はてなキーワード: 報道の自由とは
山本一郎がなにか言っているが、みんなある程度そう思っていたから岸と統一教会の関係も「公然の秘密」として知識層は知っていたし、折に触れメディアでも取り上げていたけど、大っぴらに問題視してこなかったんだよ。
共産党を抑える勢力が国内に必要というのは、当時はある程度理解できたしね。
70年代80年代の右翼街宣車に乗っている人の多くは韓国語をしゃべる人達だったのも、知識層は皆知ってた。
一線を越えたのは安倍晋三だよ。
桜田淳子のときは、メディアは一斉に統一教会を大バッシング出来るだけの報道の自由度があった。
そのとき悪名が付いた名前を安倍政権下で変更できたのも、それが大手メディアであまり報道されなかったのも、統一教会がヴォルデモート化したのも、安倍晋三と彼のウヨカルトのお友達のせいだよ。
サリン事件のころまだ幼児で、喋れる頃ではあったのでショーコーを歌ってて親が慌てて止めたなどのエピソードがあるが、
報道で宗教関連を毎日報道しているといったことを見た記憶がない。
だから歴史上のことであり宗教が日本にどのような影響を今現在与えているのか鈍感だった。
2011年にアニメの「輪るピングドラム」を見たことをきっかけにオウムについて報道特集や動画、ウェブ記事を時たま調べるようになった。まあそれくらいの変化なのだが。
創価の存在は知っていたが本当の意味で知ったのは最近だ。親戚に祖父の金を食い荒らして死んだ親不孝の嫁が創価に全部金をつぎ込んでいたことを、大人になったので教えてもらった。
多分身内の問題やなにかきっかけがないと、政治と宗教問題にはたどり着かない事項だと思う。
二十代になるともっと認識が薄くなるであろう。幸福の科学の清水富美加も十代では怪しい。
もしかしたら子供を守るためだったのかもしれないし、はたまたコッソリ活動するためだったのかもしれない。
日本は今報道の自由が低い国だという認定を受けている。が、個人的にそのような感覚は薄い。
しかし思うのだ。
京都アニメーションの放火事件が起きたとき、ワイドショーや週刊誌は真っ先に犯人の言い分を流した。
そして明らかに自体把握できていない社長に問い詰めていた。「盗作の事実はあるのか」と。
これは当日に起きた出来事だった。
こういうことをするのなら、今回もマスコミは真っ先に関係者に聞いてその様子を国民に伝えるべきだったのではないか。
報道では「犯人が思い込み」という文章が流れている。しかし犯人が思い込んだと言うわけがない。
京アニのときは言わなかった。「盗作疑惑」が数日間マスコミにとりあげられた。京アニは否定していたのに「思い込んだ」なんてすぐには言わなかった。
今無性に腹立たしい。
その私が「なぜ芸能人の自殺を報道してはいけないか」を語ってみる。
自殺を考えたこともない友人は「芸能人のように輝いている人が自殺するなんて、輝いてない自分はもっとだめじゃん…って思うから後追い自殺するんじゃない?」と言っていて、私は違うなと思った。
自殺を考えておきながら、自殺できない時間があるのは、死ぬのが怖いからだ。単純に。
じゃあなんで自殺するんだ?怖いのに?と思うかもしれないが、私の場合「あ、今ならできるな」という瞬間というか、タイミングがあって、勢いでやってしまったのだ。
芸能人の自殺ニュースを見て「あ、今ならできるな!」とか「一緒にいこうかな!」と自殺を考えてる人の背中を押してしまうのだと、私は思っている。
「芸能人もやってるんだし、私も!」と自殺する勇気が出てしまうのだ。
昨今のバラエティー番組で「※絶対に真似しないでください」というテロップが出たりするが、それっていうのはやっぱり真似する視聴者が居るということだろう。
特に常に自殺を考えてる人に「いのちの電話」とか見てるのだろうか?死ぬことしか考えてないのに。
私自身は今は立ち直り、自殺から遠い場所に居れるが、もしも、毎日死ぬことだけを考えてたあの時に、芸能人の自殺ニュース見ていたらと自殺する勇気がもらえたと思う。
報道の自由があり、芸能人死去の理由を知りたい人たちがたくさん居る。
私も「なぜ死んだのか?」と死の理由を知りたい。だからニュースも見てしまう。
報道するのも仕方ないと思うが、同時に「※絶対に真似しないでください」というテロップのように、もっと訴えかける投げかけが要るのではないだろうか、とは思う。
インサイダー情報とか風説の流布が規制されるのと同じで、報道の自由とか表現の自由と社会秩序の間で許されない一線というか
バランスを取る必要があって、自殺報道ははっきりと自殺者の増加に死に影響してるので
雑にやっちゃいかんってだけ
死者の尊厳とかは関係なくて、生きてる人間を守るためのガイドラインだけど、なんかいまいち理解できてない人がちょくちょくいる気がする(守れと言う人も、報道の自由を叫ぶ人も)
そら自由な表現の制限は悪だけど、こっちはお気持ちの問題じゃなく実際に人が死ぬので規制の重要度はかなり高い
そんだけ
娯楽のための表現物(映像作品・マンガ・小説その他)の表現規制に対しては、殆ど例外なく反対するけれども、逆に報道の自由に対しては「メディアスクラムを許すな」みたいなノリで、制限されるのは公共の利益のために当然、って言いそうな気がするんだけど、実際の所はどうなんだろうな。
俺も表現の自由戦士だが、報道の自由はむしろ娯楽作品のそれよりも強く守られている必要があるとは思ってる。
ただ、メディアスクラムに代表される様な「俺達マスコミは社会的要請の下に仕事をしているのだから、取材対象側の受忍義務は大きいに決まっている。 メディアスクラムなどと騒ぎ立てる連中は報道の自由を犯している!」みたいな了見はやはり許せないし、そういう「我々は特権を持つ」と内心では考えてる連中の正義もおよそ信用できない。
だが、被取材側に受任すべき程度はある事、その部分の調整のもとでなるべく充実した取材が出来ることも大事であるから、相互にぶつかる権利の調整として「報道はどこまで被取材者の人権を侵害し得るか」のラインは公に決められているべきだと思うのである。
まあ、マスコミは「そんな事は長い報道の歴史で業界ルールとして固まっている。だから素人は……」と言い出すに決まってて、だから俺はマスコミの連中は全員クズだし、人間として信頼できるものなど一人も居ない、クズのやってるゴミ商売だと思っているが、マスコミという事業が民主主義社会にとって不可欠で重要であることは否定できないから頭が痛いのである。 ウンコは臭いし汚いが、それを排泄しないと人は死んでしまうのである。
このまとめでは表現の自由戦士が顔真っ赤にして「エロばかり攻撃されてる!エロが最優先だ!」と仰っている。いやいや、エロばかり攻撃されてないから連載中止にまでなったんだが?
オタク達の間では、フェミが騒いでるだけでその騒ぎがスルーされていて広告が取り下げられてもいなければ連載中止にもなってないたわわの方が、連載中止となった宗教2世漫画よりも迫害されていて可哀想ランキング上位らしい。へー。大した表現の自由ですこと。
「たわわ」に関する問題点と宗教2世における問題点をごっちゃにするバカがいるの、何でだかわからないんだけど。無理矢理、相手に「表現の自由戦士」とか冴えないレッテル貼りした挙句、表現の自由に関するトピックなら全て闘え、というのは流石に無理筋だろ。
漫画表現に対する恣意的な基準に基づく圧力の話と、宗教教団の内部情報暴露に関する報道の自由の話は、「表現の自由」に所属する、という点でしか共通点がない。
そもそも、宗教2世の件で(そもそも誰にか分からんが)抗議をする事に、正当性があるかどうか、という点から怪しい。宗教2世漫画、教団の許可を取らずに内部情報を公開している訳で、これは表現の自由を踏まえても危ない橋を渡っている。報道の自由があるから何しても無問題、と言えないことは、先日の北海道新聞の記者逮捕の件からも明らか。しかも、今回の媒体は報道機関ではない。
特定の宗教教団の内部情報を公開するにあたって、許可が取れていないのであれば、教団側から「おいそれどういう事だ」とクレームが入るのは当たり前の事。教団側にも権利がある。潜入ルポ(に類する活動)をやるのであれば、教団側とどういうコミュニケーションを行うのか、について事前に十分に準備をする必要がある。
集英社が連載中止をしたということは、言い換えれば教団側の主張が勝ったということ。この件においては彼らの方が正しいのであれば、それを受け入れなければならない。なので、「集英社の担当者はしっかり準備して、著者や取材先を守れよ」ぐらいは思うが、それ以上の意見はない。教団側にも理がある場合、それも尊重するのは当たり前。何をしてもいい訳じゃない。
宗教2世の件、抗議するにあたっての法的正当性すら怪しいのだけど、法律よりお気持ちが優先なんだっけ。明らかに関係ない論点について説明しろ、というのはフェミニストの悪い癖だな。もっと丁寧に議論しろよ。
これまで、フェミニズムにはわりと好意的なつもりだったが、国連団体を経由して報道の自由に圧力をかける今回の事態を見て考えが変わった。これはさすがにやりすぎだ。
個人的には、性表現自体はゾーニングの上で規制をかけてもよいと考えていたのだが、今回のように報道に圧力をかけるのは問題外。報道の自由が保たれない国なんて、どんどん腐っていくに決まっている。
なので、これからはフェミニズムに批判的なコメントや増田を書くようにしようと思う。
正直なところ、性表現など女性の在り方に直接関係ないのだから後回し(やらないでいいとは思っていない)にして、例の映画監督だとか、性被害のような女性の尊厳に関わるテーマについて重点的に運動してほしかった。
日本でも「metoo」運動とかに重点をおけば、社会からの同意も得られやすかったと思う。何より、私たち女性の生き方を大きく変える運動になったと思う。
フェミニズム自体の思想には今も共感はしているのだが、いわゆる「ツイフェミ」たちに思想が食われてしまって台無しにされてるのが残念だ(今回の報道圧力もそういう一環だろう)。
確かに国民と政府はイコールではないかもしれない。報道の自由や選挙の公正性が十分担保されていない国だというのもわかる。
しかし、それらの事実がただちにロシア国民を免責するだろうか?
ロシアは、中国や北朝鮮ほどの専制体制ではなかったはずだ。報道の自由がないといっても独立系メディアはつい一週間前まで存在していたし、世論調査の支持率や選挙の得票率が常に100%と発表されてきたわけでもない。
世論調査の支持率にどれほどの信頼性がおけるのかはわからないが、たとえば https://www.jiia.or.jp/research-report/russia-fy2021-05.html の記事にも書かれているように、情勢によって支持率はきっちり変動している。
今回の侵略でプーチンの支持率は10ポイント上昇したが、この原因を単に情報統制のみに求めるのは無理があるのではないだろうか?
ジョージア侵攻やクリミア併合では支持率が高まり、2019年の年金支給開始年齢引き上げで支持率が低迷したのならば、それはロシア国民が「自分たちの年金が減るのはNoだが武力による現状変更はYes」という意見を世論調査を通じて継続的に表明してきたということではないのか?
そもそも自由の制約された抑圧的な権威主義体制自体、ソ連崩壊後の混乱の記憶から安定を望む国民が、望んで後押ししてきた側面があるのではないか?
もしも今の日本があのような暴挙に及んだならば、民主主義国家の主権者として日本国民は当然責任を問われるだろう。
ロシアの場合権威主義体制である以上その程度は弱まるかもしれなが、それでもロシア国民の責任が皆無になるとは思わない。
念のためだが、ここで主張しているのはあくまで「ロシア国民の責任」であって、その中の特定の一個人に対して直ちに責任を負わせるべきだとかリンチまがいのことをしろだとかいうことではない。
これは今回の侵略で「ウクライナ国民」に連帯を表明したとしても、それはヤヌコーヴィチやアゾフ大隊の過激な構成員への連帯を必ずしも意味しないのと同じことだ。
それでもロシア国民は政府とともに一定の批判を受けるべきだし、制裁や企業の撤退によって結果的に個人が不利益を受けたとしてもその責任はロシアの国民と政府が負うべきものだと考える。
そして我々は、「不断の努力」を怠った者は責任と代償を負わされることを肝に銘じ、「国民」としての自らの行いを省みなければならないのだろう。
ノンフィクションな出来事からちょっと言葉を変えたくらいでフィクションを謳ってる。
フィクションと言うことはこの創作劇を見たところでそれで現実を知った気になって実在の人物を責めるのはお門違いだし、なんならあれはフィクションだからで片付けられる。
それはリアルに被害を受けた方々にとって一番の侮辱じゃないか。
なぜここまでリアリティをなぞるだけの作品にしながらノンフィクションのドキュメンタリーにしなかったのか、甚だ疑問だ。
主題にある通り、新聞記者とはたる正義を語りたかったがためなのか?
それでもせめて被害を受けた遺族が承認してるならと流していたところだったけれども、最悪な形で悪い予感は的中した。
ネットフリックス「新聞記者」プロデューサーが制作経緯巡り、森友遺族に謝罪
https://news.yahoo.co.jp/articles/9a5db9d82991d9948da9392fa549275b8c8ec557
この創作話は被害者家族の要望を無視してフィクションだからと強行されたらしい。
じゃあもうこれ立派な報道被害じゃん。どの口で政府に国民の声をとか言ってるの?
そのタイトルを冠するならさ、『新聞記者』の酸いも甘いも曝け出せよ。
何食わぬ顔して私たち正義です弱者の立場ですみたいな趣旨が気に食わない。
報道が現在進行形で巻き起こしてる立派な社会問題があるじゃん。その一つがわかりやすく報道被害。実名報道。
そう言う自分達の非には一切向き合わず新聞に携わるものを格好良く描いて終了と言う欺瞞に吐き気がする。
報道の自由度ランキングでもよく政府ガーって言いながらちゃっかり記者クラブが名指しされ続けてるのは記事に書かずに塞ぐじゃん。
なるほど『新聞記者』様だよ。
「右翼の方が表現規制を進めようとしている!」とか「政治や報道の自由を守る活動をしない奴らがエロ規制に文句を言うな!」とか「女性の意見を圧殺するな!」とか、とにかく論点を逸らしたがる。
やっぱ論点ずらしを自分たちがやってるから相手もやってるに違いないって思考なのだろう。
まぁ歴史的に言えばリベラルと表現の自由は深く結びついていたんで、そこを指摘される=思想のブレを指摘されるのと同じだから否定したいんだろうな
もともとリベラルが表現の自由を訴えていた時だって、相手陣営は「表現の自由を制限する!」とまでは言ってなかったわけで
あくまでそれが「世のため社会のためであるから」と言っていたわけで
まぁ結局同類、同じ穴の狢だった、ってことですな
https://anond.hatelabo.jp/20211218225545
この増田で言われているように、リベラルが特定表現に対して積極的であることはもう言い訳の余地のないレベルで事実だと思うんだよね。
もちろんそうでないリベラル個人も沢山いるのだろうけど、それでもやっぱり主流派のムーブメントが規制的であることは否定できない。
まあ、それ自体は(俺個人としては賛同できないけど人それぞれの考えだから)良いと思うんだ。
ただ、一つ納得がいかないのは、”リベラルを自認しつつ規制を唱える人々”って、なぜかたいてい自分が”表現規制派”であること認めようとしないよね。
「あなたは表現規制派ですね」と言われると、「右翼の方が表現規制を進めようとしている!」とか「政治や報道の自由を守る活動をしない奴らがエロ規制に文句を言うな!」とか「女性の意見を圧殺するな!」とか、とにかく論点を逸らしたがる。
敵対陣営が表現問題に対してどういう態度だろうが、あなた(リベラル)が表現規制派であることとは何の関係もないのに、なぜかいきなり他人の話を持ち出す。
表現の自由と競合する人他の権を守るために規制を訴えているというのなら、「私たちは正義のために表現規制派をやっている」と堂々としていれば良いのに、そこを曖昧にごまかしたがる。
規制はしたいのに、表現規制派と呼ばれるのは嫌がっているように見えるんだよ。
これが不思議でならない。
エロだろうがなんだろうが表現である以上、それらを積極規制しようとしている人々は”表現規制派”と呼ぶしかないないんだから、「あなたは表現規制派ですね?」と訊かれたら「はい、そうですよ」というのが偽りなき返答じゃないの?