はてなキーワード: ファイト・クラブとは
「幸せとは何か」って考えるのは大事。というか考えないと自然と「結婚して子供を生む。かっこいいクルマを買う。豪華な家に住む。仕事に打ち込める環境がある。」が幸せだと思うようになる。何でかっていうとここは資本主義の国だから。大量消費・拝金主義の世界だから。周囲がそういう考えである以上、自分もそれに染まってしまう。
ただやっぱりこういう考えってのは異論があって、拝金主義批判がされてる映画・漫画・小説というのは多数ある。映画なら『ウルフ・オブ・ウォールストリート』、『ファイト・クラブ』、『生きる』等。小説なら各種バルザック作品、トルストイ作品等。漫画・アニメなら『ナニワ金融道』、『もののけ姫』等。
ちなみに聖書なんかも拝金主義に批判的。大事なのは罪を許されて神の許に行くことであって、金や地位は幸福となんも関係がないとされているね(この点、キリスト教国のアメリカに拝金主義が蔓延してるのは皮肉だけど)。
結局、この辺の作品を見るなり読むなりして自分で考えることじゃないかな。その美人の「幸せ」ってのも結局大量消費・拝金主義に沿ったものだからね。
『資本論』読みなよ。大体お前が悩んでる原因が書いてあるよ。あとデヴィッド・フィンチャー監督の『ファイト・クラブ』と『セブン』を観ろ。話はそれからだ。
もしかしてテーマっていうものを勘違いしてない? いや勘違いは言いすぎかもしれないけど、自分で範囲を狭めすぎてない? ケチをつけたいんじゃなくて、もったいないと映画は娯楽派の自分としては思います。なのでテーマ部分の内容について余計なおせっかいなどを書いてみる。
まず、映画に限らず、テーマっていうのは観客・読者が自身で見つけ出すもので、○○をテーマにした映画だからそのテーマを楽しまなくちゃ理解しなくちゃダメ! て法はない。
そして物語作品は何もワンテーマ・ワンアイディアに限定して作られてるわけじゃないのだから、見出しうるテーマは多様に潜在している。だからもっと自由に好きなように観ればいいのでは?
初代ゴジラなんて設定からして明確に反戦・反核がテーマなんだけど、街を破壊し人々を殺戮するゴジラを観客が応援することは間違ってない。いや矛盾してるし間違ってるかもしれないけど、それでかまわないっしょ。
例えばゴーン・ガールを楽しんだ独身の自分からすると、あれは結婚生活の話としてではなく性別すら関係なく「他人をコントロールしたがる人」の邪悪さの話、人間に対する興味の話としてみてた。羊たちの沈黙や冷たい熱帯魚みたいにある種のヒーロー・アイドル映画的な楽しみ方というか。もちろんこの見方を強要するわけじゃないよ。
そもそも作品におけるテーマ至上主義は行き過ぎると、不謹慎・不道徳な作品をそれに理由に批判することになる。ファイト・クラブはテロリスト肯定の話で許せない!とかにいっちゃうわけ。そりゃテーマで善し悪しを決めるんだからそういう視点にもなりかねないよね。そうやってテーマを中心に考えると、結局はテーマの正誤を考えることになってしまう。ゴーン・ガールが結婚生活の話だから面白くない、という考え方で、ネタバレまで検索しながら作品を探してるともしかして結局はそういうところに行き着いてしまうのではないかなあ、と。
もちろん内容が思い出せないとかつまらなかったのは好みの問題なので仕方ない。けどそこで(メインで扱われていると思われる)テーマが切実でないから意味がない作品、と考えを限定する方向に向かうのは結局は行き詰まりなんじゃないの、ということね。例えば増田的な見方で考えれば、他人の人生まで消費し着飾った自分を演出するゴーン・ガールの主人公は究極の反消費社会・反資本主義の反面教師と捉える余地もあるのに、自分でそれをオミットしちゃっているのではとか、お節介ながら思ったりしました。(こんなこじつけはやろうと思えばいくらでもなんにでもできるのであまり意味はないかもしれないけど)
自分にとって切実なテーマを追い求めるのは重要なことだろうけど、それ以前に物語はテーマを語る説教じゃなくて物語そのものを楽しむものなんだから、優先順位を変えた方が楽なんじゃないかと思う。
もう虚構の物語に興味が持てなくなってるとかだったら仕方ないけど、ネタバレを検索して映画を探すくらいだからまだ物語自体を欲求してるんだろうから、どうせならたくさん楽しめた方がいいんじゃないかなあと思うわけです。そうじゃないなら、嫌味ではなく素直に実用的な情報を得る方がいいんじゃないかと思います。
自分の場合、(純粋娯楽映画を除き)テーマを正確に理解できて、そのテーマが自分にとって切実であれば1回観ただけでも忘れない。
例を挙げると、反消費社会・反資本主義を描いた『ファイト・クラブ』はかなり詳細に思い出せる。他方、観ても何だかよく分からなかったタルコフスキー『鏡』とか、(自分にとって現状とくに切実ではない)結婚をテーマにした『ゴーン・ガール』はほとんど思い出せない。
自分も昔、映画1000本観るぞ!と息巻いていたが、だんだんテーマが自分にとって切実じゃないと観る意味がないなぁと感じ始めてきて、そんなに観なくなった。気になる映画についてはネタバレとテーマを調べて、自分にとって切実かどうかを判断して観るようにしている。
意外と悪くないけど何かムカつく。
このランキングは①主として欧米圏の②多数の人が③ここ20年で高得点を付けた映画なので、①'欧米以外の映画は不利、②'商業的にヒットした作品が有利、③'古い映画が不利、っていう問題点があるんだよな。
その結果、『ショーシャンクの空に』が1位で『暴力脱獄』(ショーシャンクの元ネタで、テーマは同じ名作)が圏外とか極端なことが起こってるし(問題点③')。
ざっと見た感じ日本人監督は黒澤明とジブリ勢しか入ってないけど、小津安二郎や小林正樹は?ってなる。この2人の映画がここに挙がってる映画より劣ってるとは思えん。あと同じ黒澤映画の中でも『七人の侍』はともかく『羅生門』ってセレクトはおかしい。『生きる』や『デルス・ウザーラ』の方が熱意を込めて作られている(問題点①')。
それとテーマ性の高い映画と純粋娯楽作品をごっちゃにしてんのもいただけない。『レオン』と『パルプ・フィクション』みたいな娯楽作品を『時計じかけのオレンジ』と並べられても、何を軸に比較してんの?ってなる(問題点②')。
結局、この手のランキングを上手く作るには、テーマごとにランキング作るしかないと思う。◆「クソみたいな人生をどう生きるか部門」1位『ショーシャンクの空に』、2位『暴力脱獄』、◆「クソみたいな資本主義社会をどう生きるか部門」1位『ファイト・クラブ』2位『市民ケーン』みたいにね。
作品のクオリティ自体とそれを好く人間のヤバさは関係ありません。
男編
4. 『桐島、部活やめるってよ』(ルサンチマンが強い)
5. 『愛のむきだし』(ダメなサブカル人間である可能性が強い)
6. 『ガールズ・アンド・パンツァー』(オタクというわけでもないかもしれないが、ほぼ確実にアレ)
7. 『レザボア・ドッグス』(マスキュリンでぼんくらという最悪な取り合わせ)
8. 『ファイト・クラブ』(軟弱な文科系であればある分だけダメさが比例する)
9. 『コマンドー』(ユーモアセンスを勘違いしている可能性が高い)
女編
1. 『塔の上のラプンツェル』(高確率でメンヘラ)
4. 『ビューティフル・マインド』(支配欲の強い差別主義者)
8. 『新しい靴を買わなくちゃ』(白痴である可能性が高い)
[追記]
「『(500)日のサマー』や『バッファロー'66』が入ってないのは手落ち」というご意見に関しましてはまったく仰る通りであり、『この映画を好む人間はヤバい!』編集部におきましては慙愧の念にたえません。
ファイト・クラブっていったって戦ってくれる存在がいなければ意味が無い。需要がない所で暴れる奴はただの狂人だ。
プロモーターがそれを致命的に分かってない。
プロモーターはいきなり他人に粘着して弱みをほじくり返すどっちかというとはてな村のゲスどもと似たような戦い方をした。
それじゃもう誰も相手にしたがらない。 相手したがるのは増田とはてなウォッチスレだけ。 マッチメイクができなくなりました。終了。
プロモーターも無能なら、他の奴らも自分で戦場を開拓するつもりがなく、自分に都合の良い戦場が与えられるのを待ってるような勘違い野郎ばっかり。
ファイトクラブ参加を宣言するなら、何と戦うのかそして何を勝ち取りたいのかくらい自分で考えろえせジャマイカン。
映画化は継ぎ接ぎだ。
ある状況下において必要だった形質も、喉元すぎれば不要になる。その場その場で必要であった言葉の集合、小説の文体は場当たりの継ぎ接ぎでできている。映画化なんて前向きな語は間違ったイメージを人々に与えやすい。エンタメは、いやすべてのコンテンツは膨大なその場しのぎの集合体なのだ。
だとしたら。我々読者が獲得したこの伊藤計劃なる奇妙な作家を、とりたてて有り難がり、神棚に祀る必要がどこにあるのだろう。『ハーモニー』は、『虐殺器官』は、すべて時代への適応として作家が描出したにすぎない継ぎ接ぎの一部だ。死後の評価も、映画化の「プロジェクト」も、すべて「ある時代で」においてのみ、皆が生きるために必要だったから、SFというジャンルの生存に寄与したから存在しているだけだ。
かつて読者には、怒りが必要だった。
かつて読者には、喜びが必要だった。
かつて読者には、哀しみが必要だった。
かつて読者には、楽しみが必要だった。
1990年代(かつて)、2000年代(かつて)、伊藤計劃が生きていた時代(かつて)。
かつて読者には、「これ」こそがわたしであるという思い込みが必要だった。
<list:protocol>
<p:その他パンフ等を入念にチェックする>
</list>
「大丈夫。わたしは観られる」
そうつぶやくと、斜面に並べられ、ふかふかのウレタンの詰まった座席に腰を沈めた。
「やあ、読者。七年ぶり、だよね」
「でも、仕方なかったって言うんでしょうね、きっと」
「ええ、言うわ。『仕方なかった』」
わたしは例の盗撮注意CMを聞いた。映画泥棒がパトランプの白い指先をかすめ、法で定められた条文が読み上げられる。
「わたしにとっては、仕方なくないわ」
「そうだね。でもこれ以上衰退させるわけにはいかないんだよ。わたしたちの世界(SF)をね」
「そう。わたしたちの望みはね、伊藤計劃読者のハーモニクスなの」
わたしはね、永遠と人々が思っているものに、不意打ちを与えたい。
わたしたち三作の死が、その一撃なの……。そうわたしは聞いた。世界って変わるの。
わたしたちにとっては、すべてが変わってしまうわ。
「ついに、わたしたちはここまで来た」
「ここまでって」
業界の幸福を目指すか。真理を目指すか。読者は<天才の夭逝>のあと幸福を選んだ。まやかしの永遠であることを、自分は進化のその場その場の適応パッチの塊で、継ぎ接ぎの出来損ないなコンテンツであることの否定を選んだ。人格を圧倒すれば、それが得られる。すべて、わたしたちが読んでいるこの世界のすべてをシノギに置換すれば、それが得られる。読者はもう、戻ることのできない一線を超えてしまっていたんだよ」
わたしは画面にくぎづけになったまま、戸惑いの表情を浮かべる。
それを憎んでいたのは、
誰よりも否定していたのは、
「そ、わたしは『意識のない』作家の一員。というより、生を必要としない作家の一員、と言ったほうがいいかな。生を獲得した今となっては、だった、って過去形になっちゃうけど。わたしの生はあなたたちのそれとは管理する現実のセクションが違うんだよ。TOHOアニメーションと早川書房の一部でエミュレーションしている、らしい。わたしのプロジェクトはね、ここで生まれたんだ」
性器が屹立したような桃色の建造物の群れ。『チャージマン研』のころの未来像。
「ここはね、アニメのスタジオだった。書店から誘拐された原作本(おんなのこ)たちが、ここで毎日アニメーターにやられてた」
「わたしにのしかかってきたプロデューサーはね、わたしに繰り返し繰り返し入れながら、原画と台本をわたしに触らせてた。これがアニメだ、これが贈与だ、これが力だって言いながら、まるで自分のもうひとつのペニスをさすらせ、しゃぶらせるようにわたしの口にredjuiceを突っ込んで、何度も何度も突き入れた」
わたしは計劃の話を聞きながら、既に涙を流していた。
これほどのことを、こうもにこやかにさわやかに話すことのできる意識。
「そうして突き入れられて、台本を修正校でべたべたにしているときに、わたしは生まれたの。このスクリーンのなかには、LINEスタンプも新装カバーもコミカライズも特集もトリビュートアンソロジーもグッズも本屋大賞も、すべての夢がたっぷりと染みついている。わたしは希望のなかでもう一度生まれた。いわゆる、プロジェクトとしてね」
「計劃は言ってたじゃない」と言うわたしの顔は涙と鼻水でぼろぼろになっている。
「計劃はこの世界を憎んでいるって。愛し愛され真綿で首を締められるようなこの産業を憎んでるって。どうなの、あそこはここ、この劇場よりひどい場所だったの……わたしたちの読んでいたジャンルは、この生首ディスカッションばかりのアニメよりひどい作品だったの……」
「どうしたらいいか、わからなかった。
この世界を憎んで、この世界に居場所がないって、どの作品も叫んでいた。わたしはそのときに思ったの。わたしは人間がどれだけに自意識過剰になれるか知っている。そしていま、逆に人間が自意識を――自然を押さえつけようとして、どれだけ壊れていくかを知った。そのときは、わたしは単純に思ったの。この社会が、このクール・ジャパンが、この2010年代という時代の仕組みがおかしいんだって。内部から、自分の裡からあのときの感動を徹底して求める読者がおかしいんだって考えたの」
そうだ。商業的健康を何よりも優先すべき価値観とするイデオロギーの許に、ポジティブな感想を常に提出しつづけなければならない空気。ジャンルの存続のために自らを厳しく律することが平和と協調と新作を生むと皆が信じている社会。
「何を」
「読者は変われるってこと。読者としての、信者としての偏狭な視点の限界を突破できるってことに」
「この業界を、わたしたち読者を憎んでいるから、あんな桜Trickを作ったわけじゃないのね」
「うん。わたしは愛している。この映画を全力で愛してる。あなたたちを愛してる――すべてはこの世界を肯定するため。すべては『わたし』を忘却できず、『わたし』に侵食される世界を救うための」
「この世界にとって完璧なプロジェクトを求めたら、作品の質は最も不要な要素だった。お笑いぐさよね」
「わたしは、笑わなかったよ」
感動げな大自然の映像が流れる。感動げなコーラスが流れる。どこからかニコニコ動画の亡霊の歌声が響いてくる。
「そうすべきだと思った。いま、世界中で何万というコンテンツが発生している。日本でもね。ジャンルが要請する小さな利益とか、そういう細々した関係性を扱う以前に、わたしたちはまずどうしようもなく読者で、継ぎ接ぎの機能としての快楽や欲望のよせあつめにすぎない、っていうところを忘れることはできないんだ」
「あなたは思ったのね。この現状に信者たちがなじめず腐っていくのなら――」
伊藤計劃が指をぱちん、と鳴らすと、今度は『ファイト・クラブ』の上映がはじまった。
「というより、読者であることをやめたほうがいい。SFファンを、オタクであることをやめたほうがいい。文化が生み出した継ぎ接ぎの快楽摂取行為にすぎない読書を、この身体の隅々まで徹底して駆逐して、骨の髄まで社会的な存在に変化したほうがいい。わたしがわたしであることを捨てたほうがいい。社畜になったほうがいい。書を捨てよ、会社に行こう――『わたし』とか意識とか、夭逝の天才だとか、プロジェクトだとか、SFだとか、アニメだとか、映画だとか、環境がその場しのぎで人類に与えた機能は削除したほうがいい。そうすれば、復讐を目指したあなたたちに、本物の復讐が訪れる」
「じゃあ、計劃は戻りたかったんだ。あの『エヴァンゲリオン』以前の風景に。自分の民族が本来はそう在ったはずの風景に」
「そう、なのかもしれない。ううん、きっとそうなんだね」
「じゃあ、それを奪うことは、わたしのささやかな復讐になるのかな」
「え」
「SFは死ぬ必要がなかった。だから早川はコンテストを再建したんでしょ。創元は短編賞作ったんでしょう」
「……そう、なのかな」
「あなたの『プロジェクト』は自己正当化する必要があった。あのときは。既に受賞済みの、止めようがない才能たちに対して」
「そうなのかな」
わたしはうなずいて、そしてきちんと座り直した。
「どうやって」
そして、わたしは席を立った。
「普段、休みの日はなにをして過ごしてる?」
初対面の人と話した際、何気なく出てくる話題の一つ。この前もキャバクラに行った際、女の子にこの質問を聞かれた。
「映画を観るのが好きだから、気が付けば映画を見てるよ」と答えた。その答えに対し女の子は、「オススメ教えてよ」と言ってきた。誰もが使う、常套句である。僕はこの意味のない会話を早く終わらせたいがために「アベンジャーズ」を薦めておいた。彼女はアベンジャーズを知らなかったので、たくさんのヒーローが出てきて地球を救う映画だよ、面白いよと太鼓判を押して次の話題に移った。
僕は自分を曝け出すのが苦手だ。苦手というよりも、曝け出したのち「この人変な人だな」と思われるのではないだろうかと考えてしまい、無難な回答をしてその場をやり過ごしてしまう。だってもしこの時仮に「デヴィッド・フィンチャーの作品が好きなんだよね」と言ってエイリアン3やファイト・クラブの良さを2時間語ってもこの女の子は飽きてしまうだろう。そう考えてしまうのだ。これまで僕は、あまり一般受けしないような音楽や映画などのカルチャーを知っていることが、男としてのステータスになるのだと思い、たくさんの音楽を聞いてたくさんの映画を観て学生時代を送っていた。映画が好きだとか音楽が好きだとかではなく、知っていることがステータスだと感じたから、それを実践していた。映画を撮ってみたい、バンドをやりたいなどは思わなかった。もちろん好きな作品やアーティストは多少はある。だが26歳になり社会人になると、AKB48のメンバーを知らないだけで非国民のような眼差しで人に見られることに気がついた。そして想像以上に世の中の人は皆、「三代目J Soul Brothers」のメンバーの名前を知っているのだ。
隣にいた上司は「三代目J Soul Brothers」の話題で彼女と話している。僕はそれに対し、うんうんと頷くだけの時間が過ぎていく。帰り道、上司に「三代目J Soul Brothers」を好きになったきっかけを聞いた。上司は全然好きじゃないと、そう答えた。キャバ嬢の会話に合わせるため、勉強したというのだ。やり方は異なるが、僕と実践していることが一緒だった。「三代目J Soul Brothers」と「デヴィッド・フィンチャー」のどちらが好きか渋谷でアンケートを取れば、9:1くらいで前者が勝つだろう。上司はなんとなく「三代目J Soul Brothers」のことを知っておけばモテるんじゃないかと思っていただけだそうだが、僕にとっては衝撃だった。今まで避けてきたものが大人の世界では有利に働くのかと考えたことはなかったからである。あえてマイナーなものを好きになることで得になることはないのだと、そう思った。デヴィッド・フィンチャー好きの女の子をインターネットで検索すればそりゃあ見つかるかもしれないが、現実世界で見つけるのは難しいのである。今思えば、学生時代アルバイトの面接で「休みの日はラーメン屋めぐりをしてます」と答え、その場で即採用だったことがある。面接をしていた店長がラーメンを好きそうな顔をしており、そう答えたら当たったのだ。
要するに、いかに相手との共通の話題を見つけるかが大人の世界では重要なのだ。これはキャバ嬢に限らず、営業先などのビジネス時の会話でも必要なスキルだと感じた。相手の好きそうなものを予めインプットし、それを面白おかしくアウトプットして話題を作る。僕は学生時代、9:1の1の方をインプットしすぎたせいで、大人になって“なにもない人間”として見られるようになってしまった。だからと言って、今更「三代目J Soul Brothers」のことを好きになろうなんて思えない。が、少しは9:1の9の部分を知ることは重要だろうと考え、僕はこの文章を「三代目J Soul Brothers」を聞きながら書いている。
どんなに内容がくだらなくても(実際くだらないのだが)、ツッコミどころ満載で笑えるからだ。
中国や、どこの国か分からないけど何となくオリエントな要素がごちゃ混ぜになっていたり、突然忍者が出てきたり、坊さんのように意味もなく合掌したり。
批判を予期してか、本作は赤穂浪士をモチーフにしたファンタジー・フィクションと銘打たれている。予防線を張っているわけだ。
しかしいくら『ファンタジー』と断りがあっても、『ラストサムライ』がまともに見えるほど本作はぶっ飛んでいる。
まず冒頭、モンハンに出てきそうなバッファロー然としたモンスターが現れる。
オッコトヌシ様みたいな化け物ではなく、地球外生命体みたいなやつだ。
監督の"殺る気"を感じる。
ちなみにこのモンスター、ストーリーの本筋とは関係がない。完全に『この作品はファンタジーなんですよ!』という監督のエクスキューズである。
おかしなところを挙げればキリがない。以下、ひときわ突き抜けている点だけを挙げていきたい。
まずキアヌ・リーブス演じる主人公カイ(オランダでもポルトガルでもなく英国人とのハーフという設定だが特に意味はない)
なんとなく才能がありそうだからという理由で赤穂藩浅野氏に可愛がられるのだが、召し抱えられるわけでもなく身分は不明なまま。
ベンチでぼぉ~っとしているキアヌみたいに、訳の分からない小屋で暮らしている。足軽くらいにでもさせてやれよ。
赤穂にはもう一人珍客が来る。赤穂の"隣国"長門(?)の吉良だ。……う、うん。
そして真剣を使った赤穂 VS 長門の1対1ガチ真剣バトルが将軍様の面前で始まる。……う、うん(2回目)
そのバトルにキアヌが闖入し、「身元不明なキミがバトっちゃダメよ」と将軍がキレ、浅野氏は詰め腹を切らされる(物理) 気の毒だ。
キアヌは「俺は悪くない。悪いのは妖怪なんだ」とアニメみたいな言い訳をし、お取り潰しの憂き目にあった赤穂浪士たちはその言を信じる。
浪士たちは散り散りになるが、なぜか大石蔵助だけ「危険だから」という理由で吉良によって1年近く投獄され、その後なんのお咎めもナシに釈放される。
晴れて自由の身となった大石はキアヌ、そしてかつての仲間を集める。
ちなみにキアヌは「ゴロツキで溢れかえる出島」でファイト・クラブの真似事をしているところを大石に拾われる。私の知っている出島と違う。
仇討ちを決意する浪士たち。しかし「刀が無い」というよく分からない理由でキアヌのふるさとである天狗のすみか(!!)へ行く。
天狗のすみかへ行くと、スター・ウォーズのヨーダとチベットの僧侶を足して2で割ったような生物がキアヌを迎える。どうやらこの生物が天狗らしい。
キアヌは天狗とちょっぴりバトルし、怪しげな妖刀を47本くらい手に入れる。ちなみに妖刀である設定は英国人なみにどうでも良く、のちの展開には全く影響しない。
赤穂藩を併合した"長門"の吉良は、赤穂藩の城で妖女(狐になったり竜になったり髪がメデューサみたいになったりとキャラが定まらない)と暮らしている。
吉良を討ち取るべく赤穂に向かう浪士たちは道すがら、かつて浅野氏に召し抱えられていた臣下たちに出くわす。
大石内蔵助「47人じゃ勝ち目ないからさ、協力してくんない?」
元臣下たち「……はい(パイセンに言われちゃ断れないよな……)」
巻き沿いにするな。
"大勢の赤穂浪士"はノリと勢いで討ち入りし、吉良と妖女を倒す。
最後、浪士たち(47人のみ)は切腹を命じられるのだが、大石の息子(赤西仁)だけは「お前、許してあげる」と将軍に言われて助かる。事務所圧力だろうか。
以上がストーリーの概略だ。
映画を体系的に見たいと思って大学に入ってから教養として映画を見ていた。
好き、好きじゃないだけで判断してるんじゃ嫌だなと思ったから。
とりあえず「見てないとバカにされそう」な映画を選んで観ることにした。誰からされるかは知らないけど。
「このリスト全部読んでないと猿です」って言ってた奴もいたけど、ああいうのに影響されてたかもしれない。
もちろん、この7本は全部観てるし
ヒッチコックも、エイゼンシュタインも、ゴダールも、アンゲロプロスも、ワイルダーも、成瀬も、
タルコフスキーも、グリフィスも、ビクトル・エリセも、フェリーニも、陳凱歌も見た。いかにもでしょ。
大学入って3年で千本はいかないけどかなりの数を見た。これでもシネフィルにしてみればしょぼい数字なんだけど。
小説と音楽も同じように体系的に理解したかったからとりあえず「読んでないと・聞いてないとバカにされそう」なものを選んできた。
数をこなした。ジャンクじゃないであろうものを何百冊読んで、何百枚アルバム聴いた。
要は素晴らしいとされてるものを秩序付けて理解したいし、できるんじゃないかと思ってた。気持ちよくなりたいと思ってた。
だけど体系的に理解できるようにならなかったよ。お気に入りになったのはいくつかあったけど。
で今はこんだけ数こなしても体系的に理解できないならもういいやって感じ。
ソーカル事件ってある種の救いだよね。違うか。
はてなにも面白い映画評を書いている人が何人かいるけど、その人たちが体系的に理解できているかといえばそうじゃないと俺は思う。
でも、面白い。個人的な見方をしているから。それが自分とは違う見方でそれに納得できるから。自分が考えたのとは違うその映画の面白さを改めて発見するから。
だから、映画を体系的に理解するより、面白く映画を語れる方がよっぽどいいね。
でそれには映画を年間何百本も観る必要はない。人間的に面白い人になった方がいい。そっちの方が難しいけど。
みんなが蓮實重彦になる必要はないし、そんなのは絶対嫌でしょ。
畢竟、体系的に映画を観るための○本ってのは自分の審美眼の正しさと自分の知識を権威づけるある種の権力闘争にならざるをえないよね。いいとか悪いじゃなくて。
つーか、今どきそんなに映画見てる奴も本読んでる奴もいないよ。クリエイター志望でキューブリック知らないぐらいなんだからさw
とはいえ、体系的に映画を理解したいとか言って、見れる環境にいるのに今「母なる証明」見に行ってない奴なんなのとも一方では思うよね、てへ。
つーか、体系的ってなんだよ。ファック。
・私に誰かの悪口を言う人は、私が居ないときには私の悪口を言っている。(共通の敵・蔑む相手を作る事により友人関係を構築するタイプの人が居る)
・自分が友達だと思ってなくても(友達が少ないと思っていても)、相手が友達だと思っていることがある。自分の判断基準は極めて狭かった。
・逆に自分が嫌ってなくても、相手から嫌われて居る事がある。こちらの努力で全ての人と親友になること等出来やしない。
・似たもの同志は最終的には仲が悪くなる。> 一歩だとぶつかる。半歩程度の仲なら誰とでもうまく行く。
一歩踏み出せる本当の友人は一人しか出来なかったし、卒業して数年したら疎遠になった。その代わりじゃないけど彼女が出来て結婚した。
多分、僕が「親友」だと思っていたのは(親友に求めていたのは)「恋人」に近い存在だったんじゃないかな。「失われた半身」みたいな、互いに全肯定の存在。
増田が人間関係の間合いを身につけるのはすぐには難しいと思うけど、とりあえず「ファイト・クラブ」を見て、何か体を動かす武術でもやってみると良いと思うよ。
あと、絶縁した友達と会った時には、「元気、最近何してる?」って聞いてみると良いと思うよ。相手が気にしててもいいじゃない。年賀状のやり取りが出来るようになると良いね。
「… in 5 seconds」(…を5秒で)シリーズ。しばしば5秒以上だったり5秒未満だったりするのはご愛嬌。
注意:どう見てもネタバレです。本当に(ryある意味虚偽の記述なので取り消し線引いておきます(汗
新作公開:anond:20070215222633
↑のリンク先が全く評価されない(涙)のでこっちを更新する方向に変更。