はてなキーワード: 不謹慎とは
「オオカミ!!すぐにげて!!」
今では別の少年が羊飼いをしており、オオカミが来ると村人たちに必死の形相で繰り返し大声で叫ぶ。しかし……
「まぁ、オオカミじゃなくてよかったじゃないか。無事が何よりだよ」
5年前のオオカミ襲撃時には、オオカミ少年や羊だけではなく、多くの村人も犠牲になった。
村人たちはオオカミ少年のウソが油断を招いた結果被害を拡大させてしまったことを反省し、新たな羊飼いの少年には、オオカミを見かけたらすぐみんなに避難を呼びかけるよう、強く言い聞かせた。
この新しい羊飼いの少年は、オオカミ少年とは反対でとてもマジメな少年であったが、良くオオカミを見間違えた。この前はタヌキだった。
「今度はキツネか。いい加減にしてくれよ。これじゃオオカミ少年と変わらないよ」
「大体、言い方が大げさすぎるんだよ」
するとそれを聞いた他の村人たちが一斉に非難した。
「オオカミの群れを確信してからじゃ遅いってことがわからないのか!」
「オオカミかどうか判断する時間が無い以上、強く呼びかけるしか無いだろう!」
「まったく、お前みたいなバカはオオカミに殺されればいいんだよ」
それ以降、愚痴をこぼした村人は何も言わなくなった。
その後も羊飼いの少年の見間違えは改善されず、あれから更に数年経った今では多くの村人が羊飼いの少年の呼びかけを聞いても避難することはなくなっていた。
ここまで信頼を失っているのにもかかわらず、羊飼いの少年やその呼びかけに公然と異を唱えるものは誰もいなかった。
いまや羊飼いの少年の呼びかけを非難することは不謹慎とされていたし、なによりそのことで村八分にされることを誰もが恐れていたから。
……
「オオカミ!!すぐにげて!!」
村人たちはその声を聞くと一旦足を止め、やがて何事もなかったかのように日常に戻った。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www3.nhk.or.jp/news/html/20161122/k10010777991000.html
話題のツイートにリプ欄を覗くとナイトスクープへの熱い信頼(ほぼ関西人だと思われる)が寄せられていた。
しかしあの番組を見て育った関西人として、「本気で薦めている」ことがよくわかる。
そこで探偵!ナイトスクープの信頼と実績一覧(本年度分)をご覧いただこう。
先月結婚式で福岡に。独身を親族にいじられ、べろべろになるまで飲み、居酒屋で見知らぬ人たちに励まされた。
気付くとホテルの自室で、肩にはホークスのユニフォームがかけられていた。
→結果:返却成功
メキシカンバー開店の日、シェフが「ゴミ箱を買いに行く」と言って失踪。
→再会。10年前の当日、急に体調が悪くなった。その後難病指定の病が発覚し戻ることもできず。4回目の結婚をしていることも発覚。
広島県の男性(56)から。私には50年来「実のお兄さん」のように慕い続けてきた方がいる。50年前に放送されていた「なかよしリズム」という子供番組の「初代・歌のお兄さん」の中山克己さん。
→発見。74歳と56歳おじさんたちの初々しい対面。
20年前の夏、大型トラックの僕のトラックの後ろにベッタリとつく大型トラックがいた。気持ち悪いので無視していると、横に並走してクラクションの嵐。恐る恐る見ると、運転手さんが身振り手振りで僕に何かを伝えていた。それは僕のトラックの後輪タイヤがパンクしているという内容だった。そして一緒にパーキングに入り、真夏の炎天下の中、タイヤ交換を手伝ってくれた。そのまま走っていたら大事故に繋がっていたかと思うと本当に命の恩人。お礼がしたくても、自販機すらないパーキングだったため財布から5千円を取り出して「これで飯でも食ってください」と渡したが、「そんなものが欲しくて手伝ったんじゃねえ」とブチ切れ出した。押し問答の末、最後に運転手さんが折れてくれ「次に会ったら一緒に飯を食おう。その時はご馳走になるから」と言ってくれた。そして「次はお前が困っている運転手を助けるんだぞ。それがトラック野郎だからな」
→再会
東京都の女性(29)から。アメリカ・ボストン出身の留学生の代理で依頼をする。彼は10年前におばあちゃんから譲り受けた、沖縄の人が書いたであろう日記帳を、持ち主の家族に返したいと願っている。それは1928年・昭和3年の日記で、300ページ以上にもわたってぎっしりと文字で埋め尽くされている。達筆すぎて内容はよくわからないが、持ち主であろう方の名前と沖縄の住所が書かれていた。なぜ、アメリカの彼の家に保管されていたのか、はっきりした理由はわからない。彼の推察では今は亡きおじいちゃんが、第2次世界大戦の時に沖縄に行ったことがあるので、その時に持ち帰ったのではないか、ということだ。彼は日本語が少ししか話せないが、日記帳を返せるように協力してもらえないか、というもの。
→子供たちを発見。子どもは12人いた。子供は存命で、日記の持ち主は70歳で亡くなっていた。「日記をつけろ」と子どもたちにも伝えていたそうです。
33年前。中3の夏休みに友人たちと3人で大阪から自転車で琵琶湖一周の旅をした。雨風が強くなったので、田んぼの中にポツンと現れたバス停横の小屋に避難した。そこで雨風がおさまるまで寝ることにしたが、目が覚めると激しい暴風雨。民家を見つけたが、何軒も断られて諦めかけた時にようやく受け入れてくれるご夫婦に出会った。寒さに震える僕たちを風呂に入れてくれただけでなく、豪勢な晩ご飯とふかふかの布団まで用意してくれた。本当に涙が出るほどうれしく、子どもながらに人の温かさに心が震えた。大阪に帰ったらきちんとお礼しようと、住所が書かれた表札の写真を撮ったがその写真を失くしてしまった。
→結果夫婦と再会。思い出話に花を咲かせる。
元増田の意見は感情含めて自分の行動としてはよく分かるんだけど(つまり、俺もそういうジャスティスウォリアーはやめようと思うんだけど)、その一方で「え? 楽しいからやってるんだよ? 娯楽だよ? SNSで炎上リンチ楽しいよね?」って答える人に対して、僕ら社会が有効な反論が出来るのかって言うと、どうも疑問だ。
叩くにあたって殺人予告まで出れば別だけど、嫌悪の表明や人格否定程度では、法的な罪には問えないでしょう? つまり、ネットでの叩きは(今のところ殆どの場合)合法なのだ。
「合法なら何したっていいのかよ?」というのなら俺の中の答えはNoだけど、それって隣人全てに無制限に押し付けられるかといえば、それまたNoなわけで。
そもそもネットリンチの本質は「個人個人は殺傷力がない程度の批判を、ネットという距離を無視するメディアの炎上が、数百、数千、数万件集めて深刻なダメージを与えてしまう」ことにある。つまり言ってる側は「あれだけ不謹慎、問題なことを言った(やった)のだから、わたしが一言言うくらいいいよね」なのだが、その「わたし」が並列に爆発的な数がいた結果、隣地になってしまうことにあるわけだ。だから個別の批判一つ一つは「そこまで痛烈ではない」こともある(多い)。
「そこまで痛烈ではない批判」をどうやって抑制するか? 禁止していいのか? といえば、それはかなり難しいんじゃないのか。
リアル路地裏リンチの場合、一人の被害者を同時に殴る蹴る出来るのは、物理的に4人位が限度だと思うけれど、SNSでは数十人でも数千人でも可能だからなあ。
先日、同僚数人と飲みに行った時に突如こんな話が出てきた
「いとこが進学校に進学して修学旅行に行ったんだが、修学旅行でテスト漬けで修学旅行じゃなくて完全に勉強合宿だった」
と話した同僚も憔悴した表情で話していた、最近の修学旅行は勉強をここまで強要するものなのだろうか更に同僚は話を続けた
ここまでの話で自分も考えただけでげっそりしそうだが周りも飲みに来たのに話に興味が向いていた
「移動中はずっとテストばっかり、同級生と話す機会なんて殆ど無くて観光なんてほんの少しの時間しかないし勉強漬けで何しに行ったのかわからない」
とのことだった、そこから自分たちの修学旅行の話の話にすり替わったのだがこんな拷問のような旅行じゃなかったのは共通だった。
「そのいとこと同級生のみんながかわいそうだ…!」
そう言った同僚は思わずテーブルを力強く叩いていた、学校生活の楽しみが教員の実験もしくは自己満足か自慰行為で終わる事に費やされてすり減らされているのだから憤るのも致し方ない。
自分も思わず憤りを通り越して晒されない物かと不謹慎ながらに思ってしまった、流石にそんなことは許されないがこのような事が平然と行われている事をどこか片隅にでも覚えていて欲しい
ニンテンドースイッチのデマ騒動でまたはちま・JIN叩きが盛り上がっているようであるが
まずあのサイトの源流には2chハード・業界板(通称ゲハ)における過剰なハード間対立煽りがあることを忘れてはならない。
ゲハにおいては任天堂信者・ソニー信者・XBOX信者が日夜激しい戦いを繰り広げていた。
些細な発言を意図的に曲解して煽りに煽ったスレタイでデマを拡散するのはゲハにおいては相手陣営を叩くための基本である。
これはニュース速報板において「いかに素早く不謹慎でゲスなスレタイをつけるか」という競争が行われていたのと同様に、
各ハードの信者が憎しみ合い、相手に下品なあだ名をつけ、くだらないコピペを作り出し、とにかく敵ハードを叩く。
こいつら、本気でやってるのか・・・と思わせる迫力がそこにはあった。
そのエッセンスを抽出して一般人にもわかりやすくニュースサイトという体裁に整えたのがまとめサイトとしてのはちま・JINである。
要するに彼らが演出しているのは「ハード間戦争」というエンタメなのだ。
しかし2chに台頭した嫌儲勢力に叩かれ、転載禁止を名指しされた両サイトは、
炎上・煽りポイントのソースは依然としてゲハ+2chに求めつつも、
元ソース+ツイッターなどから引用したふわっとしたコメント+運営側の適当なコメント
というスタイルに変わり、ゲハ特有のノリがかなり薄まった代わりに、
デザインも洗練され、まるで「ちゃんとしたサイト」みたいになってしまった!
だがやっていることの本質は何も変わっていない。
はちま・JINはデマを拡散する有害サイトだ!という主張を目にすると、
「そんな基本も抑えずにあのサイト見てるやついるの?」という違和感を感じてしまうのだ。
って感じ
かなり雰囲気似てる
でもこっちのほうが大ゴマ使ったりより具体的で直接的・臨場感のある描写がかなり多くて、ダイナミックさがある
こうの史代の方は童話的というかどこかフィルターかかって一歩引いて読んでたけど、こっちはどうしようもなく激しい物語性を持って目の前の戦争を押し付けてくる感じ
どっちがいい悪いじゃない
似てるけどこんなに違うんだーと思って新鮮だった
最初は割りと日常っぽいところからはじまってただの昭和日常ものかなと思いきや、だんだん切り詰めていって戦禍にモロ巻き込まれていくのも似てた
終わりの見えない戦争へのやり場のない怒りとか無念さとかがよく伝わってきた
こんなのをBELOVEで連載してたってのもまたすごい
あと、ひたすらひもじい!ってとこがフィーチャーされてたね
日常って意味ではやっぱりそれが一番問題だし印象に残るんだろうな
タイトルの時点で半分ネタバレしてるようなもんだけど、やっぱり戦争は大変だなあ
でも個人的な感想としてはここまで入れ込む戦争の時代に生まれて死ねればよかったと思ってしまう
初めてまともにパラリンピックを見て、純粋にかっこいいと思ってしまった。
彼らがそうなった背景とか考えると泣きそうになるし、そうなりたいか?とか、言われると違う。だけど、かっこいいって思った。
あのメカニックが、かっこいい。
この感情はなんなんだろう。
そんなことに疑問を抱きながら、興奮しながらパラリンピックを見ていた。
車いすテニスとか凄かった。普通にテニスするより凄い距離を移動している!走り幅跳びも、走ってる時点で凄いしめちゃくちゃ跳ぶ!
なんであんなに宣伝するのにNHKはパラリンピックを放送せずゴルフを放送しているんだろうとか、イライラしながら。
「鋼の錬金術師」
そう、めちゃくちゃはまった漫画だ。アニメ初代を小学生から見て、原作忠実になったものも見た世代だ。ハガレン世代なのだ。
うん。そうなんだ。あの世界の中のオートメイルという義手や義足、改造された武器なんかがとても格好良かった…。
主人公は過ちを犯し、手と足を失い苦労し努力をする。説明は不要だろう。
ああ、それに重ねちゃってるんだなって気づいたとき…なんだろう罪悪感が湧いた。
だけどね、凄い応援したいと思うし、凄い格好いいと思うんだ。
これは当事者の立場には立ててない感情だと思うんだよ。そんな良いもんじゃないって怒られるかもしれない。辛いことも多いだろう。大変だろう。
だけどあのパラリンピックの会場に立っていた人は、そういう感情を乗り越えて、こういう自分のような好奇な目に晒されるのも覚悟して、更にすごい努力をして、あの舞台に居るんだろう?
Hey!Say!JUMPのXデー、それは天皇陛下の崩御である。
別に平成じゃなくなってもHey!Say!JUMPが活動するのはいいんじゃない?と思うかもしれないが、問題はその「前」にある。
陛下に深刻な体調不良が訪れたらそれだけで自粛ムードが広まることは明白。
その上に平成の名を冠するグループが歌い踊ってるのはあまりに不謹慎との批判があるかもしれない。
実際そんな批判はなくても、テレビ局は問題を未然に防ぐため彼らをシャットアウトするだろう。
Hey!Say!JUMPなんて陛下の崩御を連想させてしかたない。平成がジャンプって。笑ってはいけないミュージックステーション開幕だ。
ほかで見た追悼のpostも田舎のヤンキーの葬列のようだった。
お前のことこれからも思い出してネタにしてやるからな、なんて。
twitterで近くて遠い他人の自殺の話を聞くと不思議な気分になる。
中には人がいて、外側とは違って渋かったり酸っぱかったりもする。
自殺は、そのふわふわを剥いでもないのに突然に種が出てくるようなものだ。
ヒトひとりぶんの重さでもって現実を教えてくれる。
死にそうからの連想ゲームで、最近見ない人の名前を検索してみた。
二次元のキャラクターと同じ名前だから検索しても沈むんだろう。
たぶん。
それか、私の探し方が悪い。
もしくは、これが一番しっくりくるけど、死んで垢消しした。
知らないうちに消えてく人は何も残してくれない。
それはそれで本人の望むところであるし、
元増田と同年代・同性別で未婚子なしだけど、そういう義務感はあんまりないな。ないから未婚子なしやれてるんだろうな。
自分のポイントはたぶん、比較的早い段階で親が亡くなったこと。それまではそういう、「人生のレール」的なものを今より強く意識していた気がする。
親にレールを引かれていたというよりは、自分の中でレールの象徴が親だったんだと思う。
親が亡くなったことは、もちろん人生で一番悲しかったことの一つだけど、それと同時に圧倒的自由を手に入れた実感もあった。
「あっこれもしかして私、もう結婚したり子供産んだり育てたり、何なら生きる努力すらしなくてもいいんじゃない???」と。
この実感により、生きるのがとても楽になった。今となっては、不謹慎だが、早めに亡くなってくれた親に感謝さえしている。
結婚していなかったり子供がいないことに対して後ろめたさもない。
むしろ、自分が家庭を作ったら作らない場合より絶対に悪い結果になるという(根拠のない)確信があるので、最良の選択をしたと思っている。