はてなキーワード: ネオリベラリズムとは
==以下、引用==
(略)
以下の記述は、記憶によるもので、あいまいな点が多々ありますし、小沢さんの言葉ではなく、私が自分なりに解釈、要約して書いている部分もあるので、誤解や間違っている部分があるかもしれないことを念頭にお読みください。
小沢さんは、これから自分の語ることは誰か特定の人を攻撃するものではないので誤解しないでほしいと何度も断った上で、「アートという罠:アートではなく」という講演を開始されました。
小沢さんが取り上げたのは、「なぜイギリスの行政は貧しい地区でのアート振興にお金を出すのか、彼らは何を狙ってアートを援助したのか。」という問題です。
行政的にはその答えは明瞭で、
第二に、職を作るためであり、
第三に、セルフ・エスティームを高くするためであり、
第六に、再犯を防止するため
なのですが、小沢さんはこういったアート政策が、実は新自由主義、ネオリベラリズムの息のかかったプログラムそのものであると指摘されました。
ネオリベラリズムとは、簡単にいうと、人びとを激烈な競争に巻き込んで、優勝劣敗、弱肉強食のジャングルの法則を貫徹し、社会を一部の大金持ちと、残りの貧乏人に分断し、様々な格差が拡大することをもって良しとするような主義・主張です。
勝ち組の新自由主義者たちは、アートを媒介にして、貧しい人たちが暴動を起こさないよう社会の中に取り込もうとします。こっち側に入れてあげるよ、といった彼らの傲慢さは、ソーシャル・インクルージョンとでも言えば、何かカッコよく今風に響くから不思議です。
なぜ、ソーシャル・インクルージョンをネオ・リベラリストたちには必要とするのでしょうか。端的に言えばそれは、暴動を抑え、革命を阻止するためです。そんなこと「野蛮」なことを、夢にも思わない人間を作り出すためです。
(略)
「企業的な社会、セラピー的な社会」で小沢さんは、セラピストの前で自らを語ることは、実は「灰色」=システムが用意した一定のヒエラルキーの下に、「あるべき自分」を位置づけて、希望を失っていくプロセスなのだと批判していました。
小沢さんは今回の講演で、同じことがイギリスのコミュニティアートにも起きているといいます。
セラピストが皆、気持ち悪いくらい落ち着いた低い声で、その患者たちをシステム内に柔らかく取り込むように、コミュニティアートも、誰にでも受け入れられるような、丸っこく優しくゆるーいアートを媒介にして、貧しい人達が「暴発」しないよう、その力、希望をソフトに去勢して、システム内に取り込んでいる、と批判しているのです。
イギリスではソーシャル・インクルージョンを目的にすると企画書に書けば、補助金が比較的容易に降りるということもあって、この言葉が大氾濫しているそうです。
そして、実際に許可して一年で700億円もの金を分配している男は、アートのことなど何も分からない小役人で、アートを通じて、貧乏人の心に野心を高めさせ、燃えたぎらせ、優秀さへの野望を常に胸に抱いて他人を出し抜こうとする嗜好など、ネオ・リベラリストたちが好む欲望を植えつけることをアート政策の目標にしているのです。
小沢さんは、こうしたイギリスの取り組みが「コピペ」されて実施されたのが、大阪ではないか。世界と地域はつながっているのだと主張されます。
The Economistとかいったネオリベの雑誌を好んで読み、「アーツとビジネスの融合した創造性豊かな都市をめざす「創造都市戦略」を掲げた」(ウィキペディアから)關淳一第17代大阪市長を名指しで批判している最中で、なぜかスカイプの音声が乱れ、もう時間ですからと急かされて、最後は駆け足気味の話になって終了。
小沢さんは1時間の講演を予定していたようで、話を止められた後、両手を頭に組んで仰け反っていた姿から、もう少し語りたいことがあったように見えましたが、私の気のせいでしょうか。
それにしても、これほど過激な、これほど尖りまくった講演は聞いたことがありません。
下手すると、企画の趣旨を全てぶち壊すような、シンポジウム関係者を激怒させ、二度とお呼びにかからないようなリスクをあえて冒して、小沢健二さんは自らが信じることを堂々と語ったのです。資料を持つ手は微かに震えていたとしても。
「アートの力を信じる」というシンポジウムで、「アートという罠:アートではなく」という、まるでちゃぶ台をひっくり返すような講演をやる蛮勇さ。なんという毅然さ、なんという美しさだろう。私はただただ感動していました。
小沢さんは、どこにも帰属せず利害関係を超越した場所から、誰も反論しようがないお行儀のよい正論をぶつだけのイデアリストではありませんでした。
アートしている人たちの苦労を理解した上で、行政からのお金であっても貰えるものならば、貰っていたほうが良いとはっきり言われました。
しかし、彼らの意思、権力作用を十分理解しながらも、それを逆手にとって、何か思いも掛けないあらぬ方向に投げ返してやること、突拍子もない事件を呼び起こすこと、例えば、親のカネを使って自由に遊ぶ頭のいい不良少年、内から食い破るエイリアンのように振る舞うこと、
これは私の解釈ですが、そんな但書きを小沢さんは付けたかったのではないかと推測しました。
==引用ここまで==
岡田斗司夫の元愛人を名乗る人物がtwitter上で暴露漫画を描いたことでネット上で物議をかもしている。
これが非常に面白いのだ。
そもそも岡田斗司夫は80人近くの女性と彼氏彼女の関係をもっていたと発言したのだが、ふたを開ければというかあけるまでもなくわかっていたことだが、それは愛人契約以外の何ものでもないということがわかった。
もちろんその事実がわかった段階では岡田氏を擁護する者は少なかったし、消極的に岡田氏を擁護する者はいても、全肯定したり、女の自業自得だ自己責任だと切り捨てる者は感覚的に少なかったように思われる。
しかし、この暴露漫画がtwitter上で話題になると岡田氏批判と擁護が拮抗しているように思われるのだ。(勝手に思っている)
何故なのか?
この疑問こそが僕の出発点だった。
僕の立場を言えば岡田氏のやっていることは100%間違っている。全否定派である。
のにだ。何故か批判派の論理はどこか矛盾しているように感じ擁護している側のほうにも正当性があるように感じてしまったのだ。これは考える価値のある疑問のように思われたので拙い知識で少し論じてみようと思う。
何故、岡田氏擁護側のほうにも論理的正しさを感じ、批判している側に矛盾を感じたのか。
これこそフェミニズムとネオリベラリズムのねじれ現象だと思うのだ。
批判派の論理はフェミニズム的思想によって行われ。擁護派の論理はネオリベラリズム的思想によって行われているのだ。
しかしこの二つの思想は僕にとっては共闘関係にあり手と手を繋ぎあっている仲間だと思っていたのだ!(書いてる途中でしったのだが、どうやらフェミニズムとネオリベラリズムはの関係性は大昔から論じられてきたらしい)
もちろんフェミニズムもネオリベラリズムも一枚岩ではないということは重々承知なのだが、もともと自由平等博愛という世界観を生み出した自由主義者たちが資本主義者と手を結びその中でで男女同権男女平等を唄うフェミニズム思想が生まれたのだと思えば、フェミニストは基本的に自由主義者だしネオリベラリスト達が掲げる国際化グローバリズム的思想とも
フェミニスト達は手を組めてしまうのだ。なぜならネオリベラリスト新自由主義者達は歴史、伝統、文化、国家などを解体し国境や国籍をなくし市場を開いて自由に! 平等に! 競争し貿易し取引し資本を儲けるという考え方なのだとしたら、
フェミニズムにとって邪魔な伝統や文化、家や血、身分や階級からの開放と非常に親和性の高いものだということがわかる。
つまりフェミニストの大半はおそらくグローバリストでありネオリベラリストなのだ。
ネオリベラリストたちの多くは自分のことをフェミニストだと思っている事だろう。
岡田氏擁護の論法はこうだ岡田氏はちゃんと見返りを与えている、それに選択肢も与えている、だったら女性の自己責任であろう、と。
これは男女の関係を金や権力または見た目の美しさかっこよさのみで取引できるという考え方が染み付いているのだろう。
さらに付け加えれば金や権力、美貌以外の価値観こそ女性を抑圧し束縛するものだと思っている可能性すらあるのだ。
最近togetterにまとめられていた「フェミニズムを拗らせた結果、レイプものや売春もの等しか受け付けなくなった人達(と、百合しか受け付けなくなった人達)」というのを読んだのだが、彼らは金、権力、美貌以外のもので男女が恋愛できるということを信じられなくなっているのだ! これは歴史でも伝統でも文化でも宗教でも国家でも家でも血でも身分でも階級でもなんでもいいんだけれど、そういったものにまったくリアリティを感じられない人たちに起こる現象ではないか? 彼らが異性と共有できる価値観なんてもはや金しかないと信じているのである。
そんな彼らがフェミニズムを拗らせたと名乗っているのだから面白い。
フェミニストがネオリベラリズムに正当性を与えネオリベラリストがフェミニズムの理論を武装したのである。
ネオリベラリズムの思想のなかには間違いなくフェミニズム的思想を取り込んでいるし。フェミニズムのなかにもネオリベラリズムと共有する価値観はあるということは間違いない。
しかしこの岡田斗司夫問題で、一見、僕からすれば同じグループの人間たちが喧嘩を始めるという奇妙さによって、フェミニズムとネオリベラリズムには価値観の多くを共有しているが、決定的に相容れない全く共有できない価値観があるということが浮き彫りになったのだ。(岡田氏本人がネオリベかどうかはよく知らない)
そんなの当たり前だろとおっしゃる方もいるだろうが、僕にとってこれは発見であり、フェミニズムという思想には大きな矛盾と逆説を抱えているように思ったのだ。
もちろん岡田氏を批判している多くの人は別にフェミニストなどではなくただ直感で不愉快に思ったからだろうが……。そのなかに紛れているフェミニスト達を見ていると(岡田はパワハラで性暴力で女性の敵! といった意見)岡田氏の様な恋愛資本主義的な思想に正当性をもたせたのはフェミニズムなんじゃないのかと思わずにはいられないのだ。
これまでフェミニストはどう考えてもネオリベラリストたちを利用してきたように思われる。
歴史、伝統、文化、国家からの開放という理念、男性社会からの開放という思想は
国家主導の経済政策ニューディーラーやケインズ理論のような社会主義的な政策を嫌うネオリベラリストをフェミニストは利用し、
男女同権をネオリベラリズムによる労働規制の緩和と非正規雇用や外国人労働者などを使った低賃金化といった改革によって達成した。
そして行き着いた先これである。
自由と平等を過激に極端に推し進め規制は悪であるという考え方が導き出した論理こそ弱肉強食なのだ。
クルーグマンもスティグリッツも最近話題のピケティも言っている格差問題はネオリベラリズムによるところが大きいが、
フェミニスト達にも米国におけるトップ1%が金融危機以来95%の富を得ている等の責任があるように思えてならない。
ネオリベラリズム的政策に正当性を与えたことは言うまでもない。
僕は今フェミニストがネオリベラリズムを利用したといったが、もちろんネオリベラリストがフェミニズムを利用したことも疑いようのない事実だとは思う。お互いがお互いをうまく利用してやろうとしたのだろう。
だからこそフェミニスト側が、ネオリベに裏切られた! 私達は被害者だというのはやめてもらいたい。ネオリベラリズムの思想によってフェミニズムの目的の大部分は達成したのだろうから。それが仮に弱肉強食にさらされるという事であっても……。
別に男と女が対立するのも結構だが、格差問題が深刻になりつつある今、フェミニストがやることはネオリベラリズム批判ではないだろうか?
フェミニスト達が今回の暴露漫画における岡田氏擁護派の論理、つまり弱肉強食という考え方を否定し資本による自由平等を批判しても、恐ろしいことにそれを望んでいたのは(少なくともそう見えた)フェミニストなのだから自分で自分を殴っているような滑稽さ、それが僕の違和感であり矛盾であり、擁護派にもそれなりの正当性があるように思えた理由なのだ。
家や見合いを否定し自由恋愛が生まれ、今度は家庭を否定し、恋愛資本主義にまでいきつき男女ともに恋愛による価値観は金と権力と美貌しかなくなるのも頷ける。
金と権力があればモテルやただしイケメンに限るなんてのもネオリベラリズムに毒されれば必然的な帰結だろう。
このような思考回路を持つ、岡田氏を擁護する人間や岡田氏の様な人間を作り上げたてしまった責任の一部にフェミニスト達が関係していることを考えるとなんともいえない気持ちになる。
男女の平等を達成するためにネオリベラリズムを利用したらネオリベラリストによって性的被害を受けた、なんと皮肉なことか。
弱肉強食と男女平等が共存する社会が仮にあるとすればそれは旧石器時代のようなものではないか? それこそがフェミニストとネオリベラリストの理想郷であることは疑いようもない。
いや、全然違うでしょ。
ことばの由来から来たイメージか、あるいは、保守善、リベラル悪で、過激な変化をさせようとするリベラル悪だ。みたいなレッテルにしたいのかもしれんが。
保守→日本の強い人がフルでパワーをつかえるようにする社会が良い社会だ。
というのが、あえて言うならできる定義でしょう。
保守、リベラルの言葉の原義はもう今では全く意味を為さない。日本本来の風土によって、上記2つに吸収されたような状態。
たちが悪いのは、外国との対立において、日本の立場が良いというスタンスを、他のとくに経済論議や憲法論議に演繹すること。
で、保守だから善、リベラルだから悪のようなレッテルにしてしまって、強い人が好き放題するような社会が良い。というたちの悪い誘導にみえる。
なので、これだけ複雑になった社会で、言葉の定義ができなくなった右、左、保守、リベラルなんて言う奴はまともに議論する気無いんだなとレッテル張ってもいいぐらい。
で、経済的観点から言えば保守はネオリベラリズム(新自由主義)。リベラルはニューリベラリズム(社会自由主義)だ。
ネオリベラリズムは、規制、税金をとにかくフラットにして金持ち=日本の強い人がフルで自由に活動できるようにするのが良い状態。
ニューリベラリズムは、適度な規制や、累進課税を設け、再分配をして、弱者も自由にのびのび活動できるようにするのが良い状態。
だから、保守が自由主義=リベラリズムで、その一つのネオリベラリズムなのに、その棍棒でリベラルをぶっ叩いてるという謎な状態だね。
更にいうと、30年以上前、バブル前は日本はケインズ主義で大きな政府だった。国が政策や強い累進課税や借金による景気対策で経済を強くコントロールしていた。
護送船団方式と言われるようなね。
これも、日本の官僚みたいな強い人がフルでパワーを使えるようにするということで保守リベラルの定義になれば保守となる。
その頃がどちらの定義になるかといえば、適度な規制や累進課税を設けて、かつ、わざわざ借金してコントロールするということで、
ネオリベラリズム、ニューリベラリズムの定義によればニューリベラリズムの方になるだろう。
なので、経済議論で保守という事自体がもはや何を指すのかが意味不明瞭となる。
「今の政権がフルでパワーを使えるようにする」であれば今の定義で近いものとすればやっぱりネオリベラリズムなんだろうけどね。
外交においては、日本の強い人の言うことが正しい=保守、外国の弱き人が正しい=リベラル
憲法においては、日本の偉い人が道徳で国民を教化するような憲法が正しい=保守、国民一人一人の弱い権利を保護するような権力者を律する憲法という立ち位置が正しい=リベラル。
論旨によって全く意味合いが違う。とくに外交においては国民の対立感情を煽れるから、その敵味方で保守リベラルの善悪を作りたいというたちの悪い誘導が通る。
そういう意味で、右、左、保守、リベラルなんていう言葉をすててしまって、各問題でどういうスタンスかを個人がそれぞれ持つのが当たり前になるようなのが良い。
日本は議論においても同調圧力が強いから、保守のスタンスだったらこの他の問題でも保守のスタンスだろ?っていう同調圧力で議論が歪められるのだから。
ニューリベラリズムも日本語に訳しちゃったら新自由主義になっちゃうのが混乱の原因だよね。
で、経済論戦で、ネオリベラリズム(右)、ニューリベラリズム(左)であれば議論をし易い。
日本の場合はその右左が、中韓の取扱、道徳思想の取り扱い、少数弱者の取扱に混ざってしまっている。
もうこれでおわり。なおかつ嘘まざってるじゃん?(右)と「これ以上の」謝罪をする(左)
所詮、日本社会をめぐる一つの問題なんだけど、中韓の右左の有利不利を他の問題にまで演繹しちゃってるのが日本の右左の議論がだめな理由だと思う。
ああ、増田での話ではないのか。
お前はリベラル左翼だからと言われたといっていつものここでつぶやいてるやつになんか言われたのかなと。
まず、第一に、いま政治スタンスというのは非常に多様化してます。まあ、昔から複雑だけども、それでも理解するために区分けみたいなのをしています。
ただし、次第にその区分けだから俺の敵だ。味方だ。みたいな使われ方をしています。なので、正直今の時代にリベラル、保守、右翼、左翼なんて区分をするやつは無視していいと思う。
これがネオリベラリズムみたいなのであれば、経済で政府の介入を全く良しとしないスタイル(当然税金や規制を嫌う)とある程度明白になってくるからマシですが。
リベラルというのは自由主義。と言っても、自由と言っても非常に幅が広いですよね?金持ちが税金無しで暮らせるのも自由。女性が差別されずに働けるのも自由。
対義語として保守というのが使われます。これは古き良きものを守るというスタンスです。
といっても、今の自民党政権は新自由主義です。これは、ケインズ主義と対極となる形です。いずれも経済のスタンスです。
30年前の自民党であればケインズ主義だったんですが、いつのまにやら新自由主義=保守であって、その敵がリベラル=自由主義というわけのわからん状態になってます。
右翼左翼というのは、古くはフランス革命後の議席の位置、及びそれに伴う政治スタンスです。
右翼は重商主義、左翼は弱者主義、、、というのがかんたんに言った当初のスタンスですね。
といっても、これは経済スタンスを主にした考えです。当然、先に行ったように差別とか、逆に外国がどうのというのように視点がさんざん広がっています。
で、次第に、俺はこのスタンス、お前のこのスタンスというレッテル貼りの手段に堕していってます。
なので、新自由主義なのに、リベラル=自由主義を否定するとか、この間の選挙で、全部が保守を名乗るとか言う訳のわからん現象になってます。当然です。ただのレッテル貼りの手段に堕してるから。
なので、ただのレッテル貼りだから無視しておけ。あと、今の時代政治団体なんてかかわらんほうがいいよ?ワイの命令に従え!みたいなめんどくさいやついっぱいだから。政治の世界って。
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ソーシャルリベラリズム(社会自由主義)←(影響を与える)←社会主義 →(社会主義は共産主義の第一段階。理想郷を目指すのだ。ガハハ)→ 共産主義
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と呼称することが多い。
どっちも自由主義なので自民党がリベラルを名乗ることも民主党がリベラルを名乗ることも本質的には間違ってはいない。
一部の共産党支持者は
「日本共産党は昔の共産主義とは決別してて、いまは労働党みたいなもんだ」
といってソーシャルリベラリズム寄りだと主張してる(党名を変えて欲しいという意見はそのため)。
対して全共闘とかの過去の経緯から信用出来ない人が日本共産党は共産主義であると言ってる。
ただ、上記を踏まえた上でソーシャルリベラリズムこそが(真の)リベラリズムである。
と自称するひとが多いので左派リベラル=リベラルである、という認識になってる。
それに対抗して左派リベラル側がこっちはリベラルあっちは右派リベラル=(右派だから)保守みたいに結びつけて戦ってた。
2000年代前半から2000年代後半の小泉-安部路線-ネトウヨから民主党政権までの時代ってまじでネオリベラル思想の大流行だったんだなと感じる。
小泉が色々破壊するとか言って郵政民営化はもろにネオリベラルな考え方だ。
そしてその勢いのまま公務員の給料削減など緊縮を目指した民主党が政権を奪取したわけだ。
でも、最近になってリベラル関係の基本を勉強しなおしてると、このあたりのやり方が完全にネオリベラリズム、つまり右翼の好む経済政策であることがわかる。
左派を名乗っていたはずの民主党が経済政策で右派的行動をとり、見事に失敗して結果として右派的経済政策は駄目だということが知れ渡るようになって安部が左派的な経済政策をとることになった。
そしてその民主党はいまだ自分達が右翼であることに気づかずに(左派)リベラルを名乗り続けてる。
ネオリベラルの潮流が民主党によって破壊されたことに左派リベラルの俺は喜ぶべきなんだろうか。
それとも悲しむべきなんだろうか。
まるで喜劇だ。