はてなキーワード: 文科省とは
大学生を使って安くでアプリ開発なんて手法は、本当に恥ずかしいと思えよ。シャンラボの田中潤よ。インターンは、お前の奴隷じゃないんだ。
https://shannon-lab.co.jp/?p=10067
本来、インターンとは実力を発揮する場所です。仕事の経験をするっていうのもあっていると思いますが、教育して貰える場所というのは大分違う。
インターンで教育すると言うのはかなり間違っていて、それは人材採用の一環または社員研修の一環をインターンと呼んでいる会社があります。
弊社のインターンはどちらかというと実力を試す発揮する場所です。
人材採用をインターンと呼ぶ会社もあるようですが、インターンはインターンです。仕事を経験するか今まで学んできたものを実力を発揮する場所です。ローンを奨学金と呼んだり日本語はなにかと曖昧ですが、ここにきて調べると言うことを学ぶのではなく、学校で日頃からググって調べる=>実行して試す=>プログラムを書くを当たり前のように学んでおいてください。その能力を試す場所です。
日頃から Google を使いこなしていないと、いざ使おうと思った時に使えないんですね。学校で Google を使って調べて実際行動するこれを身につけておくことで、インターンに来たら就職したらそれを駆使してプロジェクトを進めるそういったことを行います。
自分で調べて自分で行動することは社会に出て当たり前のスキルです。この当たり前の能力が養われていない学生さんが多い印象です。これがないとこれからの時代は仕事をしていけません。Google が使える学生さんと使えない学生さんでは100倍ぐらい能力の差があります。プロジェクトを遂行できる学生さんとできない学生さんではまた100倍くらい差があります。
過去のインターンの記事を読んでいただけるとわかると思いますが、弊社のインターンにはあなたの能力がどれくらいか試す知ることができます。
人材採用の一環として囲っているのはインターンと本来呼びません。感想文などを見ると弊社のインターンは通常のインターンと違うと書かれている方が多いようです。実際、弊社では調べる実行を徹底的にやります。こちらの方が正しいインターンと思っています。ローンのことを奨学金と読んだり定義が曖昧になることが多く都合の良い解釈をするのが日常的になっています。お茶を濁し 定義を曖昧にすることを文科省が助長しています。曖昧な言葉から学べることはありません。もしかしたら弊社のインターンで一番養われるのは真実を見抜く目かもしれません。実践に近いことを経験することで得られる学びも大きと思います。
皆様のご応募お待ちしております。
私は情報技術者だ。今風に言えばデータサイエンティストやらセキュリティエンジニアなどと名乗ったほうが良いのかも知れないが、ながらく情報技術者という肩書で活動してきたため情報技術者と名乗ったほうが私の肌感覚的に合っていると考えている。
山田太郎議員が赤松健氏らと共に表現の自由の擁護を掲げ、政界では小さいながらも一定の存在感を示しているのは皆さんご存知だろう。
これまで地域のための政治家や特定の例えば自動車業界のための政治家や、更には女性のための政治家、共働き家庭のための政治家など様々な政治家が登場したが、サブカルの擁護、その中でもマンガアニメゲームを中心とした表現の自由の擁護のための政治家は非常に新しいと言わざる得ない。
これは本邦で「女が政治なんて」と怪訝な目を向けられても女性が参政権を獲得し、そして時間をかけて女性政治家の登場を果たしたときのような変化だ。
今の時代はまだ「マンガオタクが政治なんて」という怪訝な目がまだまだ多いように思われるが、無理解が理解に変わってくる節目なんだろうと思う。
さて、私は前述したように情報技術者である。何なら私の両親も情報技術者という言葉が生まれる前から情報技術者であり、私が生まれ育った家庭は情報技術という点においては非常に先進的であったと評価できる。
はじめて私の専用機として両親あたえられたのがPC9801であり、パソコン通信の後期あたりから私自身の意志でネットワークへアクセスしていたという経歴がある。
学生時代は高校教育に情報技術という科目がなく電気科目の一分野であったため工業高校へ進学し、そこから東京大学へ進んで計算機科学、情報技術関連を中心に履修した。根っからのIT畑であると言って良い。
そんな私が最近ふと思うのはまだまだ政治の分野は情報技術に疎いということだ。
このように感じた一番の切っ掛けはやはりマイナンバー制度と銀行口座の紐付けによる税務処理の簡略容易化が、個人情報保護という御旗によって実現に至らなかったことだろう。
ITへ専攻を持たない方々には理解が難しいと当時の一般市民や政治家たちによる意見交換を観ていて実感しているが、たとえ銀行口座の金額の増減がマイナンバーによって国から監視されていても、個人情報ひいてはプライバシーの保護は可能なのだが、プライバシーを気にする層は商取引の詳細、つまり自分が何を買ったり何処へ訪れたのかを国に監視されるわけにはかないという意見が支持されてしまったのだ。
本当にこの件は誠に無念と言わざるを得ず、私たち情報技術者の説明不足と力不足を痛感させられてしまった。
一応、この件に関連する技術情報としてフランス国立情報学自動制御研究所が公開した「GNU Taler」を紹介しておこう。
GNU Talerは プライバシーの保護が可能な決済システム。顧客は匿名のままでいられますが、事業者はGNU Talerでの決済を通じて収入を隠すことはできません。これは脱税やマネーロンダリングを避けることが可能です。(抄訳)
銀行口座がマイナンバーに紐付けられ、日本円に裏付けされた匿名決算システムが本邦へ導入されていれば、事業者や個人事業主、確定申告を自ら行う者、政治家たちは事務コストの大幅な削減と、我々全国民は所得税や法人税に関して現行税制のままであってもより平等に恩恵を得られたはずだ(ここでは現行税制が平等であるかは判定しない。所得隠しが難しくなることで現行税制の平等化が進むという意味)。
GNU Talerは例として挙げただけであり、これだけでどうにかなるというものではないが、一部の情報技術者、特に分散ネットワークへ興味を示している情報技術者の中では比較的好意的に捉えられている概念方式の決済システム。
我々情報技術者はこういった一般層が興味示しにくい、示すことができない技術情報を多く持っているが、技術者全般の悪い癖で自分たちだけで理解・納得・満足をしてしまう傾向がある。
これまでマンガアニメゲームのクリエイターが作り発表するだけで満足してしまっていたのと同様の問題を我々技術者も抱えており、このままでは良くないと危機感を覚えている。
ならば我々情報技術者の中から政治家を選出するべきなのではないかと思うのだが、我々は情報技術者が好きなだけであって政治は別に興味もないので、この好き嫌い、感情部分を乗り越えた赤松健氏には頭が下がる思いだ。
はてなユーザの興味が向いている情報技術関連といえば新型コロナウイルス接触確認アプリ「COCOA」の諸問題が挙げられるであろう。FLOSSで開発が始まったというのは評価に値するが国へ引き継がれた途端にAndroid版でのバグや、そもそも利用が広がらないなど運用に窮してしまった。
これに対する責任の声も少なからず聞くが、利用を促進するには国が強権を発揮するくらいの無茶が必要なので多少の同情は禁じ得ない。
WindowsではPowerToysが便利なので導入を国の制度で強制導入を決めるくらいの無茶だろう(※PowerToys : Microsoft謹製のWindows機能拡張ユーティリティ。様々な要因でWindows標準機能へ含まれなかったユーティリティ群とされる)。
ただ、強権を発動しないまでもゲーミフィケーション的に楽しく使うことや、割引クーポンを発行するみたいな市民の利用を促進するインセンティブが必要だったのでは?とは感じる。
本邦ではまだまだ情報技術者からすると不可解な情報技術運用が多くある。
例えば文科省のGIGAスクール構想までは良いが学校や請け負ったベンダーが端末パスワードを共通化してしまうことや、総務省がジャストシステム一太郎花子の事実上排除を決定してMicrosft Officeへ一本化してしまうというものだ。
GIGAスクール構想ではGoogle Chrome OSが支持を集めたのだからClassroomサービスによりパスワードを共通化する必要はそこまで無いと情報技術者は知っているし、Microsft Officeへ一本化するくらいであるならば保存形式をOpenDocument Format(ODF)にすることでMicrosft Officeと一太郎花子を共存させ無駄な予算の抑制、更に今後新たなオフィススイートが導入されても移行に手間は最小限に抑えられると知っている。
もっと言ってしまえば多くの行政機関や自治体、政党や政治家のWebサイトは極端なまでJavascriptへ汚染されアクセシビリティが地に落ちているのも視覚障害者にとって非常に問題である。
確認してみたいのならばJavascriptを切って各Webサイトへアクセスしてみたら良い。Javascriptが機能しなければコンテンツへテキスト1文字すら表示されないWebサイトの存在や、おそろしく醜い(見にくいではなく)トップページがレンダリングされることを知ることができるだろう。
視覚障害者のためのいわゆる「音声ブラウザ」はモダンで高度なレンダリングを解釈できるとは限らない。あまつさえ「今は高度な読み上げ機能を持つiOSやAndroidが主体だから良いじゃん」という視覚障害者がタッチスクリーンディスプレイを操作することへの無理解な声すら聞こえてくる始末だ。
これらの不可解さを解消するには「情報技術で国内外問題を解決する」というワン・イシュー綱領を持った情報技術へ深い見識のある政治家が登場しなければならないのではないかと思うのだ。
そして私はその一歩を踏み出すべきなのかどうなのか最近毎日悩んでいるのだ。
私は情報技術が好きだからこそ、情報技術は国内外の問題を解決できると信じているからこそ政治家にならなければいけないのかも知れない。
複数の地域に引っ越した経験と、複数の地域で家庭教師をやった経験からして、悲しいかな地価と教育レベルには如実に相関がある。
「地価が高い」→「親の収入が高い」→「親の教育レベルが高い」&「教育費にお金をかける」→「子どもの学力が高い」、という図式。
身も蓋もないけれど。
まあ、親の収入と学力が密接な関係があるというのは、ここ数年よく言われる話だね。
年収高いほど子は好成績 文科省、全国学力テスト結果分析: 日本経済新聞
ただ、「生活レベルに対して教育が重要である」ということを親が知っている、ということが一番のキモなような気がする。
そういう家庭はどのみち教育熱心になるのでそっちは放っておいて、そうじゃない家庭をどうやって底上げするか、だと思うけど。
医者です。今まで国民が信じていた「医師は命を救える」という嘘がバレるからとても困っています。
Q. 国はなぜ動かないのか?
そりゃ、日本国の医師は「医師国家試験」に合格する必要がありますので。日本にいる医師は「国から厚い補償を受けてきました」のです。そのため、国は「今まで美味しい思いわさせてきたから、テメーらでどうにかしろ」と思っています。なのに、民間の医療機関は「なんにもしないで」いたのに都知事が「新コロを受け入れない医療機関」を公開するといった瞬間に、ベッド数が増えたのは「そういうこと」です。例えば、自衛隊が「北が攻めてきたのに、何もしていないで逃げ出した」ら、非難するでしょ?国は「なんとかしろよ、でないと歯科医師のように点数でイジメるぞ!」と思っています。変わるべきは、医師です。
Q. 国は当てにできないのですね?
はい。
ゴミですね。本当に、社会のゴミですね。医師が「PCR という検査手法はヌケがあると重々いってきたのに、その上で PCR してみては?」と言った瞬間に、この国の医療人は社会学と経済学への信用を無くしました。お陰様で、社会学者と経済学者は「社会で使えない人たちの集い」だと認知されました。この際、文科省は大学の卒業案件に「経済学・法学・会計学」といった社会学部の卒業にセンター試験のようなものを課すべきですね。
Q. ふむふむ、医師は大変ですね。そんでもって、国民はどうすべきですか?
まぁ、最悪の場合は俺たちがなんとかするけど、死ぬときはそばにいてやるよ。
Q. 今読むべき図書は?
魯迅の「藤野先生」です。東北大学・医学部に留学した魯迅が「自分たちに必要なものは医学ではなく、なぜなら医学では中国を救えぬと気がついた」という諦念を、日本国民が再認知するべきなのです。
近頃、(人)文系に対する風当たりが強い。大学は「生産性」を重視されることが増え、文科省からは文系お取壊し令が出るし、学術会議では文系の数人が任命拒否されるし、「文系」いらない論は日に日に高まっている。
そもそも、そんなに大きい話でなくとも、人文系学部に通う中でときどき感じる抵抗は、この現象と同根だと思う。自己紹介で学部名を言うと、「それを研究してなにになるの?」なんて聞かれることはしょっちゅうだし、就活をしていても、理系にしておけば、と何度思ったか分からないくらいだ。私は私自身、文系が役に立たない、という観念を多かれ少なかれ内面化しているだろうし、それは周りを見ていても感じる。
もちろん文系学生が何を言ったところで大した説得力はないだろうけれど、しかし、黙って馬鹿にされているのも癪だし、なによりこれまで会った教授や研究者志望の学生は、みんな優秀な人ばかりだった。優秀だから彼/彼女らがしていることにも意味がある、というわけでは全くない。ないけれど、それでも自分の経験からは、彼らが無駄に難しい論文を読み、無意味な論文を書き続け、税金を無駄にしている、とはとても思えないのだ。
人文系が批判される一番の理由が、その生産性の低さである。たしかにこの分野をいくら勉強したところで、新しい科学技術を生みだせるわけでもなければ、経済や金融システムを上手く回せるようになるわけでもない。別にGDPは上がらない。
ただ、少し待って欲しい。生産性とはなんだろう? GDPが高いほうが「良い」って、どうやって決まったんだっけ?
私たちの生は、原理的に無限の問い返しが可能だ。なにが幸せで、なにをするべきか。そういったことはもともと決まっているわけでも、誰かが強制してくるものでもないはずだ。私たちは自分にとってなにが大切で、どうしたいのか、考えてみることができる。
いろいろな科学知識は「よく」生きるための手段にこそなれども、そもそもの方向性を決められるものではないはずだ。
もちろん人文思想なんて学ばなくても、幸せに暮らすひとはいる。そんなものに頼った覚えはないと、多くのひとが感じると思う。
それでも、全然影響を受けていないひとはいないはずだ。だいいち、生産性だってGDPだって、もとをただせば人文系学問から出発した概念なのだから。
大きな思想の流れは私たちの根本的な思考の裏側に、絶えず流れているんじゃないか。たとえ測定できなくとも。
とは言っても、全然自信はない。自分自身、やっぱり意味がないんじゃないかと、いつもびくびくしながら勉強している。