はてなキーワード: 元ネタとは
同じ業界で働いているので話題なんだが、不思議と内部からの話が聞こえてこない。WELQ問題などもあり、DeNAの情報統制はしっかりしているということか。元ネタ
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元DeNA社長の守安氏、タイミーCOOを半年で辞任。「コンプライアンス規程違反」と公表
https://www.businessinsider.jp/post-252506
守安氏がどういった経緯でDeNAを退任したのか当時は気にしなかったが、過去の南場氏の講演書き起こしにこういった記述がある。
彼が超生意気なんですね。新卒2年目で転職してきたんですが、仕事はできるけど、とにかく生意気。
彼が私のところにやって来て「茂岩をクビにしろ」と言い放ちました。(中略)
https://logmi.jp/tech/articles/325823
この、上役を引きずろそうとする気質は「会社のためを思っての意見」とか「自分が優秀であることを示す機会としている」など色々な解釈ができるとは思うが、ハラスメントが性根にあるのではないだろうか?
今月号のアフタヌーンに掲載されている『天狗の台所』って漫画でピェンローって鍋を紹介していた
干し椎茸の戻し汁で白菜と鶏肉と豚肉と春雨を煮て、ゴマ油を垂らし、塩と一味とうがらしをスープに溶かし、それをつけ汁にして食べる鍋だ
この鍋は昔、木村紺の『神戸在住』でも作中に登場していて、その際は大根のべったら漬けと一緒に食うと美味いみたいな話をしていたような記憶がおぼろげにある
元ネタはどちらも妹尾河童という人の『河童のスケッチブック』という本で、『天狗の台所』ではコマ外に参考先として記載があり、『神戸在住』では作中の登場人物がその本を読んで作りたくなったと語っていた
二回紹介されると、そんくらい美味いんかなと思いながらも、鍋の季節ももう終わるから誰か作ったことある人がいたら感想を聞きたくなった次第
こんなものが火の使用のように同時多発的に発生するのではたまらない。
Tシャツを簡単に畳むあの技だって伊東家のプロデューサーというれっきとした元ネタがあったぐらいだ。
必ず特定個人がいるはずだ。そういう特定個人が思いつく前に死んでいたら今後も誰も思いつかなかったであろうものが。
都市伝説の言い出しっぺを特定するのは野暮とするような神聖化はいらないのだ(ああいうのも話の原型についてはルーツの人がいないとおかしい)。
「生まれと環境が殆ど人生を決めるものです。慶応はそれを教えてくれました。」このTwitter小説に大学内の格差が詰まっていた件
自分が苦労して手に入れた事柄(現品だけでなく、地位や環境なども含む)を自動的に与えられている人を見ると自分の人生はなんだったんだろうと思うときがある。
だけど、コメント欄の
もまた事実なんだよな。
たぶん、アフリカのなんとか族が今の自分を見たら「野生動物に襲われない安全な住まい、清潔な水、適切な冷暖房、読みれないほどの本やコンテンツetc...なんでお前はそんなに恵まれているんだ」と思うだろう。
仮にある分野で一位になったとしても、別の分野では一位になれないことは往々にしてある。
例えば世界一の富豪になったとしても、世界一のイケメンにはなれることはほぼないし、その逆も然り。
だから何かを他人と比較して勝者になろうとした時点で、将来的に確実に敗者になる。
だから幸せになろうとしたときに、他人と比較するのは間違っている。
例えばライオンのたてがみはカッコいいかもしれないけど、『ああ、なんで自分にはたてがみがないんだ』と嘆いたりしないだろう。
私はラジオが好きだ。
特に深夜ラジオが好きで「オールナイトニッポン」も、もうかれこれ10〜15年くらい聴いている。
今でこそ、Twitterとの連動やお笑いブームもあって人気コンテンツになりつつあると感じるが、当時はまだラジオはマイナーな趣味だったと思う。
だがなんとなく聴きはじめてからすっかりハマってしまい、ここ10年くらいは深夜に頑張って起きて聴いたりごくたまにだがメールが読まれたり、いわゆるヘビーリスナーと言ってもいい立場だと思っている。
そんな自分だが、先週配信されたニッポン放送55周年記念「あの夜を覚えてる」にどうしても違和感というか、冷めた気持ちを感じてしまった。
長年好きなコンテンツのはずなのにどうしてそう感じてしまうのか、自分の考えをまとめたい気持ちもあって今これを書いている。
一応書いておきたいのが、ニッポン放送やオールナイトニッポンと分けて考えれば、物語自体はとても面白かった。
例えばこれが普通の映画だったり漫画だったりしたら、とても好きな作品になっていたと思う。
なのになぜモヤモヤしてしまうんだろうかと考えてみて、一番感じたのは「"エモ"は公式から押し付けられると冷める」ということだ。
これはこの作品だけでなく他のコンテンツにも感じたことがあるのだが、私は公式から「エモ狙い」の宣伝や発信をされて冷めてしまうと感じる。
深夜ラジオを長い間聴いていると、いわゆる「神回」に出会うことや、「エモい」というか、テレビや漫画など他のメディアでは味わえないような感動を味わったこともある。
でもそれは、公式から「神回ですよ」「エモいですよ」と言われているのではなく、聴いているリスナー側がそう受け取っただけのことだと思っている。
10年以上続く人気番組「オードリーのオールナイトニッポン」が「部室」と言われているのもそうだが、パーソナリティのトークを、それぞれのリスナーがそれぞれの感覚で受け取る。
それがラジオの好きなところだと、私は思っている。
だから、公式から「あの夜」と言って深夜ラジオというコンテンツのことをドラマチックな「エモい」物として発信されてしまうと、なんだか違うと感じてしまうのだと思った。
また、劇中にいくつもあった普段のリスナーならわかるような「小ネタ」のひとつを、公式Twitterで「元ネタはあのラジオのあの回です」とツイートしていたことも「なんでそんなことをするんだろう」と思って不思議だった。
そういった「小ネタ」は伝わる人にだけ伝わればいいものだと思っていたので、公式から声高に解説されたことに違和感を感じてしまった。
公式Twitterは他の宣伝ツイートも謎のポエム調のツイートばかりで、終始「酔っている感」というか、さきほども書いたが「エモ狙い」をすごく感じてしまうものだった。
長々と不満を書いてしまったが、結局はあくまでも私の一人よがりな「深夜ラジオ」のイメージや今まで約10年間の印象と、今回公式から発信された「深夜ラジオ」に対する価値観が違いすぎて勝手にがっかりしてしまっただけなのだと思う。
また、一リスナーの意見だが、こういった作品を作るような金銭的・人員的余裕があるならば、もっと今放送している番組の企画やイベントに力を入れてほしかったとも思う。
あまりにもネットやTwitterで絶賛の声しかなかったので、「本当にずっと深夜ラジオを聴いてきたような人がみんなそう感じているのだろうか」と思って書き始めてしまった。
タイトルの時点でいないとは思うが、この作品が好きでこれを読んで不快にさせてしまった人がいたらごめんなさい。
やっぱりこんな風に感じたのは自分だけなのかな。
ジャベリン対戦車ミサイルが強すぎてウクライナの守り神としてミーム化した聖ジャベリンのイラストの事なんだが。
元々これは クリス・ショウ(Chris Shaw)というロック系アーティストが2012年に描いた”Madonna Kalashnikov”聖母カラシニコフというイラストで、現代的な事物を中世宗教画やイコンに似せて書いたシリーズの一枚だった。
https://chrisshawstudio.com/2013/04/chris-shaw-at-the-san-francisco-museum-of-modern-art/
カラシニコフはソ連の銃器エンジニア、ミハイル・カラシニコフが設計したライフル群の事で、特に有名なAK-47の事を指す事が多い。旧共産圏でライセンス生産とデッドコピー生産されていて、北九州のヤクザなんかもご用達だ。北九州ヤクザのは中国生産品らしい。
一方でゲリラ御用達品でもあるので無秩序や抵抗や解放の象徴でもある。
そんな現代紛争の象徴を宗教イコンにしたので、その聖性と暴力性の組み合わせがウケてタトューの図柄としても人気があった。
因みに聖母マリアっていう呼び方はカトリック的で、ロシア正教含め正教会では生神女マリアっていう。神を生んだ女って意味やな。
というのも、青の顔料はラピスラズリっていう鉱物からしか採れず、大変貴重だったから。貴重=貴い、侵されない、無垢、穢れがない(性交していない)という意味。
数年前に「自然界に青色は存在しないとドヤ顔で言っている」人を反証で論破しまくるって棘がバズった事あったが
https://togetter.com/li/729184
お前らそれ違うぞ!
花とか鳥の羽とは皆構造色で青が出てるんだ。だから顔料として磨り潰すと色は失われる。
一方で緑がかった青や水色は酸化銅や酸化クロムで出す事が出来る。だから群青色や純粋な青は貴重でそれ故マリアの色となったのだな。
さてこの聖性を暴力性と組み合わせた聖母カラシニコフを2018年に誰かがアレンジしてジャベリンミサイルを持たせた。
多分ウクライナの誰かかと思われる。
タイミング的にウクライナ防衛の為にトランプ大統領がジャベリン供与を決定というニュースに刺激されたのだろう。
この時ウクライナで商売しているバイデンの親族のスキャンダル無い?とトランプが宇政府にゆすりを掛けたのがバレて、武器供与を選挙対策に使ったな、と紛糾したあれやな。
で、ロシアが一方的に侵略戦争を始めるとジャベリンの活躍によりロシアの侵攻は停滞、救国兵器として改めて聖ジャベリン画がミームとして爆発的に流行したという経緯。
元絵アーティストのクリス・ショウはこの事を知っていて、クールな現象だが複雑な気持ちだと述べている。
一つは著作権的な問題。この為に「聖ジャベリン公式バージョン」を作成した。
もう一つは実際の戦争で使われて殺人の用に供していること。今のところ聖ジャベリンは自由と抵抗と正義の象徴だが、それが憎悪と抵抗から離れた戦争の象徴となることを心配していると。
だからマリアであるのに青じゃなくて緑のローブを着ているのはクリス・ショウの元絵が色んな色のシリーズで聖母カラシニコフが緑だったから。
で、聖ジャベリンには別バージョンもあって例えばBBCのこのニュースに出てくるのなんかはクリス・ショウ聖母カラシニコフ改聖ジャベリンじゃない。
https://www.bbc.com/news/world-us-canada-60700906
この兵器はスウェーデンのSAABと英国で開発された対戦車ミサイルNLAWだ。これもウクライナに供与されている。
大手メディアでは聖ジャベリンと銘打ってこっちのイラスト紹介している事が多い。これは聖ジャベリンの方にはクリス・ショウに著作権があり、勝手に改変された海賊版ジャベリンを紹介しちゃうとマズいからだと思われる。
このイラストの元絵は何かというと「ウラジーミルの生神女(Virgin of Vladimir)」というロシア正教会で有名なイコンなのだ。
聖ルカにより描かれたという伝承されている。ルカは画家兼医師、書記だ(聖路加病院は聖ルカの意味。医師だったのでルカは医者の守護者)。
だから聖ジャベリン NLAW ver.の方が首を傾げているのは、ミサイルに頬を寄せているのである。元絵は赤子のキリストを抱っこして頬を寄せている。
この絵はモスクワの東300㎞にあるウラジーミルの街に置かれ、この安置の為に大聖堂が建てられた。
ウラジーミルの街の名の由来はキエフ大公のウラジーミル1世だ。そしてウラジーミル・プーチンの名の由来も同じである。
という事でこっちのNLAW ver.聖ジャベリンにはプーチンへの皮肉が入っている。
敬虔なロシア正教徒ならイコンを持ってるようなウラジーミルの生神女が対戦車ミサイルを構えてウラジーミル・プーチンの野望をトップアタックモードで破壊している。
聖ジャベリンの元ネタはマグダラのマリア(元娼婦でキリストの復活を目撃して悔い改めた)だという説もあるがどうもそれの原因は中央日報のようだ。
https://japanese.joins.com/JArticle/288271?sectcode=A00&servcode=A00
でも今見たように聖母(生神女)マリアなのだ。元ネタが聖母カラシニコフだから。救世主(キリスト)代わりに救国対戦車ミサイルを抱いているのがキリスト教的教養から判るのが面白いところなのに。
まったく、韓国はキリスト教が多い国でしょ?なんで間違えてんの…?
と思ったけどプロテスタントでは聖母マリアの信仰はご法度なんよね(韓国の最大教派は福音派。国父による)。
主流教義から外れる信仰の受け皿をマリア信仰が担っており、「そういうのダメ。一本化」というのがルターの立場で、プロテスタントには聖母マリア信仰はないし像もないのだ。
なので間違えたのだと思う。
小説家志望の駿は、沖縄の離島で親戚のおばさんの営む宿に間借りして住み三年になる。彼は、毎日独りで海を見つめている男子高校生が気になって仕方がない。男子高校生の実央(みお)は孤児で、いまはよその家に世話になっているというが、その家には帰りたくなくて海を眺めて時間を潰しているらしい。
駿は実央に一目で惹かれてしまったのだが、実央は駿が自分を憐れみの目でみないところに惹かれていた。
だが、実央は本島の施設に移り、そのままほぼ音信が途絶えてしまった。ところが三年後、大人になった実央は駿のもとに帰ってきたのだった。
以前、続編の『春風のエトランゼ』を前提がよくわからないままなんのこっちゃと思いつつ読んだけど、こういう話だったのか。なるほどねー。
『春風の―』を読んだ時にも思ったが実央が攻めで駿が受けなのが意外だ。でも、商業BLでは年下攻めというのは案外多いらしい。攻めが未成年の場合はとくに。
絵が隅々まで綺麗でいいけど、絵に誤魔化されている感があるというか、素敵なシーンばかり見せられている感があるというか。ゲイの苦悩葛藤がなんか取って着けたように見えて仕方がない……。実央の「ノンケだけど駿のこと好きになっちゃったから大丈夫!」っていう能天気さが、ファンタスティック過ぎて私は着いていけないのかもしれない。
それに、北海道出身という設定の駿が家の為にゴリゴリに古風な祝言上げるところだったとか、元婚約者の桜子さんの大正浪漫と昭和レトロの中間的なお嬢様ぶりなところとかなー。北海道ってそんな旧態依然としたお土地柄なの? そうとは聞いたこと全くないのだが。結婚式は会費制くらいのことしか知らんけれども(そのさばさばした印象がつよいのか)。
個人的にはあまりハマれないなこれ。絵は綺麗でかわいいけど。(だがむしろ作者は百合の方が描きたいのでは? というくらいに脇役がめたくそ百合百合していた。メインのBLが霞むくらいに。そこもハマれない原因のひとつかもしれない)
今ならシーモアで丸々0円で読めるよ!
短編集。男子中学生たちを主人公にした、耽美でレトロな物語。ちなみに、『紺碧』と『紺一点』は単行本『紺極まる』に続いている。
長野まゆみ先生の持ちネタが詰まっている。水琴窟とかバードベルとか義兄に恋しちゃう義弟とか。同じネタを使って毎度似ているようで違う話を作り出すのすごい。ストーリーの内容がどうとかいうよりも、物語のバリエーションと文章構成の素晴しさに感動してしまった。
瓜はめば子等思ほゆ栗はめば況して偲はゆ
と、山上憶良の長歌の出だし部分が引用されているのを見て、『左近の桜』の『瓜喰めば』の章を思い出したので、再読してみた。↓
主人公の桜蔵(さくら)は、男と男の忍び逢う宿〈左近〉の長男で高校2年生。彼はゴシックな体質を持っている。というのは、彼はこの世ならざる者を拾い、交わることで相手を成仏させてしまうようなのだ。そんな彼のことを、父の柾(まさき)や〈左近〉の常連客の浜尾は〈女〉と呼んでからかう。桜蔵は年上の女ともだちがいて男には一切興味がないので、〈女〉呼ばわりは不本意だと憤るのだった。
これは桜蔵がこの世ならざる者達に引かれ、此岸と彼岸の境目を彷徨う、妖しくで耽美な短編連作集。
夏休み、父の柾に連れられて弟の千菊(ちあき)と共に池畔の別荘地にやって来た桜蔵。父との夏休みを満喫する千菊。一方、桜蔵は柾に雇われ高額のバイト代目当てに雑用をこなす。
柾と千菊が出かけている間、バンガローの掃除に勤しむ桜蔵。彼の前に不器用に西瓜を売り歩く男が現れて……。
瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆ
章のタイトルにこの歌を冠した通りに、柾が息子を可愛がる話なのだが、ただし柾がかまう相手は実子の千菊ばかりだ。柾の実子ではない桜蔵は柾から息子を息子とも思わぬような扱いをされているが、桜蔵も柾とは血縁関係のないことをわきまえ雑用アルバイトに徹している。……という、そのわきまえっぷりが地の文に長々~と書かれているんだけど、これだけわきまえてますから! とばかりに書かれると、負け惜しみに読めるw 桜蔵が実際に弟にやきもちを焼いて当たったり父に文句を言うような場面は、シリーズ中に一度も出てこないのだが。
桜蔵にとっては柾は単なる父親というよりは父性あるいは大人の男という概念が具現化したような存在であって、血の繋りがない事なんて大した問題ではないらしい。だが、血の繋りがないだけに、父性への憧れがなんかこう、恋心めいているように見える。
この章でもまた、桜蔵はこの世ならざる者に魂を抜かれて危うく死にかけたが、彼は窮地を柾によって救われたのか、桜蔵の欲求がそんな幻覚を見せただけのかは曖昧だ。
「(死人に)喰われたくなかったら、蛙のふりでもしてろ」
と桜蔵に言う柾。これは、
人来たら蛙となれよ冷やし瓜
という、小林一茶の俳句からの引用。これを私は、さすが風流なことを言いますなぁ、くらいにしかずっと思っていなかったのだが、今回再読して思った。瓜にそんな事を言い聞かせるのって何故? →自分が食いたいからに決まってるじゃん。
誰かが来たら蛙のふりでもしてろ。あとで私が食ってやるからさ(^_-)
激しく萌え散らかした。(だが、送られた当の桜蔵がそういう意味で受け取りときめいたかキモがったか、あるいは意味わからんと首を傾げたかは謎のまま、物語は終わってしまった)
後に、何章だったかで柾は選ぶ権利は〈男〉ではなく〈女〉にある(柾ほどの男でも〈女〉から選ばれなかったこともある)と言う場面が確かあった。選ぶ権利は〈女〉である桜蔵にあるからといって、俳句なぞ送ってアッピールしたろというのが柾の魂胆なのか、単に桜蔵をからかっただけなのかは不明だが、個人的には前者に賭けたい。
次はついでに読んだ第4章『骨箱』。
第3章にて謎の男の手により背中一面に蝶を転写されてしまった桜蔵だが、いまだに蝶を消すことが出来ないでいる。学期末となり秋の修学旅行の費用を支払わなくてはならないので、桜蔵は背中の診察もかねて柾の診療所を訪れる。旅費を出すことを二つ返事で了承した柾が桜蔵に手渡したのは、現金ではなく〈骨箱〉という銘の徳利と手書きの地図。柾は桜蔵に、〈骨箱〉を質屋〈八疋〉に売って金を工面しろと命じる。桜蔵は地図を頼りに〈八疋〉を探すが、たどり着いたのは「望月」と表札のある民家で……。
この章に登場するチャラ男の幽霊は桜生(さくらお)じゃないか。桜生かもしれないと思ってはいたが、かもしれないじゃなくて明らかに桜生だった。なんでそんな事も読み取れなかったの過去の私……。
桜生とは、桜蔵の戸籍上の伯父であり、過去に柾と付き合っていた人でもある。『左近の桜』の続編『咲くや、この花 左近の桜』で初めて名前が登場する(その時は高校生時代の容姿で桜蔵の目の前に現れる)。柾がちょっとひねくれた男を好んで愛人にしがちだということが他の章で書かれていたが、桜生もまたちょっと、いやかなり癖のある人物だ。後に、桜生に男を寝とられた〈女〉(生物学的には男性)が、桜生への報復として柾を寝とり返すというエピソードがあったりするくらい。
桜生のもとへ桜蔵は柾から預かった「桜生の形見の品」を持って訪ねて行くことになったので、桜蔵は柾の差金で桜生と出会わされたと読んでもいいのだろうか。
なんの為に桜生に会わなければならないのか? 単に修学旅行費を稼ぐためばかりじゃなくて、桜蔵の背中に転写された蝶を消してもらうためだろう。
桜蔵が桜生のもとを訪ねたとき、望月家の界隈では水神祭が催されていた。また、望月家の庭には水神の井戸がある。『左近の桜』シリーズに登場する〈男〉と〈女〉が水神に関する何かだというのは『その花の名を知らず 左近の桜』で書かれていたので、水神祭の日に桜生が現れるのは偶々ではなさそう。
ということに気づかず読み流していた私の読解力やばすぎ。もっと落ち着いて丁寧に本を読もう、と反省。これまでの人生で読んで来たその他の本も大いに誤読してたり理解してなかったりしそうだから、あとで再読してみようと思った。
桜蔵は桜生と出会い言葉を交わしてそれ以上のこともするが、桜生のほんとうの相手である柾は桜生を見ることも出来ないらしいというのが、切なくていい。
浮気者の若旦那とその新妻の両方を狐が美女・美少年に化けてだます話。
泉鏡花の文章って私にとっては古文の範疇なのだが、古文というほどに現代語とかけ離れてはいないせいで現代語訳がないので、調べながら読むのが難しい。だからとても苦手。それで、『長野まゆみの偏愛耽美作品集』のページをめくる手は『狐』のとこで数週間止まっていたのだが、せっかく買ったものを積んでおくのもなんだから、頑張って読んださ。七ページしかなくてよかった。『海神別荘』みたいにくっそ長かったら辛かったから短くてよかった。
ちなみに、『海神別荘』を辛い辛いおめきながら読んだのは、『シャングリラの鳥』(座裏屋蘭丸)のなかで語られるおとぎ話の元ネタがそれだったから。あーなるほどと思った。
『狐』に話を戻すけど、耽美だからすごいというよりはオチが面白い話だった。
その他に『僕らの地球の歩き方』(ソライモネ)も読んだけど、これはあとで気が向いたら感想を書こう。Kindleでプライム0円で読めるよ!