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2018-12-23

anond:20181223211819

あなた念仏をしなさい

今日から改めるなら、一説には親鸞の門下にいた、ぐらいの経歴を作ってやってもよい

2018-07-28

難行から易行への分派活動

ほとんどの宗教で、難行から易行への分派活動は見られるよ。

出家して俗世を捨てて厳しい修行をしたり、たくさんある戒律律法を守ったりすれば天国に行ける」という思想には納得感があるけど、古代中世の日々の生活で精一杯の厳しい世界でそうした生き方ができるのは、お金持ちや高位聖職者だけというのが現実だった。

まり難行系の教義だと、お金持ちと高位聖職者しか天国に行けないということになりがち。ということで、「○○するだけで天国に行ける」という教義分派活動生まれる。

キリスト教が「○○しろ、○○してはいけない」という定めがほとんどなくて、神を信じさえすれば救われるという教義なのは、当時のユダヤ教律法重視のファリサイ派が主流派で、それへの改革運動イエス・キリスト活動だったから。

もっとも、カトリックがあれこれ定めを勝手に付け加えたので、ルターがまた軌道修正せざるを得なかったけど。

以下の浄土真宗コピペも似たような感じ。

比叡山修行した法然。→浄土宗

ぶっちゃけ悟って仏になるの、俺ごときでは無理(←このへんが日本人謙遜

働いてる一般人なんかもっと無理。今の仏教は金と暇のある金持ちしか役立つ可能性がない。

でも安心しる。阿弥陀様って偉いお方が、自分が十分にレベルうpしたら

おまいらも引っ張り上げてやんよ、ていってる。これはそこに張るしかないっしょ。

はらたいらさんどころじゃないよ。「あみださまに、全部」 さあ何度でもいいつづけよう」

親鸞浄土真宗

法然さまはおおむね正しいけど、阿弥陀様なめすぎ。

念仏言った回数で差別するような方じゃねえはずだよ(←このへんが日本人的舶来びいき)

心に思うだけで、修行とか、戒律とか自分をどうにかする必要もないよ。

から俺なんか結婚だってちゃうもんね。ただ阿弥陀様に乗ればいいのさ」

おまけ 一遍時宗

「おまーも阿弥陀様なめすぎ。あの方は信者だろうと何だろうと、一切区別しないの。

まり俺たちは阿弥陀様のおかげで勝ち組。もう決まってんの。(←日本人暴走

から感謝の踊りを踊ろうぜ、let's dance!」

https://anond.hatelabo.jp/20180728124959

2017-11-23

睡運瞑菜

睡運瞑菜実践できるなら良い。でもたいていの人は出来ないだろ。

から、「睡運瞑菜睡運瞑菜」と口に出して唱えるだけで救われる、と考えたのが法然とか親鸞とかの世代だったわけだ。

当然、以前の世代からは総攻撃だって睡運瞑菜しないんだもの

でも、唱えるだけで救われる、という考え方は、実際多くの人を救ったんだ。

鎌倉武士は殺生するからね。

2017-11-11

anond:20171110182155

空海親鸞日蓮はまぁわかる。後は以降の体制の源流として新井白石思想の源流として本居宣長

個人的には中江兆民は捨てがたい。読んでみると単純に時流の読み方含めてめっちゃ頭いいんだよこの人。

戦争絡みの思想だと大川周明はまぁ入るんじゃない?本人は戦争は勝てる時にやれって感じだったのにあのザマだったらしいけど。

現代寄りだとマルクス経済学伊藤誠、あらゆる人間から叩き台にされてる所で丸山眞男あたりじゃない?

あと一人は完全に趣味だけど大森荘蔵

吉本隆明は読んでみると結構アバウトだしちょっとね。西田幾多郎結構電波入っててやばい所はあるけど功績としては分からんでもない。

2017-11-10

日本史上で優れた思想家って誰?

早めの夕飯を同僚と食いながらしゃべってたら、日本の歴史上で優れた思想家は誰かという話題になった。10人挙げよと言うので最初に挙げた空海親鸞日蓮、この3人はオーケーが出た。歴史に明るくない俺でもさすがに分かる奴らだ。次に俺は鑑真聖徳太子鈴木大拙を挙げた。そしたらこれは却下西田幾多郎吉本隆明却下された。思想に詳しい人の中ではそういう評価なの?

2017-05-19

鎌倉時代僧侶・一向俊聖(暦仁2年(1239年)? - 弘安10年(1287年)?、以下「一向」と表記)を祖とする宗派

一向は筑後国草野家の出身で、はじめは浄土宗鎮西派西山派という異説もある)の僧侶であった。後に各地を遊行回国し、踊り念仏天道念佛を修し、道場を設けた。近江国番場蓮華寺にて立ち往生して最期を迎えたという。

以後、同寺を本山として東北関東尾張近江に一向の法流と伝える寺院分布し、教団を形成するようになった。鎌倉時代末期に書かれた『野守鏡』にはこの教団を一向宗と呼んで、後世の浄土真宗とは全く無関係宗派として存在している事が記録されている。

一向と一遍智真は同時期の人物であり、ともに遊行や踊り念仏を行儀とする念仏勧進聖であることから、一向の「一向宗」は一遍の「時衆」と混同されるようになっていく。『天狗草子』に記された「一向宗」は、一遍の衆を指したものである(一向俊聖の項を参考)。たしかに一向も一遍と同様に浄土宗の影響を受けて自己教義確立させたものであるが、全く別箇に教団を開いたものである。また、一遍と違い一向の教えは踊り念仏を行うとはいえ、念仏のもの特別宗教的意義を見出す事は少なかったとされている。ところが時代が降るにつれ、一向の教えが同じ踊り念仏一遍の教えと混同され、更に親鸞の興した浄土真宗とも混ざり合うという現象が見られるようになる。特に一向の教義が早い段階で流入していた北陸地方ではその傾向が顕著であった。

浄土真宗本願寺八世の蓮如北陸地方活動の場を求めた時に、布教対象としたのはこうした一向や一遍の影響を受けて同じ浄土教の土壌を有した僧侶信者であり、蓮如はこれを「一向衆」(「一向宗」ではない)と呼んだ。蓮如布教時に、一向宗時宗支配層との結びつきを強め、民衆から離れ、一向宗民衆蓮如教団になびいた結果、一向宗と呼ばれるにふさわしかったともいわれる[1]。本願寺及び蓮如北陸における成功の背景にはこうした近似した宗教的価値観を持った「一向衆」の存在が大きいわけであるが、同時に蓮如はこれによって親鸞の教えが歪められてしまう事を恐れた。さらに別の事由から宗派より「一向宗」と呼称されていたこと(後述)も彼の憂慮を深めた。文明5年(1473年)に蓮如によって書かれた『帖外御文』において「夫一向宗と云、時衆方之名なり、一遍・一向是也。其源とは江州ばんばの道場是則一向宗なり」とし、一向宗が一向の教団でもあることを明記して本願寺門徒一向宗名前を使ったもの破門するとまで書かれているものの、ここでも一遍と一向の宗派混同されている。

江戸時代に入ると、江戸幕府は本末制度の徹底を図り、系譜を異にするさまざまな念仏勧進聖が、清浄光寺総本山とする単一宗派時宗」の管轄下に編成された。この際、一向の流派独立した宗派とは認められず、「一向宗」の呼称を用いる事も禁じられた。『時宗要略譜』によると、時宗十二派のうち、一向派と天童派が一向の法脈を受け継ぐものとされている。一向派(かつての一向の一向宗)は再三にわたり時宗から独立を求めたが実らなかった。

明治時代になって、中期に一向派から独立転宗を唱える者が出現し、一向派は浄土宗宗務院に「所轄帰入願」を、時宗教務院に「時宗一向派独立認可願」を提出した。しかし一向派の独立・転宗を認めてしまうと、明治以降衰退著しく、時宗寺院が少ない上に、さらに減少することになるので、時宗当局は、これを認めようとしなかった[2]

大半の寺院時宗を離れ、一向の母体であった浄土宗帰属するようになったのは、昭和時代に入った1943年の事であった。

ゆかり寺院[編集]

番場蓮華寺滋賀県米原市

佛向寺(山形県天童市):現在でも踊躍念仏を伝える。

浄土真宗の「一向宗」[編集]

浄土真宗、ことに本願寺教団を指す呼称。教団自身はこの名を自称しなかったので注意が必要である

「一向」とは「ひたすら」「一筋」という意味であり、「一つに専念すること」を意味している。『仏説無量寿経』に「一向専念無量寿仏」と記されていることから、とくに阿弥陀仏名号を称えることと解釈され、親鸞宗祖とする教団(本項では「真宗教団」とする)を他の宗派から指す呼称となった。とくに浄土宗は、親鸞の教団が「浄土真宗」と自称することを嫌い、「一向宗」の称を用いた。

したがって「一向宗」は真宗教団の門徒から見て正しい呼称ではなく、また一向俊聖の「一向宗」と混同される事から望ましい呼び方でもなかった。だが、中世において同じ念仏を唱える浄土教宗派であった両派が混同され、更に時衆などとも漠然と同一のものとして捉えられるようになっていった。蓮如は前述のように「他宗派の者が(勘違いして)一向宗と呼ぶのは仕方ないが、我々浄土真宗門徒一向宗自称してはいけない」という主旨の発言をして違反者破門するとまで述べているが、逆に言えばこれは、真宗教団の門徒ですら「一向宗」を自称する者がいた事を意味する。

こうした指導により教団内部では「一向宗」の語は正式に使われることはなくなり、「浄土真宗」または「真宗」と称するようになった。しかし、門徒たちを中心とする一揆が「一向一揆」と呼ばれるなど、真宗教団のことを教団外から一向宗」と呼ぶ風潮は収まる事はなかった。

江戸幕府は、真宗教団を指す名称として「一向宗」を公式に用い続けた。この経緯としては、徳川家康三河一向一揆により家中統制で苦しめられたこと、徳川将軍家が(真宗教団が「浄土真宗」を称することを望まない)浄土宗信仰していることが挙げられる。これに対して、真宗教団側は本願寺の分裂などの影響があり、長らく具体的な対応が取られることがなかった。

2016-12-25

http://anond.hatelabo.jp/20161225143326

直前に親鸞関連の投稿を読んでいたので笑。

自業自得と言うべきでしたねw

2016-11-30

[] 親鸞

なんかNHK100分de名著」の『歎異抄』の回を見てたら、親鸞の教えがキリスト教に似すぎててびっくりした。

自分で正しい行いをして救われることを目指すのは不毛であり、ただ信心に依ればよい、ってもろキリスト教よね。

と思ってぐぐってたら、親鸞は実はマタイ伝の漢文訳を読んでいた!とかい記事が出てきてわろた。ホントかよw

2016-01-08

増田投稿すれば7500ブクマは軽く超え、ブコメでは議論百出し星が飛び交い、さらに有名ブロガー議論の種になりパイラルメディアに取り上げられ小野ほりでいネタにされるくらいの面白さで、老若男女誰にでも親しめるうんこ学歴フェミニズム英語上達法・手早い調理SF増田小説パワハラ上司を十把一絡げに含め、激烈に面白く、かつ長からず短からず改行や見出しが適切に施されもちろん誤字脱字は一切なく特定の個人を批判せずなるべく客観的に書かれていてポリティカルコレクトネスに充分留意増田ブクマ家のご機嫌もうかがいつつ、時事ネタベッキー)をからめつつそれでいて伝統に即した内容で、右派にも左派にも配慮が行き届き、それでいて自分政治的位置には敏感で、遊び心があり、とにかく面白く、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓える巧みな表現をする一方で、「悪性さらにやめがたし、こころ蛇蝎のごとくなり、修善も雑毒なるゆゑに、虚仮の行とぞなづけたる」とかつて親鸞が説いたごとく上記に述べた文章の美しさゆえの醜さ(煩悩)も認めつつ、そしてそうした圧倒的ともいえる文章にも拘わらず、SF作家アジモフの「知性とは進化における偶然である。必ずしもそれが優位というわけではない」という文言のごとく先学者としての驕りを見せない、この時代に現れた真の奇跡のような文章を、・・・私は先ほど書いた。


が、それを増田に書かずにネットのどこかに隠した。

諸君らにはそれを見つけてほしい。一見すれば、上記の優れたる特徴を有する私の小文はすぐに「それ」と瞭然となるだろう。そこにブックマークしてほしい。任せたぞ。

2015-12-07

http://anond.hatelabo.jp/20151206193422

千葉県だろ?

どんなもんかと思って見たら、

Category:上総国の人物 - Wikipedia

Category:安房国の人物 - Wikipedia

日蓮小野忠明と菱川師宣がいるじゃん!

日蓮仏教日蓮宗開祖法然親鸞と並んで鎌倉仏教代表する高僧だ。

小野忠明はこちらは剣術小野派一刀流の開祖で同時代では最強とも言われる剣豪

菱川師宣浮世絵の創始者で「見返り美人図」などが有名。

うーむ、千葉県文化の始まりを生む土地柄なのかもしれんな。

そもそも千葉県のあたりは桓武平氏本拠地みたいなところで、

いにしえの平将門はもちろん上総広常や千葉常胤など有力豪族ごろごろしてたんだぜ。

源義朝とも縁が深いし、関東においては江戸なんかよりよっぽど重要土地だったんだよ。

もっと自信持てよ。

2015-11-21

親鸞悪人正機説イメージがつかめ

浄土真宗開祖である親鸞思想根本に、悪人正機説というものがある。

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」

という言葉でそれは表されているが、この意味が、どうにもわかりにくい。

辞書的には、

他力をたのみとしない善人でさえ往生できる。ましてや、悪業に苦しみ、ひたすら他力をたのむ悪人が往生できないわけがない。

デジタル大辞泉

という意味だろうが、これでイメージがつかめるだろうか?

善人の何がいけないのか? 悪人がどうして往生できるのか? ひたすら他力をたのむというのはどういうことなのか?

……などなど。

最近、こういうことだというイメージがつかめたので、ここに紹介したい。


善人であろうとすることは非効率努力悪人自覚効率的方法への乗り換え

極楽浄土を、ゴールとする。

善人とは、自分の力を信じて、ゴールである極楽浄土へ向かおうとする人々だ。

道を地元の人に尋ね、一生懸命に走ってゴールへと向かう人々をイメージして欲しい。


ところが弥陀の本願は、この世のすべての衆生を救うことである

涅槃の彼方に究極の慈悲の持ち主がいたとしたら、すべてを救いたいというのがその願いに違いない。


から阿弥陀如来は、救いの手を差し伸べる。

簡単な方法だ。

救われることを信じて、極楽浄土へ生まれ変わることを信じて、ただひたすら「南無阿弥陀仏阿弥陀如来帰依します)」と唱えればいい。

これはつまり極楽浄土行きのバスを走らせていて、

「さあ、これにお乗りなさい。之に乗れば、必ず極楽浄土へと連れて行ってあげますよ」

と呼びかけているようなものだ。

これが、親鸞の言う、

「ひとたび南無阿弥陀仏と唱えれば皆等しく極楽浄土へ往ける」

という意味なのだろう。


ところがこれが、難しい。

ただ楽浄土行きのバスに乗ること、乗り続けることがなぜ難しいのか?

それはなぜか? 

ゴールが見えないからだ。先を見通すことがほとんどの人には出来ないのだ。


一寸先は闇ともいう。

人々は、バスにそのまま乗り続けることに大変な不安を感じる。


バスから降りて、歩いている大勢の人に道を尋ねながら、ゴールと思われる方角へ向かう方が安心できるかもしれない。

それにバスに乗っていると、達成感が湧かない、苦しくない、だから自分で走って向かいたい、という人は案外多いのだ。

このような人々が「善人」と呼ばれる人々だ。

自分努力善行を積み、来世でより幸せになろうとする人々だ。


このような努力の結果、もちろん極楽浄土へ到達する人もいるだろう。

これが、

「善人尚もて往生をとぐ」

意味だ。

しかし往生しない人もいるに違いない。

なぜなら、自分極楽浄土へ向かおうとする人々の中には、途中で挫折する人々もいるし、道に迷う人々もいるからだ。

彼等は善人であろうとして、最後まで善人であり得なかった人々だ。


ところが、本来無駄なことをする意味はない。

自分で歩こうとか、

道をよく知らないくせに道案内を買って出るような人に道を尋ねることは、愚かなことだ。

阿弥陀仏がせっかく極楽浄土行きのバスを走らせているのだ。

ひたすら阿弥陀仏を信じて、バスに乗ればいい。

阿弥陀如来の救済を信じきり、バスに乗り続ける人間は救われる。

これが、

「況や悪人をや」

意味ではないか。


ところが、悪人が往生するのならば、善行を積む必要はなく、罪を犯してもいいではないか。

このように考え違いをする人々がいる。

だが、それは違う。


もちろん、そのような人々も阿弥陀如来はお救いになる。

極楽浄土行きのバスに乗れば救いの手を差し伸べる。

極楽浄土行きのバス乗車を断られることは決して無い。

ところが、確信犯的に罪を犯す人々は、バスに乗らないどころか、ゴールへ向かおうとすらしない人々だ。

真宗の教えを知りながら悪行を重ねる人々は、言わばバスから降りた人。

彼らが極楽浄土へ向かうことはなかろう。

無論、自分の足でゴールに向かう人々にも劣るのであって、阿弥陀如来だって救いようがない。


以上のようなイメージを持つことで、悪人正機説全体像をつかめるのではないかと思う。

2015-10-11

穢れなき処女とかどこから来た文化なんだろう

まず神道ではない。

神道は血を穢れとしているために、生理出産など血に関わる事の多い女は穢れとされやすい。

しか神話でも度々性交が行われ、大昔から神主が妻帯しているのを見ても解るように性交は穢れではない。

仏教では女性が穢れという概念はなく、日本仏教女人禁制独自文化で、海外から日本国ひとつのわらひごとありと笑われて法然親鸞批判的だ。

性交に関してはかなり厳しく禁じており、坊主は性行為自慰、異性との接触、卑猥言葉等々数多く禁止されているが、日本ではその辺も独自進化をとげており、坊さんのほとんどが妻帯している。

しろ結婚をして跡取りを作る義務があるくらいだ。

なので日本仏教においては性交は穢れではない。

本当にどこから来たのか解らない、キリスト教なんだろうか。

しかしそれは時代が下がりすぎる気もする。

2015-06-25

ダメJKコンテンツ力には勝てない

本日、街を歩いていたらですね、鮮やかな青色ブラジャーをした女子高生エンカウントしたのですよ。

国技キメたわけじゃないですよ。白のブラウスからいっきり透けて見えたんです。

よほど自分コンテンツ力に自信があるんでしょうね……

また、女友達からビッチ扱いされない程度の処世術というか、コミュ力もあるのでしょう。

アウターに響かないシームレスのブラ、キャミソール、上からカーディガンなんていう安牌を選ばない彼女は実にアグレッシブです。

他方、私はオッサン・チビハゲデブの、ヘレン・ケラーも驚く四重苦ですよ。

もう彼女を見ているだけで自尊心がメリメリと削られましたね。

ちゃんと大学生協で毎月メンズ・ノンノを買っていれば、私の悲惨人生も変わっていたのかもしれません。

……もう遅いわ。

脂肪吸引して、シークレットブーツ履いて、ヅラ被って、タイで性転換しても青ブラJKには勝てそうにありません。

来世でワンチャン期待できるヒンドゥー教は肌に合わなかったので、親鸞に一縷の望みを託したいと思います

浄土真宗の寺で得度して極楽浄土目指します。

南無阿弥陀仏って一回唱えるだけでいいんだぜ? うっほほ~い!(氏にたい)

2015-05-04

俺、親鸞共感しまくり。

 生まれてきて、大人になって、暮らしを営んでいることに幸あれと本当に思う。碌でもない出来事が日々石ころのように転がっていて、それを道から除けるか、避けて通るか、人それぞれなんだけど、なんというかその、道があることが愛おしい。僕らはみんな生きている。生きているからすごいんだ。

 世を苦行だと捉えるのが一般的仏教根本原理だ。聖なき衆生が業のもとに救いなく永久に続く苦行を生きる煩悩の有様を目に見える世界だとする。解脱とはメタ世界への移行でその業の世界から脱出意味してそれを神聖視するわけだけど、そもそもの動機は業からの逃避な訳で。ものを食って、うんこしてる身で。要は、苦行してるお坊さん方は、世の中から逃げたくて逃げたくて仕方がなかった。だから糞下流には混じり合わず、己の世界の内でしんどいことをやり続ければ報われる、というのが原始仏教。こいつらくだらねぇな、つきあってられねぇな、なんて、分かりやすエリート意識

 しかし、苦しい世だからこそ、そこに生きることが尊いのではないか。そこで泥水をすすり、愛欲に溺れ、駆け引きを駆使しながら己と子を護り、肉を喰らって、眠りと朝日保障する。おい、ねえ、すごくない?俺できないし。というのを愚直に見つめた男がいる。それが親鸞だ。

 教義としてのオリジナリティ法然にあるのかもしれないが、親鸞事実、泥水をすすりセックスをし、酒を飲み肉を喰らいながら、そんな俺が信じてるよ、と阿弥陀の救いを説いた。私が知る、あなたたちをこそ救わずして、何が仏か、と。

 ここからは俺の独自解釈。かつて僧という「形」のために頭を剃った愚行を「愚禿」と表わし、今現に業を一身に背負うこと=菩薩行を積んでいる目の前の人々をこそ、哀れまず慈しまず尊んで、己より行を達した者とし、敢えて同じことをした。世は、かき集めた金をつぎ込んで寺を建て、加持祈祷をさせれば徳=得の時代。そのような儀式、「計らい」は要はショートカットであり邪であるとし、業に直面しながら苦しみ生きることこそ解脱の道であり尊い行いだと、己の身をそこに投じた上で彼は知って、そして説いた。

 生きよ、生きよ、生きよ。あなたたちは尊い。何が何でも生きて生き抜く中で、だからこそ届く念がある=救いがある。「南無阿弥陀仏」とは、何者をも超越した阿弥陀仏帰依いたします、という意味だけど、きっと多分なんでもよくて、怒られるかもだけどアーメンでもきっと全然良かった。念仏なんて要するにお題目しかない。生きよ、あなたたちは間違っていないと、そのためになんか支えが要るならとりあえず南無阿弥陀仏っていっとけ、それを親鸞は言いたかったのだと俺は思う。


 結果いろいろあったんだけどね。親鸞だって所詮エリートだ。パンピーとは頭の出来が違うし、思想の落としどころも多分違う。阿弥陀の前に人は平等まではいいけど、衆を集めて暴力的人権運動が起こせまでは多分思ってなかったろうし。いやまあ、どうなんだろうそこのところはまだ腑に落ちてないんだけれども。

 ああ、酔っぱらって書いてるから面倒くさくなってきた。誰か、増田にも真宗門徒いんだろ。西でも東でもいいや、門外漢のお説に捕捉してくれ。

2014-12-27

野島政男医師について検索すれば出てくる程度の情報

遠藤さんからいただいた手紙より「野島医院レポートhttp://odoruudon.com/old/nojima_re.htm

延々と人にエネルギ-を首筋から入れつづけています

その間に遠隔治療電話が入り、耳にイヤホンつけて、

患者にパワー入れながら、遠隔治療も行います

でも、宗教ではありません。お金もほんとに安いです。


野島政男医師について、医療関係の人に質問します。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1037477020

「信じる者は救われる」ということだろうと思いますが、(略)

高額なものを買わせることはないようだと書きましたが、

この人の会員専用サイト年会費24000円が

必要なようです。その身内もそこを閲覧しています


日記患者からのお便りなどがあったサイト現在消失 http://www.nojimaiin.com/

平成13年から日記が、年をおうごとに段々と

異常さがエスカレートしてきていて

平成21年~22年現在日記は、まさに狂気世界です。

インターネットアーカイブ平成16年までの日記なら見れる https://web.archive.org/web/20040409104406/http://nojimaiin.com/index.html

うどん屋大繁盛記 http://odoruudon.com/old/udonnik23.htm

「ここは最高じゃぁ」「のじま先生日本一のお医者さんだ」・・・・(べたぼめしまくる)

診療中によく患者さんから電話がかかってくる

はい右手で胸を押さえて、10分間我は空なりと思っていてください、じゃ電話を切るね」


野島政男さんの講演会 http://plaza.rakuten.co.jp/siriun/diary/200407030000/

きょうの野島さんはGさんとおなじ宇宙から来た異星人の魂を持っているらしい。

往々にしてそういう人の話は、自己顕示欲とかイヤミ感があるのだが、まったくそんな匂いがしない。

宗教は、悪魔がつくった。イエス弘法大師親鸞もみんな悪魔日蓮マザーテレサ堕天使仏陀レベルは低いけれど人類の中ではマシな方」

「私(野島さん)は宇宙と直接結びついている。だから、私はすべてをつくった存在。両親ですら私がつくった。

2014-01-23

http://anond.hatelabo.jp/20140121230227

うちの子が通う保育園はお寺が経営してる。

毎週、住職園長先生)の講話があるけど、浄土真宗だし親鸞様の話で子どもに悪影響があるとも思えない。

卒園旅行築地本願寺

春には花まつりやるけど、冬にはちゃんとクリスマスもやる。

子ども的にはイベント多くて楽しそう。

2013-07-22

宗教の無矛盾性と、ゲーデル不完全性定理

 親鸞仏教にたいして、矛盾を感じ、無矛盾な体系を持つ浄土真宗を作った。

 しかし、無矛盾であることは、完全であることではない。とはゲーデル不完全性定理の言い分。

 キリスト教おいても、バイブル解釈を複雑化させることで、無矛盾を編み出そうとしているが。

 神の無矛盾性を人間認識しようとするならば、完全かどうかはわからない。

 結局、宗教というのは、無矛盾公理を求める作業であり、無矛盾があれば人間精神が救われると思った。 無矛盾なら完全だからという直観があったから。

 しかし、無矛盾からと完全かはわからないという現実を突きつけた時に、

 「人が作った宗教というものは、人間人間をすくいたいために無矛盾を作っただけです。」

 ということにはならないだろうか?

2010-11-29

http://anond.hatelabo.jp/20101129122753

ふうん。君は煎餅好きで、僕はチョコ好きって話だと思う。

個人的には各種外国人学校および私立の高等学校に対する無償化措置もおかしいと思ってるから北朝鮮学校もいれなくたっていいんじゃね。とも思ってる。

あと洗脳教育って何?http://anond.hatelabo.jp/20101129121756も答えてくれてるけど、日本学校だと考え方に自由はあるでしょ。

ある程度の考え方(キリスト教とか仏教とか倫理的なもの)は子供教育効果を増強するためにあってもいいと思うけど、北朝鮮学校教育って「将軍様が何をやっても偉いんです!」とか、教室には毛沢東よろしく金親子飾ってるっていう感じの稚拙というか強迫的教育課程が義務づけられている様にしか報道されてないし、中にいる人はそれ以外の思想を口に出来るの自由あるの?金日成馬鹿にしたらおこられるんじゃないの?別に仏教系の学校キリスト教学校親鸞ヨハネ馬鹿にしたって怒られないしぶっちゃけ仏教徒でもキリスト教徒でなくてもOKだし。まあそれらを象徴するものに落書きしたり破損させたらそれはどこだって怒られるだろうけど。


その上で北朝鮮の連中は21世紀になった今でも「俺等の無差別攻撃しいんだぜなんてたって被害者関係者☆だぜ」 っていうのを言い出すんだぜ。北朝鮮方式の教育を受けて、その中で思想を鍛錬して、ブラッシュアップを重ねて、国の難関をくぐり抜けて政府代表者になった人が全世界に向けてそういう事を言い出しちゃう。「反人間的な対応」をする教育北朝鮮独自の民族教育だと思われているわけ。日本にある朝鮮学校の皆様は自分の所では民族学校だけど、そういう教育はしてないと立証しない限りアウトじゃね?

韓国学校はそういう変な思想(金日成将軍様万歳!的)教育は無さそうなので、民族教育ならそっちでもいいじゃないかと思う。ダメなの?

国内で、(思想的に)教師の洗脳装置でない教育機関がどの程度あるのか?とかね。

日本はこういう所に入ったら転校したりって逃げられるんだよ。

朝鮮学校もやたら金親万歳的な所と、出来るだけその土地社会調和をはかりましょうという所と分かれてて教育方針違うなって思ったら逃げれるの??そんなこと無いんじゃないの?寧ろ興味あるな。

2010-09-06

日本人家族観

国柄探訪: 日本人家族観

 先祖から子孫への連綿たる生命リレー

中間走者として自分がいる。

転送歓迎■ H20.07.13 ■ 38,373 Copies ■ 2,891,505 Views■

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  • ■1.「親と子の血のつながりに対する運命的一体感」■

 秋葉原での無差別殺傷事件で逮捕された青年の両親が自宅前で報道陣に取り囲まれ、会見をした。父親が「謝っても償いきれない」などと謝罪の言葉を述べている途中、母親は急にひざから崩れ落ち、頭をうなだれ土下座するような形でそのまま動けなくなった。

 両親に法的な責任はないが、こういう子どもを育てた道義的責任はある、というのが、日本人常識的な感覚であろう。

 かつて神戸中学生小学生を殺し、その首を校門の前に晒す、という異常な事件が起きた。これに関して、儒教研究家加地伸行大阪大学名誉教授は、こう書いている。

 ・・・もし私が加害者中学生の父であったならば、自裁(自殺)をする可能性がある。私は日本人であるから、親は親、子は子、別の独立した人格であるというような、欧米人流の個人主義的行動をとることはとてもできない。それに、自裁する前に、罪を犯した子を自らの手で処置する可能性さえある。[1,p6]

 殺人を犯した我が子を手にかけた後で自殺する親がいても、日本人感覚からは、同情こそすれ、「狂気の沙汰」とは見なさない。

 加地氏は、これを「親と子の血のつながりに対する運命的一体感」と呼び、「欧米個人主義の立場からは絶対に生まれない感覚意識」だとする。

 こんな所からも、日本人家族観が現代においても欧米とはまったく異なるという事が窺われるのである。

 日本欧米との家族観の違いは、我々の日常生活でも随所に姿を現す。

 たとえば、最近では日本でもキリスト教式の結婚式が広まってきているが、神の前で互いに相手を伴侶とする宣誓をするのは良いとしても、さらに契約書にサインまでするというのは、どうにも違和感がある。日本人普通感覚では、「契約」とは他人行儀のビジネス行為であって、それが家族の中で行われるというのは、どうしてもなじめない。

 欧米キリスト教的な家族観では、家族とは男女の個人間契約を基盤としている。そして神の前での契約こそが、神聖なものなのだ。

 また欧米の家庭では、子どもが生まれて大学生にでもなれば、もう親とは別の独立した「個人」となる。ある小説で親が成人した子どもに「これからは友人としてつきあっていこう」などと語るシーンが出てきて、こういうセリフ日本人では思いつかないな、と感じたことがある。

 当然、子どもの方にも、年老いた親の面倒を見なければならない、などという義務感は薄い。子や孫との家族的関係を持ち得ないアメリカの老人たちはいかにも淋しげである。

 実はヨーロッパにおいても、ギリシア時代やローマ時代など、キリスト教が栄える前は、人々は家毎に祖先の神霊を祀り、それが家族の基盤をなしていたのである。それは古代日本も同じであり、現代日本人家族観はその伝統を色濃く受け継いだものである。

  • ■3.先祖の霊は「草葉の陰」で子孫を見守っている■

 古代の多くの民族は、亡くなった祖先の霊は、子孫が祭祀してくれれば、いつでもこの世に戻って来られるものと信じた。日本語で言えば、「草葉の陰」で子孫を見守ってくれるのである。

 「死んだらどうなるのか」というのは、常に人間不安にする疑問であるが、死んでも自分の魂は存在を続け、子孫とともにある、というのは、生死の安心を与えてくれる信仰であった。

 また残された子孫にとっても、自分を愛し、育ててくれた祖父母や両親が、死後も見守ってくれる、というのは、その死の悲しみを和らげてくれる物語であった。

 先祖祭祀というのは、先祖キリスト教的な唯一絶対神として祀る、ということではなく、先祖の霊とともに生きている、という生活感覚なのである。それがわが国においては古神道となり、中国においては儒教に発展した。

 キリスト教では、死者の魂は最後の審判を受けて、魂は天国地獄に行く。仏教では、魂は輪廻転生を続け、解脱をしない限り、次は蛇や虫として生まれ変わる恐れがある。

 よくキリスト教仏教を「高等宗教」とし、先祖祭祀などは未開の宗教であるかのように言うが、死後の魂がどうなるか、ということについては、それぞれが違う「物語」を持つ、というだけのことであって、どちらが高等かなどと比較できるものではない。

 魂が輪廻転生を続け、解脱をすれば浄土に行ってしまう、とする古代インド仏教が、先祖祭祀を信ずる中国日本に入ってきた時、その死生観の違いが文化的衝突を引き起こした。

 インド人にとって見れば、魂は他の人間動物に生まれ変わるか、浄土に行ってしまうので、肉体はその乗り物に過ぎない。だから焼いて、その灰はインダス河にでも流してしまう。これが本当の火葬である。

 日本火葬というのは、遺体を焼却した後に骨を拾い、墓に収める。これは本来の意味火葬ではなく、土葬の変形なのである。古代中国では、人間精神を支配するものを「魂」と呼び、肉体を支配するものを「魄(はく)」と呼んだ。人間死ねば、「魂」は天に上るが、「魄」は地下に行く。「魄」を地下で大切に守るのがお墓である。

 これと同様の感覚日本人も持っており、遺骨には死者の「魄」を感じる。戦後アジア太平洋の島々にまで戦死者の遺骨収集に行くのも、骨を故郷の地に埋めなければ、死者の魄を供養できないと考えるからだ。

 これについて興味深い話がある。昭和45(1970)年日航よど号ハイジャックして北朝鮮に逃亡したグループリーダー田宮高麿が平成7(1995)年に亡くなり、「祖国の地に骨を埋めたい」という気持ちから、田宮の遺骨は北朝鮮にいる妻子と日本家族とに分けられ、新潟県内の家族の墓に埋葬されることになったという。

 共産主義者は無神論者のはずだが、異国で死期が近づくと「祖国の地に骨を埋めたい」と願うのは、心の底には日本人死生観が根づいている証左である。

 輪廻転生を信ずるインド仏教中国に入ってきた時、遺体は焼いて川に流してしまう、という生死観は、先祖祭祀を信ずる中国人にはとうてい受け入れられるものではなかった。

 そこで中国における仏教は、魄を納める墓や、先祖の魂を呼び戻して依り憑かせるための位牌を取り入れた。

 わが国に中国から仏教が入ってきた時には、このように先祖祭祀を取り入れて換骨奪胎したものになっていたので、比較的抵抗は少なかった。

 それでも日本にも仏教輪廻転生をそのまま信ずる人はいた。鎌倉時代初期の親鸞である。親鸞阿弥陀仏衆生を救おうという本願にすがって、浄土に行けば輪廻転生の苦しみから脱却できると説いた。となれば葬儀も墓も先祖供養も不要になる。

 しかし、親鸞弟子たちはその教えに背いて、葬儀・墓・先祖供養を続けた。その後裔たる現代の浄土真宗本願寺派も、墓を作り、葬儀先祖供養を行っている。

 今日日本では、大方の人々が仏教に求めているのは、墓・葬儀先祖供養である。そもそもの輪廻転生からの解脱仏教に求める人々は例外的であろう。これほどに先祖祭祀は日本人の心の奥底に根付いているのである。

  • ■6.仏壇に向かう■

 仏壇も、墓や葬儀と同様、仏教本来のものではない。中国においては、一族の長の家に宗廟(そうびょう)という別の建物を建て、そこで先祖祭祀を行った。これが後に、祀堂(しどう)や祀壇(しだん)となり、それを仏教が取り入れた。

 日本では、これが部屋になって「仏間」となり、さらにはそこに置かれた仏壇が、一般の部屋に置かれるようになった。各家に仏壇を置くという習慣は、中国朝鮮にもない、日本独特のものであるそうだ。[1,p191]

 仏壇には、灯明と線香と位牌がおいてある。灯明は先祖の霊が降りてくる場所を間違えないよう、明るくするためのものである。線香に火をつけると、その香煙に乗って、霊が降りてきて、位牌に依りつく。

 そこで子孫たる我々は、降りてきてくださった祖霊に対して「ご先祖さま。おはようございます。今日も一日よろしくお願い申し上げます」などと挨拶をするのである。

 今日自分たち家族が生きていられるのも、亡くなったご先祖様のお陰であり、そのご先祖様の恩に応えて、自分家族のため、子孫のために今日も頑張ろうと、心を新たにする。これが先祖祭祀に基づく生き方だろう。

 核家族化が進んで、仏壇のない家も少なくない。しかし、仏壇のある祖父母の家に里帰りした時などは、幼い子どもとともに、仏壇に線香を上げると良い。幼い子どもは遊びのように喜んで仏壇に向かう。自分がここにあるのも、ご先祖様のお陰だということを教える何よりの機会である。

 もう一つ、インド仏教中国日本先祖祭祀と衝突した点は、出家を説いた点である。「出家」とは文字通り、家を出て、財産への執着や家族への愛着を振り切って、個人の解脱を求めることである。

 しかし息子に出家されたら、その家は断絶し、先祖の霊を祀る子孫がいなくなってしまう。個人的な解脱のために、先祖の霊をさまよわせ、子孫の未来を奪うのは、先祖祭祀の立場からは、とんでもない「不孝」と考えられたのである。

 そこで中国日本においては、「在家」すなわち家族の実生活の中で仏教を奉ずることが理想とされた。聖徳太子在家の長者・維摩が教えを説いた「維摩経」、および、同じく在家女性信者である勝鬘(しょうまん)夫人が仏道を説いた説いた「勝鬘経」をとりあげて注釈書を書かれた。

 前述の親鸞は、聖徳太子を「和国の教主」と仰いでおり、その在家主義を受け継いで、結婚し、子をもうけている。今日でも日本の多くの仏教僧は、結婚し、家庭生活を営んでいる。

 オウム真理教インド仏教を受け継いで、出家して修行を積めば、輪廻の苦しみを脱して解脱できると説いた。それを信じて家族を捨てて教団に入った子どもたちを、親が返せと叫ぶ。これも「出家」と「在家」の衝突の一例である。

 「在家」とは、家族の一員として生きていくことであるから、まことに不自由なものである。「出家」のように好きな所に行って、好きなだけ座禅を組む、などという気ままは許されない。

 しかし、その不自由な家族の中で、我々は生まれ、育てられて、大人としての生活を送る能力を身につけていく。まず家族の中に生まれて、育てて貰わなければ、大人として自由な生活を送る事も、そもそも不可能なのである。

 さらに成長の過程で自分を育ててくれた親への感謝や、その恩返しとして今度は自分子どもを立派な人間に育てる義務を学ぶ。このような事が人格の基盤を構成するわけで、感謝や義務の心のない人間は、自由を与えられても、自分利益しか考えない利己主義者になってしまう。

 西欧に発展した近代個人主義においては、ひたすらに個人の自由と権利の拡大を図ってきた。しかし、キリスト教社会においては、神に対する畏れがあり、それが野放図な利己主義に転化する抑止力となってきた。

 わが国においても西洋的な自由と権利の主張を鵜呑みにして、家族制度を「個人の自由を抑圧する封建的制度」などと罪悪視する思潮がある。

 しかし、わが国においては家族制度が、利己主義への抑止力となってきたのであり、それを破壊することは、利己心の抑制を持たない人間に野放図の自由を与えることになる。都会の雑踏で無差別殺人を行う青年とは、その極端な姿ではないのか。

  • ■9.「なぜ生命は大切なのか」■

 こうした事件を防ぐべく、子どもたちに単に「生命を大切にしよう」とだけ教えるのでは、「なぜか」が伝わらない。

 それがわが国の家族観に従えば、「生命を大切にしよう。生命とは何代ものご先祖様から君たちに伝えられ、そして君たちから何代もの子孫に受け継いでいくべきものなのだから」と教えることができるのである。

 先祖供養とか仏壇、お墓参りなどは、すでに形骸化した「葬式仏教」の遺産であると考えがちであるが、それらは我が先人たちが産み出してきた工夫なのである。そこには先祖から子孫へと連綿とした生命リレーの中で人間を捉える伝統的な家族観が生きている。

 その家族観の深い思想を知らずに、単に古くさいの一言で片付けながら、新しい家族観を産み出すこともできずに、社会的混乱を招いているのが、現代の日本人ではないだろうか。

 これではご先祖様も草場の陰で嘆いていよう。

(文責:伊勢雅臣)

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

  →アドレスクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 加地伸行家族の思想』★★、PHP新書、H10

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569603084/japanontheg01-22%22

2010-01-17

俺に何か秀でた才能なんてあるの?

っていうのはずっと不安を抱きながら思っていた事で

それでもやる事をするしか他に出来る事がないからしていた。

「最後の親鸞」は何回も読んでいて、自分なりに解釈して実践していたつもりだったんだけど、

絶対他力っていうものが何なのか本当の意味ではまだよくわかっていない気もする。

でも、社会に参加するっていうのは良い意味でも悪い意味でも自分の意思でなんとかするって事なのね。

そういう事にこないだやっと気付いて、諦めの境地だけじゃどうにもならないなって思ったわけです。

2009-11-18

つまらない男の愚痴と後悔

日記を何も書かずに朝目覚める事に、本能のままに生きてきて、はや4年。凡人たる思いの悔やみは諦観、阿弥陀信仰へと昇華されたと慰めてみるものの、結局のところ、何も能力がないことには代わりがない。最大の苦慮は働くことだ。働くことへの苦痛自分のやりたいことが労働によって阻害されることへの忌避が何だかんだ言うものの,いやなだけなんだろう。人生への苦しみ、存在への謎、ハッキリ言ってそんなことは暇だからいえることなのだ。結局は、ただ怠けたいだけなんだ。ああ醜い。書き方が太宰治そっくり。あの人は、かなり文体を日本国へと伝染させたに違いない。

小説家が一番楽なのかもしれない。しかし、お前の読書遍歴の貧しさはとてもとても卑しくも才能があったとしても、カバーできるものではないだろう。お前の日々の生活は、劣情の解消、2chまとめサイトめぐり、アニメ動画サイト、ハテブの豆知識で埋め尽くされ、高尚な”文学”などという二文字をくちにしただけで、無間地獄へと輪廻してもおかしくないくらいだ。目新しさをといったって、佐藤友哉あたりの先例があることだし、書いたとしても凡百の自称”小説家志望”がまた一人増えるだけ、ああ、佐藤友哉の文章でも、作家になれると勘違いした雨後のたけのこ連中のその一人になるのが落ち。いい加減、自己がまったく特別ではなく、普通であることに自覚すべき。日塔奈美のように、平凡たる自己をその自己のまま許容し、ナルシズムを貫くことが必要。自分に必用なのは平凡だることへのじくちたる自覚。悪人であることへの自覚。親鸞上人のように。ああ、日記をはじめたのは今日、(ここで11月18日であることを、パソコン画面右下の時刻表に、マウスを重ね併せて、確認)11月18日が、パソコンをはじめてからはじめて日記をつけた日。今までなんで、日記をつけなかった?自己内面養成はどこにいったのだ?結局書けているのは、太宰とも、三島とも、村上とも至らない、グズのコピー屋の唾棄すべき文字の羅列ではないか?文字化けしたバグ配列と一体、どちらがましといえるのか?誤って見つけてしまった(そんなことは百に一つもないであろうが)他者の気分を害するだけ、バグのほうが優遇されるべきではないか?ああ、文体がつたない。せめて、比喩表現だけでも身につけておけば、私にも文章かとしての道は開けていたのかもしれない。有名な作家は、物事を観察するたびに、どのような隠喩、直喩で表現するか、考えていると言うではないか。私がそのことを聞いたのは、今から5年前、中学2年の頃だったはず。あの頃から、文章想像癖をつけておけば、今頃どれほどの文章の大家、とまではいかなくても、せめて平野啓一郎の後ろ髪だけでも拝むことができたかもしれない。ああ、キーボードを打ちやすいところに配置したおかげで、(せいで?)大量の日記を書くことができた。これは良きことなのか、悲しむべきことなのか。駄文をつらつらと打ち込んで言ったせいで、やっと阿弥陀信仰で落ち着いてきたとおもっていた後悔の大文字2つが無残にもわきあがってきたのではないのか。いや、意外と、落ち着いていて、冴えきった、明鏡止水のままここまで書き込んできた。途中でTwitterの返答で中断はしたが、文章自体は途切れることなくここまで続いてきた。案外、文章化していなくても、自己脳内でもんもんと自問自答を繰り返してきたことが、これほどの文章能力を磨くことになったのかもしれない。もう、11時か。焦らなくても、いいのかも?文字数カウント1451字ときた。かなりの長文。これは期待できそう。

2009-10-11

http://anond.hatelabo.jp/20091011184447

とりあえず1000年前の宗教論争蒸し返すのは本当に不毛だからやめた方がいい。鎌倉仏教で散々論じられた問題だから。法然とか親鸞がなに言ってたか調べてごらん。

宗教の問題じゃないって言うかもしれないけど、「感謝するのが当然」と言っている以上は宗教としか思えないのであえて宗教的文脈で答えるけど。

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