はてなキーワード: ダイエーとは
文系の人ってたまにいるんだよ。つーか理系でもいっぱいいるんだよ。
なんかさー ダイエーでは2足200円が3割引だけどダイソーでは2足100円だったの・・・どや!みたいな人がいて・・・
それをみて、その商品に100円+した価値の商品が、+40円で買えるんだよ的な。その100円の価値の差決定的じゃね どや!みたいなひとがいて・・・
そんなもん、常に必ず2足200円の方が良い品質なのか、2足100円の方が良い品質なのかなんて、いえないじゃん。
毎回、どっちがコストパフォーマンス高いか確認だよね。
文系の人ってたまにいるんだよ。つーか理系でもいっぱいいるんだよ。
定価200円で3割引の商品よりも、定価100円割引なしの方を選ぶ人・・・
なんかさー ダイエーでは2足200円が3割引だけどダイソーでは2足100円だったの・・・どや!みたいな人がいて・・・
いや、うん。でもそれって100円の価値しかないよね。そんなの明らかに粗悪品だからすぐ穴開くよね的な。
その商品に100円+した価値の商品が、+40円で買えるんだよ的な。その100円の価値の差決定的じゃね的な。
ま、値段云々よりブランドだよね。消しゴムはMONO消しとか味噌はマルコメの出汁入りとか醤油はキッコーマンの丸大豆とか。
それが幾ら以下なら安いから買う・・・というスタンスでないとね。
それに、別に100円の価値でいい物ならわざわざ高い物を買う必要性はないよねとは思う。
テンプレとして使えそうだから使ってみたけど。
http://gendai.ismedia.jp/articles/print/908
堀江 今もやっているんです。個別で何十万円とか何百万円とかでやるコンサルティングってあるわけです。
それをネットでやったらどうなるだろうってことで、トライアルとして昔、ブログで一回三万円の有料コンサルティングをやってみたら、結構来たわけです。(料金の)決済の仕組みとかはあんまりよくなかったんですけど、かなり来ていた。
そこでちょっと考えたんですよ。「月840円のコンテンツの中で、みんなに見られるという前提でQ&Aをやってみたら面白いんじゃないか」と。そうしたらそれがまず当たったんですね。それが評判になって2000~3000人増えたんですよ。
堀江 それはアイデアが出る仕組みを作っているからです。自分の中でつねにアイデアが出るようにしている。
堀江 僕は福岡出身だったんで、ダイエーのビジネスモデルをつぶさに観察していたんです。ダイエーが「買わないか」と言ってきたときから、いろいろ見たんです。そうしたら九州ではすごいんですよ、ダイエーは! 毎日超満員なんです。
堀江 でもそれはね、いろいろ調べたんですけど、それって結局、巨人っていうのは長島だったんです。
僕、実はプロ野球の歴史ってすごく詳しくて、歴史オタク的なところがある。例えば松竹ロビンズなんて知らないでしょう、みんな。その頃の球界再編とかいろいろ見ていくと、戦前、まあ戦後すぐくらいまで、プロ野球って人気なかったんです。その頃人気があったのは大学野球、高校野球なんです。特に高校野球です。
高校野球ってものすごいドル箱だったんです。で、毎日新聞と朝日新聞が分けていたわけじゃないですか。
長島が大学野球にいるときはプロ野球は人気がなかった。けれど、巨人入りした途端、プロ野球人気に火が付くわけですよね。
つまり、あれはあの時代の正力(松太郎)さんとかあの人たちが作り上げた一大ビジネスモデルなわけです。だから「巨人の俺が知らねえヤツは入れない」って言うわけですよ、ナベツネが。
私はサボり魔である。筋金入りで予後不良の。
幼少の頃から厭なものから逃げ続け気がついたら三十路になってた。そんな私はサボり癖が元で精神を病み社会生活を送れない体になってしまった。
ふつうの精神疾患なら投薬と適度な休養で概ね治るはずなのだが、私の場合はサボり癖という精神疾患の根元になるものがあるので質が悪い。投薬も5年以上続いているし、休養も自分でもうイヤだと思うほど取った。でも治らない。ある程度回復したと思い就職活動して仕事を始めるが長続きしない。そしてクビになってまた精神的にダウナーになり休養が必要になる。こんなのを何度も何度も繰り返した。真面目に職歴書いたら30近くになるんじゃないだろうか。20代もそんなのに翻弄され暗黒の時代、黒歴史になった。気がつけば三十路である。もう後はない。
少しづつ焦りだしてきた私はふと考えた。何故こんな風になってしまったのだろう、と。
私のサボり癖の根元を語るには幼少の頃からの話をしなければならない。
私がまだ幼稚園にも入る前の事だ。当時の私は英語に非常に興味を持っていた。よく買い物に出かけた横浜駅のジョイナス地下駐車場は英語でブロック分けされていて、それを見て初めてアルファベットという物に触れた。何故か判らないけどアルファベットが非常に気に入ってしまい英語という物に少しづつはまるようになった。
ある日TVで英語教室のCMをやっているのを見て母に「これかよいたいー」とせがんだことがある。母はその申し出に協力的で父に頼んでみる、と言ってくれた。それを聞いてワクワクしていたのを覚えている。
しかし父は「まだ習い事するなんて早い!」と、私の幼い願いを一蹴した。英才教育なんて言葉があった時代か判らない。グローバル化のグの字もまだ無い時代だったし英語の将来性を見いだせなかったのかもしれない。ともかく私の願いは絶たれてしまった。
そのことについて父を恨むつもりはない。でもちょっと根に持っている。だってもしその時英語教室に通っていたら私の人生は大きく変わっていただろうと思う。飽きっぽいけどのめり込む時はとことんのめり込む私のことだ、通訳とか外資系でエリート・・・なんて言わないけど少なくても英語には不自由しない人生を送れたかもしれない。
ある春の日のこと、私は父に呼び出された。そして「出かけるぞ」みたいな事を言われ、半ば強引に車の乗せられて駅前のダイエーに連れて行かれた。何が起こるのか全く判らない私、何も言わず私の手を引っ張る父。?マークを頭に3つくらいグルグル回しながら連れられて行き着いた先スイミングスクールの上の階の階段を下りた先の小さな部屋だった。父は「ほら行け」と言わんばかりに私をその部屋に置いてどこかへ行ってしまった。
何ここ何が起きるの?
幼いながらも恐怖した。
部屋には私と同い年くらいの子供が数人いた。大人も何人かいて、何か冊子のような物をを配っていた。私の順番がきて冊子を渡される。そこでようやく理解した。冊子の中身は全て英語だった。
父がどう心変わりしたのか判らないけれど、私は数年越しに英語教室に通うことができたのだった。
しかし、だ。
それは遅すぎた。
小学校3年の私はもうすでに英語に対する興味を失っていた。正直、いまさら?だった。
それから4年間英語教室に通った。楽しいこともあったし、友人もできたけど根底にあったのは「苦痛」だった。
その苦痛が形としてでることがあった。それは「逃避」。有り体に言うとサボリだ。一人で自転車でダイエーに行くのでサボることがバレることは基本的に無かった。何度か買い物に来た母親にサボってコロコロ読んでるところを目撃されて大目玉を喰らったことがあるがそれでもサボる事は止まらなかった。年数が経てば経つほどサボリはエスカレートしていき週一回の教室に月3回サボるなんて酷い事態になることも多々あった。何が厭だったのかは今となっては思い出せないがサボりたくなるくらい苦痛だったのは覚えている。
初めの頃は問題もスラスラ解けて楽しかったのだけど、ランクが上がって難しくなってくると少しずつ「苦痛」になってきた。苦痛になると私は逃避を始める。サボリ始めたのだ。きっかけは些細だった。友人が「今日サボんね?」と言ってたのだ。それに乗ってしまって後はそのままズルズルと・・・。これも週二回の教室で月数回しか通わない程になり公文の講師のおばちゃんに「ちゃんと毎回来なさい!」と毎回言われたものだった。
それから中学に入って少しして英語教室は辞めた。学校でも英語の授業が始まったしこれ以上受ける意義を当時の私は見いだせなかったのだ。
公文はサボリながらも中学卒業まで続けた。高校受験の時はさすがに真面目に公文で勉強した。でもそれは友人が周囲にいっぱい居たからであって、私一人だけだったらどうなっていたかは判らない。
一番の志望校じゃなかったけど目標にしていた地元の公立高校に入学した。
高校時代は楽しかった。今までの人生で一番楽しかった。友人もたくさん居たし、心から楽しいと思える授業もいくつかあった。そのせいもあって驚くことに三ヶ年皆勤で卒業式の時に表彰されメダルを貰った。
なんというか極端だな・・・と。
しかし、その影にも私の逃避、サボリ癖はあった。
高校では三年間図書委員だった。特に理由はなかったけれど図書委員になっていた。
図書委員の活動は図書室の貸出係の業務と月一回の委員会活動があった。貸出係は昼休みと放課後に当番であったのだけどこれに私は全くでなかった。当番は殆ど放課後だったのだけど、早く帰ってゲームしたい盛りだった私はとにかくサボってサボりまくった。たぶん3年間で10回出てないんじゃないかと思う。委員会は強制参加なので仕方なく出たのだがその時よく「貸出係をサボる輩が居ます。ちゃんと出ましょう!」とほぼ名指しで委員長に言われることがあった。挙げ句には「てめぇいい加減にしやがれ!!」とキレられたこともある。それでもゲームがしたい、寝たいばかりにさっさと自転車で家に帰る自分が居た。救いようがない。
この頃まではサボっていても何とか回っていた。学力はそこそこあったしテストでも苦手科目の数学以外はそれなりの点数を取っていた。
しかし、だ。努力する者としない者。その差をまざまざと見せつけられることになると当時の私は知らなかった。
高校二年の冬のこと。そろそろ大学受験も視野に入れなければならなくなってきた。周囲でも予備校に入学して対策を講じる者が増えてきた。
私も「予備校かー、どうしようかなー」と脳天気なりにも意識し始めていた。ある日、図書室の前にあった予備校案内のチラシを見て何枚か持ち帰り検討し、その中から一行選んで入校することにした。両親は特に何も言わずに入校を許可し私は予備校に通うことになった。
地域ではマイナーな予備校だったが友人もいることが判り喜び勇んで予備校行く・・・はずだった。
予備校は私が想像していた以上に過酷なモノだった。英語は毎回英単語テストがあったし数学は高校よりもずっと高度だった。正直ついていけなかった。ついていけない結果はテストでダイレクトにアウトプットされる。志望校合格ランクDとかEとか当たり前だった。
今までどうにかなっていたモノがどうにかいかなくなってしまった。劣等生。そんなレッテルを貼られた気がした。
高校3年になって予備校に行かなくなった。辞めたわけでなくサボるようになった。劣等生な自分を認めるのが厭だった。劣等生であるという事実を突きつける予備校に近づきたくなかった。英語の授業は友人が来いとうるさかったので月に数回出た。数学は全くついていける気がしなかったのでチューターの人に怒られるまで殆ど出なかった。高3から受講し始めた化学は授業がすごく面白かったし得意科目で余裕でついていけたのでこれだけは出席率が高かった。それでも7割ってところだけど・・・。
がんばった者とがんばらなかった者
逃げなかった者と逃げた者
大学受験--
無論私はボロボロだった。無惨だった。
センター試験で自己採点。数学は2点だった。得意の化学でも5割いかなかった。
死を覚悟した。
一般入試が始まった。
私は高校担任教師の薦めで無名のFラン大学の化学科を受けた。目標にしていた大学は「絶対に無理だからやめろ」と言われた。返す言葉もなかったので大人しく言われた大学を受験した。
結果。補欠合格。
はは、引っかかちゃった。
当時の私は安堵した。浪人生活をしないで済んだから。浪人は落第者で敗北者だと思っていた私は本当に喜んだ。
でも、気がつかなかった。おまえは運が良かっただけだ。
だって・・・「努力したのかい?」
大学生活が始まった。中学からずっと同じの友人が一緒の学校だったので初めはよく一緒に登校した。学科は違ったので登校と昼休みくらいしか一緒ではなかったけど知る人が居ない学内ではとても安心できるものだった。
大学1年の授業は楽しかった。特に有機化学と分析化学が好きだった。2年から生物化学の授業があってそれを目標にしていきたいと思った。
しかし、異変は訪れる。とある教科を落としてしまった。有機化学の概論。難しい授業だったけど好きな授業だった。ただ落としただけなら来年取り直せばいいだけなのだが、この授業はとても大きな、そして致命的なものがあった。
偏屈で有名だった生物化学の教授が設けたハードル。私はものの見事にそれに引っかかってしまったのだ。
何かが壊れた。
大学2年。目標の生物化学を受講できず腐った。さらに悪いことにほかの授業が難しくなった。特に物理化学は私が苦手だった物理の概念が入って手に負えなくなってきた。
苦痛になると訪れる甘い囁き
「逃げちまえよ」
それにあがらえる訳がなかった。
初めは大学内の図書館で本を読むだけだった。それから街のゲームセンターになって・・・兎に角大学に近づかなくなった。金だけは親から必要額貰っていたので不自由はしなかった。適当に旅に出て時間つぶして家に帰るとかざらだった。
その差は歴然と表れる。
いままでどうにかなっていたものがどうにかならなくなった。
背中に火を付けられたような感じがした。
兎に角焦った。
焦って勉強をする。でもついていけなかった。下の学年の授業を受けることも多々あった。誰あいつ落とした上級生?だせぇ。そんな声が聞こえてきた気がした
「ニゲチャイナヨ」
でも逃げると今度は留年だ。
逃げちゃダメだ
逃げちゃダメだ
逃げちゃダメだ
14歳の少年は逃げずに立ち向かうことを選択したのに20歳のアホは逃げることを選んでしまった。
不安焦燥感、誰かに笑われてる感覚、必要以上に自分を責める。木の棚にカッターで何度も切りつけて酷い跡が残ったこともあって母親にそれを見られて酷く心配されたことがあった。
ロクな精神状態じゃないときにロクな思考はできない。
真っ暗な夜道の中をひたすら逃げているような状態だった。
次の年の春。私は留年した。
その日私は父親に叱責された。この後どうするんだ、と
ロクな精神状態じゃなかったので思考は回らず兎に角逃げることしか考えられなかった。
がんばるから、がんばるから
この時はそれで何とかなった。
留年生活のことは正直覚えてない。思いだそうとしても頭がアクセス拒否をする。
唯一判るのは焦ってどうにもならなかったこと。そして逃げ回っていたこと。
翌年、再び私は留年した。
二度目の父との対話。
今度はなかった。
そして社会に放り出された私は働かなければならなかった。当時は引きこもりもニートという言葉もなかった。父親には働けと強く言われたので働くしかなかった。
ハローワークにあししげく通って何度も何度も追い返されてとある会社の研究所に拾われた。
そこは農薬を作っている会社の研究所で初めはそこの農場のアルバイトと言うことで面接を受けた。
でも、せっかく化学のバックグラウンドがあるんだしということで話が少しぐらついた。
とっさだった。とっさに私はこう言った。
何でこう言ったのか今では判らない。
しかしそれは項をそうした。「じゃあそういうことなら勉強する意味も込めて」と研究所の助手で採用してくれることになった。
運が良かった。
研究所での仕事は本当に楽しかった。学校で習いきれなかった事も学べた。とにかくがんばったので会社も評価してくれた。
「今はアルバイトだけどがんばったら正社員にもするよ」なんて総務の部長さんが冗談めいて言ってくれた。
本気にしてがんばろうと思った。
でも、なんでなんだろうね。上手く行かないときはとことんうまくいかない。
入社して少し、変な奴が研究所にいると言うのを知った。
「同じ位の歳だし仲良くしたら?」と言われてそいつに会いに行った。
すんげぇイヤな奴だった。
京大大学院卒というのをさりげなくアピールしてFラン中退の私を見下してくる。
正直あんまり関わりたくなかった。
なんでだろうって。
殆ど歳同じなのにあのいけ好かない奴は京大大学院卒で正社員、私はFラン中退でバイト。この差はなに?
それがずっとこびりついて離れなかった。
それはそいつと顔合わせなくても研究所内に居るだけで考えてしまう。
「苦痛」だった。
とにかくとにかく苦痛だった。
また別の日、通勤のバスに乗っていると不思議なことが起こった。
降りるべき停留所に近づくにつれて妙に息苦しくなるのだ。そして頭が真っ白になって「ニゲロニゲロ」って告げてくる。
そして降りるべき停留所が来た。
降りられなかった。
こんなことは初めてだった。なにが起きたか判らなかった。
その日は慌てて次のバス停で折り返して事なきを得た。
それから数日同じ事が何度も何度も続いた。症状はエスカレートする。降りるバス停が延びていき遅刻が酷くなる。それを上司に注意されたら今度は体調不良で休むととっさに電話で言うようになってしまった。
さらに数日して何とか出勤できた日、所属部長に呼び出された。
怒っているわけでなく本当に心配しているようだった。なので症状を正直に話すと
「無理はしないようにしてほしいけど、勤怠が悪いと正直こっちも困る」
と言われた。
その日早退し精神科を探した。
小さなクリニックで老医師がこう言った。
「そりゃウツだ」
そう診断され一日三日分のホリゾンを貰った。
ホリゾンを飲んだけど少しぼんやりしただけであまり変わらなかった。
それからも朝の戦いは続いた。負け戦ばかり。
「大切な話があるから明日は必ず来るように」
と
翌日。何とか私は出社した。
そのまま会議室に連れて行かれた。
そこには研究所の所長と所属部長が居て3対1の面談が始まった。
「単刀直入に言う。辞めてくれないかな?」
総務部長がそう言った。
あぁ、クビか。
後は事務的に話は進みその日のうちに私は解雇された。
どこも悪いところではなかったけれど、必ず不思議なことが起きた。
朝起きて家を出ることはできるけど電車やバスで最寄り駅に近づくと呼吸が荒くなって怖くなる。頭は囁く「ニゲロニゲロ」と
そんな状況に陥り全く出社ができなくなってしまったのだ。
最長で半年、最短で一日。これはクビになるまでの日数。
職歴は正確に書くと30は行くんじゃないかと思う。
ここ1・2年はさらに酷くなり、部屋から出られなくなってしまった。
朝起きてその時点で恐怖発作と「ニゲロニゲロ」という囁きが頭を支配する。
精神科にはもう6年かかっている。
はじめはホリゾンだけだったけど今は抗鬱剤3種類と抗不安薬、睡眠薬まで貰って飲んでいる。
挙げ句には自立支援の申請をして精神障害者手帳まで交付された。
ふと思った。何でこうなってしまったんだろう、と
最近また会社をクビになったので少し考える時間ができた。で、考えを整理するためにこれを書いている。
結論を言うと私のこの病気の根元は「サボり」だと思っている。
「苦痛」からの「退避」。小学校の頃の英語教室からずっと続いているこの癖。これが原因じゃないかと考えている。
おそらくこれは正しい。
正しいことは判ったが対策がわからない。
生来のサボり魔たる私はどうしたら正常の社会的な生活を送れるのだろうか?
そもそも私の病気は何だ?
精神科で投薬治療は受けているがこれだけでは改善にいたっていない。というかここ最近悪化しているとすら思う。直近でクビになった会社では不安の恐怖、あと鬱的思考から自殺をほのめかすメールを送ってしまい大騒ぎになった。
年々悪化しているこの「現象」
いったいこれは何なんだ?
どうしたら治るんだ?
どうしたら社会的な生活を送れるんだ?
だれか、教えてほしい
http://kimuratakeshi.cocolog-nifty.com/blog/2004/12/post_28.html
軍配は切込隊長の方にあがっている。
でも、正直当時の自分は、迷っていた。どっちが正しいのか。
自分の気持ちの中では、通常は基本隊長寄りのポジションだし、木村剛はどことなく胡散臭いって思っていた。
それでも、木村は当時「経済についてとてもマトモなことをいう新進気鋭のエグゼクティブ」っていう位置づけが世間でなされていたから、自分はその世間の位置づけに真っ向から逆らえずにいた。
今、逮捕という「正解」を教えてもらって、自分の感覚は間違いではなかったとホッと安堵の息を漏らす。
・・・と同時に、
あのとき自分の感覚を信じ切れなかった自分の弱さ、というものにも思いを致す。
正解を教えてもらえなければ、自分の感覚に自信なんかまったく持てなかった。
登り調子の時にある人は、基本腐されない。
そういう時に、何の批判意識もなくぶら下がって礼賛するバカどもは全員しね、って思ってたけど、
かといって、上り調子の時の中内やホリエモンを真っ向切ってしっかり批判しなかった自分はどうなんだと、自分自身にチクリと良心を責め立てられる。礼賛者に向かってしねとかお前よく言えるな、日和見野郎が、って。
こういう時、ネットって本当に便利だと思う。
成功者が実はハリボテでした、って時、マスコミは今までそういうところの反省を一切報道してくれなかった。
ちゃんと批判や考察を加えてくれなかった。
でも、ネットでは、言ってた本人の言説をこうやって確かめられるし、
トラックバックを丁寧に拾い上げることで、
当時木村を批判的に見てた人はまだブログをしっかり続けてて、記事は興味深いものが多く、
他方シンパの人たちのブログは大抵リンク切れ、活動休止、もしくは木村の逮捕に一切ふれていないってところ。
占い師と同じだね。
当たってたら喧伝して、間違ってたら素知らぬふりを決め込む。
これから自分にどうやって自信を持てばいいのかを、
当時木村に批判的でトラバ送って、なおかつ今も精力的にブログを書いている人たちの記事を見て、
今後の参考にしていければと思う。
思いつき
セブンイレブンなどは、膨大なPOSデータを社内に抱えており、
「どの店で」「どんな顧客が」「何を」「何時に」「いくらで」買ったか、という
データを抱えている。
思いっきり暴論だが、
そうすれば、「昨日、日本全国で何が売れたか」というデータが、
第三者でも容易に把握できるようになる。
「6月23日は、赤いキツネは全国で23万食売れた」とか
「6月23日は、東京都内でほうれん草が合計300キログラム売れた」とか、
農家でも、東洋水産の社員でも、農水省でも、東大経済学部ゼミ生でも、
市井のヒマ人でも、容易に分析できるようにする。
「昨日、セブンイレブンが3億円売り上げた」というような情報が
たちどころにローソンに伝わる。
あるいは
「イオンは赤いきつねを89円で売っていた、ダイエーは86円で売っていた」
「ライバル社に守秘情報をばらしたくない」という感情はわからなくもないが、
他方で「ライバル社の情報はあの手この手で盗みたい」とも思っていて、
そのための調査要員も抱えているはずだ。
お互いに要員を抱え、スパイごっこを行うような「不毛」なことは、やめにしてはどうか?
1社だけに「開示」を強要すると不公平だが、
「みんなそろって開示」だと「恨みっこなし」である。
なぜ、このような暴論を提案するか、と言えば、
「リアルタイムで売上なり販売量なりが開示されると、
それを元に経済政策なり、農業政策なりを改善できるから」である。
経済企画庁はリアルタイムで小売動向を把握でき、経済政策に結び付けられる。
あるいは農水省は、主要農産物の価格・販売量をリアルタイムウォッチすることで、
機動的に生産指導ができるし、そもそも「膨大な農業統計要員が不要になる」。
ドラッグストアにもこの小売DB(データベース)に参加してもらえれば、
「風邪薬の売れ行き」でもって、大まかな風邪のトレンドを厚生労働省は把握できる。
そうなると運輸量の推移を国土交通省はリアルタイムで把握可能になり、
「1,000円高速による、運輸量への影響・小売業への影響・外食業へ影響」
なども簡単に分析できる。
(外食業にも小売DBに入ってもらう)
ということで、「各社が秘中の秘としている顧客動向DBを、世間一般に開示する」
ただ黙っていても参加する企業は出てこないから、
「DBに参加する企業には税制優遇」とでもすればいいのか?
多少税金を割り引いてあげても、それを上回る社会的ベネフィットが生じるはずである。
あと、このDBで申告された数値は、自動的に「オーソライズされた数値」と
解釈できるようにしてあげられれば、導入する企業にもメリットが出る。
「DBに載っている売上高については、帳簿の作成不要、会計監査不要」とでもすれば、
企業会計事務が合理化できる(監査法人とのやり取り手間が削減できる)
あるいは、DBに載せていれば、それでもって消費税関係書類の提出とみなす、とすれば、
これこそ「e納税」の最たる姿である。
ttp://d.hatena.ne.jp/zyesuta/20100225/1267091161
震災のとき、有事のリーダーにふさわしい果断を示した人は民間にも少なくありません。その代表がダイエーの創業者である中内功社長(当時)です。彼は社長でありながら自ら現場を歩き回って情況を把握し、指揮をとりました。
兵庫県内ダイエー49店舗は震災で被害をうけ、うち25店が営業不能に陥りました。現場を回って中内社長が命じたのは「とにかく店をあけろ。開けられない店も明かりをつけろ。明かりがなければ街は死んでしまう」ということです。「ガスや水道がだめで店を開けません」という担当者を蹴り飛ばして、営業させるなり、明かりだけでもつけさせるなりを断行しました。
なぜ中内氏が「店を開ける」ことにそこまでこだわったのでしょう。それは終戦直後の物不足の経験によっているのではないか、と大震災誌は書いています。店が閉まったり、商品が店頭になくなれば、パニックが起きます。だから「どんな時にも商品を供給し続けるのが商人の使命だ。それが街に活力を生む」と、氏は考えたそうです。
こういう一貫した理念をもつのも立派ですが、それを力押しで実行した彼の指揮はさらに見事です。地震の被害で「エレベーターが動かせない」という担当者にカミナリを落としたのですが、そのときの言葉が「自分で確かめろ。動かせないといわれても、どうしたら動かせるか考えろ」というのです(P373ー374 「阪神淡路大震災誌」)。
彼は決して無謬のリーダーではありませんでしたが、少なくともこの時に示した果断さと行動力は、有事のリーダーのあり方、その一例を示しているでしょう。極端に言えばこれくらいのガムシャラな果断さが、時の政治指導者にもあればどうだったろう、と思ってしまいます。
海兵隊は酷いらしいね。
例えば横須賀なんかBASE(アメリカ空軍基地)があるけど、移転なんて考えもしないよ、誰も。
確かに、アメリカ人+軍人=最強、だよ。地元のガラの悪い連中でもアメリカ人には絶対に手を出さない。体つきが違う。2mはザラ。でもって動きが早すぎる。
例えば以前、横須賀にあるダイエーのゲームセンターにあるソニックブラストマンの後ろに、筐体と全く同じ大きさの穴があいていて、店員に聞いてみたら「酔っ払ったアメリカ兵が殴ったら筐体が吹っ飛んで壁に突き刺さった」と言っていた。
今は亡き横須賀モスバーガーは深夜は人種の坩堝だった。10時を過ぎると外人しか居ない。そこで以前、店全体が交じり合うような乱闘が発生した。近くのビルから見下ろしてたんだけど銃声がして、2mを越す人間がチーターのようなスピードで猛烈ダッシュで逃げていた。あのスピードは人外だと思った。その後SP(青いランプのパトカー)がやってきた。
と、はっきり言えば「肉体的にはアメリカ兵には日本人は絶対に勝てない」のは、地元の人間なら誰しもが思い知っている。銃を持ち出すまでもなく、肉体性能でアリとライオンだ。
でも、アメリカ人も日本人には絶対に手を出さない。いわゆるインテリ層が多く、日本人に手を出すという事がどういう事か知っているし、そもそも気軽に喧嘩するような層じゃないのだ。
だから、思う。
もしもインテリ層中心じゃない連中だったら?
そりゃ怖いよな。絶対かなわない相手でDQNなんだから。
http://2chcopipe.com/archives/51302970.html
おしゃれクエスト -オタクファッション脱却指南書-というまとめが微妙に面白かったので、自分の場合どうやったか公開しておく。スペックとしては現在36歳独身男だ。
学生向けの激安ショップで友達とショッピングをしていた。イメージとしてはライトオンみたいなところだ。
3着くらいの服を持って、財布を見せて、これ全部欲しいけど金ないんっすよ!と言えばショップのおじちゃんやおばちゃんが1着くらいはおまけでサービスしてくれるような店が主な狩場だった。
この頃はオタクっぽい友人ばかりだったので、その中ではセンスがある、とかカッコイイと言われていた。ある意味黄金時代。
当然金がないのでオカンの買って来た服も大事な服だった。
ダイエー、洋服の青山、ジャスコの3つが全ての狩場だった。他は眼中になかった。
学生向けのショップではなく、ちゃんとしたスーパーで買うことがオトナだと思っていたような気がする。
ショップオリジナルっぽい意味不明なブランドの服をベースに、ハッシュパピーやラコステなどの高級服をときどきビビリながら買っていた。
当然一着5000円もするような豪華な服など買えるわけもなく、3000円くらいの服とオカンの買って来た服を長年織り交ぜながら四苦八苦する。
てんやなどのカウンターに座っても店員からはアウトオブ眼中で注文しても無視されるという空気のような存在として扱われ、ファッション経験値を貯めてレベルアップしなければならないと思い知る。
まず敵を知ることから始めようと、メンズノンノを買うようになる。
ファッション誌ではないが、BRIOも定期購読するようになった。
はじめはいわゆるモード系やヒップホップ系を見ると虫唾が走るような気持ち悪さがあったが、経験値欲しさからこれが正常なんだと念じながら頑張ってガン見して慣れるよう努力した。
半年ほどである程度ガマンできるようになったので、まずアニエスでシャツとパンツとベルトとマフラーを買った。
その後J-CREWでもパンツを買ったので、とりあえず人並みになれたような気がした。
丸井に入ったところまではいいが、組み合わせが分からないので、適当に目のあった女性店員に全身コーディネートしてもらった。
偶然にもそのブランドの関東エリアマネージャーという顔のきく人だったので、他の店舗に堂々と入っていって、これがいいとか似合わないとか着せ替え人形のように着せられながら、靴の合わせ方など色々とアドバイスをもらった。
その後は下着はVISARUNO、アウターはタケオキクチ、イーストボーイをベースにロートレアモン、ポールスミスなどを組み合わせていった。
調子に乗って全身丸井で固めてビームス、エディフィス、シップス、ユナイテッドアローズにも突入を試みたが、ことごとく店員にガン無視されてまだまだレベル不足だなと思い知った。
話がそれるが、ずっとジーンズはボブソンのふわふわソフトタイプだったが、この頃にはじめてエドウィンのスタンダードを買った。
渋谷西武や新宿伊勢丹にも出入りするようになり、ブランドの幅が広がっていき、スーツもマージマサトモやアレグリなど10万円コースで固めていた。
既にファッション誌はメンズノンノを卒業し、MRミスターハイファッションを見るようになった。
この頃買ったジャンポールゴルチエやヨウジのコートは今でも時々使っているが、美容室などで褒められることがありちょっと嬉しい。
美容室も当時考えられる最高峰のテレビなどで有名な南青山の美容室にしていた。むしろ青山周辺ならどこでもよかった。後悔はしていない。
そして難攻不落と聞いていたコムデギャルソンも難なくクリアし、このデザインいいっすねぇ!などと店員と談笑していたが、実際は何がいいのかさっぱりわかっていなかった。
そのためコムデギャルソンは買うだけ買って一度も着たことがない。
ここで突然事件が発生する。
調子に乗っていて罰が下ったのか、人口7万人程度のド田舎に転勤させられたため、服の購入頻度が一気に低下する。
出張先の駅ビルなどでワイズやイッセイミヤケ、グッチやエルメスを買う日々が続いたが、この時期は服オタから脱却するとても重要な期間であった。
クワを持ったおっさんが商店街を歩いていても、全身ヨレヨレのジャージやスウェットで歩き回る人々を見ても、特別違和感を感じないようになったのである。
さらに全く関係ないが生まれて初めてナンパをしたのもこの時期である。
特に作戦があったわけでもなく、我慢できなくなって突発的に声をかけてしまっただけなので当然瞬殺されたが、人並みの人生を謳歌していることに気付き興奮して夜眠れなかった。
美容室のおねーさんにアニエスやワイズが好きなら無印良品はどうかと教えられ、近くの無印に通うようになる。
下着やシャツは今でもメインに使っている。TPOを問わない無難な品揃えがうれしい。
狩場が少ない影響で欲しいと思う服がなくなり、イオンやライトオンでMFEやPLUS ONEを買うようになる。
売り場面積の都合で品揃えがいいので、極度のデザインセンスや品質を問わなければ思い描いたイメージに近い服を探せることが多い。
この時期には完全に頭の中がモード系からカジュアル系に移行していたため、ちょっとダサいかな程度にしか感じない。
イオンで捨て値で売り出されていた青島コートを買ったのもこの時期だ。
話題の国民服がたくさんあって驚いたが、フリースとヒートテック以外はあまりいいものが見つからない。
とくにグラデーションのネルシャツみたいな服の肌触りとセンスはひどいと思った。
まだまだ私にはレベルが高すぎて勝てる気がしない。
とりあえず初日なのでTシャツを買って次回につなぐこととした。
私の住む大阪及び京阪神圏が都会であると信じる大阪人は未だに多い。
したがって「都会」といったものに対する憧れは他地方の人々と比べて希薄である。
実際は京大は東大諦め組の進学先になっているし、都道府県としての大阪府は東京都どころか神奈川県にも及ばない。
住んでいる住民の気質的に大阪人=埼玉県民と考えても差し支えがない。
ただ大阪人は自らの住んでいる地域が都会であるというファンタジーに浸りきっているせいか、
都会というモノを知った気になっている。そして大人になって東京と田舎に行ってみる。
そうすると自らの描いていた大阪および関西が良くも悪くもあまりにも視野の狭い存在だったと気づく。
関西は異文化を知った上で見ると、関西はあまりにも田舎でありあまりにも都会だった。
こんな映画「マトリックス」の主人公のような経験をする関西人は少なくないのではないだろうか。
(もしかしたら私だけかもしれない。そうであればごめんなさい。)
それだけに東京と地方の間にある光景が大阪からは良く見えるのである。
例えば京阪神エルマガジン社(http://www.lmaga.jp/)の雑誌は結構好きだ。
ただ社名にもなっているエルマガジンは休載になっているし、
地方でコンテンツを作る環境は必ずしも恵まれたものではないらしい。
元記事のブログ主はコンテンツを生み出す文化人が中央に集結するのを人間の特性と見ているが、
私はそうは思わない。海外を見れば地域メディアが優れたコンテンツを生み出している例などいくらでもある。
なぜ日本はそうなっていないのか?制度設計がおかしいのではないかと仮説を持ってググってみたらすぐ見つかった。
以下、ホームページから引用。私のホームページではないもののリンクフリーとあったので助かった。
紙については昭和16(1941)年の統制で「元売り集中体制」をつくった。
日本出版販売(日販)、東京出版販売(現・トーハン)などは元売り(取次)会社ですが、
出版社から各書店へ書物(書籍・雑誌)が流れるまでに、再販制度によって必ず元売り(取次)を
通さなければいけないことにした。
そしてその取次会社は東京都以外では認めない、という制度にしたのです。
これには当時の検閲の問題もありました。
当時の文部省には思想局があり、警視庁には思想警察がありました。
こそこそと東京都以外で出版されては困るので、全て東京に持ってくるようにしたのです。
そのことが今も厳格に守られて、大阪市で出版した本を橋ひとつ向こうの尼崎市で売るのにも、
必ず一度東京都へ持ってこないと絶対に許さない。
一時はそれに反発してダイエーが出版社から本を直接買い取るとか
長野県や香川県の本屋さんが元売り業を試みるといった動きがありましたが、
強烈な圧力で潰してしまいました。
本の場合は東京へ一回運んで、また送り返してもそれほどコストはかかりませんが、
雑誌の場合は締め切りが1日早くなるという問題があり、週刊誌などは東京以外では絶対につくれません。
具体的な法律名こそはわからないものの上記が事実なら、コンテンツを生み出すメディアは東京に集結せざるを得ない。
マクロ的観点で見れば良いことだったかどうかわからないが、戦後日本の政治を主導してきた自民党が政権の座から下り民主党に政権交代した。
政権政党が交代した現在はこれまで当たり前と見なされてきたキチガイ沙汰を見直す絶好の機会ではないか?
メディアに限らず何でも疑ってかかる事は有益であると思う。
http://anond.hatelabo.jp/20091005024004
それも分かってるって。程度問題なのも分かってるよ、もう。政治状況やその時の文脈にもよるしさ。それにスキャンダルと言っても世界中扱いは右左まったく関係ないとも言い切れなくて、やっぱり扱いには差があるよ。
ただ、仮に政策とスキャンダルで分けた場合にしても、政策次元の話だって議論が成立せずにみのもんたになっちゃってるし。議論なんて成立しないのが普通だもの。
スキャンダル次元でいうと、小沢さんのカネの話だって下らんことでワイワイ言ってると思ったし。どうせ過激にやれというなら、与野党問わず、国会議員全員のネタをばらせば良かったんだよ。今年イギリスでそれをやったみたいにね。そんな骨のあるジャーナリストいないでしょ?中川さんだって、ダイエー処理のときのぶら下がり会見だったか、カメラの前で酔っ払ってて、そういう指摘があった記憶はあるが、今年みたいにあんなに煽ってなかった。おかしいんだよ、その辺が。
ついでだけど、ネットでは記者クラブの話で興奮してるのが多いから言うけどさ。記者会見を開放する意味は、他国から見たとき突っ込まれるような隙を無くすという部分はあるかもしれないけど、上杉さんや神保さんが言うみたいな民主主義がどうのとか質問がどうのとか、実態として具体的な意味はないよ。よそだって裏で役人と記者がつるんでるの、日本と同じだもん。よく、情報ソースで「本人希望により匿名」たら書いてるのあるけど、あれもよく言えば記者の努力、悪く言えば癒着でしょ。外国人が日本の記者クラブのことを叩けるかというんだよ。
http://anond.hatelabo.jp/20091005072648
思わないよ。増田でぼやいてるだけでなんでマスコミいじめになるんだよ。これがいじめなら、マスコミは殺人鬼だよ。無茶を言うなよ。
今年も、年が明けてからだったので例年より少し遅いが、買った。
ギャップのセールで1500円。安いわりにダイエーよりものが良いような気がする。ぞうきんみたいにぼろぼろになったTシャツ、首周りがだるだるになったロングTなどを重ねた上からかぶって、防寒はほぼ完璧。お腹が弱いので風が通らないよう上半身はしっかり守りたいが、ぶくぶく着膨れるのも嫌なので高校生くらいからずっとこの格好が定着している。
これとスニーカーとジーンズに、適当にコートを羽織れば私の冬の普段着が完成するが、この間「それってジョブズ意識してるの?」と聞かれてハッとなった。父親がマカーで、幼い頃から彼の姿は雑誌で目にしてきた、が……。私は無意識にジョブズを模倣していたのか。この際だから眼鏡と髪型もそれっぽく変えてやろうかとか。たぶんしないけど。
お前らはバーゲンでなんか買ったりしましたか?
一昨年の話し。
秋の北海道パックツアーに参加して釧路で一泊したとき、「涼宮ハルヒの憂鬱」DVDの初回限定版が店頭在庫で残ってないかなーと思ってCDショップを探したんだが、全く見つからない。
歩いて歩いて、ダイエーみたいなショッピングセンターを見つけたんでCD屋が入ってないかと思ったら、本当にCDコーナーみたいな一画だけのCD屋さんがあった。
店主に「CDショップ、ないんですかねー」と質問したら、どこも郊外に出て行ってしまったとのこと。
釧路よ!釧路。そりゃ昼にガイドさんが人口流出を嘆いてはいたけど、何万人都市だよ!
地価だって安くはないだろうけど、東京とかに比べたら大したことないだろーに(これは俺の想像)。
釧路市民が、少なくとも駅前周辺の土地でCDショップの経営が成り立つほどには音楽に執着していないんだなーと思いました。
他の都市でも似たようなもんで、CDショップは郊外に郊外にと場所を移動してるんだろうね。
「『鬼は外』の鬼は、最終的にはどうなるんだろう?」という疑問を連想するけど、みんな呆れて返事をくれない。(^^;)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20081205-OYT1T00444.htm
普段から使っているスーパーではないのだけれど、自転車で行ける距離だったので行ってきた。
ダイエーなどのチェーンに比べたら若干安っぽいカンジ。
15時くらいにいったが、おばあちゃんや主婦など。
2階建てなのだけど、エスカレーターはなかった。おばあちゃんは元気に階段登ってた。
若干圧迫されるカンジ。
通路が若干狭く、棚は高め。
ドンキホーテに通じるものがある。
余り聞いたことがないメーカー製品がとにかく安い。買ってないから味はわからないが、普通にうまそうだった。
他店のスーパーとそこまで違いはないカンジ。
たとえば、近所のスーパーでは、三ツ矢サイダー1.5リットルは安いときでも158円くらいだが、ここは139円だった。
まず、期限ぎりぎりの商品は1階にもあった。
売れ残りというとメーカーのイメージを損ねる可能性があるので商品名は出さないが、70%くらいの割引で売っていた。
そして、モッタイナイ商品。これは2階の片隅にひっそりとあり、初見では見落とした。
2階にあるというニュースを確認して、もう一度見に来て発見したカンジ。
また、一目見て賞味期限切れとわかるコーナーになっている。
気づかないで購入するということはほぼ有り得ないと思われる。
500mlペットボトルのドリンクで賞味期限は2009年1月28日まで。49円なり。
近所のスーパーで売ってたときにも1個買ったが、多分味は変わらないカンジ。
この商品、ちょっと気に入ってたので纏め買いしてもよかったかも。
果汁が入ったグミで、グレープフルーツ味。賞味期限は2008年9月20日まで。28円なり。
若干表面が粉っぽいカンジだったが、賞味期限が切れていない商品を食べたことがないので比較できず。
もう1個モッタイナイ
500mlペットボトルで、果汁30%のオレンジジュース。賞味期限は2008年11月14日まで。42円なり。
オレンジジュースなので成分が下に沈殿していたが、よく振って飲んだ。
やはり普通に美味い。
2年切れていた商品は軽く探したがなかった。おそらく、そういう商品が残っていたこともあったという話なのだと思う。
みんな、家で放置されたものを発見したときに、胃の中に処分してしまうレベルの経過度だと思った。
騙されて買ってしまうような陳列方法でもなかったので、騒ぐこともないと思う。
品揃えも豊富で、目玉商品は安いので、たまには、自転車走らせて買出しに行こうと思えた。
http://anond.hatelabo.jp/20081028194546
関係ない話だけれど、なんで六甲のおいしい水ってエビアンあたりよりも高いのだろう。
製造コストってせいぜい工場運営コストと輸送費ぐらいしかかからなそうなのに。
泉源は神戸市灘区篠原南町6-1-25で、六甲山系の花崗岩層をくぐり抜けた水であるが、採取地が住宅地の中(周りはマンションやダイエーグルメシティ灘店)と意外な場所にあるため写真週刊誌で記事にされたこともある。この土地は以前、六甲牧場という1879年(明治12年)創業の小規模な牛乳飲料メーカー(現在は存在しない)があった工場跡であり、六甲のおいしい水は、そこにあった井戸を基礎として採水し、トレーラーで奈良工場(大和郡山市)まで運ばれてボトリング(瓶入れ)されている。
ミネラルウォーターの作り方としてはやや特殊(普通採水地でボトリングまでを行う)ではあるが、2005年に西区に新工場(六甲工場)を建設し、2リットル入りの製品はこの新工場で採水からボトリングまで一貫して生産するようになっている。熱を加えない「フレッシュ無菌パック製法」を採用している。なお、500ミリリットル入りの製品は現在でも奈良工場で生産されている。
まさか阪急より南で採水しているとは思わなかった。