はてなキーワード: 西洋人とは
日本人のどこが個人主義なんだ?西洋の方がよほど集団主義じゃないか。
井上章一が知っている西洋人はしばしばこんな内容の感想を言うという。
その西洋人は日本を論じた本を読み、日本人は集団主義であると来日前までは信じていた。
しかし来日してみるとバラバラな個人主義的建築が群がっているという印象を受ける。
この日本のどこが集団主義的なのか?西洋の方が余程集団主義的である、という。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E7%AB%A0%E4%B8%80
井上 章一(いのうえ しょういち、1955年1月13日 - )は、日本の建築史家、風俗史研究者、国際日本文化研究センター教授。
(1)ラーメンなんて味覚破壊ジャンクフードを有り難がってる時点で食文化を語る資格がねえ。
(2)「恥ずかしい」なんて言葉で陰湿に他者攻撃する典型的な島国根性で「世界」を語るな。
(3)ヘッドホンしながら飯を食ってる人間が偉そうにマナーを語る違和感。
(4)論拠もあげず「常識」なんて言葉によりかかる時点で便所の落書き以下。
(5)我慢してまでラーメン食ってくれって別に誰もお前に頼んでねえ。
そもそも「『世界』的にはずかしい」と言うが、レスにあるように同じように箸を使って麺を食う中国系の世界では「音を立てて啜る」ことが普通なわけで、お前のやってるのは単なる日本disでなく、アジア人が西洋目線でアジアの文化を糾弾する行為なんだよ。その行為自体が、俺としては「周囲を不快にさせる恥ずべき日本文化」の典型なわけだが、その辺はどう思ってるんだ?
異文化理解の基本を欠片も認識していないお前さんは、自分がいかに狭い世界に生きてるかに気づくべき。
人前で裸になるのは下品、同性愛は悪徳、などといった道徳?は幕末あたりから西洋人に半ば強制されてきました。
江戸時代までの日本人は裸に対しても同性愛に対してもおらかだったようです。
麺類をすすって食べるのが下品だというのも、元々は西洋人の道徳だったのではないかと思います。
科学技術では、西欧は優れていましたが、全てにおいて正しかったとは言えないと思います。
また、一部のヨーロッパ、アメリカでは、裸のタブーも同性愛に対する差別も、克服されつつあるようです。
僕は、蕎麦屋ですすって食べることができず、一生懸命蕎麦を打っている職人に申し訳なく思っています。
また、「タンポポ」(伊丹十三監督)という映画では、レストランで先生(日本人)が生徒にスパゲッティをすすらずに食べろと教えているそばで、イタリア人?がすすって食べているという場面がありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%90_(%E6%AD%A9%E8%A1%8C%E6%B3%95)
まあ、ぶっちゃけこれだけ読めばいいんだが。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/japanbujut.exblog.jp/21221813/
ナンバの厄介なところはそもそもナンバの定義がされていないことだ。
「いやナンバは手を振らない歩き方で…」
「重心の移動が…」
「地面を蹴らない歩き方だ…」
「いや真の○○はそういうものではなくて…」とヌルヌルと形を変えて逃げてしまう。
ここではこの論文を参考にしよう。
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20181119154744.pdf?id=ART0009639792
武智とは演劇評論家の武智鉄二のことで、「ナンバ論」の元祖のような位置づけであることが分かる。
この時点で「歴史学とか民俗学とかの研究者ですらねえの?」って感じだけど。
ナンバというのは、農耕生産のための全身労働においてとられる姿勢で、右手が前に出るときは右足が前に、左手が前に出るときは左足が前にという形になる。
ナンバとは右足と右腕をそろえて前に出したいわゆる半身の構えのことで、簡単に言えば、農夫が鍬を手にして畑を耕す姿勢である。
これって「踏ん張りの効く姿勢を取るときは利き足を前に出す」ってだけの話じゃん?
西洋人だって鍬を振ったり剣で斬ったりするときは「半身の構え」だよ。
ナンバの姿勢を説明するときに、よく、右足が出るとき右手も前にだす、というように説明される。しかし、これは正確ではない。
日本民族のような農耕民族(牧畜を兼ねていない)の労働は、つねに単え身でなされるから、したがって歩行の時にもその基本姿勢(生産の身ぶり)を崩さず、右足が前へ出るときは、右肩が前へ出、極端に言えば右半身全部が前へ出るのである。
しかし、このような歩行は、全身が左右交互にむだにゆれて、むだなエネルギーを浪費することになるので、生産労働の建て前上好ましくない。
そこで腰を入れて、腰から下だけが前進するようにし、上体はただ腰の上に乗っかって、いわば運搬されるような形になる。
(中略)
まあ「江戸時代は草鞋や下駄だからそれに合わせた歩き方だった」というなら分かるけど、
「ナンバは疲れない、現代人の歩き方はダメ」みたいな話にはならないよね。
飛脚って利き手で荷物を持ってるから、常にそちらの手を前に出す形になっているわけで、
https://twitter.com/toriyu2/status/1063958653374353408
こういうのとか、急に増えたとかうんぬんじゃなく、ずーっと日本を下げる運動を彼らはしているんだよね。彼らの政治的な目的になっている。
旭日デザインを日本の戦犯旗のデザインである!ナチスの鉤十字デザインと同質であるという宣伝をし続けているんだから。デザインした人は全くそんな意図は無かったのに、韓国人に謝罪させて撤回させたりしているほかの例もある。新しく差別の種を作ったんだよ。そのへん西洋人にとっては知らない話だから「へぇ、そうなんだ。御免ね。デザイン改めるわ…」と撤回しちゃう例も少なくない。
Fate/EXTRA-CCCで登場したときのエリザは、ワダアルコ氏の耽美な絵柄に西洋人形のようなキャラデザと、殺人鬼としてのパーソナリティが相まって、悪役として可愛さとカッコよさを両立させた素晴らしいキャラクターだった。
その名作であるCCCにおいて、悪役として完璧な立ち振る舞いをしたエリザというキャラクターも、プレイヤーからは支持されていたのだ。
「何度も出てきて恥ずかしくないんですか?」の初出もCCCだぞ?
懐古が悪いとは言わんが、お前みたいにデマ流して新人さんに間違った知識を植え付ける奴は悪だとハッキリ言わせてもらう。
自分の主張を通すために都合の悪い情報を無視しているなら単なるクズだし
記憶が美化されて本気でそうだったと思い込んでるならプレイし直せと言いたい。
先ほどから怒りで手が震えている。
ふざけるなFGO。ふざけるな、タイプムーン。ふざけるな、DW。
これ以上、エリザをハロウィンという呪いに縛り付けるのはやめてくれ。
順をおって説明しよう。
Fate/GrandOrderというソーシャルゲームがある。
元々のFateブランドの効果もあり、ジワジワと人気が出て、現在大人気のソシャゲである。
このFGOというゲーム、確かに人気はあるのだが、一部の過去作のファンの反感を買っているという一面もある。
タイプムーンというチームが制作しているFateシリーズは、シナリオライターの奈須きのこ氏による魅力的なキャラクターと少年漫画のような熱い展開、ゾクゾクするようなニヒルなテイスト(ヲタク用語では厨二系と呼ばれる)が好評で人気を博していた。
だが、そのタイプムーンオールスターのような扱いのFGOで、奈須きのこ氏は過去の作品の登場人物をないがしろにし始めており、それが反感を買っている。
たとえば、凛とした誇り高き少女騎士であったアルトリアというヒロインは、下着姿を衆目にさらすキャラクターに変えられてしまったり。
過去の作品でラスボスであったキャラクターが、FGOから登場したキャラクターに倒されてしまったり。
FGOのヒットに酔っているのか、奈須きのこ氏は、過去の作品の設定が邪魔だといわんばかりに「過去の設定資料集は焚書」という言葉を発し、ファンを幻滅させたこともある。
そして、FGO以降顕著な傾向が、キャラクターの見当違いな方向性の贔屓だ。
もともとFateは良い出番が与えられるキャラクターと、ぞんざいな扱いをされるキャラクターで、贔屓の差が激しいことは指摘されていた。
原作者たちのお気に入りのキャラクターは、出番がどんどん増え、そうでないキャラクターは踏み台にされるといった、ファンからしたらたまったものではない現象が起きており、それが年々ひどくなっているのである。
踏み台にされたキャラクターのファンが可哀想であることは言うまでもない。
だが、ゴリ押しされたキャラクターおよび、そのファンが幸福かと問われればそうでもない。
贔屓されて出番が増えるたびに、キャラクターの底の浅さが露呈し、そのキャラクターの持っていたカッコよさ、可愛らしさが潰されて、魅力がすり減っていくのだ。
笑える3枚目ポジションに収まるならまだいい。
タイプムーンのギャグは、年々、パロディと身内ネタばかりの寒いものとなっており、笑えるコメディアンのポジションにすらなれないのが現状だ。
そして、隠すつもりもない贔屓は反感を買い、ゴリ押しされたことによってキャラクターはどんどん嫌われていく……。
そして、現在、そのゴリ押しによって最も被害を被っているのがFate/EXTRA-CCCから登場した悪役のエリザベート・バートリーだ。
Fate/EXTRA-CCCで登場したときのエリザは、ワダアルコ氏の耽美な絵柄に西洋人形のようなキャラデザと、殺人鬼としてのパーソナリティが相まって、悪役として可愛さとカッコよさを両立させた素晴らしいキャラクターだった。
演じた大久保瑠美さんの演技も最高だった。
Fate/EXTRA-CCCというゲームは、PSP後期のゲームなので、微妙にマイナーであったが、その完成度の高さからプレイしたファンからは口々に絶賛される名作だった。
その名作であるCCCにおいて、悪役として完璧な立ち振る舞いをしたエリザというキャラクターも、プレイヤーからは支持されていたのだ。
殺人鬼として悪役として魅力的だった彼女を、愛玩具に変えるために、カーミラというエリザの分身が作られ、エリザの邪悪性はカーミラに全て押しつけられた。
エリザは殺人鬼というアイデンティティを失い、カーミラはエリザの関連キャラという側面が付きまとうという双方にとって美味しくない采配をされたのである。
だが、これはまだいいほうだった。
カーミラというキャラクターが、不気味さとカッコよさを兼ね備えていて魅力的だったからである。
それぞれの季節のイベントに担当となるキャラクターが割り当てられ、誰が担当となるかは毎年、変わっていく。
ハロウィンだけは、年が変わっても毎回、変わらず、エリザが主役なのである。
原作者である奈須きのこ氏がエリザ役の大久保瑠美さんを気に入ってしまった、などの憶測は様々に飛び交うが、どうして頑ななまでにエリザにハロウィンを担当させるかがファンには全く分からない。
そうではないから困る。
コメディイベントであるため、エリザの魅力がハロウィンではまったく伝わらないのだ。
ただただ、エリザの間抜けな面が強調されて、カッコ良さが擦り減っていくのみだ。
もっと言ってしまえば、エリザベートはFate/EXTRA-CCCで十分な掘り下げをされているのだから、ハロウィンで主役を続ける意味がないのである。
そんな意味のない采配も今年で終わるか、と思われた。
ハロウィンを前にした、マチアソビというイベントで、今年のハロウィンはエリザが主役ではないよと発表されたのだ。
そのイベントでは、ゲストがエリザ役の大久保瑠美さんだったので、彼女の前で「今年でハロウィンは降板ね」と宣告するのは残酷であったかもしれない。
だが、ようやくエリザがハロウィンの呪縛から解き放たれるのだとファンには朗報であった。
だが、これはぬか喜びであった。
蓋を開けてみれば、今年のハロウィンもエリザが黒幕だったのである。
しかも、黄金を身にまとい、エリザはでっぷりとした短足のオッサンの格好をさせられて、さらに間抜けな役回りをされてしまったのだ。
何度でもいうが、CCCのエリザはすらりとしたモデルのような美脚をもち、シャープな殺人鬼の側面を持つ、かっこいい悪役であった。
それが何度もハロウィンにしばりつけられていくうちに間抜けな姿で醜態をさらす羽目になってしまったのである。
奈須きのこ氏に問い詰めたい。
今のタイプムーンは、聞く耳を持たないかもしれないが、今の彼らがしていることは、エリザにゲロをぶっかけ、腐臭を放つ姿の彼女を市中引き回しにしているに等しいと感じる。
イエズス会による侵略を察知した日本は鎖国へ向かう。西洋人たちは地球を破壊しながら技術力を付け、ついに日本を開国させる。日本人の知的水準の高さや、労働者としての素質を知っていた彼らは、植民化する代わりに、富国強兵殖産興業によって日本から利益を得ることを選ぶ(野麦峠、蟹工船、足尾銅山の公害などをもたらしたのは西洋人)。日露戦争の勝利もまた国際金融家たちの胸先三寸で決まったこと。支那事変(日中戦争)では、国民党に資金を提供して戦いを長引かせることで利益を得、真珠湾には使い古しの戦艦を再配備してほとんど実質的な損害なしに、日本を叩けという世論を盛り上げる、実際の歴史を知ってみれば、西洋人たちのやり方は、まさに「汚い」の一言。それにも関らず、学校教育とマスコミは真実を見えなくさせ、日本人に罪悪感を植え付ける。
ついでにいえば、法による支配は、国際金融家たちの都合に合わせてできている。そのせいで、私たちは私たちの土地を守ることを違法とされ、(外資系)企業による開発活動を否応なく受け入れさせられている。そんな世界に順応させるのが、このスレの学校のような場所なのだ。
横増田です。
遅くなったけど、返信をさせてもらう。
正直、「学者」は、哲学や科学(限界があることを含みつつ)という、ある種、とても強い共同幻想の中にいて、アイデンティティにクライシスが無いものだと思っていた。
嫉妬していたから、(無意識に)想像力を働かせなかったと言えるかもしれない。
よく考えれば、そんな一面的でないとわかりそうだが、途中で想像を放棄し、一部の学者のイメージを投影し、それで満足していたっぽい。
「学者」は「西洋人/西洋音楽」と言い換えてもいいかもしれない(向こう側にいる人/ある音楽)。
やっぱり、彼らにはアイデンティティがしっかり確立されていると、無意識に前提していた。
そんな単純でないと、バルトークの話を読んだ時、気づいても良さそうだったけど、気づかなかった。
見えなかった。指摘されたら、見えた。
それが大きな収穫だった。
どうも自己の拠り所をグラつかせる存在に出会うと、過去の偏った経験/イメージをベースに、簡単に攻撃的/懐疑的になって対立構造を作ってしまう。。。
反省する。
それと、
増田が言っていた、自己言及やメタ視点の扱いを恐れる態度。重要だと感じたんだけど、像を結ばなかった。
だから探索してみようと思う。
あと、
素人には通常アクセスできない情報群だったので、ありがたくストックさせてもらう。
これから少しずつ紐解く。
ちょっと雑だけど、返信失礼した!