はてなキーワード: 思考停止とは
考えても考えてもわからないものを最低でも1週間くらい考える、くらいのことを一度やったことあるかどうかで謙虚さって変わってくると思うんだよな
本物の馬鹿からしたら何もかもわからなくて全部が「わからないもの」だから、その中ですげー簡単なことを雑に説明されてるのとめちゃくちゃ難しいことを丁寧に説明されてるのが区別できない
常に1分で思考停止してるから5分考えればわかるものなのか1時間考えればわかるものなのか、1年考えても無理そうなものなのか、とかの見当すらつかない
どの分野でも何かしら本気になったことがある人は謙虚だよね 他分野に敬意を払うし、簡単に説明できないものがあることをちゃんと知ってる
そもそも選挙という形式さえ実施されれば民主主義が実現するという発想自体がおかしいのではあるが、
その「選挙で選ばれたから何やってもいいい」の体現者たるトランプを見てると、
しみじみとりあえず選挙しろしろと外野で囀るだけではろくなことにならないよなと思う
そもそも選挙をまともに機能させるために公職選挙法などのルールがちゃんと守られないといけないし、
すると選挙監視の人手も必要、カネの出入り、飲食供与等々のチェックを誰かがやらねばならない
(自民党の党首選ではそこまでやって結果を公表してるのだろうか? それでなければ「自民党は党内選挙をやっているから民主的な組織」とはとても言えない)
さらに加えて、現代ではSNS経由の世論工作などから、海外からの工作まで気にしなければならない
そんなこと、共産党なんていう貧乏政党の中で公職選挙並みのチェックができるとは思えないし、
おそらく共産党が一番懸念してるだろう、外部からのカネで釣る票操作を排除することもできないだろう
別に選挙という部分のみが民主主義の制度の全てではなく、選挙で選出する部分はそもそも公職選挙の部分が厳密に管理されることをもって請け負えばよく、
ありとあらゆる団体の組織運営が投票という手段でなければならないとも思わないので、それぞれの団体がそれぞれの方法で運営すればいいのになというのが
あそこまでアメリカ政府が機能するための仕組みを物理込みで破壊しまくったトランプが未だ健在なのを見てると、
何でもかんでも選挙すりゃいいという思考停止のブクマコメントが山盛りで積みあがる現状は民主主義の危機なのではないかと改めて思う
それはそれとして
共産党は赤旗に怪しげな論者の論説、コラム、インタビューを掲載しがちなことは、朝日や読売、ネット記事や個人のSNS発信、匿名投稿に負けず劣らずだと思うので
まずそっちの改革しろよというネット世論が沸き上がったら、そこには諸手をあげて歓迎したい、みんなもっと赤旗読んで批判しよう
これから行楽シーズンだろうから注意喚起もかねて、基本的には個人的な愚痴とお気持ち。
一般に旅行に行くと相手の価値観や相性が分かるという話を聞くが、オタクと旅行に行くとより強くオタクの負の面を感じることができるぞ、という話だ。
自分は成人済みのいわゆるオタク女で、周りの友達も同様の趣味を持っている。
で、長期休暇のタイミングで友人複数名と旅行に行くことになった。泊りがけの国内旅行だ。
そのメンバーの一人にA子という友人がいた。A子は一人旅が趣味で旅慣れているという話で、率先して旅行計画を仕切っていた。自分はあまり旅行経験が無い方だったから出発前はA子のことを頼れる存在だなあとありがたく思っていた。ただ前から「友人と旅行に行くとなぜかギスギスするから一人旅の方が好き」と聞いていたのだが、それがフラグだった。
所かまわずぬいぐるみやアクスタを出して写真を撮り出す、大声かつオタク特有の声のトーンで下品な話をする等、完全に周囲から浮いている。コミュニケーションもどこかおかしくて会計のときに店員に対して声優志望の中学生が出すような猫撫で声で喋ったり、逆に話しかけられているときは上手く喋れず口ごもったり。すべての振る舞いがオタク丸出しで恥ずかしくなった。
同行した他の友人たちは周囲の視線に若干気づいているようで、周りに人がいるときにはあからさまにトーンを下げたり軽くA子を無視していたりしたけど、A子は何も察さずにオタクムーブを続けていた。自分は一度やんわりと注意してみたが、気にも留めていない様子だった。
最悪だったのがホテルで同世代の女子グループと会ったときで、そこでもオタク喋りをするから自分たちがいなくなったあとにクスクス言われているのが聞こえてきた。それはもうしっかりと引かれてた。でもA子はそれさえ気づかず、ホテルの廊下で早口で喋り続けていた。思いだしても血の気が引くが、なんだか学校の記憶が蘇るような気分だった。
さらに、これはこちらにも非があることだが自分は旅行中体調が優れず、同行者には申し訳ないと思いながらも軽い旅程にしてほしいとA子たちに頼んでいた。しかし結局A子は散歩が好きだとか言って有り得ないくらい歩かせてきたり、食事量が少ないことを責めるように大声で言われたりと、記憶が消えているんじゃなかろうかと思う程全く配慮してくれなかった。
ずっとこんな具合だったので、自分の体調が悪かったこともあり途中でとうとうA子への限界が来てしまった。
自分はA子と二人一室だったホテルの部屋を理由を付けて別にしてもらい、その後も露骨に一人だけ別行動した。
協調性が無い行動をした自覚はあるが、普通友人がそこまであからさまな態度をとっていたら何があったのか、何かしてしまったのかくらい気にするはずだ。それくらいグループ旅行中に別行動するというのは常識的に有り得ない行動だと思う。せめてこれで察してくれと思い、実際他の子は理由を察して申し訳なくなるくらい気遣ってくれたが、結局その後もA子の対応が変わることはなかった。蘇る「友人と旅行に行くとなぜかギスギスするから一人旅の方が好き」というA子の発言。「なぜか」ギスギスするのではなく、明確な原因があるだろう。一人旅の方が好きなのは結構だが、ただ他者を慮りつつ旅行する素養が無いだけなのでは?口を開けば旅行の雰囲気を最悪にする言葉が出てきてしまいそうだったが、他の友人達にこれ以上心労をかけたくなかったのでそこからはほぼ無言を貫き、旅の終わりだけを祈った。もう二度とオタクと旅行に行きたくないと思った。
ここ数年のオタクコミュニティーの中では「自由なオタクたれ」という風潮が蔓延し、奇抜な言動の数々も「推し」が絡めば武勇伝かのように語られることさえある。しかし大部分のオタクは根本的に社会からズレている。そうしたオタクの言動は、一般にはただの奇行だ。面白がられているようで、世間からは普通に引かれている。あのときホテルで同世代の女子にされた反応が全てなんだろう。
そうやってオタクが嫌悪される原因も、オタク趣味自体というより、オタクの異様な公的自意識の欠如・想像力の低さから周囲を不快にさせる言動にあるのだと体感した。自分らしく生きるべきだと叫んだり自己肯定感ばかり上げるのは勝手だが、少なくとも一般社会と関わるときにはそのズレを認識しておく必要があるんじゃないだろうか。
勿論全てのオタクを主語にする気はないが、「自分は違う」と思考停止することは危険だと思う。今から思えば驚くべきことに、A子はオタクの社交性の無さを取り上げた増田やツイートをRTして「こうはなりたくない!オタバレせずに世間に擬態しなきゃ!」だとかよく言ってるタイプだった。服装やメイクにもこだわっているほうだ。彼女の自己認知では、自分は世間に上手く擬態できている側、なのだろう。自己認知が都合の良いように歪むことは往々にしてあることだが、オタクは特にその傾向が強いように思われる。「自分ももしかしたら…」と自戒するくらいが丁度いい気がする。
そして、もしA子本人がこの増田を読んでいたら、そうやって自分を省みてくれたらと思う。
やんわり注意しても駄目、態度で表してみても駄目となると直接伝える他ないが、プライドの高いあなたのことだから友人にそんなことを言われたとしたら羞恥心からすぐに関係を切るか、他責に走るかどちらかだろうと予想はつく。どうして公的自己意識は低いのにそんなにも私的自己意識ばかりが高いのか疑問だが、そういう厄介なところも含めてあなたとはまだ友達でいたいと思ってしまう。ここまで書いてきたこと以上に、あなたといて楽しかったことはたくさんある。あなたの魅力もたくさん知っているしこれからも一緒にいたい。でもこうした言動が続くならそれももう難しい。これまで上から目線に書いてきたが、何を隠そう自分もオタクだ。A子のように(もしかしたらそれ以上に)負のオタク言動・奇行をしてしまっているかもしれない。大体この年代の一般女性は日曜からオタク口調で増田に陰湿な長文を書いたりしないし。変わるべきところがあるのは自分も同じだ。
だから私達は一度、自分たちの言動をきちんと振り返らなければいけないと思う。一般人に擬態したいと服装やメイクに力を入れるのもいいが、外見だけの話をしているわけではない。個人的な意見を言えばあなたはオタクのままでいいし、オタクのあなたが好きだ。それでも自分の言動で周りがどう思うのかは、人として最低限考えられるようになるべきだろう。他人との旅行はそれが出来るようになってから行ってくれ。
樺沢紫苑先生が、日記をつけて、自分の意見をアウトプットすると自信がつくと言っていました。
僕は自分に自信がないです。
パソコンのキーボードを打つのは得意だけど、特に書きたいことはなくて…
動画編集が得意だけど、おしゃべりが苦手です。
他人のしゃべってる動画を編集したり、他人の意見をキーボードで打ち込んだりするのは好きではないです。
自分が思ってることをキーボードで打つのは好きで、自分がしゃべっている動画を編集するのが好きです。
自己中って悪い意味で言われるけど、自己中くらいで良いと思ってる。
https://townwork.net/magazine/life/21235/
僕はボジティブ思考ではなくて標準思考だと思っているんですけどね。やりたいことをやるのは当たり前だし、人の意見よりも自分の意見が大切だし
僕、やりたいことってあったかな?自分の意見を持っているかなって考える。
こういう所が僕の人間くささだと思う。
やりたいこと…なにかあったかな?自分の意見ってあるかな?って。
思考停止してるのかもしれない。
ええ…
いや確かに少年マンガは読んでるし、その、モラルの時流とやらについてけてる自信はないけどさ。
まずメイクの手間とコストがあるし、デート用には専用の服装を用意しなくちゃならない。
男の人にはハゲ治療があるって反論があったけどさ。別にハゲ治療は女性のためにやってる訳じゃないでしょう。男性のハゲを気にする女なんて実はごくごく少数に過ぎないと思うよ。そんな偏屈女の顔色を伺う必要はないでしょう。男女交際は心の交流だしハゲは性的パーツでも何でもないんだから。気にする気持ちが自意識過剰。
それに、生理まわりの体調管理もある。男性のマスターベーションも時間と手間がかかるらしいけどさ、それにしたって自分の楽しみでやっているんでしょう? 単に夢精で済ませばいいだけだし。そのコストまで女性に負担して貰いたがるのは甘えなんじゃないの?
野球を観戦しようにも背が低くてフェンスの向こうが見えない子ども。
その子の足元に台を置いてあげて、皆んながフェンスの向こうを見えるようにするのが公平。
人生には論理立てて説明できるような意味がない。これは不安をもたらす。また、人生は有限だ。これは焦りをもたらす。
長らくこの絶望に対して、誰かが保証してくれたり論理的に肯定できるものなどなくても、自分で意義があると強く確信できる行いを続けていれば良い、といった思考停止を肯定するスタンスを取る事で正気を保ってきた。
最近になって、ではそもそも「意味」とは?「価値」とは?という意識的に思考停止していた疑問が頭から離れなくなってきた。
「意味のある人生を送りたい、それが価値のある生き方だ」という素朴で疑い得なかった感覚を地盤としていたのに、そこまでもがニヒリズムに飲み込まれかけてしまっている。
道具は意味=目的を持って生まれる。その図式を無意識的に人間にも当てはめて考えていたが、では誰が意味を与えるのか。今までは自分で意味を見出していたが、結局それはあまりにも恣意的で、一度疑問が生まれたら簡単に揺らいでしまう。神様を信仰する気持ちがよく分かる。
人はとかく納得を求め、それは不条理なものにも向けられる。だから世の中を単純化した陰謀論なんかが跋扈している。人生に意味を求める事自体がナンセンスなのかもしれない。
凡庸ではあるが、神様などいなくとも他人に自分の意味を保証してもらう、あるいは保証する、すなわち愛に囲まれていれば、この不安を覆い隠せるのかもしれない。
刹那的にその場その場の喜びを大切に拾い集め続けるのも悪くはないかもしれない。
そういった生き方をしている人間は、この手の悩みは凡人には手の余る、考えるだけ無駄なものだ。いつまでもナイーブさを引きずらず、あなたも早く折り合いをつけるべきだ、などと言うだろう。それは彼らにとって、また一般的に言っても間違いのない言葉なのだと思う。しかし、この不安ともっと真摯に向き合う事が、理屈抜きでなぜだかとても大事な事に思えて仕方がない。
別にこんな事を四六時中考えている訳ではないし、目の前の生活もしなければならない。意識的に、ほどほどのところで抑えるようにしている。
それでも時々爆発しそうになる。なぜかこの答えが芸術や自己表現にあるような気がしてならない。
ニーチェも大体こんなような事を考えていたらしいというのを最近知った。古今東西、陰気で自閉っぽい人間が考えることは似るらしい。
彼の考えが様々な思想やフィクションに影響を与え、自分もまたその影響部分に強く惹きつけられ内面化した部分も大いにあるのだろうけれど。
ここまで書いて、もう一つ大切な事を思い出した。人間は固有性に執着する。自分だけの自分らしさを追求する事は、理屈抜きで価値があると思える。
有り体に言えば特別な人間になりたいという、思春期には誰だって思うことだ。大抵の人間はどこかで凡庸さを受け入れ、折り合いをつけて愛にでも生きるのだろう。
10代の頃、それがひどく陳腐な生き方に思えた。その思いは今なお残っている。だからこそ、愛ではなく芸術に何かを感じているのだと思う。
自らの固有性を出力する事の意義と、表現活動でチヤホヤされたい、強い愛を得たいという気持ちは混同しがちな所ではあるが、しかし前者は間違いなく存在するのではないかと思う。
「変な子供を生んだらその場で殺しても良い法律」のどこが思考ビンビンなんよ
どうしようもなく思考停止しているのはそちらだろ
子供も老人も等しく人権があるなら、子供を親の都合で殺していいというなら、いま現時点で無能の極みなおっさんがどうにかなってしまうわな
ていうかそれは安楽死だよ
おっさんは子供を作ったら育てるので問題ないというが、そんな理想論が通るわけがない
現実問題育てるのさえ難しい親が子供を作って殺してしまう事例がどんだけあると思うんだ
それを未然に防ぐのは避妊や堕胎手術で、親のエゴで子供の将来を奪える最後の切り札だ
現時点でできるのは生まれる前にどうにかするってことだけで、もし生まれて育てられないなら行政等の支援に委ねるしかない
そして出来得る限りの手を尽くしてる
現実に適応するのが正義みたいな思考停止は障害者健常者以前に頭が悪いだけなんで
現実にはない魔法を使えるとかフィクションを楽しむのが悪いとは言ってないが現実で犯罪となるようなことや迷惑がかかるようなことをエンタメ化するのは実際意味不明だろ
よく「じゅうふく」を「ちょうふく」に訂正された人の言い訳で「日本語は変化するものなので」というものが多いが思考停止の言い逃れで使うのはどうかと思う。
その一方で、訂正する側が「本来の読み方が大切」だの「日本語の乱れだから」だの思考停止で押し付ける行為もどうかと思う。
例えばテレビで「手水(ちょうず)」を「てみず」と読むと「最近はてみずと読む人が増えた」と嘆く人がたまにいるが、本来の読み方は「てみず」である上に神社によっては「てみず」とふりがなしている場所もある。
そもそも「本来の読み方」は慣用読みは誰も疑わないような言葉も多くあるから一般人がわざわざ深堀りするものでもない。世間で信仰されているのは「本来の読み方」ではなく「伝統的な読み方」である。それにも関わらずそこを勘違いしている人が多い。
「重複」がどう読むべきかという議論はさておき、自分の知らない・気に入らない読み方を無闇に「本来の読み方」だの「日本語の乱れ」だのと押し付ける行為は、指摘された側が「日本語の変化」と言い逃れする行為と同じ次元だと思う。
(そもそもこういう細かい上に槍玉に挙げられがちな日本語のマナーにだけやたら口うるさくあげつらってくる行為自体がどうかとは思う)
追記:上の話はどちらの立場も無知を言い逃れしていることがどうなのかという話なので本筋からそれますが、「重複」はどちらの読み方でも正しいと思います。あくまで「ちょうふく」が適切かつ伝統的な読み方なだけ。近年派生したとはいえ昔の世論調査で多数派だった「じゅうふく」を否定することはできないでしょう。
これも「どちらがより適切なのか」という議論をするべきなのに「どちらが正しくてどちらが間違いなのか」という議論にすり替えられがちだと思います。
「重なる」の意味の時は「チョウ」と読むという説明をしている方は「多重」や「重箱」など例外だらけです。そういう推論が間違いであることに気が付きましょう。(呉音か漢音かの違いで呉音が根強く残ったか漢音に置き換わったかぐらいの違いです。)
人間どこかで思考停止しないと絶対的な価値は得られないですよね。
カレーが好き。なぜ好きなのか?スパイスの風味が好きだから。なぜスパイスの風味が好きなのか?好きだから好きとしか言えない。強いて言えば、舌と脳みそがそう感じるようになっているから。なぜ舌と脳がそうなっているのか?そういんもんだから。
なぜ芸術を追求するのか?それが人生を意味あるものにするように思えるから。なぜ人生を意味あるのにしたいのか?人生の無意味さは苦痛だから。なぜ人生の無意味さは苦痛なのか?そういうもんだから。
なぜ民主政治を行うのか?個人の自由と尊厳を保つための利害調整をするのに、それより良い方法が見当たらないから。なぜ個人の自由と尊厳を追求するのか?よく生きたいから。なぜよく生きたいのか?そういうもんだから。
彩りの呪縛で美味しくもない(と思いながら食べてる人が多いであろう)ものを入れ続けてる思考停止が嫌だという話。
青菜の和え物とか赤味の漬物とか、美味しくて彩りになるおかずで構成された美しい弁当はいい。そこまでの技術も趣味もないならば小賢しいことしないで茶色いままでいいじゃんその呪縛なんなんだよ、という話。