親鸞は仏教にたいして、矛盾を感じ、無矛盾な体系を持つ浄土真宗を作った。
しかし、無矛盾であることは、完全であることではない。とはゲーデル不完全性定理の言い分。
キリスト教においても、バイブルの解釈を複雑化させることで、無矛盾を編み出そうとしているが。
神の無矛盾性を人間が認識しようとするならば、完全かどうかはわからない。
結局、宗教というのは、無矛盾な公理を求める作業であり、無矛盾があれば人間の精神が救われると思った。 無矛盾なら完全だからという直観があったから。
しかし、無矛盾だからと完全かはわからないという現実を突きつけた時に、
「人が作った宗教というものは、人間が人間をすくいたいために無矛盾を作っただけです。」
ということにはならないだろうか?