はてなキーワード: アメリカ式とは
落ちこぼれたやつを最低限のセーフティネットで救い上げる方式にしろよ
このままだと大多数のまともな人間は使いつぶされる。
なぜ障碍者どもに王侯貴族かのように振る舞うことを許してるのか
今のやつらは甘やかされ過ぎて勘違いしている
ADHDだのASDだの、一昔前は人間扱いされていた人間が、人間扱いされないようになって
ああ、俺は障碍者だから社会の歯車として生きていかなくていいのだ、という免罪符を与えられる
俺もADHDの診断を受けたものの、薬物は使わずにTool Assistedで何とか社会人として生きている
あのまま、医者の言われるがままに手帳を取っていたらと思うとぞっとする。
日本は何でもかんでも付加価値にならないところにお金と労力を掛けすぎだ。
そりゃいいところもあるよ。余裕があるから細かい部分にフォーカス出来て独自の文化が作られている側面もあるだろう
だが、それが行き過ぎて大多数の優秀な人間、善良な人間が割りを食うようになったらおしまいだよ
昨年、障がいを抱えながらも定年まで勤め上げた叔父が亡くなった。
晩年、彼はずっとこういい続けた
こういう事例を見掛けるたびにそれを思い出す。
今までそれから疎外されていながらも、存在を許されていたはずの彼らが
社会の在りようを自分中心に定義するようになってしまえば、大多数の人間が苦しむようになる
これでは誰も救われないじゃないか。
多様性の時代、存在を許すこと自体はいいし、出来る範囲でさらなる快適さを求めるのはいい
だが、それはあくまで存在だけであって、社会の有限の余剰リソースを使ってそれが許されているに過ぎない
少数民族が大多数のリソースを使いつぶす社会は絶対にうまくいかない
それはまるで、グリーンベレーが少数民族に国を支配させたような植民地支配の形だ。
我々は、お互いに謙虚でなければならない。
教育についてのみ。日本のかつての「定形詰め込み」教育は、熟練度の高い工場労働者の育成がベースになってる。一方、アメリカ式の教育は、意識の高い人々を生むが、結果としては天才と馬鹿を二分するエリート教育だ、という批判は確かにある。「ゆとり」教育もそれで、当時の中教審の委員は公然と「あれ(ゆとり教育)はエリート教育だ」と言い放っていた。(詳しくは「三浦朱門 エリート教育」とかでググって。)
教育に関する国際調査で話題のPISA調査が進めるのは後者の方の教育の定着度。今日のニュースで、最新のPISA調査の結果が紹介され、前回低迷していた日本の順位が大きく上がった、つまり、日本の教育もかなり後者に近くなってきた、と報道されていた。とはいえ、自己肯定感や自律性は、相変わらず全然上がっていないらしい。ひょっとしたら、日本は、PISA調査に対しても「傾向と対策」を重ねて「詰め込み」で突破しつつあるのかもしれない。面白い話である。
https://wezz-y.com/archives/95737
映画『バービー』がホワイトフェミニズムだという批判に対し、この記事ではそれを救ったのがラティーナ俳優アメリカ・フェレーラだったとか言っているけれど
アメリカ・フェレーラってアグリーベティの人だけど写真を見ても普通に白人にしか見えない。
アメリカ式の基準では「ラティーナ」として白人ではないという事にされているけれど、
ルーツはヨーロッパのイタリアやスペインなんだから、どう考えても白人でしょ?
本来は白人の区分に入れるべき人種を単に政治的な理由で恣意的に非白人だって事にして
何も問題なくね?
叱らないと成功するなんて話は元々ないし
だいたい、一切なにをやっても叱らないでいたら、育つのは「怒鳴られたこともない人生の理不尽にぶつかった事もないガキ」だぞ。
それはそれでダメだろ。
「厳しい躾」を肯定したい連中は決まってこう言うことを言うわけだけど、別に良くね?
大人になるまでに理不尽にぶつからないことなんてないでしょ。わざわざ理不尽を用意する必要はないよね。というか、理不尽なことしてるって言う自覚あるんだ。
別に大声で怒鳴ればよいのだ。
無暗に叱ったら、子供の発育に悪い。それはそう。
でもその根拠は、ストレスが脳を委縮させるので、教育効果よりもマイナスのほうが勝るという話なんだ。要するにめっちゃ短期的な観察の結果。
「叱らないほうが子供の人生に良い」なんて結果は観察されてない。むしろ、アメリカ式教育で甘やかされたガキが必ずしも成功者になってない現実が、最近は報告されている有様よ。
だいたい、一切なにをやっても叱らないでいたら、育つのは「怒鳴られたこともない人生の理不尽にぶつかった事もないガキ」だぞ。
それはそれでダメだろ。
つまり、叱るもんは叱れ。
とくに、そこまで不敬なことをしたならな。
賢い人にとっては当たり前のことなのかも知れないが、私は最近になってようやく気付いた。
そもそもの発端は周囲にいるアンフェアとしか言いようがない人間の思考について様々な考察を重ねたことにある。
とにかく奇妙なほどに身勝手な人種がいて、それでも彼らと何とか交流して仕事を進める必要があるために、その生態について推理する必要があったのだ。
彼らは子供のように駄々を捏ねているだけなのをさも「自分の正当な主張が通らない。不当な権力勾配や多数決の原理に苦しめられている」と言わんばかりに主張するのである。
我田引水を主張し合うことを社会の基本構造と捉える、アメリカ式を勘違いしたような世渡り術なのかと思ったが、どうもそもそも自分の状況を理解していないようなのだ。
我田引水という慣用句の世界観を流用すると、他人が共有水路の水を使えば自分の田んぼの水が減ることは認識できても、自分が共有水路の水を使うことで他人の田んぼから水が減ることが認識できないようなのである。
単に近視眼的と言えばそれまでだが、近視眼なりに他者が自分と同じ状態になっていないかを想像することが出来ないのだ。
他人と自分が両者にとっての赤の他人から見れば等しく同じ重さであることが想像できず、自分にとっての自分自身の重要性を他人から見た自分に対しても平気で適用し続けている所がある。
これこそがまさに「世間はお前のママじゃない。お前のママみたいにお前を特別扱いしたりしない」という奴なのだろう。
自分の両親が自分を特別扱いしてくれたのを、人生のあらゆる所で繰り返し、その面倒臭さから大目に見てもらってきた日々を成功体験とし、自分は常に特別扱いされるのが当たり前だと信じている永遠のプリンセスなのだ。
こういった身勝手クソ野郎共を「ただのバカ」で終わらせるのは簡単だし、実際彼らはその分野において明らかにバカなのだが、ソレ以外の分野においてもバカかと言うと意外とそうではない。
十二分な経歴と思考力を持った人の中にも、このような自己中思考回路を世渡りのためのロールプレイでもなく本気で正しいものと思っている狂人が混じってくる。
ある種の得手不得手として、自分が公平に振る舞えているのかを客観的に想像する能力があるようなのだ。
そう考えてみるとこの能力は意外と奥が深いことに気づく。
・複数の重み付けが絡み合った状態を計算するだけの思考のメモリ
・個人の認識している世界には歪みや限界があることを理解するだけの思考力
「出来るやつは幼稚園の段階でもなんとなく出来るだろ。出来ないやつは小学生未満のカス」の一言で終わらせたくなってしまうのをグっと堪えて考察を深めると驚くほど多様な前提能力を要していた。
「公平であるかどうかを考える」というのはこれらの能力の掛け算に寄って成立しており、どこかにボトルネックがあるとそれだけで一気に習得が難しくなる。
ただこれらの能力の多くが知識獲得によるブーストが可能であるため、生まれつきそれらの能力が弱くても学習意欲や偏りのない好奇心があればいつの間にか習得できてしまう。
逆に言うと、勉強が嫌いで特定分野に対してだけ強い興味をもつような人間として産まれてしまうと、まともな共感能力を持つこともないまま一生を終えかねないのだ。
もしかしたらこの世界にある「人格破綻としか思えない言動」も、大抵の場合は「特定の能力にボトルネックがあることによって、それに関連する思考に至ることが出来ていないだけ」なのではないか。
そう考え出すと途端に恐ろしくなる。
ぶっちゃけてしまえば、生まれつき知能に関する能力のバランスが悪い、ないしは知能に関してあらゆる面で劣っている場合、本人の意思とは無関係に人格破綻者としての道を転がり落ちるということじゃないか。
こんなに恐ろしいことがあるか?
私はどこかでノートルダムの鐘のような「グズでのろまに見えるが、心はきれいな人物が存在する」という物語を何処かで信じていた。
だがそうではないのだ。
知能が低いものは、人生において一時的に極めて優れた人間性を見せることはあるかも知れないが、その知性の低さゆえに何が正しいのかを判断する能力をいつ失ってもおかしくないのだ。
公平とは「天秤を正常に傾かせることが出来る」という状態なのだが、この重み付けは簡単ではない。
身近なもので天秤をモチーフにしているものと言えば裁判所があるが、あの中でメインキャストとして働くために求められる頭脳労働能力の高さたるや。
だが、「あらゆるものの重み付けを正しく行う」ということを目指せば、自然とあれだけの学習が求められてしまうのだろう。
地獄だ。
「身勝手に自分の都合や価値観を押し付けずに公平に物を見るだけのことがなんで出来ないの?」という私の今までの思考もまた、その難易度の高さに対しての無自覚さから来ていたに違いない。
つまり、私もまた誰かからみてひどく不公平でポジショントークを繰り返す異常な人物として映っていた可能性があるのだ。
なんてことだ。
ただ誠実にフェアに生きていくというただそれだけのことがなんでこんな難しいんだ。
https://news.livedoor.com/article/detail/23201385/
まんだらけ社長、ビニ本は倉庫においてあるだけだと主張して不起訴になったのに、行政指導は入った
https://booth.pm/announcements/616
ブース通販にレイプ、親近相姦、人体切断、ロリペド、性虐待を置いてはいけないカード会社指導がきびしくなる(12月半ば~
ブース運営もカード基準にのっとって審査し、アウトだと勝手に商品ページを非表示されたり、繰り返すとアカウント削除することがある
山田太郎さんどうなったんですかね
ついでにクソコンテンツをエログロだけで子供の目を引いて売ろうとする過激派に教育もしろよな
・ロシアで売るな、買ったやつが死ぬぞとか。しらんで売るやつおるし
・泣き叫ぶようなえぐいのやったあとは出演者のバーベキューシーンをいれて「実は演劇だったり合意なんです」って示唆するアメリカ式もあるぞとか
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「日本人は欧米の問題を自分の国の問題と勘違いしてる部分あるよね」
ていうかより正確には「日本人は」というより日本人の一部の偽善者リベサヨや意識高い系フェミであり
逆に欧米人(主にアメリカ人、さらに正確にはアメリカ人の一部の偽善者リベサヨや意識高い系フェミ)の側が自分たちだけの狭い界隈の問題を世界中の全人類の問題だと勘違いして思いあがっている。
何を思い出したかというとちょっと前に野球選手が暴モを発動して炎上した件。
https://news.yahoo.co.jp/articles/7e4d641c915d6dabf449ef4f65b96f30a8e4bf5d
https://yutura.net/news/archives/82157
はい暴モ。
>「マックスで15人(妊娠させた話を)聞いたことありますね。全員堕ろしたって言ってました。もうプロです、その人」
https://togetter.com/li/1873449
という事は日本の野球選手はアメリカに行けば全員「リベラルなフェミニスト」として英雄になれるんですかね?
「女に中絶させるのが大好き!中絶させることは男性差別への復讐だ!」
https://togetter.com/li/1662170
こいつも「フェミの敵」と名乗っているがアメリカに行けばフェミの味方になっちまうな
日本では昔からこのように、女を騙して遊びでコマして中出しして妊娠させて、責任とりたくないから強制的に中絶させる、
極一部の俺みたいな弱者男性を除いて世の中の男の殆どがそういう事を必ずやってきたんだよ。
「中絶を認めるのがフェミニストであり正しいリベラル」というなら日本の男どもはみんなフェミでリベラルだな。
堕胎は罪だとされるのはキリスト教の教義であり、キリスト教が多数派のアメリカではそういう主張をする人が多いのかもしれないが、キリスト教が少数派にすぎない日本では全く事情が異なるんだよ。
キリスト教文化圏のアメリカでは中絶を禁止される形で女性差別が発動されるが、
非キリスト教の日本では逆に中絶を強制される形で女性差別が発動される。
それをわかってない一部の偽善者リベサヨや意識高い系フェミが、アメリカ固有の問題をそのまま日本に輸入して、まるで日本のネトウヨ保守的ミソ男もみんな中絶に反対してるかのような前提でギャーギャー騒ぐからアホらしくてたまらなかった。
ただ、俺がアホらしくて追ってなかったから知らないだけでもしかすると日本のネトウヨの中にも極一部にはアメリカ式の中絶反対論をぶつ奴もいたのかもしれない。
最近の報道によると日本のネトウヨはだいたい某壺宗教に操られていたらしいのだが、その某宗教もいちおうキリスト教系(原型とどめてないけど)なんだからもしかすると某宗教からの司令でそういうキリスト教固有の発想で中絶反対をやる奴がいたのかもしれないが
だったらそれはキリスト教徒どうしの宗派違いの内ゲバであって、やるならどこか欧米のキリスト教が盛んな国でやってくれ。
日本を巻き込むなよ。
もちろん「男なら女に中絶させるのが当たり前!先輩は15人中絶させた!どうせ女が悪い!」とか言ってる奴が「フェミニスト」であるはずがないのだが、
アメリカかぶれで文化の違いがわからない一部リベサヨのように「中絶を認めるのがフェミニスト」という基準を全世界に当てはめるならそいつらが「フェミニスト」って事に「なっちまう」んだよ。
どちらかというと、フランスの路線に舵を切ったほうがいいと思う。
対カルト、日本はどう向き合うべきか。アメリカは市民活動、フランスは法規制…「宗教批判を一人一人がタブー視せず、リテラシーを持って臨む」 | 47NEWS
どちらかというと、という、あいまいな言い方になるのは、日本の憲法がアメリカ式に多様性を擁護する緩い政教分離なので
フランス式に公共空間の徹底的な浄化をするためには憲法の改正が必要だから。
恐らく大多数の心情としては、カルトは許容できないし、許容しない制度設計をすべきと思っていると思うのだが、
憲法がそうなっていない。アメリカのように宗教汚染上等、トランプみたいなのが現れても、社会がいずれバランスをとってゆく、と信じることはとてもできない。