はてなキーワード: 松竹とは
1993年。外資系のワーナー・マイカル・シネマズの日本第一号・海老名店がオープン。アメリカ式シネコンの嚆矢。
1995年。外資系のAMCシアターズの日本第一号・AMCキャナルシティ13がオープン。
1996年。外資系のユナイテッド・シネマの日本第一号・大津店がオープン。
1997年。国内系の松竹MOVIXの第一号・六甲店がオープン。
1998年。国内系の東急109シネマズの第一号・港北店がオープン。
1999年。外資系のヴァージンシネマズの第一号・トリアス久山店がオープン。
1999年。国内系のシネプレックスの第一号・平塚店がオープン。
2000年。大店法が廃止。大型ショッピングセンターの駆け込み出店。併設のシネコンも急増。
アメリカ本国ではシネコン競争が過熱して2000年前後に映画興行チェーンの倒産が続出。
2001年。外資系のロウズが日本出店を計画するも、本社が倒産して撤回。
2001年。マイカルが経営破綻(2003年にイオン傘下)。2004年までワーナー・マイカル・シネマズの出店が止まる。
この頃から国内系ロードショー館の都市型シネコンへの置き換えが加速。
2003年、ヴァージンシネマズを国内系の東宝が買収。TOHOシネマズに変更。
2004年、ユナイテッド・シネマの親会社が日本撤退。株式を住友商事に売却(2014年にローソン傘下)。
2005年、AMCシアターズが日本撤退。国内事業をユナイテッド・シネマに売却。
2006年、まちづくり3法改正。大型ショッピングセンターの駆け込み出店。併設のシネコンも急増。
2013年。ワーナーが資本撤退。ワーナー・マイカル・シネマズがイオンシネマに変更。
2013年。ユナイテッド・シネマがシネプレックスを吸収合併。
90年代末から2000年代初頭にかけてシネコン建設ラッシュ。
つまりこういうことだろ?
もうどうしたらいいのか分からない。
人気的なものがもう頭打ちなのかもしれない。辞められるのは絶対嫌だけど、ずっとフリーターJr.も嫌だ。デビュー出来ないのかもしれないけど、それ以外の道も見えなくてしんどい。そう思ってしまう自分がいるということが何より一番悲しいのだけれど。
自担は事務所から特別推されたことも干されたこともない。ただ、メインになれない。冬のコンサートも夏の舞台も春の新喜劇も、メインとして名前があがることは殆ど無かったと思う。今日夏の報せが来たけど、今回も無かった。やっぱりなと思ってしまった。
Jr.祭りと銘打ったコンサートにもいなかった。Jr.じゃないのかもしれない。もしかして知らない間にデビューしてた?だったらよかったのに。
もちろん他にも出ていない人がいるのは知っているけれど、城ホールの公演で、今の立ち位置で、他の関西Jr.は出ているあの公演を見るのは正直キツかった。ああやっぱりかと思う自分が憎かった。いないことに慣れてんじゃねーよ。わらわらJr.としてもメインとしても出られない、そんな扱いづらいところになってしまったことが只々ショックだった。
ジャニーズWESTのツアーバックとして同じように全国回っている他の人は出られて、どうして自担は出られないの?春松竹の焼き直しなのにどうして?同じ衣装なのにどうして?見学には来ているのにどうして?話が逸れるけどよく見学に来られたよね。見てどう思った?「次はふぁんきーさんとやりたいです!」ってステージの上から言われるのってどんな気持ち?ねぇどんな気持ち?
そのFunky8が公式にならないことがどういうことか考えた方がいいよ。松竹でさえ8人だけの曲を貰えていないことがどういうことなのか。
高校生以下担からすれば目の上のたんこぶだと思う。目の上のたんこぶにだと思われているなら数倍マシだ。目の上のたんこぶにさえなれてないよ。
ジャニーズWESTのバックにつけてもらってるから仕事がある気がするけど、ジャニーズWESTはもうJr.をつけなくても充分ドームが埋まるよ。アリーナにもスタンドにも立ち位置最前には何故か規定外の団扇が並んでいる、くらいじゃないと駄目だよ。危機感や焦燥感を感じてはいないのだろうか。
今から劇的に売れる未来が想像できない。何度かあったそのチャンスはもう過ぎてしまったし、ヲタクもどんどん減っていく。いつまでバックなんだろう。メインにいてもバック臭が抜けないと言われるのはどうしてだろう。どうしたいい?どうしたら売れる?そもそもどうなりたいのか分からないけど、売れてくれないと私が見れなくなるので困ります。早急に打開案をください。
ミーハーとは、1927年(昭和2年)に公開された松竹映画『稚児の剣法』でデビューした林長二郎(後の長谷川一夫)のファンのために作られた言葉である。松竹は林のデビューに当たり、当時で二万円という巨費を投入してこの美貌の俳優を売り出した。林はたちまち若い女性の間で大人気となり、彼女らが好きな「みつまめ」と「はやし長二郎大好き人間」を揶揄してできたキャッチフレーズが「ミーハー」だった。
90年前から人間の性質は変わらないし進化しないのだと知って落胆よりも逆に安堵感を覚える。
これだからミーハーはと怒るよりもこの人間の性質を活かして商売した方がストレスで寿命が縮まないのも分かる。
一億総白痴化(いちおくそうはくちか)とは、社会評論家の大宅壮一が生み出した流行語である。「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いの言葉である。
70年前の単語のこちらも合わせて。
https://oriver.style/cinema/tcc2016-cb/
先日東京コミコンが開催され、その中でマーベルの副社長であるC.B.セブルスキーさんのトークショーがあったようだ。
該当の記事には多くのブックマークコメントもついており、皆様々な意見を言い合っている。
しかし、この記事で一つ大きな誤解が生まれており、いくつかのコメントはその誤解のために少し的外れな内容になってしまっているように思える。
本記事ではその点についての私見と他国に日本のコンテンツをどう広めるていくかについて書こうと思う。
■マーベル副社長は「日本人よ、日本にしか通用しないものばかりを創るな」などと言っていない。
まず、大きな誤解を招きかねない原因はこの記事のタイトルに原因がある。
マーベル副社長「日本人よ、日本にしか通用しないものばかりを創るな」
と、でかでかと記事タイトルを掲げているが、記事の内容を見るとセブルスキーさんはそんなことを言っていないのがわかる。
という部分は「世界を目指せ!日本の映画産業は小さくまとまりすぎている」という段落の中でまとめられている。
日本の映画産業は小さくまとまりすぎであるというところ。日本のファン、日本の観客のことしか見ていなくて、海外の観客のことを全然考えていない。日本の監督、映画プロデューサー、映画会社はもっとグローバルにやっていくべきなんですよ。だって、日本にはとても優れたストーリー・テリングの伝統があり、日本文化はもっと世界に受け入れられるものなのだから、物事をもっと大きく考えるべき(Think Bigger)でしょう。」
ここでセブルスキーさんが言っていることをよく見るとわかるが
「日本文化はもっと世界に受け入れられるものなのだから、物事をもっと大きく考えるべき(Think Bigger)でしょう。」
つまり、日本の映画・アニメ文化的なものが受けないとは決して言っていない。
これはセブルスキーさんも言っているが、過去の実績からも明らかだ。
マジンガーZやグレンタイザがヨーロッパの一部で受けたり、セイントセイヤがラテンアメリカで受けたり、マッハGOGOGOがアメリカのマニアに受けたのは明らかだが、これらの作品が果たして海外を強く意識した作品だっただろうか。
巨大ロボットに乗りながらも、強く苦悩したデューク・フリードはヨーロッパでの受けを狙ったとはとても思えない。
海外で高名な黒澤明や小津の作品がアメリカ風やヨーロッパ風、あるいは中国風の映画だっただろうか。
事実はその全く逆だ。
黒澤が作った作品で恐らく最も有名な作品である「七人の侍」は時代劇ではないか。
侍が出てきて日本刀で百姓と一緒に戦う映画のどこに西洋らしさがあるのか。
小津の映画は全編が静謐としており日本人らしさに満ち満ちている。
明らかに日本人らしさに溢れているにもかかわらずこれらの映画はそのどれもが海外で受けた。
モチーフに西洋風のものを使っていたとしてもその作品の根幹は日本人らしさで溢れている。
セブルスキーさんは現状存在する日本映画のストーリー・テリングの伝統をそのまま貫けば良いといっているだけだ。
ここで注目すべきなのはむしろ、前半の部分で海外の観客を見ろと言っている部分だ。
海外の観客にコンテンツを届けたり、今現在既に存在する海外の観客が何を思っているのか良く考えろと言っているのだ。
それは、コンテンツの内容をアメリカ向けに変えろとかそういう話ではないはずだ。
例えばクランチロールでアメリカやカナダ、ヨーロッパで受けている作品は何かの一覧を発表していた。
なるほど、バイオレンスが好きなアメリカ人らしいと思うが、であればアメリカで物を売りたいのであれば今後そのような作品を積極的に送り出せばいい。
しかし、そこでアメリカ人におもねって、不自然にアメリカ要素を入れたりするべきではない。
我々日本人の考えるバイオレンスさと、ドリフターズで受けいれられた要素を真剣に考えるべきだ。
アメリカのような作品を作りたいと、アメリカのコンテンツを適当にナメタような態度で作ってもアメリカ人の作った作品に敵うわけがない。
生まれたときからアメリカで育ち、アメリカのものの考え方をしている人のようなことを日本で育ち、日本で生活をしているだけの人ができるわけがないのだ。
骨をうずめる覚悟で何年も生活すればまた別かもしれないが、そんな人がなぜ日本の映画・アニメ産業で物を作らねばならないのか。最早意味不明だ。
日本人は日本人でしかありえず、それ以上でもそれ以下でもない。
それはつまり我々の作る作品は日本人的でしかありえずその枠から出ることは決して出来ない。
かならずどこかに日本人的な部分が混じる。
アメリカが世界的なコンテンツを作ることが出来るのはある社会的な前提条件が存在するからだ。
インディアン/ネイティブアメリカンの生活していた文化やヨーロッパからやってきた文化。
そのどれもが並立して存在しており、また映画製作の現場でも多数の民族の文化が交じり合う。
このような状況を無理やり日本に作り上げたいなら東宝や松竹の社長をアメリカ人にして、フランスの映画監督でも引っ張ってくるしかない。そしてスタッフには多数の外国人スタッフを入れるべきだ。
しかし、残念ながら日本の社会でそのような会社を作り上げるのは難しいだろう。
少なくとも主流にはなりえない。
であるなら、我々は逆に日本人的であることを貫き続けるしかないのだ。
これは日本人の文化SUGEEEEEEEEEEEEEとか日本最高!であるとかそういうことでは決してない。
日本で生まれ、日本で育った日本人が「自分のストーリーを語る」とは一体なんなのか?
それを突き詰めると結局日本で生活した人間の目線から見た作品でしかありえないのだ。
例えば、近年東京で増えてきた外国人と日本人の交流・衝突を描いた映画であるなら語れるだろう。
あるいは「シン・ゴジラ」のような日本のポリティクスを突き詰めた作品をもっと作ってもいい。
細部については理解しやすいようにローカライズするのも構わないだろう。
しかし、将来を見据えるならそういったカルチャーの積み重ねによって理解してくれる人を増やすしかない。
海外では日本被れをweeeabooooといって揶揄する言葉も存在する。
では、ハリウッド映画を毎年のようにバンバン見ている私たち日本人はなんなのだ。
そこらじゅうweeeabooooだらけではないか。
もし本当に日本のコンテンツを海外に広めたいのであれば、文化的衝突を恐れてはならない。
海外の人が日本的なものを作って欲しいという要望を出しているのにもかかわらず
なぜか海外的なものをつくらなければならないと勘違いしてしまう事が日本では多発する。
「日本にはとても優れたストーリー・テリングの伝統があり、日本文化はもっと世界に受け入れられるものなのだから」
という発言を聞いておきながら
というタイトルをつけるのは雑すぎるだろう。
もっと日本人の観客の言っていること、海外の観客の言っていることを良く聞くという地道な
*観に行った当日に書いたものです。極力他人の感想等を見ない・聞かない努力をしています。
*とはいうものの記憶は薄れてしまっているので、読まれる方の混乱を防ぐためWikipediaなどのによりあらすじ・登場人物名確認を行った上で投稿されたものです。
*自省的なものです。レビューは他のかたの記事をお当たりください。
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映画を見なくて久しい友達が、ハリーポッターくらいしかまともな(?)映画を見たことのない僕に「観に行かへんか」と誘われ数々の選択肢から導かれて「聲の形」を観に行くことになった。
コミック未読の身としては、予告編の限りでは「普通によさそう」だと思い前向きだったが、相方はヒューマンドラマ的すぎて醒めてしまうのではないか、と消極的。結局後々の話題性(新学期の話のネタ)を考慮した結果がこれだったんですが。
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昼過ぎ集合、東宝の某劇場で別の映画を観るも機材のトラブルでサイレントに。7割は観たけど全額返金で謎のオトク感をかみしめ、軽食をとり松竹にうつる。
スクリーンにつく。若い人が多い印象。ぼくらみたいに男だけで来てる集団もかなり多かったような・・・
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主人公・石田が責任を負う形にはなるが、西宮に対するいやがらせは根本的には植野(黒髪の女子)から始まったように描写されている。
そもそもこの「いやがらせ」から「いじめ」への変遷で最も大きなものは、攻撃人数の増加・攻撃者の集団化だと思う。
集団化とは、ときに思わぬ人を巻き込むこと。川井(クリーム色の髪の女子)は集団化の被害者であり西宮への加害者である。
また、極端な描写とはいえ、教師の配慮の無さも事態をエスカレートさせている印象があった。
加害者追及(石田が全責任を負う)の場面は自分の小学生時代の記憶がフラッシュバックした・・・(加害者ではなかった分とても不愉快な記憶)
どれもこれも、人の未熟さゆえの出来事であり、高校生になった今、未だ未熟でありながらも、子どもたちはあの時の集団性を見返すのです。
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なんといっても、主要人物全員が橋の上で集まるシーンがこの作品の中核をなしていると思う。
広義的ないじめ加害者・観測者はすべてあの人物中にカテゴライズできる、と言っても過言ではないかもしれない。
そしてその一人ひとりに対し「主要な」いじめ加害者・石田が吐き捨てる言葉は的確であり、「こんなやつおるよなあ」と感心したくらい。
永束のキャラ性は決して浮きすぎず、むしろ重くなりがちな展開を緩和してくれてありがたい。
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途中に入れようとしたけど入れられない書きたかったところ。
すぐ「ごめんなさい」と伝える傾向にある西宮に対し、怒りを爆発させる植野の心情。
いじめは攻撃のある場にいるだけで参加しているようなものだ、と思う(陳腐ですが)。これを自覚できずただ流されるままの人間にはなりたくない。
たとえ偽善者と言われようと、嫌悪感を抱いたら行動は起こすほうがいい(身の上のためにも)。
島田(金髪男子・遊園地のバイト)はともかく、広瀬はWikipediaみるまで覚えてなかったんですが、なぜ彼らが石田の命を救ったのか。
・永束の扱い
記憶が正しければ劇場においてはいわゆる「正義の味方」役にとどまっていたはず(Wikipediaに載っているようなバックグラウンドは描写されていない)。ただこの一面だけであっても、実に典型的で現実的ないじめの観測者になっている。
・美也子(将也の母)の人物像
綺麗事を並べているわけでもないが、将也をはじめとした多くの人物に一言で影響を与えるとてもいい役をしている。画面にいるだけで安心する(?)。
劇場では厳格で冷たい人物であるように事故前まで描かれていた。館内で配られたSpecialBookでバックグラウンドが補完されている(ことにあとで気づいた)。
・そして、結弦
・石田・西宮が立ち寄った現代美術的モニュメント群は一体・・・?
はじめは金沢美術館あたりかなあと思ったんですが、舞台である岐阜の大垣市は結構名古屋寄り・・・今度調べなければ。
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全体的な感想としては、久々に映画を観るからか、とても楽しめましたし、精神的収穫もありました。
これが「日本映画の典型的なお涙頂戴」とは違う感慨であってほしい・・・
とりあえず自分の思ってたことはかけたので、他の人のレビューを見ていって補完していきたい所存。
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以下オタク雑感。
アニメをみてたのはほんの一時期だったので全話見て知ってるのは俺妹のあやせたんくらいなのですが(すでにうまい)、某動画サイトで異能バトルなる作品での名演が残されています。5分間しゃべりっぱなし・・・
ブコメで叩かれてんだろうなと思って観に来たら案の定で安心したんだが、
だって、オレラ少数派だし。イッツァ・マイノリティーワールド。
まあ映画産業が牧歌的だった時代なんぞ無いんだろうが、チョット考えてくれよ。
映画は興行だ。お金を稼ぐためにやってる。慈善事業じゃ無いんだよ。
だから「映画を愛する人」と「映画をかける興行師」との相性は悪い。
あの黒澤明にすらカットを要求し続けて「これ以上切るならフィルムを縦に切れ!」
(製作、配給、興行の区分と金の取り分の問題点はまた別の機会に)
さて、映画館にみんなが払ってる平均入場料金は1285円なんだが、ONE PIECEは最近だいたい400万部売れてる。
そうすると、10%の40万人が映画に来ると、5.14億円になる。
まあ、たぶんこんなソロバン弾いたんじゃないかな。
「なんかスターウォーズ流行ってっし、ワンピースの特別CMあるなら、行く?」という超ミーハー層狙いね。
ストームトルーパーのコスプレで映画館に来ちゃうような極小数のターゲットより、狙いやすい層と言い換えても良い。
ぶっちゃけて言えば映画館としてはワンピースは確実に稼げるオイシイ映画なんだよね。
12月18日は、スターウォーズ封切り日であると同時に、ワンピース新作の前売り券発売日だし。
(前作「ONE PIECE FILM Z」は68.7億円を稼いだ手堅い安牌でもある)
カネを稼いだ「ルパン三世」は、「インターステラー」の倍は偉い。
まあ、スレッカラシのはてなーでも、表で数字を見たほうが早かろう。
オレは結構行ってる方だが、客層はネット上の声の大きさとずいぶん違う。
http://anond.hatelabo.jp/20100217113611
入学前参考にした覚えがあるので
ひとり暮らしはしてなかったし
その1 医療費補助を申請しよう
http://www.waseda.jp/student/hoken/gojyokai/iryokyuhu-p01.html
新歓期はアルコールパッチテストなどを実施しているありがたい団体
ご紹介したいのは、ここでは日常生活でかかる医療費を補助してもらえること(上限年間6万だったかな)
事前に本人名義口座を登録して、学生証と領収証を受付に持っていけば数カ月後に
かなり助かるので是非使うべきだと思う
http://www.wul.waseda.ac.jp/imas/
図書館の使いこなし方や論文・文献を見つけ出すノウハウみたいなものは
ログインしさえすれば1970年代からのほぼすべての記事を検索できる
自分の興味あるワードで検索すると見出しがずらっと出るから時代ごとの変遷が見て取れて
就活シーズンが近くなったら企業名や業界のワードで検索してみるのもいいかも
その3 映画を見よう
本を読むの大学生の特権?だけど 映画も時間のある大学生ならではだと思う
テーマを設けて国内外のいい映画をやってるから時間を見つけて行くといいよ
2本立てとかを見終わると日が暮れてたりして愕然とするけど笑、不思議と松竹で見た映画は印象に残るよ
図書館でもミニブースで映画は見れるから、授業の間が空いてたらいくのもあり
その4 運動しよう
学生会館の地下には、かつて小島よしおも通ったというジムがあって
http://ameblo.jp/wasedanosusume/entry-10228174332.html
年間2000~3000円で綺麗な設備を使える 授業の合間に行きやすい
ガーデンプレイスでヨガとかやってるから女子はそれもいいと思う
戸山キャンパスの文カフェの地下にはプールがあって、初めて見つけた時は目を剥いたけど
http://waseda-sports.jp/news/34832/
バルセロナ水泳とかに出ちゃうレベルのガチボーイが隣のレーンに泳いでたりするので
参考にもなるし、マンモス校のはずなのにやたら空いているのでおすすめ 1回100円
全学部生が聴講出来るオープン科目というものがある 語学、教養、IT、ボランティア、スポーツとか
それらを余裕のある曜日にとるのも、楽しく運動不足解消・友達作りも兼ねてということでいいかもしれない
その5 工作しよう
ろくろからレーザー加工機まで 多彩な設備を使わせてもらえる工房がある
http://www.koubou.sci.waseda.ac.jp/
中々有意義な時間を過ごせる DIYとか興味がなくても、行ってみればムクムクと
その6 ピクニックをしよう
残念ながら早稲田はICUみたいなばか広い芝生があるキャンパスではない
http://www.city.shinjuku.lg.jp/seikatsu/file15_03_00011.html
暖かい日は、お弁当かサブウェイのサンドイッチでも持って行くと気持ちいいよ
その7 就活どうしよう
入学式で、「早稲田に入ったあなたが出世するかどうかは保証できないが、あなたの友だちが出世することは確実だ」
みたいなこと言われたけど、卒業する今まわりの進路を見るとなるほどねって感じはする
さて、あなたがこれから日本で就活ゲームに乗るかどうかは自由だけど、もしやるならキャリアセンターは足繁く通うといいと思う
waseda net portalのキャリアコンパスコーナーに、内定先ごとの卒業生の就活振り返り記みたいなのがあるんだけど
これは参考になるし読み物としても中々面白いので、就活どうしようかなってときはここを読むことから始めるといいよ
その8 その他おすすめのお店
http://www.yelp.co.jp/biz/%E5%B1%B1%E6%89%8B%E5%8D%93%E7%90%83%E5%A0%B4-%E6%96%B0%E5%AE%BF%E5%8C%BA
映画版「ピンポン」に出てくるような昭和館溢れる卓球場 馬場近くの栄通りにある
やたら上手いミャンマー人たちのカットマンぶりを見られるかもしれない
・早美舎
http://www.sobisha.com/shop.html
レポート提出間際、パソコン室のプリンターは混んでてアテにならない
そんなときはここに駆け込むべし 若旦那が神の如き手捌きでUSBからPDF印刷してくれる
http://tabelog.com/tokyo/A1305/A130504/13006270/
親戚のおばちゃん家きたみたいな感じを味わえる韓国料理屋さん
ここらはかなりエキセントリックな体験が味わえるので
1年生のうちに友だち誘って挑戦して、
後輩ができたらご馳走しに連れてってあげると面白いかも
自分は生協加入しなかったけど、結構電化製品とか色々売ってるし本が安いし
amazon代わりに使ってたら結構お得だったかなと思わないでもない
やたら新入生にゴリ押ししてるパソコンは買わなくていいよ レッツノート自体は性能いいけど
くぅ~疲れましたw これにて完結です!
もっと色々書きたい気もするけど
さて、
新入生はいい友だちできるといいね
ひとりでも楽しめることは、上記以外でも沢山あるし
生まれては消えるお笑いグループの中に、松竹系のビーグル38というお笑いトリオがあった
彼らはアメトーークなどに出演していたらしいが、2013年についに解散した
10年ほど前、「せんたくばさみ」時代の彼らの舞台を見たことがある
高校の「芸術鑑賞」の一貫で、県のホールに3組のお笑い芸人を呼んだ、そのうちの一組だった
とにかくグダグダだったのでよく覚えている
他の2組も面白くはなかったが、高校生相手でもしっかり仕事をしようとするのが伝わってきた
高校生相手だからこんなもんだろうみたいな、嫌な空気がめりめり伝わってきた
終演後はみんな「せんたくばさみ」のあの態度はちょっと傷つくよねと話していたのを覚えてる
解散したと聞いて「やっぱりなあ…」などと思った
以前、大阪市が公開した文楽問題に関するメール交信記録を読んで一文を記したが、
文楽の問題に関して、Twitterを見ていていくつか誤解があるようなので、書いてみたい。
産経の記事によれば、
橋下市政 揺れる文楽 補助金凍結…地方公演厳しく+(2/2ページ) - MSN産経ニュース
同協会の収入は興行収入が8割、補助金が2割を占め、その内訳は国が8千万円、市が5200万円、府が2070万円(23年度)。
記事中「同協会」とは文楽協会のこと。今すぐ見当たらなかったが、たしか本公演に影響が出る額ではなかったように記憶する。少なくとも文楽の存廃に関わる額ではない。
公開されたメール記録から。池末浩規参与の3月24日付メール。
http://www.city.osaka.lg.jp/yutoritomidori/page/0000174249.html
③-1.技芸員のマネジメント機能のうち、「都市魅力向上に資する伝統芸能に関する若手技能者の育成支援事業」に対する事業補助を行う。これは当 初金額を××円(試案:2,000万円)とするが、××年度(試案:平成27年度)以降の分については、前年に(府)市の文化・芸術に関する補助についての委員会(名称未定)により決定する。
③-3.経過措置として、✕年間(試案:平成24年度に限って)は、✕✕万円(試案:3,200万円…現状の5,200万円と上記2,000万円 との差額)を新たな公演の試み、協会の機能向上の試みに対して事業補助する。この補助の使途および成果については、事後に報告するものとする。
ただし、同じく池末参与の6月5日付メール中、橋下市長とのやりとり部分。(→は池末参与の返事)
文楽についてはその構造 も、担当者以外は理解していないところもあります。
文楽を守る役割は結局国に あるということがはっきりとしてきました。
→結局文楽の振興については国しかコントロールできない形にしておきながら、大阪府市も金入れろという図式ですね。
そうなると若手育成も国では?
→本来はそういうことになります。
また若手育成について、国 と地方の役割はどうなのでしょうか?
→原則国主体でやるべきという考え方がベースになると思われますが、国が新たなスキームに乗ってくるまでの短期間(3年以内を想定)人材育成につい ては大阪も奨励金を出す考え方もあるかもしれません。
市長とその周辺の意図としては、「文化財保護」よりも「振興(観光資源としての活用)」なのでこういう書きぶりになる。しかし、文楽においても、もちろん「家業」となっている場合もあるが、原則的には歌舞伎と違い、あくまでも実力主義だという側面が全く閑却されている。
文楽は伝統に胡坐をかいている、敷居が高いなどという意見を散見したが、事実は文楽も新作を試み、様々なチャレンジをしてきた。たとえば、子供向けに作曲された新作があげられる。
文楽の入門編として最も手軽だと思われるのは、国立文楽劇場で毎年夏の公演で演じられる演目だ。夏休みのため子供の観客を対象としたものが必ず演目にあがる。今年は「西遊記」がかかっている。
そこで近年演じられてきた演目を振り返ると、「舌切雀」「雪狐々姿湖(ゆきはこんこんすがたのみずうみ)」「瓜子姫とあまんじゃく」「東海道中膝栗毛」「金太郎の大ぐも退治」「鼠のそうし」「大江山の鬼退治」。。。などなどがあげられる。ただし、必ずしも中身が充実している演目ばかりとは言えない。
こういった子供向けの演目だけでなく、大人向けの演目も様々な試みが繰り返されてきた。
例えば歌舞伎演目のコピーがある。そのなかで、「勧進帳」はもっとも有名な演目の一つだろう。
またあまり知られていないかもしれないが、近松門左衛門の「曽根崎心中」は歌舞伎の影響で戦後に復活した演目だ。その事情は次のサイトにコンパクトにまとめられている。
その人形浄瑠璃にとって難題だらけの「曽根崎心中」の復活上演を、まず試みたのが本家の人形浄瑠璃ではなく、歌舞伎であった。
昭和28年(1953)8月、近松門左衛門生誕300年を記念して宇野信夫が「曽根崎心中」を新しい歌舞伎に脚色し、の新橋演舞場の舞台にかけたのである。徳兵衛を上方歌舞伎の第1人者の2代中村鴈治郎、お初を長男の2代扇雀(のちの3代鴈治郎)というコンビで演じたところ、大評判をとって扇雀ブームまで起こった。
この反響の大きさに驚いたのが、本家の文楽座である。人形劇としての「曽根崎心中」復活上演に意欲を燃やし、現代向きにという松竹の大谷竹次郎会長の意向を入れて、西亭(にしてい)こと三味線弾きの初代野澤松之輔が脚色・作曲を担当、鷲谷樗風(わしたにちょふう)の演出で、昭和30年(1955)四ツ橋文楽座1月公演の舞台にかけたのである。
よく復曲といわれるが、昔通りの演奏曲復元は不可能で、新しい作曲と割り切った方が誤解が少ない。語りを8代竹本綱大夫、三味線を10代竹澤弥七のコンビ、主人公・徳兵衛役の人形は序列7番目だった吉田玉男が遣った。
これらのものは本公演でもしばしばかけられる演目だけれども、より実験的な演目としては、蝶々夫人、ハムレット、テンペスト(「天変斯止嵐后晴」)など。また、市長が再三ふれている三谷幸喜の新作に代表されるようなそれも、しばしば作られる。聖書の福音書物語を文楽で、といった試みまである。
つまり、文楽に携わる人たちは、新しい観客開拓への意欲はあり、チャレンジ精神も問題意識もある人たちなのであって、この点は文楽を知らない人たちによく認識しておいてもらいたいと切に願う。
したがって、ちゃんとした台本さえあれば、たとえば百合文楽でもけいおん!文楽でもなんでもできるはずだ。文楽人形は、女子高生でもイエス・キリストでも、なんにでもなれるのである。
しばしば、歌舞伎や落語と並行して文楽を論じられているのを目にする。しかし、文楽は他の古典芸能と全く違う側面があるので、「伝統芸能」「大衆芸能」という大雑把なくくりで論じられるとやや面食らう。
まず、文楽は音曲として非常に格の高いものだったという歴史的な事情である。これは歌舞伎の竹本葵大夫さんが軽く書いている。
人形芝居で創りだした演目も歌舞伎に流出して、歌舞伎で大当たりを取る。それがために、人形芝居は経営に打撃を受ける。これは対策を講じなければいけない。そんなこんなで、人形芝居の組合で「歌舞伎に出演した太夫・三味線は除名処分にする。歌舞伎の太夫・三味線とは同席しない」などと取り決めます。「われわれは宮中のお召しがあると参内して芸をお目にかける。そして掾号も受領することさえある。歌舞伎などの河原者とは身分が違う」と息巻いたかどうかは知りませんが、これくらいのことは充分おっしゃられたでしょう。
今でこそ、私など文楽の9綱大夫師にご指導いただいたり、ほかにも三味線の方が文楽の方のご指導をいただいたりしておりますが、昔でしたら考えにくい現象でしょう。
もちろん実力の裏付けがあってこそで、
ただいまでも「文楽座出演」と銘打って歌舞伎の演目に文楽座の皆様が演奏で出演なさると、たいがい新聞劇評は「○大夫、△△以下、文楽座の演奏に量感がある…」というようなことが書かれます。ところが、同じ曲を私ども竹本が演奏いたしますと、あまり賛辞を頂戴することがございません。
ということになる。
葵太夫さんも触れておられるが、そもそも人形浄瑠璃は皇室と関係の深いもので、その一つの表れが掾号だろう。名人上手は皇族から掾号を受領することがあり、豊竹山城少掾、人形遣いの吉田難波掾を最後に掾号受領するものはいないが、しかしながら皇室との関係はあったわけで、昭和38年に松竹が興行権を手放し文楽協会が成立したとき、松竹がこれを「献納」と言っているのは故なきことではないのだ。
繰り返すが、このような人形浄瑠璃における格の高さは、実力の裏付けがなければ意味を持たないし、まして現代において補助金の投入を正当化するものには必ずしもならない。
しかし、他の芸能と一括りで論ずることができないという側面の若干は感じてもらえるのではないか。
また、義太夫節の特性について若干ふれておきたい。
義太夫節の構造そのものは簡単で、決まったメロディーのパターンを詞章に合わせて組み合わせて行くだけだ、という説明でいいと思う。したがって、このパターンの組み合わせは無限に広がる。
ところがそう簡単にいかないのは、文楽の古典の場合、演目に合わせて様式が成立しており、義太夫節ではこの様式を「風(ふう)」という。かねて様々な論者により、風を語り分け伝承するのが最大の難物だとされてきた。というのも、非常に微妙・繊細なものだからだ。
以前書いたように、私は国立文楽劇場に通って図書閲覧室にもよくお邪魔をするような人間だったが、さすがに義太夫節を語るところまではやらなかった。だから断定はできないけれども、この様式の問題は最後は幼少時の音楽環境の問題になると思う。と考えたくなるくらいに、微妙な代物であって、これだけ洋楽が氾濫して耳が慣れてしまっている現代日本で、こういうものを継承することが可能かどうか、はなはだ疑問だと言わざるを得ない。
やや話がずれたかもしれないが、たしかに落語や歌舞伎などのように、時代に合わせて姿かたちを変えることで人形浄瑠璃においても生き延びることだけなら可能かもしれない。しかし、文楽の場合、繊細な中身が変わってしまってはもはや文楽ではなく、ただの人形芝居、「文楽のようなもの」が残るだけだろうと強く危惧するものだ。
この点が、私の文楽の将来に対する悲観や「古格を維持している限りは、文楽は補助されるべきだ」と考える所以でもある。
大阪市長やその周辺が模索しているように、観客動員を増やそうとする努力、そのための宣伝や統括的なプロデュース・マネジメントが必要だろうというのは、私もかねがねそう思っていた。まんざらではないと思う。
ただし、それには一定の限界があるだろうとも思う。要因はいくつでもあげられる。
音楽環境がもうまったく変わってしまっている。古典に対する教育がほとんど日本ではなされないのだから理解できなくて当たり前。そもそも、松竹ですら経営が難しくて50年前に放り出したものを今の時代に観客が増えるわけがない。ちゃんと語れる人がもういなくなりそうだ等々。
一定の限界を認めなければ、たとえば市長がいろいろ言っているように古典であっても演出をもっと現代的にしなければならなくなるだろうし、本も変えなければならない。本来、国立劇場国立文楽劇場での公演は一作品全部を舞台にかける「通し」を主として行われるべきだが、観客動員を上げたいのであれば歌舞伎のように「見取り」だけでプログラムを構成し、有名な売れそうな場面だけ舞台にかけておけばよい。しかし、それで本当にいいのか。
つまり、観客動員をどうしても上げたいのであれば、中身にも伝承にも確実に影響が出てくるだろうと思われるのだ。これで本当に「古格」が維持できるんだろうか。
私は、文楽だけでなく、歌舞伎も好きだし(そもそも文楽に触れるきっかけは歌舞伎で知っている演目は文楽ならどうなのかという興味だった)、西洋古典音楽も大好きな人間だ。そうやって比較をすることで両方を消化するのが、誇張して言えばあるいは日本人だけの楽しみだとすら思っている。
そこで西洋音楽と比較した場合、文楽に匹敵するものはワーグナーの楽劇ぐらいしかないのではないかな、と感じている。長大さや感動の深さの点で比肩する物は相当に限られてくると思う。
それだけの値打ちがあるんだということ、それだけの値打ちがあるものに対して、日本のものなのに、その日本人の大多数が興味関心全くゼロだということは、まず言っておきたい。
その上で、しばしば「補助金なしでやっていけない芸能芸術は滅び去るべきだ」という意見が見られる。非常にもっともな意見で、公によって支えられている文化事業は常にこういう問いを問われるべきだと私も思う。
ただ、一方で、ヨーロッパのオペラにしろオーケストラにしろ、「補助金なしでやっていけない」わけだが、「だから滅び去るべきだ」とは言われない。ここは必ずしも論理としてリンクするものではない、ということも、またもっともなのだ。
文楽に匹敵するのはワーグナーくらいしかないのではないかと書いたけれども、ワーグナーには過去の歴史から政治的な問題が色々あり、また採算が取れないからといってドイツ人がワーグナーを「過去のもの」として捨て去るだろうか。欧州においてすら西洋古典音楽のファンはそれほど多くないはずだが、さらにそのなかのごく一部のワグネリアンしかたいした興味関心をもたないからワーグナーの上演は無駄だと批判されるだろうか。そういうことは今のところまずあり得ないと思う。なぜなら、ワーグナーはドイツの宝だからだ。文楽よりはるかにカネがかかるにもかかわらず。
大阪の先人たちは、文楽という芸能に対して文字通り心血を注いできた。一時期を除いて基本的には客が入らない芸能だったので、名人上手ですら「明日のご飯がない」という貧乏話は普通にある。奥さんが小料理屋を営んでいてそれで食わしてもらったりしている。それでもなお、大阪の偉大な先人たちはこの芸能に打ちこみ、奇跡的に現代に伝えてきた。
彼らはお金はなかったかもしれない。貧乏だったかもしれない。その代わりに得られたのは、感動を与える喜びであったり、誇りだった。掾号の問題はまさしくそれで、名誉だけが彼らの糧だったと言っても言い過ぎではない。ワーグナーにも匹敵する芸能であるからこそ、それだけ打ち込む価値があったのだ。
ただ、現代社会では、残念ながらこの芸術の価値に見合うだけの犠牲を技芸員たちに求めるのは、無理になって来ている。(それでも彼らは贅沢な生活をしているわけでは決してない)
現代の大阪人はそういう偉大な先人の子孫だ、そういう偉大な芸術を生んだ共同体の中にすむ一員なんだという矜持、その矜持が文楽に金を払わせるのであって、他に理由は見あたらない。
そして、、、私はこれが最も大事な点だと思うけれども、、、大阪人に持ってもらいたいこの矜持に対して、文楽に携わる人たちはお返しをしなければならない。
それは、新しい観客を獲得する挑戦を一方で続けながらも、文楽の本格を維持すること、継承すること、古格を守ることではないか。それが、文楽座に課せられたミッションであって、それが出来なくなった時、文楽は文楽でなくなり、公金を投入する理由もなくなるだろう。
もちろん、大阪市長やその周辺の人々が考えるように、観客動員を上げて観光資源として活用されるように生き延びる方向もある。しかし、それはもはや「文楽」ではない。
もし「文楽のようなもの」という形でしか生き延びられないのであれば、偉大な先人の名誉のために、大阪人の矜持のために、近い将来、しかるべきタイミングで文楽の死を宣告してもらいたい、最低でも名前だけは変えてもらいたい、無形文化財や世界遺産の認定も返上してもらいたい。私がこのように希望する気持ちやその理由も、これまでつらつらと書いてきたことから感じ取ってもらえるのではないか。
そして同様のことは、なぜ国が補助金を文楽に対して投入するかという理由づけにもなるように思う。大衆に受け入れられない芸能は補助金を打ち切ればいい、この財政難の折から文化事業に投ずる財源はないとよく言われるが、ことはそう単純ではない。
予算全体から見れば、補助金として文楽に投入される額は巨額とは全く言えない。しかも大阪の場合は、対象を悪玉・敵に仕立て上げて財政削減しても、すぐに無駄なプロジェクトに走るのでせっかくの財政削減が全く無意味なことになっている。大阪市長は文楽に対して様々な批判を繰り広げているが、予算と比較した場合にあまりにも不釣り合いな煽りであると言わざるを得ない。
日本の偉大な芸術、しかもまだかろうじて本格が維持されている繊細な芸術に対して矜持を持って維持するに、大阪はもとより、日本の市民社会全体「も」維持しなくて他に誰が維持するというのだろうか。
(追記)
これまで書いてきたように、私自身は文楽の将来にはかなり悲観的であるし、芸の質についても相当程度批判的だ。したがってTwitter を見ていて古典芸能ファンによる「日本の伝統芸能なんだから維持されるのが当たり前」や「とにかく文楽は素晴らしい」に類する議論を見ると鼻白む思いをする。自分の楽しみのために税金の投入を是認しろというのであれば、それはまさに橋下市長の批判通りなのではないかと思う。
したがって、古典芸能ファンの言動にもいささかついていけないものを感じる時があると、これは明記しておきたい。
また、もし何かご意見などあれば、Twitterの私のアカウントに何か書いていただきたいというのは、前回の増田に書いたとおりだ。https://twitter.com/SignorTaki
芸能ニュースで読んだ。
わかる……これはわかる……激しくわかるぞ……
一般人だった自分をスカウトしてくれたのは、生涯その人だけだもんな。
そら勘ぐるわなグレるわなカルトに引っかかるわな。
誰の人生にもポッカリ口を空けている人生の落とし穴なのかもしれない。
それにしても、こんな情報が出てくること自体
今のマネジメントの人々が、もうこの人を守る気がないのだなとわかってしまう。
なぜかその中心地が浅草で
中には公園に特設会場組んで最寄駅から徒歩10分でチケットは一万円越とか
なにそれジンガロなの? アレは馬主というセレブ層ガッチリ捕まえてるからできることよ?
そもそもいまどき浅草で芸能ってどうなの? 頭湧いてんじゃない?
と、ハラハラしていたのだが、
そこに「カンナさん大成功です!」の著作権無視した寒流ミュージカルの上演強行、
そして、この騒ぎだ。
相当、社内が面倒なことになっていると見た。
歌舞伎という古典コンテンツが外国の芸能資本勢力下に置かれでもするのは困る。
政府が積極的すぎるくらい積極的に介入している。
ちなみにこの動画は、その人が要職を退くと同時に一気にネット上から消えた。
「ロシアより愛をこめて」かよ!)
我が国も、人事や内容までの介入はしなくとも、
うかつにヘンなコトにならないよう、見張っとくくらいしてもいいのかもしれない。
http://gendai.ismedia.jp/articles/print/908
堀江 今もやっているんです。個別で何十万円とか何百万円とかでやるコンサルティングってあるわけです。
それをネットでやったらどうなるだろうってことで、トライアルとして昔、ブログで一回三万円の有料コンサルティングをやってみたら、結構来たわけです。(料金の)決済の仕組みとかはあんまりよくなかったんですけど、かなり来ていた。
そこでちょっと考えたんですよ。「月840円のコンテンツの中で、みんなに見られるという前提でQ&Aをやってみたら面白いんじゃないか」と。そうしたらそれがまず当たったんですね。それが評判になって2000~3000人増えたんですよ。
堀江 それはアイデアが出る仕組みを作っているからです。自分の中でつねにアイデアが出るようにしている。
堀江 僕は福岡出身だったんで、ダイエーのビジネスモデルをつぶさに観察していたんです。ダイエーが「買わないか」と言ってきたときから、いろいろ見たんです。そうしたら九州ではすごいんですよ、ダイエーは! 毎日超満員なんです。
堀江 でもそれはね、いろいろ調べたんですけど、それって結局、巨人っていうのは長島だったんです。
僕、実はプロ野球の歴史ってすごく詳しくて、歴史オタク的なところがある。例えば松竹ロビンズなんて知らないでしょう、みんな。その頃の球界再編とかいろいろ見ていくと、戦前、まあ戦後すぐくらいまで、プロ野球って人気なかったんです。その頃人気があったのは大学野球、高校野球なんです。特に高校野球です。
高校野球ってものすごいドル箱だったんです。で、毎日新聞と朝日新聞が分けていたわけじゃないですか。
長島が大学野球にいるときはプロ野球は人気がなかった。けれど、巨人入りした途端、プロ野球人気に火が付くわけですよね。
つまり、あれはあの時代の正力(松太郎)さんとかあの人たちが作り上げた一大ビジネスモデルなわけです。だから「巨人の俺が知らねえヤツは入れない」って言うわけですよ、ナベツネが。