はてなキーワード: 嗜癖とは
http://anond.hatelabo.jp/20160709002156
調べないで書いてる。
「他人からの言葉かけを全部悪意あるものと解釈」ってなる時期があって、
たいていその後月経が始まっていた。
おそらくホルモンバランスがだめな感じになるタイミングなんだろう。
運動習慣と食事の管理(もともと酒タバコなし、スイーツカフェイン減らして肉野菜)で
月経の痛みとだるさは軽減されたけど、メンタルのアレさは解消しきれなかった。
意味わからん荒れ方してる女性配偶者、すでに抱えてる疲労と苦痛(タスク多い、自由無い、疲れた等)を
「仕事中・家事中 断続的に甘いもの食べ続け、珈琲がぶ飲み」みたいな対処してないだろうか。
嗜癖物で疲労と苦痛を軽くしようとすると倍返しを食らっていた気がする。
一方で、
・穏やかで信頼できる、自分と釣り合う知性を備えた成人と、生産性ゼロのおしゃべりをする
・その場足踏みでもひとっ走りでも音楽かけて踊り狂うでもいいから運動する
上述の対策は副作用なしで疲労と苦痛と月経の苦痛軽減に有効だった。
充分には実践できなかったけども。
ただしゃべりたいだけなのに理詰めでこられると精神がしぬから黙る努力しても精神がゾンビだった。
「なにが言いたいのかわからない発語を聞かされるのが苦痛」というのももっともだとは思った。
えーと、もとの話なんだっけ。
配偶者とおしゃべりするか、友だちとしゃべくり倒してきてもらう(不在中の家事はやっとく)
で、少しは楽に過ごせたりしないかな。
送り出してると、しゃべれるひとのほうが重要なんで最終的に出て行くかもしれないけども。
運動は、本人がすきじゃないと難しそうだな…。散歩でもWiiFitでもいいんだけど。
これ配偶者が荒れててしんどいと思う本人もいっぱい寝て運動してほどよい食事しててね。馬鹿話しててね。
とくに男性、中身が古風でマッチョなひとって愚痴らなすぎなのでもっと無様なこと吐き散らかす義務があるよ(
http://ninicosachico.hatenablog.com/entry/2015/10/26/144601
痴漢された体験談に同情する女性と、「自慢?」と言いがちな男性・一部の女性の意識差について考えたので書く。
傷つけるため明確な悪意をこめて「自慢?」などと言うのではなく、ある種自然な反応としてそう言ってしまう場合に限っている。
被害を受ける人間や、痴漢被害の体験談を聞く人間は異性愛者の男性・女性を想定して書く。
モテない男性~普通の男性くらいであれば、その欲求は生活していて十分満たされることが少ないというレベルだ。
「ブスのババアにモテるなんて迷惑」とよく言われるが、実際のところ、よっぽど嫌悪感を抱くレベルでなければブスや年上からであっても気がある素振りをされるのは嬉しいものだ。
(見栄や責任を取る面倒くささなどから、実際に抱いたり付き合ったりするかと言うとまた別問題だが)
一方女性は、異性から性的に求められることにうんざりしがちである。
性的に値踏みされると意識する機会は非常に多いし、自分個人でなくとも、自分の属する性別が性的需要の対象となりやすいということは街を歩いても民放テレビでもすぐ分かる。
もちろん男性アイドルなどはいるが、グラビアアイドルや、AV男優に比べ数も露出もずっと多いAV女優、風俗業、エロ本広告など、女性への性的な求めはより即物的でインパクトが大きい。
つまり、女性は異性からの性的視線を強制的に限界まで受けている。
性的魅力よりおとなしさの方が狙われる要素として大きいが、同じく無力そうな老人ではなく若い子が狙われがちというのは、結局若さに付随する最低限の性的魅力が加害者の目にとまってしまったのだ。
そして接触された。
それが嬉しいだろうか、自慢になるだろうか?
女性からしたら、若い女というだけで獲物に選ばれたのだから魅力を見出されたわけでは全然ない、そそらせたということになりはしないし自慢になるわけがない、と思われるかもしれない。
だが、若い男という要素でさえも大した価値を発揮せず異性に性的に十分求められたことのない飢えた者からすれば、そそらせてるじゃないか、となる。
飢えている者に「(その飢えているものを)私は受けた」と語るのは、羨ましさを引き起こし、だから「自慢か?」となる。
だが女性からすると、普段の生活の中でもうんざりしているものを更に受けたのだから苦痛で当然だし、自慢と取るのは理解しがたい。
常に空腹で苦しんでいる人間が「飯を食わされた」という話を聞くのと、常に過剰な満腹で苦しんでいる人間が「飯を食わされた」という話を聞くのとでは、どうしても受け取り方は異なる。
ちなみに女性でも「自慢か?」と言う人がいるのは、彼女らが現在性的視線に飢えており、またかつて性的視線にうんざりしていたことがなかったか忘れたかして、飯を食わされた話が羨ましく感じるからだろう。
しかし痴漢被害の話を自慢と取ってしまうような性に飢える人々が見落としがちなのは、痴漢というのは「飯を食わされる」と表現されるような柔らかい接触ではないということだ。
たとえるなら、フォアグラにされるガチョウの如く、喉にチューブを突っ込まれ餌を注ぎこまれるような暴力であり苦痛だ。
いくら空腹だとしても、そんな食糧の与えられ方はごめんだろう。
実際に痴漢被害に遭った男性は、そのガチョウの気分を味わったはずだ。
男性が日常で性的に求められること、肉体的に触れられることはほぼ好ましく貴重な体験だから、どうしてもその延長線上で考えてしまう。
クラスの子に色目を使われたり、同僚にスキンシップをされたり、そういった、ちょっとニヤケてしまうような経験の延長線上で痴漢も捉えてしまう。
痴漢の恐怖と言うのは、逃げづらい状況で、異常な行動をする理性のなさそうな相手に何かされている、という部分も大きく、それは男性にとっても十二分に恐ろしいのだが、理性のなさそうな相手と接触した経験が少ないとそこのところもぼんやりしてしまう。(また、痴漢物というポルノジャンルが割と人気がある程度には痴漢はノーマルな嗜癖であるため、犯人を自分とかけ離れて理性がない異常者と判断するのが難しいというのもある。現実で行おうとするかは別だが、夢想の中では痴漢をしたがるのはそんなに珍しい欲望ではないので、痴漢というスケベ心はある程度広く理解されているといえる。殺人欲求や戦闘欲求ほど広く受け入れられてはいないだろうが、ある程度痴漢欲も理解できる男性の方が多いと思う。ちなみに男性露出狂などは男性にとっても割と理解しがたい異常者と感じやすいようで、男性露出狂もののポルノは痴漢物よりニッチである)
だが男性は逆ナンをされたいと思う。しかも実際された経験がある人間は少なく、それが尚更憧れを増す。
迷惑だった体験談のつもりでナンパされたことを語ったら、「羨ましいね」とか「自慢しちゃって」など言われてしまう、という構図に、痴漢体験を話すことの問題は似ていると言えまいか。
直接的な暴力ではないナンパと、暴力である痴漢の間には線があるのだが、ナンパもあまりされたことがなくまた慢性的な性への飢えに悩まされている者は、痴漢もナンパと同じようなもので、鬱陶しいだろうけどちょっとした手柄話にもなるだろうと考えてしまうのだ。
それにより不特定多数の異性から性的に見られることに原則否定的か肯定的か。
その感覚の違いが、痴漢体験談への反応のズレを生んでいると私は考える。
では性的に見られることの多寡はなぜ発生するかということについては、肉体的な性別が平均性欲に差をもたらすとか、文化的慣習がどうのとか、どこまでも広がっていきそうなので誰かに任せる。
とにかく私としては、痴漢被害者への反応の問題は、飢餓に苦しむ者と強制給餌に苦しむ者の間で感覚が違ってしまうことや、親からのネグレクト被害者(もっと構ってほしかった)と過保護過干渉被害者(もっとほっといてほしかった)の間の価値観の違いのようなものだ、という意見である。
ではどうしたらいいかというと、女性は男性の性的飢餓を和らげる程度に男性を積極的に求め、男性は女性の負担を和らげる程度に女性から関心をなくせばよいのかもしれないが、そんなのやりましょうと号令をかけてできるものでもない。
肉食系女子、草食系男子が本当に増えていて、それも良いバランスで増えているならばそれに期待したいが、私は怪しんでいる。
まったくどうしたものだろう。
余談の1。
女性から男性へのセクハラ被害が周知されづらいのは、多くの男性が女性からの性的視線・性的接触を好ましく思うため、少数例である不快に思う男性の声が軽んじられて起こる不幸だと考えている。
この少数例というのは、その男性個人の感受性や、加害者である女性の個性や接触方法が極端だった、などを混ぜた意味での少数例である。
余談の2。
性的視線に晒されることの恐怖や嫌悪を男性に伝えるために「筋肉隆々のゲイに狙われるのを考えてみなさい」という言い回しがよくされるが、これは、ゲイに失礼かもしれないということに加えて、異性から性的に見られる恐怖を論じているはずが同性愛への抵抗が混じって話がゴチャっとするのであまり良くないと思う。
まあそこからスタートして、持つ者は持つことによる限界を、持たざる者は持たざることによる限界を、智恵と努力で克服しようとする姿勢と営みが人間の本質だよね。
人間とか言ったって所詮は動物の端くれで、原始的な力の支配下にあるんだから、神のような崇高な精神の中にあるのが人間、みたいな思考は、人間だと勘違いしてる飼い犬のように滑稽で愚かしいわ。
でもまあ、だからこそ愚かな人間は愛くるしいんだけども。愚かな犬コロのように。
不満と嫌悪と怒りの中にこそ、嗜癖することを耐え難い刺激が存在することに、気付かずとも本能が反応するからこそ、犬コロ達は引き寄せられるように憤懣と戯れる。
依存症(嗜癖)は遺伝ではなく家庭(生育)環境によるものが大きいです。身内にギャンブル依存がいらしたとの事ですがあなたの親御さん、またはその親にあたる人にお酒などの依存を持つ人がいませんでしたか?
あなた自身(またはあなたの親御さんも)がその事によって傷ついていることはありませんか。
依存症に関してですが、医者選びは依存症に強いクリニックを選んでください(性依存でということではなく、アルコール・ギャンブル・薬物など)。
普通の?メンタルクリニックへ行っても、対応できず回復の遠回りになる可能性が高いです。
どこへ行けば分からない場合、県の精神保健福祉センターに相談してみるのも手っ取り早い方法だと思います。
いやな言い方になりますが、依存症の回復は「薬飲んでハイ終わり」というような簡単なものではありません。
自分の嗜癖と向き合って、少しずつ少しずつ歩いていくような道のりです。
ご存知かもしれませんが、性依存に関しては自助グループもあります。もしお近くにないようなら、AAのミーティングに参加されるのも良いかもしれません。
あなたの苦しみはあなたのもので、私がどうこう言えたものではないので、偉そうな事書いてすみません。
私は性依存ではありませんが、別方面の依存を持っております。あなたは一人ではありません、では。
「神さま、私にお与えください/自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを/変えられるものは変えていく勇気を/そして二つのものを見分ける賢さを」
>女子的には「わがままでやきもち焼きで頭悪くて性格も悪い」と言われた時点で全否定されているので
>頭悪いはまだしも、性格まで否定されたら「かわいい」が数%のフォローアップにしかならないと言うか…
それくらいキツメの軽口も受け流せて、男性から言い易いタフさを持ち合わせているように誤解されるタイプなのかな?って、思いました。それで”サバサバ”と。
タフに見えても「頭も性格も悪い」と言ってしまうのは思いやりないですよね。
でもまぁ、無意識にそういう態度を取ってるから、言われると言うのもある。
顔で笑って心で泣いて…ではないでしょうか。
ナンパされに来ている娘以外で、一般女子に対してもそういうことを言うのは
連れて歩いて見せびらかして自慢したいとか、カラダの関係を持って男だけの集いで自慢したいとか遊び目的だとそうなりがちです。
真面目な目的なら、そうはならないでしょう。その人という人物が好きなのですから。
本当に好きな人には、日常的にそういったことは中々言えないと思います。恥ずかしくて。
それに、もし、付き合い始めた時はDカップで、その後太っちゃって食事制限ダイエットしたら胸ばかりが先に痩せちゃってBカップでスカスカになったからといって嫌いになったりはしませんよね。
もし、事故で顔が火傷になったとしてキライになりますか? 乳癌で切除したらキライになりますか?
そう云うことだと思います。
好きな人から好意を受けると、もっと好きになる人もいるかと思いますが、それよりも好きな人に対しての自信になるのではないかと思います。
これは同意です。
で、その反対だと好きでいる自信がなくなって「好きだった」気持ちだけが形骸化してしまう…と言っています。
すみません、言語としての意味での依存ではなくて、嗜癖(しへき、Addictioin)とも呼ばれる依存症や依存傾向、共依存などを指していました。
嗜癖ですか…。
嗜癖の説明の中にも「執着」という言葉が出てくるのですが、執着との違いは、恍惚感や高揚の有無なのかなぁと。
元増田は嬉しくなるどころか「好きなのに」という抵抗感みたいなものがあるように感じられて、ピンとこないでいます。
>→対義語:断念
この断念の進め方を上手にしないとかえって拗らせはしないかな?と思ったんです。
そうですね。断念の仕方は大事ですよね。
「こんな安物、ちっとも良くないゎ」とか(本気で)いいつつ、売りも手放しもしない……
「ドーナツ化している心の穴を埋めようと、好きだった気持ちを取り戻すために執着している状態」の説明で持ってきました。
→書いたのはこの方。http://anond.hatelabo.jp/20130425073035
女子は新しい人が現れると上書きというか、切り替えが上手で前の人は綺麗さっぱり消え去ることが多いと教えられることが多いです。
そうなんです。グダグダ言ってても、新しい人ができたら「なかったこと」のようにスッキリしてるんですよw
だから元増田にも「視野を広げて素敵な人を見つけてもらいたい」「いい恋してください」と、断念の仕方をアドバイスしたんです。
それで、増田さんが「執着じゃないよ」以外に何を言いたいのかが、ちょっとよくわからないです。すみません。
Sさんの勝利宣言ともいえるチャットと2日後に来たSさんとAさんの仲を窺わせる申請を受信した時点で
それにしても
>「○○さんはコンタクトもらってないですよね? だってAさん、○○さんのことうざいって言ってましたもん!」とチャットを飛ばしてきた。
怖いですよねwでも、もしかすると、元増田は本当に空気が読めなくてウザがられているのかも…とも思えてきました。
相手の心理的に「重い」状態になっている場合に「迷惑だって気づけよ!」というメッセージを込めて、きつい言葉を投げかけられたりします。
http://anond.hatelabo.jp/20110906150347
読んだけれども全部は内容を把握できてないかもしれません。アダルトチルドレンというのは、ずっと前にも自分の今は使ってないgreeの中にも書いたのですが、アダルトチルドレン オブ アルコーリック の前の部分だけを取り出したもので、アルコール依存症患者とともに子供時代を過ごした人(今は大人)について、を指す言葉で、その人たちが大人になった時に同じような精神症状を示し、それがどうも過去に起因するのではないかと、精神医学の分野の人たちではなく、アメリカで心理療法家や臨床で精神的な問題を抱えた人に心理的なアプローチをする実際に身近にいる治療者たちから、言われ始めそのような研究や論文も(英語の論文サイトで見た事もある)少しはできたりしてたらしいです。(少しはと書いたのはアメリカが元だけど、そんなにアメリカで持て囃された理論でもなかったと思うから)
しかし、虐待の連鎖については、調べてみたら有意な差は認められなかったという結果が出た事もあったと、日本の精神科医のサイトで見たこともありました。(この元の論文は探してるけどまだ見つけてない)
日本では、虐待の連鎖も理屈や理由や統計は求めらずに一部専門家が言ったら、確定事項みたいに流布してしまっています。ACの流行の盛りは過ぎたと思ったのに、質問サイトではいまだに虐待の連鎖を心配して、被虐待者が自分が将来虐待するのではないかと相談しています。被虐待者に不安を与えて信者にして儲けようとしている人もいるかもしれないと思ってしまいます。日本の精神医学の学会ではACというものには懐疑的らしいです。なぜかというと、アダルトチルドレン オブ アルコーリックの人の症例や理論を拡大解釈し過ぎだし、誰にでもあるような事や、大して問題とも言えない事まで問題視する本をAC理論を唱える関係者がを出したりしてたからです。
虐待により精神的な問題を抱えるようになった人たちがいるのは事実だと思います。その人たち(自分もかもしれませんが)に適切な治療の場やサポートが与えられる必要はあると思います。AC本批判の医者の中にも極端な考え方をしている人も居ると思います。 精神症状の原因を外部に求めるのがいけないという書き方の本もありますから。どちらとも決め付けられない事だと思います。
こんなふうに意見が別れるのも、抽象的でどちらとも言えないもの決め付けられないものを、AC本は決め付けてしまっているからだと思います。
極端な考え方のものはともかくとしても、精神医学系の学会が、ACという考え方に関して疑問視していたと知って、書かれた疑問も読んで、ほっとはしたものの、なんだ、自分が思ってた事と同じではないか!もっと早く言ってよ!!と思ったことはありました。
認識の問題とか、自分の回復のために、そのような問題を書き綴って確認作業のような事をするのは、本人にとって害はないからよいと思いますが、お金を払って治療を受けに行くと、信者にされる可能性もあると思います。
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昼間に書き始め、途中でやめて、また書いているので、最初言いたかった事とずれてしまったかも。
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こういう問題について書こうとするとよくわからなくなってくる。
ただ、アダルトチルドレン オブ アルコーリックは、アルコール依存症患者とともに育った子供時代を持つ大人を指すので、例えてみれば、中国残留日本人孤児の人たちが今は大人なのに孤児と呼ばれているので、中国残留孤児だった大人と正確に呼び、その後半部の「孤児だった大人」の部分だけで呼んで「孤児だった大人」「孤児だった大人」と呼んでいるようなものだと思うから、何だかこっけいな感じがしてしまうのですが・・・
今自分が書いたものでも、つい「アダルトチルドレン」と繋げて書いてしまいました。 これを言うなら「アダルト チルドレン オブ アルコーリック」とすべきでした。その方がわかりやすかった。子供だった大人、どんな子供? アルコール依存症の人と一緒に居た、ということだと思うんで、そこから、心は子供体は大人、とか 見た目は大人なのに中身は子供で、そうなってるのは本人のせいではない、みたいな理論とか、大人になれない子供とか(これは批判のように捉えて嫌がる自分はACだと思ってる人もいるみたいだけど)、子供時代を失った子供とか(これはある意味そうなんでしょうけど、それを指摘して何になる?当事者でもない専門家が親切にもあなたは子供時代を失ってますよ~と言ってくるというこっけいさ。それって親切なの?かわいそう攻撃じゃないの?) 子供時代に大人の役割をさせられた子供とか(これもそうかもしれないけど、それをACと称する事に、関係者がお布施を募る事ができる以外、何の意味があるかわからない) ...etc
これらの状態を アルコール依存症の人と一緒の子供時代を送って育った大人、とどう結び付けていけるのかわからない。
アダルト・チルドレン という響きが、聞こえが良かったのではないか? 自己愛的傾向を持つ人々の心を掴むのに、格好のネーミングだったからではないか?
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子供時代に受けたトラウマが、精神症状を引き起こす事はあると思います。それを否定するものではありません。それに対しては個別にそれぞれの現在の状態に合わせて対応するべきだし、親に限らず他人から受けたトラウマで精神症状が引き起こされる事はあるでしょう。親と言う人と接するのは、自意識や自我が発達してなくて判断力がない時期からだから、混乱させられやすいという事は言えるかもしれません。
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アダルト・チルドレンというものを考える上で、こういう事も念頭に置いた方が良いのでは無いかと思ったので書いてみました。
心に傷を持つ人、空虚なものを持つ人、家庭に問題があった人、孤独な人、こういう人は都会に出たら、何とか商法や、壷や絵を買わされやすい傾向にあると思います。怪しい宗教なんかも付け入ろうとするかもしれません。(孤独なお年寄りが布団売りつけられるようなものです。)
それよりはマシかもしれませんが、本買ったり心理療法に通わされたりするのも、同じような面もあるのではないかと思います。
手を変え品を変え、有名人を引き込んだり、NHKで有名作家にカウンセリング体験を語らせたり・・・
これで得をするのは誰でしょう?
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追記
アダルト・チルドレンがキーワードになってたので、読んでみたら
今はACは、機能不全家庭で子供時代を過ごした子供たちの総称になっているそうです。
機能不全という言葉で用いられている機能というものが、そもそも抽象的なものでしか無いので、そのあたりが問題ではないかと思います。
自助団体 (自助という言葉が適当かどうかわかりませんが、そう自身で名乗られているので) からも、AC本の人には抗議文が送られていると、はてなキーワードで見ました。やっぱりねw
わかるとは思いますが アダルトチルドレンではなく、キーワードがACなので、リンク貼っときます。 http://d.hatena.ne.jp/keyword/AC
追追記
837 : 没個性化されたレス↓ : 2010/04/20(火) 00:09:36
ACを商売にしてる人はACに根拠が無い事がばれてくると今度は
「負の連鎖」とか「虐待の連鎖」というこれまたまっったく根拠の無い概念で
新たなお店を開いているようです
838 : 没個性化されたレス↓ : 2010/05/01(土) 18:57:32
根拠あるでしょ。十分に。
839 : 没個性化されたレス↓ : 2010/05/02(日) 13:58:54
ACに根拠があるかどうかに関わらず、
(傷付きやすく騙されやすい)ACをターゲットに商売をする人たちは
距離の近い親の本質を暴くことは、世の中の危険な人の本質を見抜くよりも簡単。
世の中、表面的にはイイ顔をしてても、中身は毒親みたいな搾取的な
結果として騙されたり、時間を無駄にすることだって多いのかもしれない。
840 : 没個性化されたレス↓ : 2010/05/08(土) 19:27:01
それに騙されて身動き出来ない人がいるということ。
>ACが自身の主体性を取り戻し、社会性を得ることの難しさに、
ウソ概念で騙されているんだから主体性を取り戻せるわけがない。
カネを搾り取ったがもうカネも出て来なくなったら主体性を取り戻せという。
AC業者の糞なやり方には本当に腹が煮えくり返る。
986 : 没個性化されたレス↓ : 2010/06/29(火) 22:37:15
アメリカのソーシャルワーカー達がアダルトチルドレンという無根拠なレッテル貼りを始めてから
もう40年という月日がたってしまった。
それを利用したAC業者やマスコミが被害を拡大させて、日本でも30年近くこの無根拠な概念が暴威をふるった。
このAC概念は無根拠なくせに極めて専横的で疑いを許さなかった。マスコミとAC業者がそうさせなかったのだが。
AC概念は人々を苦しめ、裁き、断罪し、この概念のくびきのもとで生きる事を強い、いささかの救いの道をも与えなかった。
ACは無根拠であるが故に疑いを許さなかった。ヒットラーのように。北朝鮮のように。
AC収容所の人間は小石のようなあきらめをしゃぶり乾きを癒すしか無かった。
ACに根拠は無いのに。
そして強制収容所の人々が「ここにいるから私は友と知り合えて生きていること許される」と心理的な合理化をするように
「ACを知ったからこそ私の人生がある」と合理化をするようになる。
商業主義の暴虐に痛めつけられ囚われの身となった人の心が、最後の誇りを失わないようにするために
強制収容所に30年幽閉された人が解放されてもとまどうように。
30年と言う月日をAC商業主義の暴虐に晒された心に「ACには何の根拠も無い」
と言われてもすぐには受け入れらないのはもっとなことだ。
このスレも次スレもこうしたAC被害者のリハビリをどうするかという問題も検討されるべきだろう。
http://logsoku.com/thread/academy6.2ch.net/psycho/1035617398/
某巨大掲示板のログですが、学問板なので、それなりにそれなりのモノの見方をする人も出てきてますが、残念ながらACと言われる人を責めるレスも時々あります。しかし、それに反論レスもあります。反論するのはAC理論が正しいとは思ってない人たちの場合も多いです。AC理論は否定するけどACと言われる人たちの中には精神的な症状がある人がいるのも事実だろうという認識です。
AC理論を唱えて儲ける専門家たちは、自分たちにとって一番楽な状態の人しか相手にしません。具体的な事をしなくて良くて、心理的なものの具合だけを診ていれば良い状態の人、過去の事で精神的に問題がある人、これらの人たちなら過去の事だから、今現在具体的に人権救済しなくてよいわけだし、ただでさえ、親の事で肉体的な暴力でもない精神的心理的抑圧なんて、そんな昔の事で・・・と言われるのが落ちで、グチや不満ではなく本当にわからなくなったり混乱したりして話したとしても、親の変な話をするというふうにしか受け取られなかったりする傾向にあるから、そういう専門の心理の療法家しか、自分たちの事をわかってくれない!と思いつめさせそこに依存させたり、信仰させたりする事もできる。
自分たちのところに来ない人たちの事はサバイバーと呼び、さも来ないのが変みたいに思わせる。
成人後も困った親から逃げている人たちもいる。そういう人は助けないのだから、おかしい。
413 : 没個性化されたレス↓ : 2007/11/22(木) 10:43:37
おばさんになってからの自認でしたから、既に生き辛さへの改善は進んでいたのですが、
嗜癖と自責の負のループに陥っていたのですがACと自認した途端、解放されました。
2. 思考の偏りの起因を知り、改善が進む。その際自己嫌悪から解放される。
AC論が正しいとしても、正しくないとしても、また自称だとしてもそれが役に立てば良いのではないかと思います。
極論、機能不全家族が原因で無いとしても、その考えに辛さを預けて進めれば良いのでないかと。
ただ、ACが免罪符であってはならないのでしょう。自己の努力が不可欠であり、その時こそ、AC自認が有効に働くと思います。
(意外にこの特効薬を求めてACを知りたがっている人が多いような気がする)
今抱えている問題は過去に起因していても、今の自分の問題であるという事ですよね。
414 : 没個性化されたレス↓ : 2007/11/26(月) 09:00:50
>413
誤った疑似科学的概念が人に仮の安定をもたらすというのはよくあることだ。
ここは学問板なので出て行ってもらいたい。
またそうした方が幸せは長続きするだろう。
それに耐えうる概念のみが生き残る。
事に気づいているからこそ、
415 : 没個性化されたレス↓ : 2007/11/26(月) 09:52:07
仮の安定ですか。
仮の概念により得た安定の方が私にはしっくりきます。勘違いなのかな?
そういう意味でも学問板に書く資格が無いのは確かでした。本当にそうですね。
申し訳ありませんでした。
416 : 没個性化されたレス↓ : 2007/11/26(月) 11:59:34
>415
例えば「全ては神の思し召し」ということで安定する人もいる一方、
そこと格闘しなんら安寧を獲得せずこの世を去る人もいるわけです。
AC概念は控えめに言って「視点を固定した時そう見えるだけという誤認」にすぎません。
それでもよければどうぞ。
親に対して、細かい指摘ができる(細かく正当な指摘ができると言う意味)はてなブログの方でも、心理療法家についてはあまり疑ってないみたいだったけど
この方の親程度に自分に都合が良い事をするその手の専門家はくさるほどいると思う。
精神科医でも、ACとはまた別の話で、NHKでもうつ病の薬について、医者がわかっていて儲けのために依存させる事もあるかのような特集も前やっていたのを見た。わかっててやったかどうかはわからないが、今は規制されてると思うけど、リタリンで依存症を起こし、離脱症状などでわけがわからなくなりまだ若くて健康だったのに、自殺されてしまった方の遺族が訴訟を起こしていたのもニュースで見たことある。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1271342947 目を通すだけでも通してほしいのですが、(タイトル)
抜粋
>心療内科、精神科に行ったら、もっと惨めな気分にさせられ実際泣いて帰ってきた…
>これはあくまで私の私見ですが、
>精神科医の半分強、カウンセラーのほとんどが、ほんとうはその本人がケアを求めていると私は思っています。
>「あなたは甘えている」
>という言葉の裏には、
>「私はあなたより苦しいのに、なんであなただけ治療を受けられるんだ!私だって甘えたいんだ!」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1425822034 うつ病の診察中に精神科医からの言葉に精神的ショックを与えられました。
はてな日記の親の心理的搾取を理性的に指摘されている方も、機能不全という言葉は信じて使ってらっしゃるようでしたし、自分が精神科医にかかった時に、医者に言われた事で、微妙な事でカチンと来た事や無駄なアドバイスだと思ったと言うような指摘は書いてありましたが、精神医療の構造的な欠陥 (昔 医師会の当時の会長に「家畜経営」と言われた精神病院の経営の仕方など、自分たちの利益のためなら人を壊す事も構わない、人間を獲物にしてる) までは、関係ないからという事もあるでしょうけど、全然言及されてません。
弱みがある人間が行けば、いい餌食にされる可能性は、弱みの無い人より高いと思います。 悪い医者ばかりではないと思いますが、精神医療はいろいろと矛盾を内包して闇の部分が多すぎます。
ACというものについては、学問板といっても、2chなのでスレ内では、自称とか言って責めるような意見も煽りとして存在してました。しかし、アダルト チルドレン オブ アルコーリック でも アダルト チルドレン オブ アビューシブ ペアレンツ でも アダルト チルドレン オブ ディスファンクショナルファミリー でも アルコール依存症の人と一緒に子供時代を過ごし大人になった人 という意味や、虐待する両親の元で子供時代を過ごした大人 という意味や、機能不全家庭で子供時代を過ごした大人 という意味なら、ACは居る、存在している、と言えると思います。
しかし、AC専門家?サイトで13の特徴とか、非科学的な啓蒙活動をするのは、間違っているのではないかと思うし、そこに挙げられているようなACというものについてなら、居ない と言えるのではないかと思います。
んーー。まだそれを育む段階じゃないと思う。
もっと原始的な感情を形成している段階だと思う。
指をしゃぶってそのまま寝入ってしまうのです
ここがもう強烈に表している。
わざわざ話を作ったんじゃないかってくらい。
要するに「嗜癖」で母親の代替を見つけただけだという事だろう。
それは非常に危険な方向性。
他人との距離感はその後作っていけばいい。他人との生活の中で。
家庭は生活においても人格においても、もっともベースとなる所だから、
「愛されている」事を最低限保証してあげないと・・・。
もちっと年とったら、我慢を覚えてもらうのもいい。
それは十分愛されている上でなくちゃいけない。。。
まーっつっても、寝る前のくずりを一時的に無視したとしても、
あの野郎と私のことを考えて考えて考えていて、共依存て言葉がぽっと頭に浮かんできて、むはっ!てなった。結局の所私は未だ、自分の生い立ちから抜け切れていないのか、と。アル中の父親に殴られて育った娘が、またアル中の男になびくのと同じことだ。そこが理由で好きなんじゃない、と否定し続けてきたけれど、そろそろ認める時期なのかな。あの野郎はDVでもアル中でもないけど。ただの、彼女がいるからと振った女をその後も定期的に飲みに誘う、頭おかしい男。そして私は喜んで飲みに行く頭おかしい女。私に彼氏がいる時期を挟みつつも、早五年もこんなふうな感じでいる。
共依存状態で四年、同棲を続けている友だちが、泥沼の果てで最近はお互い自立してきたという。彼は自分の抱える嗜癖の自助グループに通い始めたし、彼女は離れて働く時間が増えた。束縛と暴力はゆるみ、穏やかな時間が増えたという。
それは彼らが互いのために努力を重ねたからだと思う。安全に何も、誰も傷つかないように。それを気をつけているだけじゃ、何も変わらないのだと思った。
性的に欲求不満であると、ことあるごとに奴は私に言う。そのたびにテキトーにあしらってきたけれど、今度もし言ってきたら、関係を変えてみようと思う。どうせ短い人生だ。やりたいことやって泥水すすってみるのもいいじゃないかって。その結果殴られてもそしられても、やりたい方に進んでみたい。泥沼の底を探ってみたい。彼氏じゃなきゃ彼女じゃなきゃとか、友人一同にどう思われるかって条件付けは絶対だと思ってきたけど、変えてみてもいいんじゃないか、と、思った。貞操観念の強い女として来たけれど、崩してみたくなった。
これが全てタダのやけっぱちなのか、それとも心境の変化や成長?なのかはわからない。ずっとクソ真面目に生きてきた。馬鹿に、尻軽になってみたいんだ。
その先で、「もてあそばれた」だの「捨てられた」だのみじめに泣くようなことはしたくない。人にどう思われるとか、こうしたら嫌われるとか、そんなこと考えないで自分で選ぶ道なんだから。
カウンセラーの資格を持ってる友だちに人生相談した時に、自分と君のようなアダルトチルドレンは、と不意に言われて、虚を突かれた。そういう定義の人になるのか私は、と。そんなご大層なもんじゃねえよ、とずっと思ってきた。人からそう言われたのは初めてのことだった。アダルトチルドレンであり、共依存傾向が無茶苦茶強い。そういう人間だと自分を認めた(つもりだ)けれど、この先回復はどう向かったらいいんだろうか。今度しようとしている選択はむしろ、破滅に向かう一歩なんだろか。
まあ彼が、私の変化と依存を受け入れるかはわからないけれど。彼女を失う可能性と、依存し合う心地よさ。天秤にかけるかな、彼は。ただ性欲の解消に走るだけかな。そうだろな。ははん。
つーか考えても考えても答えが出ないんだけれど、共依存でない愛情てあるんだろうか。ていうか愛ってなに。男性として、女性として好きって何。この人がいなきゃ生きていけないとか、そんな気持ち感じたことないや。独占欲しかない。
ものごころついたとき、認識した自分像は、身体が希薄で精神偏重型だった記憶がある。身体はリアルではなく精神で起こることだけがリアルだった。身体と精神は別物だったし、身体で何かが起こっていても精神がそれを認識していなければ何も起こっていないのと同義であった。身体は精神の操るマリオネットであり、時に私はマリオネットを放り捨て、精神だけが作用する世界に潜り込むこともあった。
その当時とても不思議だったのは、私の身体と他の人の身体が入れ替え不可能であり、我々の精神が溶け合うことや触れあうことがあり得ないという事実だった。
目を開けるとサイズの合わないマリオネット。見覚えのない顔。手の長さも足の長さも私が認識しているものとは違うという事実。それは私にとってストレスだった。精神の感じる身体と、実際の身体の間の隙間には、粘つくゲルが詰め込まれていて、その感覚はとても不快だった。痛みさえも私の痛みではなく、私の操るマリオネットの痛みだった。私はマリオネットを操りながら、痛みに苦しむマリオネットを眺めていた。マリオネットは私の意志には関係なく、泣き、笑い、怒り、人を傷つけたりもする。私は制御不能になったマリオネットをただ眺めている。それを制御しているのは誰?と思いながら。
人に見られるのはマリオネット、人に愛されるのもマリオネット、それを後ろで見る私。叫べども叫べども、人が見るのはマリオネットでしかない。何度叫んだことか「私を見て、私を愛して」と。しかし、誰もマリオネットの後ろに立っている私には気づいてくれなかった。
精神の認識する身体と、実際の身体が一致するのは、強い刺激が与えられたときだけだった。痛み、苦しみ、快楽……精神の認識する身体を取り囲むゲル状のものがない状態は快適だった。ゆえに私は強い刺激を求めて、様々な問題行動に嗜癖していくことになる。
男は、マリオネットに彼の中の何かを投影し、鏡になったマリオネットを抱いた。マリオネットは彼の望む通りに演技をした。私はその行為が終わるのをただ見ていた。彼が愛しているのは抱かれているマリオネットではなく、彼の中の何か。マリオネットはただの代用品。それを理解しながらマリオネットを彼に差し出す私。「あなたはいったい何を見ているの」私は何度も彼に問う。私の言葉は彼には届かず、私の疑問はいつになっても解消されない。何人もの彼が私の上を通り過ぎた、私は彼にマリオネットを与えたことを忘れた。綺麗さっぱり忘れた。代用品としての私は、私の中から姿を消した。
切り離し、切り離し、断片を切り離し、切り離し、切り離し、切り離し、切り刻み、身を切り刻み。
幾重にもなった断片の下から世界を見る。断片に囲まれた地の底から世界を見る。断片はバリゲード、私はその下で息を潜める。息を潜めていたい気持ちと相反する、誰かに見つけて欲しいという願い。ジレンマ。焦燥。斜に構えて深いところから覚めた目で世の中を見、その実は誰よりも愛されることを強く願い、願いが受け入れられない苦しみは、死への衝動へと変化した。
始めて腕を切った日に見た、肌の下にある醜い肉の様子は、今もまだよく覚えている。この醜さこそが、私が覆い隠して見ようとしなかったものだということに気づく。取り繕う外面、どろどろしたものが渦巻いた内面。その狭間で苛々するたびに私は何度も腕を切った。肉は気味悪い光沢を持ち、繊維が刃に引っかかって苛々した。時折感じる激痛がこめかみを貫いても、構わずに切った。血は穢れだ。全て流れだし、洗い流せばいい。血管の壁に触れたとき、鈍い痛みが寒気を呼び起こした。それは多分死ぬことに対する恐怖だったのだろう。私はそんなあたりまえのことさえも忘れていた。
最初にそれを意識した日から、すでに二十年近くは経過している。しかし今だに、精神の感じる身体と、実際の身体は異なる。指先までしっかりと神経が張り巡らされていないような感覚がある。実際はそんなことなどありえないはずなのに、私の中では厳然とそうなのである。あの当時感じたひりつくような気持ちも、腕を切った痛みも、皮膚の下にある醜い肉も、大量の吐瀉物と一緒に吐き出した呪いの数々も、私の上にしっかり根を張り、事あるごとに再生され私を苛む。
しかしそれらは、もう過ぎた昔のことであり、私が今ここにいる厳然たる事実に代えられるなにものでもない。