はてなキーワード: 思考停止とは
いやだからさたとえば1=xって等式があるやん。これのxに対する解は明らかに1のみやん?
で、これの両辺を積分するとx=(x^2)/2+Cになるじゃん。これのxに対する解はその個数の時点で明らかに積分前と異なるじゃん?
等式で結ばれてれば両辺積分微分しても同値じゃない例になってるよなこれは。むしろ感覚的には等号で結ばれたものは両辺足しても引いても同じなんだから当然微積分しても同値だって感覚に陥ってそこで思考停止しがちだと思うけど(俺もつい先日までそうだった)。
で、変数分離形dy/dx=f(x)*g(y)は積分しても同値だからこそ、積分することによってf(x)を求めようとするんだよな。
この場合のf(x)やらg(y)やらは先の場合でいうxに対応してると思うんだ。
xに関する多項式の等式は積分すると同値性が崩れるから解も変わる。しかし変数分離形の等式はそもそも積分せずに解けないというのもあるが、積分しても解であるf(x)は変化しない、もっといえば積分前も積分後も等式を満たすf(x)は変化しないわけで、これは積分前後で同値性が崩れないからだよな。(逆に積分して同値性が崩れるならもうこのような等式を解く手法が無くなるともいえるが。)
追記:恒等式か方程式かの違いは考えなきゃいけなかったな。でも変数分離形って関数の方程式じゃないのか…?え、恒等式なの?あーもう頭ぐるぐるぱあだよ。
まあ純粋な数学的証明に挑むんでもないかぎりこのあたりの理解の欠如が誤った計算を助長するということもないから深入りするだけ馬鹿なんだろうけど。
「よそはよそ日本では無理そういう国だから」で思考停止するならまあそれでもいいんじゃないかと思うけどシステムとして現にまわってる国があるのに「方法は存在しない」は大嘘なんだわ
こんなんでも昔から比べたら男も育児家事をするし女は外で働くし在宅勤務も広まってそれはまさに海外の後追いで回り始めてて「日本では無理そういう国だから」ではない変革も起きてるのにね。
暴力による訴えはあってはならないことだと。
それは国家政府が暴力には決して屈しないという意思表示のために。
しかしメディアの言説にしろ、意思表示としての国葬にしろ、重要なのはそれが誰に向けて行われたかということである。
一介の国民同士の喧嘩と、元総理の暗殺が決して同等のことではないことぐらい子供にも理解できる。
その上で、メディアに出演するコメンテイターは総じて「暴力はよくない」と思考停止したように繰り返す。
物と行為の質の違いについて、理解が及ばず配慮に組み入らない。
メディアも国も謳う「暴力反対」とは誰に向けてのメッセージか。
より具体的に述べれば、それは社会的地位が高い人間による、社会的地位が低い人間に対する警告であり懇願なのだ。
このメッセージが意味することは、文化社会による対話的解決を常識と据える事なのではなく、逆に「暴力は絶対に駄目だ」と洗脳的に植えつけることによって社会的立場の高い人間たちを守る城壁として機能させようという一種のイデオロギーに他ならない。
しかしだからといって対話での解決を不可能にする社会を形成した上で「暴力反対」を一方的に謳うのは、現政権を守り、己が権力を誇示し利用するための洗脳でしかない。
国民の声を無視し、強行したことに対する批判を耳に入れないその姿勢こそ独裁さがある。
国民の声を聞かなかったがために山上徹也被告はあのような凶行に走ったのだから、国葬は全く皮肉でユーモアに溢れている。
しかし暴力でしか崩せない社会を構築しておきながら、暴力を一方的に批判することは支配に他ならない。
ゆるやかな支配は誰にも気付かれずひっそりとわれわれの影を捉え、身動きを出来なくする。
1. ノーマスクで黙って通勤・通学・買い物 してる限り感染リスクはかなり少ない
2. 外食は「完全個室+100%黙食」くらい徹底しない限り感染リスクは高い。今までの感染経路の大半は飲食店であることがデータで証明されてる
1も2もこの数年完全に徹底してる人は理解できる。真似できないけどすごいなーと思う。
ただ 2 はオッケーで 1 はダメって言ってる人はどういう思考回路をしてるのかが全く理解不能なんよ。
5類移行や屋内マスク外すとかのニュースに対して「マスクは絶対に徹底しろ」って言ってる人たちの多くはこの数年で一度ぐらい外食いったことあるだろ?
まじで純粋に知りたい。単純に頭が悪い人なのか、おれが考えたこともなかったような理屈を持ってるのか。どっちなんだろう。
もっと言うと不要不急の外出(※買い物はネットスーパーやアマゾンで済む時代なので通勤通学通院以外はほぼ全て不要不急)はリスク。
マスク徹底しろって言ってる人たちもみんなそこまでは守れてないだろ?不便だとか不快だとか言い訳をつけて一定のリスクを許容してるんだろ?
自分たちのリスク許容は正しくて「マスクを外す」というリスク許容は間違ってると信じ込んじゃってる?
おれみたいなノーマスクの人はマスクが不快だし不便だから外してる。それだけなんだよ。
みんなもZOOM飲みやZOOM外食だけだと不便だし楽しくないから外食というリスクを冒してるんだろ。
おたがい違ったリスクを違ったところで冒してる。最悪それでコロナにかかってもしょうがないと思って生きてる。ただそれだけ。
これからはノーマスクの人を見ても「あの人も私もおたがい別々のところでリスクを許容して生きてるだけなんだなあ」と普通に見ればいいだけだよ。そうすれば周りにイライラせずに普通に生活できるから。マスク徹底しろって声高にネットや実世界で言ってる人たちはそう意識してみてほしい。
ライトノベルの作者が文学者として語られないのが腑に落ちない。
ライトノベル滅多斬りのようなそれに特化した書籍ならともかく、国語辞典や百科事典に載ってる人が全然いないわけだ。
特化した本では語られていてそうでない本では他のジャンルと同じ割合だけでもなく全然言及されないというこの状況は世間にとってラノベの価値は井の蛙的なものであるということを物語っているのではないだろうか。
後にも述べるがいまやラノベは純文学以上に熱烈な支持者は多いように思う。
が、そもそも本に対する愛着やこだわり自体あまりなく暇だったり必要に応じて読んでいるという人が、蝸牛の争いのような両者に比して圧倒的多数だと仮定するなら、権威ある事典などにラノベではなく純文学の作者について語られていれば浮動票のようにそちらの方が優れていると考えるだろう。あるいは世間一般の人がそれがなんとなくであるにすれラノベより純文学の方が優れているという考えを持っていることの現われなのかもしれない。
このような単にラノベが純文学より劣っているという考えは何の普遍性もない(無根拠な)価値判断が来ているのだろうか。
正直私にはたとえば恋愛を扱ったものに関してラノベと純文学で読後感という点で違いを見出せなかった。
ラノベ、魅力的な都合のいい異性を描いて娯楽に供させる。
一方で純文学、シェイクスピアのハムレットなんか見てみるわけだが、異性が魅力的でないこと以外読み物としては両者ともそれぞれ違った(優劣ではなく)面白さがあるだけで差を感じられなかった。
ブリタニカ百科事典先生によると、文学は芸術の一つで、芸術には美の要素があることが要件らしい。
逆に言えばより美しく、芸術性が高い作品が文学としてより優れたものなのだということになりそうだ。
でもそれじゃあ美ってなんだよって話になる。ラノベに書かれてることは美しくなくてシェイクスピアは美しいと頭ごなしに言われてにわかに納得できるか?ラノベ好きなら教条主義的な人以外そんなことを思考停止して受け入れるのは無理な話だろう。
文学といえばよくそのメッセージ性が問題にされているとは思う。
文学作品の物語、プロット、筋というのは何か崇高なことを訴えていることが期待されるものだ。
その点ラノベにとって物語というのは登場人物すなわち読者にとっての異性をより魅力的に見せるための小道具、オタク的に言えばシチュとしての役目しか持たされていないのかもしれない。
あるいは訴えることがあるにしても評価されている純文学のそれに比べれば余りにも素朴で浅はかなものなのかもしれない。
しかしそれがなんだと言うのだろう。
そのラノベを開くとマッチ売りの少女のように脳内に魅力的な異性が立ち現れてくる、そこに価値を見出している人が確かにいるのだからそれもまた確かに「価値」じゃないか。
むしろ紙の本が売れなくなっているこのご時世には電子出版と相性がいい漫画と同じくラノベのほうがそれ以外の小説よりよく読まれているのではなかろうか。
価値に対して人間が万物の尺度であってかつ尺度の多数決によってその度合いが最終的に定まるものなら純文学よりもラノベのほうが価値が高く優れているということになりそうなものである。
またどれだけ異性を魅力的に描けているかということならまだ美という観念にも通じるものがあるように思え、その作品の美しさを論じる余地があるように思える。
他方、ガリバー旅行記は人間社会の不条理さや醜悪さをこれでもかと抉り取った大人の読み物らしい。
そういうメッセージ、風刺、アンチテーゼの質が文学作品の重要な評価軸になっているようには思う。シェイクスピアも漏れなくその点で評価されているのだろう。
こうしたメッセージ等の価値というのはそれが真理を示しているか、生きる指針として役立つか、ということ等にあるのであって、これは美しさという尺度でどうこう論じれるものではないと思う。
たとえていうなら匂いについて判読性が高いかどうか論じようとするようなものだ。嗅覚上の情報に視覚に関係する尺度をあてがってもどうにもならない。
あるいは文学には描写そのものの美しさというものも見出すことが当然できよう。
その最たるものが詩だろう。
それは単純に視覚的に美的なものを描く、あるいはレトリックの巧みさという形で体現されるはずだ。
そういう詩的要素が散文においても存在するなら、その散文すなわち小説などは美しさを帯びていることになり文学の要件を満たしうるはずだ。
しかし文学からそういった詩的な要素に対してメッセージ性というものは論理の次元にあるものなのだから、そういう詩的フリンジを取り去ってもメッセージ性は保存されるはずである。
その文学作品が何を訴えているかということがノーベル賞においてすら重要な評価軸になっているのだから、詩的フリンジの有無はその文学的価値にとってさしたる要素ではない考えられるのだ。
文学の価値は何を訴えているかにあるはずなのにそこには文学の要件たる美がないとしか思われないのだから訳が分からない。
結局辞書の言っていることを手がかりに形而上的に考えても埒が明かないのかもしれない。
とはいえ主観のおもむくままに考えてみてもおそらく月並みな見解しか沸いてこないだろう。
それを承知で述べてみるなら、まず文学作品と呼ばれるようなものは限られた人しか楽しめない。少なくとも文盲や知的障がい者には荷が重い。
だからその価値判断というのはその限られた人の価値観に偏ったものになるはずだ。
知的エリートはそうでない人に比べ収入が高い傾向にあること言うまでも無い。
ただの女たらしが「紀州のドンファン」と一目置かれた称号を得るのも然り、財力があれば世間に対する存在感ひいては発言力も増すという俗物的な構造はまだまだ根強いと思われる。そうでなくても知的エリートは社会的地位が高い傾向がある。
そういうわけで彼らの考えは権威を帯びる。
ただそれだけなら楽しめる作品が多いというだけの話なのである傾向を持った作品ばかりが知的エリートに推されるということの説明にはなっていないはずだ。
彼らはより知的でなければ読めない作品に、自分を飾る嗜みとして、価値を見出すのだ。
なのでラノベではなくてそういう作品が、そういう作品の作者のほうが優れているという考えや言論が幅を利かせることになるのではないか。
教養とか皆無でもさっくり気楽に楽しめるようなものを尊んでいるのでは格好がつかない。それでは凡百と同じなのだ。
以上をひっくるめれば、彼らは美しい作品ではなく、強靭な教養や知性という顎でもってはじめて噛むことができるスルメ的な面白さがあるかどうかで価値を判断している。
そしてそれが権威ある辞書や事典の記述を通して本に対してさほどこだわりのない圧倒的多数の一般大衆に浸透し、そうしてラノベは純文学に対して劣ったものという既成観念が形成される。
月並みなばかりでなくいかにもルサンチマンに満ちた見解になっているとは思うが、そういうことなのではないか。
似たような話でアニメはドラマや実写映画より劣ったもの扱いされているということがあるだろう。
昔の大衆の娯楽だったものは今は高尚なものとして扱われるというパターンがあるけれど映画は割りと初めのほうから芸術的に価値あるものたりうると認識されていたような印象がある。
逆にアニメはジブリが(ガンダムなんかも?)例外なだけで今日まで芸術性が認められてないゆえにどこまでも映画に劣った娯楽作としか見られていないように思う。
さらに時間が経てば歌舞伎や浮世絵のように芸術として見られるようになるとはにわかに考えにくいのだ。
実はこの文章の原稿はいっぺんに書いているのではなく日をまたいで書いてるので、その間に得た知識によっては文章に反映されていくものもある。
その一つとして先ほど偶然知ったのは、大衆文学には少年少女小説、つまりほぼラノベと同義と捉えても差し支えない概念も含まれるということだ。
ただし付け加えていうなら大衆文学には純文学に対して価値が劣ったという含意がある。となるとこれはむしろラノベは劣ったものであるとう認識が存在する傍証になってしまったようだ。
本当のところはうだうだ言う前に早い話がもっとラノベと純文学をバランスよく読めば自ずと両者の面白さ以外の違いも分かって疑問も解決に向かうかもしれない。
しかし私はラノベもそれ以外も小説というもの自体平等にあまり読んでないので、今更自ずと分かるまで両者を読みまくって分析する気までは起こらない。
好きでもないジャンルの本を読むのは受験勉強に等しく苦痛だ。私はただなぜラノベ作者が純文学作者と比べ評価されたり公の場で対等に紹介されたりしないのか知りたいだけだから、私自身が苦痛を味わうまでもなく両者を愛読していて答えを知っている人に教えてもらう方が合理的に決まっている。
知恵袋にも質問の体をしているがその実は女がしがちな「どうしていっちゃうの?」式の不満に対する詰問でしか内容の投稿が多くあるが、結局風潮への反感が、反感は反問を生むという素朴な力学が私にその理由を知りたがらせているわけだろう。当然ここにも答えを知っているものがいるならばその提示を望むものである。
また私は私でただの判官贔屓かもしれないけれども、メーンカルチャーに属するコンテンツに対する感想が溢れるなかでブログや増田に埋もれたラノベやアニメの感想記事があったら、その飾らない感性とのその一期一会に感謝し、その価値観を慈しむことでこの世間の風潮に対抗しているつもりなのだが、それをこれからも続けていくつもりだ。
dorawiiより
ツイッター見てるとコラボは女性支援事業という良いことをやっているんだ!
行動してるからネットでグチグチ攻撃してくるお前らよりずっとマシなんだ!
コラボを潰そうとするな!と擁護している人が一定数いるんだけど
会計監査の結果報告書で暇空の主張が大部分退けられたことを盾にコラボの会計問題なーしとしたいらしいが
その点踏まえて、ごめんなさいするのが筋で、逆ギレして他人を攻撃するのめちゃくちゃ印象悪いよね
コラボみたいな団体が自分たちは間違ってない!攻撃してくるやつはミソジニー!みたいな言説をまき散らすことで
結果的に世の中にNPOは税金チューチューしてるし、指摘されないように会計隠すし、合法的な手続きで調査すると攻撃してくるしで、
NPO法人って善意の皮を被った害悪で信用できないよね。っていう印象を強く根付かせることになると思う。
そうなってくると、慈善事業全体に悪影響で、役所も支出を渋るようになるし、寄附金も集まらないみたいなことになって
結果的に困ってる人も助けられなくなると思うんだよね。
コラボ擁護してる人達は、コラボが行動して困ってる女性を助けてるんだ!って言ってるけど、冷静になって考えて、
今のコラボの振る舞いが広い目で見て困難女性の支援にプラスになってるか考えてみろよ。あいつら内輪のやってる感に騙されて思考停止してるよ。