はてなキーワード: 撤去とは
戸田は知らんがいたばしなら半分ぐらい無料席あるぞ。野球場はかなりの広さだったし、席取りも16時ぐらいに行けば十分ぐらいの混み具合だった。なんなら離席しても撤去されないので(自己責任)、地元民は朝昼にシートセットして夕方見に行く。
https://twitter.com/itabashihanabi/status/1686983294871875584?s=46&t=LdvMMykrxpCelfH3g68-lg
公式によると18:28頃に満席になっているが、花火が19:00だからそこそこニーズは満たしているんじゃないだろうか。関東同時開催が功を奏しているのもあるだろうが、東京にしては頑張ってる方だと思う。
https://twitter.com/itabashihanabi/status/1687757569526562816?s=46&t=LdvMMykrxpCelfH3g68-lg
対照用にdeepLの画面で対訳見ながら編集した翻訳用和文原稿も吊っておく (deepLが誤解する場所とか主語を補ったりしないとちゃんとした訳にならんのよ)
ここは原文からニュアンス変えすぎでは等の突っ込みも甘んじて受ける。
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「例の件」に関して、彼らは当事者でもなければ長崎の生まれでも広島の生まれでもないのに語るべきだろうか、という書き込みを目にして、少し自覚したのでどうしても言わねばならないことを言う。俺は長崎の生まれで被爆三世で当事者たちから直接話を聞かされて育ったから言う。俺程度がおこがましいという気持ちはあるけれど、当事者はほとんど残っていないから俺が言う。
長崎ではガキどもは原爆の話を聞かされて育つ。クーラーも扇風機もない真夏の小学校の体育館に一時間近くも寿司詰めにされて、原爆の話を聞かされた。俺にはそれが辛い時間だった。話をする年寄りはもっと辛かったと思うが、小学生のガキにはそんな想像ができるはずもないし、俺だってずいぶん聞かされた話をほとんど忘れてしまった。思い出せるのは精々ひとつかふたつだ。もうひとつ辛いことがある。毎年この時期になると、廊下にはずらりと、他所の地域ならPTAが発狂するようなグロ画像が堂々と貼り出される。最近は、原爆資料館ももうずいぶん漂白され、観覧者がトラウマを抱くような過激で恐ろしい展示は多くが撤去されたと聞く。なので、今も続いているかは知らないが、俺の頃はそこに展示されていた。
小学生の頃の俺にはどうしても直視できない写真が一枚あった。谷口稜曄さんの写真だ。検索すれば出てくる。閲覧注意のショッキングな写真だが、それでもどうか見てほしい。どうしてもその写真の掲示された廊下を通れなくて、その時期はいつだって校舎の別の階を遠回りして、写真が目に入らないよう逃げ出していた。
今は、妹を探すために焼け跡に向かった俺の祖父は、目を背けることも別の道を通ることもできなかったんだなと思う。写真どころか、まだ生きて呻きを上げる人間が山ほどいただろうし、苦しみの果てに事切れた人間はもっと山ほどいただろう。彼は瓦礫だらけの長崎の狭い道を、handcartを曳いて何キロも何キロも歩いて、妹を捜し歩いた。当時の祖父は子供じゃなかったが、当然それと似たような事をしたこどもたちも居た。居ただろうじゃない。居た。俺はその話を本人から聞いたし今も覚えている。幼い兄弟が焼け跡から自分の親父の死体を見つけて、兄弟がそれを焼いた話。薪が足りなくて親父の遺体が十分に焼けず、零れ出た生焼けの脳ミソを見て逃げ出して、それが今生の別れになってしまった話。
俺はガキの頃に聞いたその話をいつまで経っても忘れることが出来ないし、今だって辛くて苦しくて、手が震えて涙を出している。どうしてあの親父の脳ミソから逃げた爺さんは、想像もできないほど恐ろしいトラウマを、一生治らない傷痕をほじくり返して人目に晒すことが出来たのだろうかとずっと思っている。
今は少しだけわかる気がする。
俺が自分のトラウマをほじくり返してでも祖父やあの爺さんの話をせずにいられないのは、彼らの言葉が忘れ去られることに比べれば、この程度の苦しみなど何でもないからだ。俺の手が震えて動悸や眩暈と共に涙や鼻水に塗れることなど、かつて確かにあった途方もない苦しみがなかったことにされるのに比べれば何でもないからだ。
だからひょっとしたら同じなのかもしれないとも思う。
俺には想像もできないほどの地獄を味わった祖父は、孫が産まれるまで生き、焼け跡で妹の死に目にも会えた。つまり祖父はあの焼け跡で、誰よりも幸福な人間のひとりだった。祖父やあの爺さんは結局のところ、地獄の淵をさまよっていた人間に過ぎないのだ。俺には想像もできないほどの苦痛を味わった人間でさえ想像もできないほどの苦しみが、78年前の長崎には石ころのように転がっていて、誰にも顧みられなかったのだと思う。俺には想像もできない彼らの苦しみは、彼らが目にした無数の途方もない苦しみがなかったことにされるのに比べれば、何でもないことなのだ。
記憶は人に語られる度にどうしようもなく薄れていく。あの人たちが忘れられることをどうしても許せなかった記憶も、もうほとんど忘れ去られている。78年前の途方もない苦しみはもうほとんどが消え去って、二度とは語り継ぐことはできない。あの原爆で最も苦しんだ人たちは、それを誰に伝えることも出来ないまま焼け跡で腐れ落ちて死んだ。それを自分の目で見た人々も、多くは口をつぐんで墓まで持って行った。僅かに語った人々もほとんどが今や墓の下にいる。
老人たちの言葉と比べて、自分の言葉は何と軽いのだと思う。こんな軽い言葉で語るくらいなら、口をつぐんだ方がマシだとさえ思う。それでも誰かが継がねばならない。俺のこんなにも軽い言葉でさえ、もはやこの世に残された原爆を語り継ぐ声の上澄みなのだと気が付いた。自分のような存在がこれを語ることが許されるだろうかと思う気持ちは痛いほど良く分かる。それでも口を閉ざさないでほしい。語るべきでないと、我々が口を閉ざした結果があれなのだ。
想像もできない苦しみを想像することを止め、他者の苦しみを面白おかしく消費して生きていくことを、俺は時々選んでしまいそうになる。俺がもう声も顔も、言葉さえろくに思い出せない老人たちの、せめて苦しみの想像が残っているうちに、ここに書き残しておく。
翻訳者注記: このポストは、日本のある投稿者が「自分は広島・長崎の出身でもないのに原爆に関する言論について発言する資格があるだろうか」と悩みながら、それでもバービーと原爆の件について発言した投稿に対する返答である。世界に読まれる価値があると考えここに翻訳した。
例の件に関して、当事者でもなければ長崎の生まれでも広島の生まれでもない人間がどうこう、という書き込みを目にして、少し自覚したのでどうしても言わねばならないことを言う。
俺は長崎の生まれで被爆三世で当事者たちから直接話を聞かされて育ったから言う。
俺程度がおこがましいという気持ちはあるけれど、当事者はほとんど残っていないから俺が言う。
長崎ではガキどもは原爆の話を聞かされて育つ。クーラーどころか扇風機もない真夏の小学校の体育館に一時間近くも寿司詰めにされて、原爆の話を聞かされた。俺はとにかくそれが辛かった。
話をする年寄りはもっと辛かったと思うが、小学生のガキにはそんな想像ができるはずもないし、俺だってずいぶん聞かされた話をほとんど忘れてしまった。思い出せるのは精々ひとつかふたつだ。
もうひとう、この時期になると廊下にはずらりと、他所の地域ならPTAが発狂するようなグロ画像が堂々と貼り出される。原爆資料館ももうずいぶん漂白され、観覧者がトラウマを抱くような過激で恐ろしい展示は多くが撤去されたと聞くので、今はどうかは知らないが俺の頃はそうだった。
小学生の頃の俺にはどうしても直視できない写真が一枚あった。谷口稜曄さんの写真だ。検索すれば出てくる。閲覧注意のショッキングな写真だが、それでもどうか見てほしい。
どうしてもその写真の掲示された廊下を通れなくて、その時期はいつだって別の階を遠回りして、写真が目に入らないよう逃げ出していた。
今は、妹を探すために焼け跡に向かった俺の爺さんは、目を背けることも別の道を通ることもできなかったんだなと思う。
写真どころか、まだ生きて呻きを上げる人間が山ほどいただろうし、苦しみの果てに事切れた人間はもっと山ほどいただろう。
瓦礫だらけの長崎の狭い道を、リアカーを曳いて何キロも何キロも歩いて、妹を捜し歩いた。
当時の祖父は子供じゃなかったはずだが、当然それと似たような事をした小学生も居た。居ただろうじゃない。居た。俺はその話を本人から聞いたし今も覚えている。
幼い兄弟が焼け跡から自分の親父の死体を見つけて、自分たちで焼いた話。薪が足りなくて親父が生焼けになってしまって、零れ出た生焼けの脳ミソを見て逃げ出して、それが今生の別れになってしまった話。
俺はガキの頃に聞いたその話をいつまで経っても忘れることが出来ないし、今だって辛くて苦しくて、手が震えて涙を出している。
どうしてあの親父の脳ミソから逃げた爺さんは、想像もできないほど恐ろしいトラウマを、一生治らない傷痕をほじくり返して人目に晒すことが出来たのだろうかとずっと思っている。
今は少しだけわかる気がする。
俺が自分のトラウマをほじくり返してでも祖父やあの爺さんの話をせずにいられないのは、彼らの言葉が忘れ去られることに比べれば、この程度の苦しみなど何でもないからだ。
俺の手が震えて動悸や眩暈と共に涙や鼻水に塗れることなど、かつて確かにあった途方もない苦しみがなかったことにされるのに比べれば何でもないからだ。
だからひょっとしたら同じなのかもしれないとも思う。
俺には想像もできないほどの地獄を味わった祖父は、孫が産まれるまで生き、焼け跡で妹の死に目にも会えた。
つまり祖父はあの焼け跡で、誰よりも幸福な人間のひとりだった。
祖父やあの爺さんは結局のところ、地獄の淵をさまよっていた人間に過ぎないのだ。
俺には想像もできないほどの苦痛を味わった人間でさえ想像もできないほどの苦しみが、78年前の長崎には石ころのように転がっていて、誰にも顧みられなかったのだと思う。
俺には想像もできない彼らの苦しみは、彼らが目にした無数の途方もない苦しみがなかったことにされるのに比べれば何でもないことなのだ。
記憶は人の口を経る度にどうしようもなく薄れていく。あの人たちが忘れられることをどうしても許せなかった記憶ももうほとんど忘れ去られている。
78年前の途方もない苦しみはもうほとんどが消え去って、二度とは語り継ぐことはできない。
あの原爆で最も苦しんだ人たちは、それを誰に伝えることも出来ないまま焼け跡で腐れ落ちて死んだ。
それを自分の目で見た人々も、多くは口をつぐんで墓まで持って行った。僅かに語った人々もほとんどが墓の下だ。
老人たちの言葉と比べて、自分の言葉は何と軽いのだと思う。こんな軽い言葉で語るくらいなら、口をつぐんだ方がマシだとさえ思う。
それでも誰かが継がねばならない。俺のこんなにも軽い言葉でさえ、もはやこの世に残された原爆を語り継ぐ声の上澄みなのだと気が付いた。
自分ごときがと思う気持ちは痛いほど良く分かる。それでも口を閉ざさないでほしい。語るべきでないと、口を閉ざした結果があれなのだ。
想像もできない苦しみを想像することを止め、他者の苦しみを面白おかしく消費して生きていくことを、俺は時々選んでしまいそうになる。
なんかどうでもよくなるな。なにも考えたくない。
腐らずにがんばって努力してやっとレールの上滑ってきただけのやつらと同じスタートラインに立てるんだ。私が血反吐吐いて這い上がってきた経験より金持ちの子女が親の金で留学して「日本の文化と違うと思った」とかいう経験の方が尊いんだ。小学生の頃からずっと勉強してきた私の1票より田舎のパチカスジジイの1票の方が価値があるんだ。
この島には平等・公平と競争・格差のそれぞれの悪いところだけが煮詰まっている。
一番の被害者は小学生だろう。塾では中受に受かるため競争、競争。学校では公平を謳う全体主義の論理を押し付けられる。大人だってそうだ。頑張れば頑張るほど重税を課される。これが”公平な”課税らしいが、一定額を超えるとまた税率が下がり始めるのは頑張りが足りないとでも言いたいのだろうか。これならいっそ経済格差で社会が階級によって棲み分けされる方がいい。頑張った者がバカを見なくて済む。労働者階級が変な夢を見なくて済む。これならいっそみんな揃って愚かで貧しくなればいい。バカも極めれば賢くなろうと思わないくらいには賢くなれるだろう。
この息苦しさはなんだ。この閉塞感はなんだ。この国全体が腐っていくような退廃はなんだ。
私たちは中毒状態にある。悪意と誤謬、まやかしと虚偽に満ちた知性によって。
我々は少ないのだ。どうせ変わらないだろう。どうせ認められないだろう。しかしいつかはその時が来る。”人権”の何たるかを解さずに権力を振るう者が、理解と止揚の可能性をだいなしにする者が、聞く耳を持たずタテカンを撤去する者がいなくなる時が。来たるべき時のために、我々は腐らず、壊れず、人事を尽くすよりほかない。
おにぎり一個とかでいいんだよな。
軽く食べたい。
となるともうコンビニか、おにぎり屋的なものしか選択肢がない。
おにぎり屋なんてほとんど見かけないし、合っても座って食べるスペースがない店が多い。特に都内。
となると選択肢が本当にコンビニおにぎり・イートインしかない。
しかしコロナのせいなのかイートインもいまだに閉鎖されてるとこが多くて本当にいつも困っている。
仕方ないのでコンビニの横とかで1人で立ってもそもそ食べてるけど割と恥ずかしい。
夏は日焼けするので本当に室内で食べさせてくれ頼む。
グルテンフリーとかヴィーガンやってる人向けの店がもう少し増えればありがたいんだけど…(私は病気悪化するので食べてないだけだが)
なんかせめてもっと街中にベンチとかあればいいのにな。
食べないにしても歩いててとにかく疲れるし。
大戸屋とかでもいいけど量多いし食べるのに時間かかるから、本当におにぎり一個がベスト。
デパ地下とかも前はもっとイートインコーナーあったような気がする。
食べるとこなさすぎてもうトイレで食べようか…って何回か思ったことある。
実際どうしても無理でさすがにやらなかったが…
街中で立ったままおにぎり食べるのほんとやめたいな
恥ずかしい
街によっては市民ホール?的なとこで座ってOK飲食OKのとこあるので、そういうとこは本当にありがたい
そういうとこ増えて欲しい
金にならないから難しいのか
ワイは入れられる説を推す。
残置物以前に賃貸借契約を終了させなきゃいけないんだけど、借地借家法は賃借人を強く保護しているから、死亡による契約終了みたいなことができるのか考える必要がある。
この場合の契約終了は事前の合意に基づいている。合意解約自体は有効。ただ、その解約が条件や不確定期限にかかっている場合は、「賃借人に不利なもの」(借地借家法30条)として特約が無効とされる可能性がある。
などがあり、曰く、
これらは、いずれも、賃貸借終了の時期が不明確であり、一時使用のための賃貸借とも認められず、条件の成就・期限の到来が専ら賃貸人の事情に依存する不確定期限ないし条件付賃貸借であって、借家人に不利な特約であるからである。
とのこと(別冊法セno.257新基本法コンメンタール借地借家法【第2版】190頁)。
このあたりの議論をもとに、「死亡解約特約は不確定期限だから無効」という説明をするネット記事が散見される。
ただ、不確定期限なら必ず無効かというとそんなことはなくて、条文が明記しているとおり、無効になるのはあくまでも「賃借人に不利」な特約に限られる。上に引用したコンメンタールでも、
と説明されている。
それでは「賃借人の死亡」という期限は賃借人に不利といえるか。
賃借権は相続可能な権利であるし、特に相続人たる同居親族がいる場合に契約者死亡で即・出ていかなければならないとすると、いつ生活基盤が脅かされるとも分からないので賃借人に不利とも言いうる。なにせ借地借家法は相続人ではない同居人すら保護している(36条。ただし強行規定ではない(37条参照))。
けれども、賃借人は単に居住権を有するだけではなく、その対価として賃料債務を負うのだから、無用になった賃貸借契約が速やかに終了することは賃借人の利益にもなる。
したがって、少なくとも独居の賃借人については、死亡によって解約になる特約は「賃借人に不利なもの」ではなく、合意は有効と考えるべきだと思う(私見)。
(そもそも契約終了後の残置物処理は法3章1節の対象外なので法30条による強行法規性も無さそうだけど、その点はいったん置いといて。)
賃貸人に残置物の収去・処分権限を与えるのは、賃借人に不利とも思えるけれども、これを認めないといつまでも賃料相当の損害賠償債務が発生し続けるので、かかる損害を抑止できるという意味では賃借人にもメリットがある。
これに便乗しているわけではないが、北海道で注文住宅の新築一戸建てを購入したら井戸から女が出てきて揉めている。誰か助けてくれ。
【経緯】
2022年12月に某Mの仲介に土地を購入する。条件は更地渡しだった。また、保証は3か月と言われた。
このとき、何も思っていなかったが北海道の12月である。3月まで積雪で土地なんて確認できなかった。
2月に着工開始、雪で足もとが悪い中、地鎮祭を執り行う。このときなんか変な女の叫びが今思うと聞こえていた。
4月に現場を確認する。すると家の北側と西側に土が残っており、綺麗に更地にしてくれと工務店に伝えるも、仲介業者が難しいという旨を残す。以後、ことあるごとに何度も言ったが応じてくれなかった。
6月に新築を引き渡される。庭に残った残土を処分しようと一生懸命掘っていたら、庭から何かが出てくる。
工務店に連絡し、この何かを持って行って欲しいとお願いしたところ、撤去業者が来て井戸であることが確認される。
さらに翌日、井戸から白い着物を着た女が這い出てくる←イマココ
【個人の感想】
・井戸があるなんて聞いてなかった。当然、事前に告知もされていない。
・残土を持って行ってくれなかったのは、あわよくば井戸を隠蔽しようとしていたのではないかと勘繰っている。
・前の住人が知らなかったと言っても、知ってて言わなかったのではないかと勘繰ってしまう。
・井戸があるとわかっていたら、土地を購入していなかった。正直、不気味。
・土地調査をしっかりとしていなかったということではないのかと不安。
・この井戸のせいで物置が置けず、家の中も片付かない。困っている。
・女は意外と好み
【聞きたいこと】
・正直、仲介会社Mの対応は良くなかったので、徹底的にやりたいが、できることなら穏便に済ませたい。
・女と仲良くなるにはどうしたらいいか。まだ口をきいてくれない。
昔大人のお風呂に通っていたんだが、予約時の待ち時間を潰すのに最寄駅の駅ビルのベンチで座っていることが多かった。
そのビルは専門学校とかが入っていて、集客のためか知らんが外から授業風景が見える形式だった。
多分調理師学校だったのだろう、若い女の子が多くて料理の実習をしていた。
夢や希望に溢れてキラキラしている学生たちを、夢破れて希望もなくソープの順番待ちしているおじさんが眺めるのはどこか背徳的で興奮したのを覚えている。
ある日、いつものように時間をつぶしに行くとベンチは撤去されガラス窓にはブラインドが降ろされて中が見えないようになっていた。もしかしたら俺が気持ち悪い不審者だったのかもしれん。
これに便乗しているわけではないが、北海道で注文住宅の新築一戸建てを購入したら庭から井戸が出てきて揉めている。誰か助けてくれ。
【経緯】
2022年12月に某Mの仲介に土地を購入する。条件は更地渡しだった。また、保証は3か月と言われた。
このとき、何も思っていなかったが北海道の12月である。3月まで積雪で土地なんて確認できなかった。
4月に現場を確認する。すると家の北側と西側に土が残っており、綺麗に更地にしてくれと工務店に伝えるも、仲介業者が難しいという旨を残す。以後、ことあるごとに何度も言ったが応じてくれなかった。
6月に新築を引き渡される。庭に残った残土を処分しようと一生懸命掘っていたら、庭から何かが出てくる。
工務店に連絡し、この何かを持って行って欲しいとお願いしたところ、撤去業者が来て井戸であることが確認される。←イマココ
【個人の感想】
・井戸があるなんて聞いてなかった。当然、事前に告知もされていない。
・残土を持って行ってくれなかったのは、あわよくば井戸を隠蔽しようとしていたのではないかと勘繰っている。
・前の住人が知らなかったと言っても、知ってて言わなかったのではないかと勘繰ってしまう。
・井戸があるとわかっていたら、土地を購入していなかった。正直、不気味。
・土地調査をしっかりとしていなかったということではないのかと不安。
・この井戸のせいで物置が置けず、家の中も片付かない。困っている。
【聞きたいこと】
・正直、仲介会社Mの対応は良くなかったので、徹底的にやりたいが、できることなら穏便に済ませたい。
ドリフトやってたのがまずい
PMC「ワグナー」の設備は1万平方メートル以上損傷した。ロストフ・ナ・ドヌの道路
ATM 749MM
風1M/S
湿度52%
PMC「ワグナー」の軍事装備により、ロストフ・ナ・ドヌの道路1万平方メートル以上が損傷し、2日以内に道路を修復する予定だとアレクセイ・ログビネンコ市長が電報チャンネルで述べた。
同氏は、今朝、公益事業者がロストフ・ナ・ドヌの南部軍管区本部付近の清掃を行い、サーカスの近くや市内中心部の路上にあるゴミを撤去したことを明らかにした。
ログヴィネンコ氏は、公共事業が今日から道路の修復を開始し、作業は2日以内に完了する予定であると述べた。
6月24日の夜、ロストフ・ナ・ドヌでワグネ派が南部軍管区の本部を占領した。これは、PMCキャンプに対するロシア軍のミサイルと爆弾攻撃によって引き起こされたとされるエフゲニー・プリゴジンの声明を背景に起こった。これらのデータは後に国防省とFSBの両方によって反論されました。
先に、ロストフ・ナ・ドヌの南部軍管区の建物周辺の状況は落ち着いていると報じられていた。メディア報道によると、ブデンノフスキー大通り沿いの交通は再開された。
などと擁護する言説を撒き散らしてる連中がいる。
なぜなら根本的に男向け18禁漫画を減らすこと自体が二次元文化の破壊でしかない。
まずイラストレーターや同人作家で精力的に活動している人の多くは18禁物に関わったことがある。
ジャンプ、サンデーその他諸々の人気漫画家でももともと18禁で活動していた人が極めて多い。
それこそライターは日本を代表する作家はエロゲ出身者が極めて多い。
売り上げとかそういうレベルの話ではなく絶対に守らないといけない、根幹部分だろう。
だいたい、売れないならばその原因は営業努力、そしてその営業努力を阻んでるポリコレの風潮が原因であって、この件は誰が悪いかはポリコレ一択でしかない。
それこそ大学やその辺の図書館に一冊もエロ漫画はない。そのくせ何の価値もないゴミクズみたいなつまらん小説だの専門書だのが溢れてる。これこそポリコレに基づいた表現の差別以外の何者でもない。
売れないならば他の本よりも、多くのスペースを割いて売れるチャンスを作るべきであって撤去するのは単なるポリコレへの譲歩でしかないと思う。