い。
へっ嘘だね
お前が全部書いちゃってるのに何言ってんだか
一緒にお前が書いたこと読み返そうか?
時事系の増田記事書くとcider kondoとかいうおっさんがブコメでクソ偉そうに採点してくるのは本当イラっとする
まあNGしたけど。
「この部分はまあ合ってるが〜」みたいな、おめえの採点なんかどうでもいいんだよ
「この部分はまあ合ってるが~」ってのは”合ってない部分がある”時に言われることだよ。
自分で口走った通りお前は間違いを指摘されたんだよw
その間違い指摘が正しくなかったらそれこそ血相変えて&鬼の首取ったような勢いで
「cider kondoとかいうおっさんが俺のことを間違ってると言ってきたが
これこれこのように俺は正しくてこのおっさんの方が間違ってますう~~~バーカバーカ!」
ってなるよな。
あとからそのことを振り返る時も
「cider kondoとかいうバカが困っちゃうんだよねえww」というもっとはっきりした非難になるはずだし
そのことを語る時はもっと自信に満ちた勝ち誇った態度になるはずだ。
でもそうなってない。
実際のやりとり見なくてもどっちが優勢だったかぐらいわかっちゃうんだわ。
お前みたいな奴が間違ってないことを間違ったように指摘されたんなら
こんな「採点してくる」」「イラっとする」なんてマイルドな批判になるかよw
知恵遅れとかそういう語彙がポンポン出る程度には慎みの無いお前がcider kondoとかいうおっさんに変に弱気なのは何故だ?
おっさんから受けたその指摘自体はぐうの音も出ないほど正しくて、
「cider kondoとかいうおっさんに一本取られた!くやちい!」と自覚してっからだろ?w
まあNGしたけど。
そしてそんな過ぎたことをグチグチ愚痴るぐらいには流せないお前が、
どうしてNGなんていう消極策を取ったかも明らかだわな
「この部分はまあ合ってるが〜」みたいな、おめえの採点なんかどうでもいいんだよ
ぜ~~~~~ったいこんな微妙な言い方にはならない。
普通の奴でもそうはならないし、お前みたいな性格の奴なら絶対にならない。
「俺が正しいことを書いたのにこのおっさんがさあ!w」
「俺の増田を間違い呼ばわりしたんだぜ!?てめえの方が間違ってるのに!wwww」
っていうだろ?お前は。
なのに「採点ウゼエ!」とか「薀蓄ダラダラ!」とか微妙な文句しか言えないのは何故だあ?
間違いを指摘されてその指摘が正しくてぐうの音も出なかったからだろ?w
やけに攻撃的な割に「相手してない」 みたいなアピールが異常に多いんだわ。
そして「相手にしてないし!」って書いたものすら慌てて消してしまう。
……このていどのことはこんな短い文からも読み取れちゃうんだわ。
お前の一件口汚いだけの中身の薄い文章にもお前という人間の情報が染み出してて
読む人間が読めばお前がどういう人間でどういう経験をしてどういう感情を持ったのかがわかるわけ。
でもお前はそういうバレバレ感すら気付いてないだろ?
お前が執着して悔しがってるサイバー近藤っておっさんにもそういうのを見せられたんだろ?
客観的に見てお前は平均以上に知能高くはねーし
その時事についてもそんなにものを知らないんだろう
なのにプライドばっかり高くて大したこと言われてなくても打たれ弱くていちいち傷付くから努力も出来ない
当たってるだろ?
それをビビらず認めないと何の成長もないと思う。
あれだけ画が上手いのに、怒るか驚くかしか印象に残る表情がなくて(もしくはそれらが強すぎて)、もっと微細な感情がいまいち読み取れない部分があると思う。
自分が昔から不満に思ってたのは、AKIRAのクライマックス前、ケイが禊のあとに金田と話すシーンで、金田が察してしまったときのケイの表情とか。すごいいろんな感情が流れてるはずのシーンで、もっと悲しみとか不安とか様々な葛藤が読み取れる表情になっていると嬉しんだが、残念なことに鉄雄が◯◯化して呆然としてるときと同じ驚き顔にしかみえない。(金田はわりと他のシーンで見たこと無いタイプの怒りの表情してた気がする。)
クライマックス前に人間関係が一度解決を迎える一番の読みどころなのに。
書き手もそれをわかってて珍しくアップの連続で畳み掛けてるのに。
これまでの作品と違ってわかりやすいアクション作品でボーイミーツガール部分のクライマックスなのに。
読む側として、ここにリアリティなんてもはや求めていられないのに。
なんか金田の表情もケイの表情もこれじゃない感じを受けるのは自分だけだろうか。
数コマあとではケイがそれなりに不安げな表情で飛び出す金田を見送ってた気がするが、そのときはもうカメラが引いちゃってる。読者がはっきり観たいのはそっちの表情なんだよ。。。
それほど色々読まないので偉そうには言えないが、最近でこういうのが上手いのは岳の頃の石塚真一だと思う。ほとんど脚本として成り立ってないような「山で人が死んだ。完。」みたいなエピソードを、三歩の複雑な表情だけで受け止めて読ませてた。すごい。
言いたいことがいくつかまとまりとしてあるので箇条書きの形式でまとめる。
・たとえば乙女ゲーにどっぷりだったりZEROSUM読んだりしてるような分かりやすいオタクが週刊女性とかワイドショーとか見てると思うだろうか?
むしろ彼女らは世間に疎いと言われるぐらいにはそういう井戸端会議のネタになるような、市井の地に足のついた、言い換えれば「夢が微塵もない現実的な情報」は積極的に拒絶してる感じするが。ピーターパン症候群も持ってそうだし。
(むしろそういう二次元系のオタクってピーターパン症候群的な童心が残ってることがそれになってしまう必要条件で、レディコミの生々しい内容を好める成熟した大人とは対極の存在に思える)
・琥珀の夢で酔いましょうが電子書籍サイトでレディコミに分類されているのがなんだうと思った。
「メシヌマ」よりはよほど男でも楽しめる余地ある青年マンガっぽい中身に感じるのだが、なにをもってレディコミなのか
(rentaやbookliveではレディースコミックや女性漫画に括られていて、シーモアやめちゃコミでは少女漫画に括られているので、全会一致というわけでもないが)
・フィーヤンはレディコミといわないという主張があって気になったんだが文句なしのレディコミってどんな作品だろうね。グランマの憂鬱とか認知症になった魔法使いみたいな、おばあさんが主人公の作品はほぼレディコミで確定かね。傘寿まりこは少女漫画と出版社側が言ってるが。
・レディコミには「男が容姿に対して可愛いと思うようなキャラが出てこない」というのが最低条件としてあるんだろうか?
たとえば乙女ゲーで例はひと昔古くて申し訳ないが薄桜鬼やうたのプリンスさまにはヒロインが可愛いという理由で男がヒロインだけ目当てでそういう乙女ゲープレイしてる事例はあった。
しかしレディコミだとキャラが可愛くて男のファンがつく、みたいな魅力がキャラにある作品は(ほぼ)皆無じゃなかろうか。
性的嗜好を刺激するような不細工さというのでもなく、ほんとうにただだぱっとしない売れ残りの女おばさんという感じ。
それはレディコミの定義に関する必要条件みたいなものだからだろうか?またこれにはは意図的に男性をファンから排除しようとする目的もあるのだろうか?
(ほぼ、と書いたのは「アラサー独女シマちゃんのベランダレシピ」)はレディコミならが可愛いヒロインだったから」
・レディコミには今流行りの画風からは外れたひと昔以上前の画風の作品が多い気がする(流行りの絵柄と一致しないのは、逆に画風が流行りにはいままでなかった未来に進んでいるからという場合も想定されるが、そういうわけではなさそう)
とするなら、レディコミを読むのは懐漫を読む感覚を、味わいたい、あるいは懐漫の雰囲気で新作の物語を読みたいからという人も多いのだろうか。
・レディコミや、コアブックスの風刺漫画などが「漫画」という主語で言及される資格を持っている違和感。
たとえばカズオイシグロのようなノーベル賞作家の小説を読む人と、フランス書院のエロラノベ(だけを活字主体の媒体としては)読む人がいたとして、
前者は当然「小説を読むのが好き」というだろうが、後者の人が「小説が好き」とは言わないと思う。
形式的な分類では純文学もエロラノベも確かに「小説」なのだが、あまりにも書き手読み手双方が持つ文化の間では隔たりがある。
そして前者やSFでもミステリーでも大部分はそれを読んでいることに対して、「小説が好き」ということには違和感は感じられないが、エロラノベをもっぱら読んでる人が「小説を好き」といっては、単に媒体だけ共通項の文化圏が他の小説好きの文化圏を侵してるかのような感じになる。
だからこの場合は「小説好き」というのは別に他の「小説らしい小説が好きなわけではない」ことからも自己認識に遭わないから、「エロラノベが好き」というより狭い括りでの言及の仕方になるんじゃないかと思う。
同じことはレディコミ等と他の漫画のあいだの関係にも言えそうで、レディコミはジャンプに比べれば「漫画らしい漫画」というところからかなり遠いところにあるものだと思う。
夢を見せる漫画や不条理をみせるにしてもドラマティックな展開があるのが漫画の多数派ななかで、レディコミは読者投稿に基づいたりするから淡々と現実を描写するだけになる。夢も希望もない。
作者がpixivもやっていてその作品が熱心なファンの萌え語りの対象になるような漫画と、作者がインスタやっててネット記事のおまけコーナーで中年主婦のリアルを描いてるような漫画では、それを取り巻く文化圏は全く相反して交差することもないと思う。
前者は漫画の代表(求心力の中心)たりえるが、後者は漫画のコマ割りや吹き出しや感情の記号化という形式だけを倣っただけの内容面では全然別物を描いてるのにその分類に対して間借りしているだけに見える。
まさに、学習漫画や進研ゼミの販促漫画を読むのが好きだった人が「漫画好き」にあてはまるのかなあ?と同じような感じ。それに対する態度も文化も典型的な漫画好きとは全然異なっていると思う。
あるいは「絵」とは形式を抽象すれば「色の違いによって平面に表現する」ことで、この点で油絵の風景画かラノベイラストレーターも絵描きで、作られたものは絵なのだけども
そこで「絵が見るのが好き」というとき、前者と後者を両方同時に内包し得るのかなあと。両者はその供給も需要もひっくるめて生い立ちの時点で全く異なる文化圏にいるもの同士だろう(もちろん美大出の漫画家レーターもいるっちゃいて前者の文化にもなじんでる人もいるだろうがむしろ例外的)。
そういう意味で、レディコミを読んでる人に向けての「漫画好き」と、少女漫画を読む人に向けての「漫画好き」(あえてレディコミを漫画という総称的用語で言及してよいのならだが)は、言葉が同じというだけで実質別物の意味合いと捉えた方が自然じゃなかろうかと。
・大人にとっては「向け」などないようなものなのに、漫画に対して出版社がいちいち手間かけて性別の年齢で分類するのはなぜか考えたが、まさに子供のためなのだろうと思った。
つまり「少女漫画」は子供の女から読めるが、男の子にはわない。「ヤングレディース」は高校生とか大学生じゃないと楽しめない確率が割とあるし、これまた男の子やその高校生大学生は楽しめない。
そして「レディコミ」は大人になってからじゃないと楽しめないが、逆に大人からみれば少年漫画も青年マンガもルポ漫画も楽しめるという具合。
だからこそ大人の視点でみるとこういう分類ってなんの意味があるんだろうと思えてしまうことがあるが、視点を切り替えればいいのだった。
「子供にとって自分に合うものを探すには便利な目安」なのだと思った。ラノベという分類の定義はほんとうにあってないようなものだが。
久しぶりに見たらsyamu本人が徹底的にMADや切り抜きを駆逐していて泣いた。しかも、駆逐行為や本人の生放送でのアンチに対するヘイト発言連発によりファンからの反転アンチが爆増してしまった。syamu関連の話が出来るコミュニティは本人に対する徹底的な怨嗟に溢れてて、今書いてるこの嘆きすら、まともに書けない。それなりに客観的に説明されているwikiですら、怨嗟が滲み出ててコンテンツそのものが特級呪物クラス。
そして、遂にはsyamu本人のアカウントは凍結&凍結。syamuは家族である焼肉からすらタヒねと言われているらしく、もうなんと言うか…あまりにも悲し過ぎて見ていられない。勿論、全盛期の頃から闇が深いジャンルなのは分かっていたけど、MADさえ見ていれば、そこまで闇を感じられなかったから楽しめていたが、これは見ていて…辛いだけで何も面白くない。
もう散々言われているが、syamuというか濱崎順平氏は非常に愚かだ。復活の際に、どれだけ周りにはオワコンやつまらない、キモイと言われても、ガン無視して淡々とゲームしたり踊ってみた動画を撮ったり、商品レビュー動画をストイックに投稿し続けて、MADやいじりという名の誹謗中傷には完全無視さえ決め込めば、それなりに収益は身込めたはず。少なくとも、真面目に好きな事を淡々とやるという路線であっても、それで楽しんでくれる人は確実に一定数いる。というか、オフゼロでヒットする前でも普通のファンが実際居た(らしい)し。無職で何も無い状態から手に入れた金の木を異性に対する執着や単なる怠惰で全て手放してしまった。非常に惜しい。
ただ、その一方であまりにも目に余る弄りというか誹謗中傷が多かったので、これに耐えながらの動画投稿は濱崎氏どころか常人ですら無理だったのではないだろうか。少なくとも私は…無理だ。その中で、濱崎順平氏を見てて思った事は、例え一発当てて成功しても、そこから上に行くのは勿論、維持していくのすら、難しい事だ。彼にとってオフゼロによる大ヒットは、貰っても持て余してしまうぐらいの強大な神からの授け物だったのだろう。宝くじが高額当選して不幸になった人みたいだ。これならオフゼロでヒットせずに、今でも夏休みの小中学生みたいな動画を延々と量産して微量のファンやアンチと戯れてた方が、幸せだったのでないかと思うぐらい…。
そんなこんなで、もう彼からは面白いものを得られないので、最近ハマっているのはヒカマニこと、HIKAKIN_MANIA及びその外伝。濱崎氏と違って、HIKAKINは本物の大物YouTuberだけあって闇を感じないのが良い。昔は音の出るゴミというあまりにも不名誉な罵声を浴びせられても、淡々と真面目に面白い動画を投稿し続けたからこそ、ここまで報われたのだ。そして、HIKAKINも濱崎氏同様にMemeにされても、10年選手の経験値や煽り耐性で上手くヒカマニネタを受け流している様は、流石レジェンドと言わざるを得ない。濱崎氏が一番に見習うべき人物だ。…せめて、動画投稿だけはしようよ…。YouTuber名乗ってんだから…。
…というか、HIKAKINも一時期は濱崎氏を認めたのにな…。syamuとしての頑張りによってはマジでコラボ動画が実現して、ヒカマニネタとsyamuネタのコラボMADの存在すらありえたのに…悲しい事、このうえなし。
現状のsyamuWiki(https://wiki3.jp/oshikkoman)見た後に、ヒカマニWiki(https://wikiwiki.jp/jikoman/)見たら、元ネタ人物に対する書き手達から滲み出る愛情やリスペクト精神のあまりの落差に涙がちょちょぎれる。前者は皆無どころか憎悪や殺意すらあるが、後者はいじる部分はありつつも、HIKAKINに対する愛をふんだんに感じられるうえにネタにして本当に申し訳ないという贖罪の気持ちすら感じられる。逆だったかもしれねえどころの話じゃねえぞ。
b:id:dmekaricompositeです。遅れましたがまた返信です。
ブコメは元々誰からも読まれる可能性があるものですが、今回は石黒さんがエゴサなどで悩んでいる様子なので余計に読まれる可能性高いと思うんですよね。
それなのに例えばこれhttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240402192834
なんか「いいねしてた責任はもちろん問われるに決まってる」というのがトップブコメで、暗然としてしまいます。杉田水脈は単に「いいね」しただけでなくこれまでの言動と合わせてアウトだという判定なのに……。それに、いいねした責任というのは一年も誹謗中傷されてもまだ果たされないほど重いのか、仮にいいねした責任があるとするならどれほどの重さが妥当なのかと問い正したくなります。
それで自分のブコメが言及先に読まれることをもっと意識すべきではないかと思いました。それは別に批判するなということではなく、批判するにしても本人の前でも恥ずかしくないくらい正々堂々とした批判をすべきだろうという意味です。
その上で「一番賢い分一番タチが悪い」についてですが、私の第一の誤りはブコメのひどさのグラデーションを吟味しなかったことです。ib:id:muchonovさんのあのブコメは今でもちょっとどうかと思います。ただ「なんか感じ悪い」にすぎず、誹謗中傷だとは言えない。私はそれを「頭おかしい」等の完全に誹謗中傷なブコメと一緒にして「こいつらは敵だな」と雑に判定しb:id:muchonovさんについては「こいつは賢いから誹謗中傷にならないラインを見極めて遠回しに嫌味を言ったのだろう」と邪推してしまったわけです。なので「一番賢い分一番タチが悪い」という表現になりました。
そして──重ね重ねの失礼になりますが、私は以前からb:id:muchonov さんに対して「博識だけど時々無神経なことを言う人だな」という印象を持っていました。
自分のブコメを振り返ってみると、NewJeans紅白出場決定のニュースでb:id:muchonovさんに言及していました。https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.sanspo.com/article/20231229-AL75GW6KPVIBVOE3OQZE75GYZM/
b:id:muchonovさんが「よく大晦日に日本ローカルのイベントに引っ張ってこれたなと本気で驚いた」とコメントしていたのに呆れて
「紅白にはシンディ・ローパーもエンヤも少女時代も出演してるのに「よく大晦日に日本ローカルのイベントに引っ張ってこれたな」と驚いてみせるid:muchonovに違和感。頭宇野維正なんじゃないの?」
と書きました。私はこの時「b:id:muchonovさんって過剰な自虐をリベラルだと勘違いしてる人なのかな?それともかなり変な人?こういうへりくだりって対等な関係を築くのにむしろ有害なのよね……」とモヤモヤしていた記憶があります。
更に遡ると、新語・流行語大賞「ジェンダー平等」のブコメでもb:id:muchonovさんに言及していました。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1810889
この賞の解説の「議員や管理職級の女性の割合を増やしてあげることがジェンダー平等だと勘違いしている人もまだ多いようだ」という文章を竹下郁子や北原みのりがとんでもない誤読をして「増やしてあげるとはなんという上から目線!」と罵倒していた件です。この時b:id:muchonovさんは
「単に「増やす」と書けばいいとこで、書き手自身の認識とも読める文脈で「増やしてあげる」表現を使ったことによる不幸」
「 id:muchonov書き手自身の認識だと読める文脈ではないでしょ…増やしてあげればいいというのは勘違いだとはっきり書いてるのだから。竹下郁子が読解力なさすぎるだけです」
と批判しています。今読み返してみても竹下郁子の誤読はひどすぎると思います。
ただし私は元の文章の書き手を芳野友子連合会長だと誤解して「ちゃんとした文章を書いている芳野さんに失礼」と書いてしまいましたが、b:id:muchonovさんは「あと、賛否両方にこれが芳野氏のコメントだと勘違いしてる人がいるような」とちゃんとツッコんでいました。私も人のことは言えません。
このような経験から私は「b:id:muchonovさんは党派性で認識がゆがんじゃう人なのかな。しかしためになることも言うし、b:id:zyzyのように完全に一線越えてる奴とは違うんだよね……」とモヤモヤした気持ちでいました。
前置きが長くなりましたが、今回の私の第二の誤りはモヤモヤをモヤモヤのままで留めておかなかったことです。答え合わせ云々のブコメを読んだ私は「ああ、やっぱりb:id:muchonovってb:id:zyzyやb:id:white_roseとかと同類なんだ。石黒さんを中傷する敵なんだ!」と安易な正解にとびついてしまいました。このように敵認定すると、モヤモヤは消えます。いみじくもb:id:muchonovさんが仰っている「陣営脳」に染まると0か100かしかないので、人間の複雑さに悩まなくてすむから楽なんですよね,この楽さが危険なのですが。これからはb:id:muchonovさんに対してもっとモヤモヤした認識のままで留まろうと自戒しています。
最後にもう一度「答え合わせ」について。石黒さんの動画を確認しましたが、石黒さんは「いいね」の晒しは好きにすればいい、しかし答え合わせと称して勝手なレッテルを貼るのはやめてくれという主張だと私は感じました。
長くなりましたが釈明は以上です。
b:id:dmekaricomposite という、自分が割と良識的だと思っていたアカウントの人に身に覚えのない嫌疑をかけられ、傷ついた人を更に傷つけるろくでもない人間だと詰られてしまったので、ここで反論しときますよ。
この人が色々言うてきたのは、石黒正数氏が過去のtwitterでの「いいね」傾向からデマも交えて暇アノンなクリエイターと認定され、そのレッテルが拡散されたことについて、事実無根だと反論している[ https://www.youtube.com/watch?v=UN-w82vPiv4:title]という動画のある部分についての、自分のコメント。当該箇所は、石黒氏の動画のここ。
発端のこの晒しは問題ないと思うんですけど、こちらの方、僕の作品は読んだことがないのに「いいね」が答え合わせだとおっしゃっている。それって答は自分の頭の中にしかないじゃないですか。なのでこれに関して、せっかく自分のチャンネルなんで、答え合わせの材料を出させていただきます。
ここを呼んで自分が感じたのは、おそらく石黒氏は、「答え合わせ」というのは「自分の作品と、自分のtweetでの「いいね」傾向の照応関係」のことだ(あるいは、そうであるべきだ)と思っていて、だから自分の作品を読んでいない人が「答え合わせ」をするのは「答は自分の頭の中にしかないじゃないですか」と言っているのであろう、と。でも石黒氏が取り上げている元tweet(石黒氏動画で隠されている部分は伏せ字とします)では
石黒正数氏のいいね欄、■■■■デマ以外にも色々とお考えの透けて見えるツイートがワラワラと。▲▲▲▲や●●●●も複数あり、答え合わせ感がすごい。作品を読む前に知ることができて良かった。
とあって、おそらくこの人は、自分が先に知った「①■■■■についての「いいね」群と、後から知った②▲▲▲▲や●●●●についての「いいね」群の照応関係」のことを「答え合わせ」と言っているのであろう、と。
こういう「答え合わせ」の用法ってSNSのジャーゴンぽいところがあり、もしかしたら石黒氏がそういうジャーゴンに馴染みがないから「答え合わせ」という言葉をめぐって認識のズレが起きてるんじゃないか、という話ね。実際、石黒氏の動画は「僕の作品を読んでないなら、答は自分の頭の中にしかないじゃないですか」というコメントに続いて「答え合わせの材料を出させていただきます」として、自分の作品・創作活動での諸々の取り組みを紹介する、という流れになっており、これは自分の読み解きとも符合してる。
というわけで、自分は以下のように書いた。
冒頭の「答え合わせ」云々は、石黒氏のある種のツイート群への「いいね」がたまたまや備忘的意味ではなく確固とした思想に基づくものであることを別のツイート群への「いいね」で確信した、という意味ではないのかな
そしたら、こういう風にブコメされたわけ。
id:tattyuやid:muchonovやid:white_roseが傷ついた人を更に傷つけるろくでもない人間だということがわかるね。id:muchonovが一番賢い分一番タチが悪い。言質とられないように立ち回ってる。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4751484966157504896/comment/dmekaricomposite
な ん で だ よ !
「一番賢い」→こんな文脈で賢いとか言われても、全然うれしくない!
「一番タチが悪い」→その自覚はあるが、今回は別にそこは出してない!
「言質とられないように立ち回ってる」→これこそ全く身に覚えがない!
そもそも、自分のブコメって「傷ついた人を更に傷つける」内容ですか? ナンデ??? こっちとしては、もう訳わからんわけで、ひさびさにブコメツリーおっ立てましたわ。自分のコメントの意味を実直に説明しましたわ。
「僕の作品は読んだことがないのに『いいね』が答え合わせだとおっしゃっているの、それって答は自分の頭の中にしかないじゃないですか」の「答え合わせ」はこういう文脈では?って書いたけど、これ、更に傷つける?
https://b.hatena.ne.jp/entry/4751508816115317632/comment/muchonov
そしたら、返しがこれ。
暗に「嘘つけお前暇アノンだろ」と言ってるように見えましたが。違うんですか?違うなら「石黒さんへの誹謗中傷に抗議します」とはっきり言って下さい。被害者に寄り添わず加害者に寄り添ってるように見えました。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4751538666143322912/comment/dmekaricomposite
お、おま…。「暗に」「言ってるように見えました」「見えましたが」「違うんですか?」って、全部あんたの主観での決め付けじゃんか! 最初のブコメ、どこをどう読んだら「嘘つけお前暇アノンだろ」って意味になりますのん? 「被害者に寄り添わず加害者に寄り添ってるように見えました」って、書き手と読み手で「答え合わせ」という言葉の意味のズレが起きてるっぽいことを指摘しただけで「加害者に寄り添ってる」ことにされちゃうの!?
挙げ句の果てには「違うんですか? 違うなら『石黒さんへの誹謗中傷に抗議します』とはっきり言って下さい」ときた。なんだこれ、手の込んだバッドジョークなのかな…!? だってこれ、まさに石黒氏を非難してた人達から石黒氏が言われてたことじゃん。「違うんですか?違うなら『■■■への誹謗中傷に抗議します』とはっきり言って下さい」って。
石黒氏は今回「一度嫌疑をかけられたら、本人がいくら否定しても納得してもらえない」「挙げ句には『違うなら○○と言えるはずだ、○○と言え』という形で非難者側の正義への恭順を宣言させられる」っつーSNS魔女裁判のメカニズムの被害に遭ってて、だからこの動画で改めてそういうことに抗議してるわけでしょ。その動画自体のブコメで、自分では石黒氏を擁護してるつもりの人が、石黒氏を苦しめたSNS魔女裁判を反復・再演してる。「暗に○○のように見えました」「違うなら○○とはっきり言ってください」。なんなん?
自分は「○○と書いてはいけない」とか「○○を削除しろ」って言われた時は、それに相応の理由(事実誤認である、差別的である、誹謗中傷を含む、その他に社会的に好ましくない影響がある、など)があれば反省してホイホイ応じるタイプの人間ですけどね、「○○とはっきり言ってください」みたいなことを言われるのは勘弁してほしいんです。他人に嫌疑をかけて、その相手に思想の踏み絵を踏ませるみたいにして、その嫌疑を晴らすための手段として何かの宣言を強要するのは、やっぱりいかんですよ。内心の自由・表現の自由的にも一番アウトなやつでしょ。
b:id:dmekaricomposite さん、私は普段のあなたのブコメには共感することも多々あるんですが、今回ご自分がそういうことをやってるって自覚、ありますか? ちょっとよく考えてみてほしいです。
もう受験生でもない自分が高校レベルの参考書や問題集をいつまでも解いたりするべきなのか分かりません。
解いたりするべきだと思う以下の持論を持っているのですが、この持論が正しいかどうか全く確信が持てません。
以下から持論です。
まず、高校で習うことを理解していなければ、大学以降のより専門的なことが理解できないことがあるというのは確かだと思います。
だから私を含めそういう専門的なことを理解したい人は、高校レベルのことの穴を埋めるべきだと思います。
それをせずに大学レベルのことの学習に手を付けても理解できることがある可能性はありますが、その理解したという感じに錯覚の場合が混ざるおそれがでてくると思います。
つまり理解してないのに知った気になる、いわば「何がわからないかわからない」状態に陥る可能性が出てくると思うのです。
そのうえで、そのような大学レベルのことを理解していないと理解できない、より高度な理論を学ぼうとすると、今度はわからないという自覚はあるが「なんでわからないのかわからない」という状態に陥ることになります。
つまりその高度な理論を理解するのに必要なそれに比べれば相対的に基礎的な理論や概念は複数あることも当然考えられ、そのどれを理解してないのかがわからない、特定できない、ということが考えられるわけです。
理解しなければならないこととしては当然高校レベルの部分に穴がある可能性もあるでしょう。
しかし学ぼうとするものを見ても、その理論等の全容を見て、具体的にどんな知識が必要か余すことなく把握することは意外に難しいでしょう。
単に用語の意味を知らないといったことなら、その用語をネット検索で、その用語を使っている理論のなかでもっとも基礎的なものが何かということを目星をつけて、そこから学ぶという方法がとれるでしょう。
しかし学術的文章が理解できない原因は必ずしも「単にこの言葉がわからないから」というような、わかりやすい輪郭を持ったものに由来しているとは限らないと思うわけです。
大学レベルの参考書(学術書)や論文を書く人は受験競争を経験した人なわけですが、受験勉強で得た「考え方のひな型」のようなものが、少なからずその後の思考やそれに基づく文章に影響を与えていると私は考えます。
それはもはや自覚的に認識できるものではない、無意識下にある思考の体系であるわけです。
その「枠組み」を共有していない人にとっては、より言葉を尽くさないとわからないことでも「既知の事項として」という感覚すら持たずに、その部分の言語化をせずに文章を書いている部分があると思います。
特に幾何学が絡む記述は、センス=ひな型・枠組みを持つ著者自身には空気のように当たり前のことであるために記述がシンプルになってる説明に対して、枠組みの無い人にはなんでそうなるのということがまるでわからないということが起こり得ます。
それは著者すれば「なんかこいつすごく察しが悪いな」としか思えないほど逆に理解しがたいことです。
これは大学と高校の話ではなく高校とそれ以下の話なのでたとえが悪いかもしれませんが、たとえば高校物理である部分の角度と別の部分の角度が同じという事実から式を導出することにおいて、なぜ角度が同じといえるかということの説明まではされてないみたいなことがあります。
これは、角度のことについてなら、中学受験の算数の難問を数多く解いてきたりその答に対する解説を見た経験が、まさに有機的に思考の枠組みとして血肉化した書き手自身には、条件反射的に当たり前のように角度が同じだと認識できるが、そうでない人には説明がないとわからない、という枠組みの有無による断絶ともいうべきことが生じているのだと考えられます。
しかし書き手にはすべての読者のレベルに対応することは不可能ですし、そもそも「枠組み」がある当人には1+1=2のレベルで当たり前のようにしか思えない角度の同じさを説明しようという発想すら起こらないから、こうしたことが起こると思うわけです。
そしてこの枠組みは「枠組みが足りてないから理解できないのではないか」という必要性の認識に応じて選択的に必要十分なものを特定して身に着けられる、という性質のものでないわけです。
上記は高校とそれ以下のレベルでの話ですが、大学とそれ以下のレベルという場合でも同じ構造的問題を共有していると思います。
因数分解や極限値を求めるための式変形の定石や、その他証明問題などに対して定石と呼べるような解法から定石ではない解法まで、その問題をこなしてきた人たちにとってはその経験が枠組み化しています。
なのでその人たち自身が見てきた高校レベルの参考書では途中過程として式変形など書かれていたものが、当人が研究者になって書く大学レベルの本ではその本人の主観的に自明性が強すぎてその途中過程を書くような発想すら存在しないわけです。
ですから、大学レベルの本を理解するには、およそ考えられるかぎりのあらゆる高校レベル以下の問題を解いて理解することを片っ端から行いその経験を積んで枠組みとする必要があると思うのです。
でなければ結局「何がわからないかわからない」「なんでわからないかわからない」という状況に陥ると思うわけです。
予備校講師の数学のアドバイスで「数3は数1Aと数2Bの知識がなければ理解できないというが、だからといって数1A・数2Bを完璧してから数3に取り掛かる必要はない。完璧は難しいのだから同時並行でよい」という趣旨のことを書いていたのを見たことがありますが、まずこれは受験勉強に関してのアドバイスであるということに注意するべきだと思います。
つまり点を取るためなら、完璧でない理解でも、ふわっとした理解でもパターンとそれへのあてはめとして、問題は解けてしまうということは十分考えられるからです。人口無能、あるいは中国語の部屋のようなものかもしれません。
一方で学問として理解するということにおいては、厳密に完璧に理解していなければ、ただの知ったかで、それは全く理解してないのと同じ価値しかないのではと思うわけです。まさに論理として理解しているのではなく「受験で点が取れる感覚」でパターン認識としてわかった気になっているだけだと思うからです。
また、大学以降のより専門的なことが理解できれば、高校で習うことはすべて理解できる、というわけでもないと思います。
先ほどの高校物理の例にあるように、高校レベルのことが当たり前になってる人が書いた大学レベルの文章には、高校レベルのことは書いてないことがあるわけです。
そして、どの大学レベルの理論を学ぼうとするかによっては、自分の持つ枠組みで十分にその理論が理解できるということはありえます。ありとあらゆる高校レベルの枠組みを網羅している必要はないわけです。
なので、大学レベルのことは理解してるが、その大学レベルの文章に高校レベルのことは書いてないかもしれないので、その後大学レベルのことにしか触れなかった場合、高校レベルだけど初見だと解けない問題が死ぬまで解けないままであるということが起こり得ると思うわけです。
たかが高校レベルだから、初歩的なんだから受験生じゃなくなっても真面目にとりくむほどではないと思うかもしれません。
しかしそのように単なる初歩的なこととされるかは、意義深いこととされるかは、時代次第の相対的なことではないでしょうか。
2000年以上前ならピタゴラスの定理を理解することも十分意義深いことだったでしょう。
時代が進むことによって、より高度な定理や理論が発見され、既存の定理はそれを理解するためのより初歩的なことと規定し直されるというだけです。
このような文脈での主語はあくまで「人類」です。言い換えれば、人類のうち誰かひとりでも知っていたり理解していたりするようなことを全て知っているような、仮想的な知性にとっての意味付けだと言えると思います。なかば無意識的にこのような仮想的な知性と自分を主語のうえで同化させてこのような「初歩的/意義深い」という価値判断をくだしているにすぎないのではないでしょうか。
あるいは「文明」を擬人化して主語においているとも言えるかもしれません。「文明」にとって、容易に理解できる初歩的なことかどうかということです。
一方実際に世界を経験する主体の単位は「個人」であり、わたしであり、あなたです。
ある時代にとって意義深いけれど今は初歩的なことを理解してない個人がいるならば、人類や文明が主語である場合、それが最先端の知識=未知であるか、または既知となって間もないか、で意義深いかどうかの価値が規定されていたのですから、個人を主語にした場合も同様に考えればよいのではないでしょうか。
つまりその個人が理解してないのなら、それはその個人にとって意義深いことなのだと思うのです。
大学レベルとか高校レベルとか関係なく、「自分が知らないという意味で意義深い」解ける問題を増やしていくことは、この世界や現象に対する理解の解像度をあげると思うのです。
だから大学レベルのことには書いてない高校レベルの問題の解法も赤本や難関大を意図した参考書には無数にあるので、それを解き続けることには、それを飛ばして大学のことを学び始めることを通じては経験できない意義深さがあると思うのです。
まとめれば、高校レベルのことが足りないために大学レベルのことが理解できないこともあれば、大学レベルのことでは身に着けられない高校レベルのこともあるので、結局この世の中をよりよく理解する手段として高校レベルのことも大学レベルのことも等しく有効なら、まずは高校レベルのことを完璧にしなければならないのではないか、と思うわけです。
ここまでが持論の全容です。ですが世の中の成果をあげている科学者の全てがこのようなことをしているとは到底思えないので、自分の考えが合っているなどという確信は全く持てないわけです。
なので、ぜひ、反論できるところがあったら教えてください。
このトラバには異論はない。そこで最後に追加で言っておきたいことを書いて終わりにする。
大学レベルの参考書(学術書)や論文を書く人も所詮は受験競争を経験した人で、受験勉強で得た知識が少なからずその後の思考の枠組みに影響を与えていると思うんだよね。
それで「枠組み」なんてものはなかなか自覚的に認識できるものじゃないから、その枠組みを共有していない人にとってはより言葉を尽くさないとわからないことでも「既知の事項として」という感覚すら持たずにそういう言語化をはしょって文章を書いている部分があると思う。
特に幾何学に関する記述は、本人のセンスにとっては空気のように当たり前のことでその説明がシンプルであったりしても、なんでそうなるのってことが枠組みの無い人にはわからない。ある人からすれば「なんかこいつすごく察しが悪いな」としか思えない。
これは大学と高校の話ではなく高校とそれ以下の話なのでたとえが悪いのだが、たとえば高校物理である角度と別の角度が同じという事実から式を導出するのに、なぜ角度が同じかという説明まではされてないみたいなことがある。
これは中学までの数学を身に着けた人にとっては当たり前のように角度が同じだと認識できるが、そうでない人には説明が必要。
しかし書き手はすべての読者のレベルに対応することは不可能だし、「枠組み」さえあれば当たり前のようにしか思えない角度の同じさを説明しようという発想すら起こらないから、こうしたことがある。
こういうことはは中学受験レベルの算数から差がはじまっていて、ああいうのが解けるような学力をセンスとしてあるいは勉強したことで枠組みとして身についてる人と、そうでない人とでは、同じ文章では伝わらない程度の断絶ができていると思う。
自分には大学レベルの本を理解する素地が足りているのか、と思うから、彼らが通っているはずの受験勉強から得た枠組みと同じものを自分にも構築すべく、高校レベルのことを勉強しなきゃという強迫観念がなくならない。学術書や論文の書き手も当然すべてのレベルの読者には対応してないし、かりに対応しようとしても「枠組み」は「空気」のようなものだから、枠組みを持たない人間を無自覚に想定読者として排除してしまうだろうから。