はてなキーワード: アウトプットとは
いや、大抵のゲームは普通に生きてる時以上に脳味噌を使ってるからアウトプットがねえとかありえないんすわ
無駄な作業=アウトプットや自分の品質確保につながらない作業とすると、ゲームを遊ぶ時間を無駄な時間にしてしまっている人が多いっていうのが正しいと思う
ゲームで学んだことを何かしらのアウトプットにつなげたり(ゲーム好きな人との人脈広げるだけでもアウトプットだと思う)、メンタルヘルスを整えることはできると思う
ただ、実際はただゲームをするだけでアウトプットにつなげられなかったりゲームをする時間でアウトプットする時間が減ってしまう人や、ゲームのせいで夜更かししたり、最近は競争性の高いゲームが多いからむしろストレスになってる人も多いと思う
そうなるとゲームをする時間は無駄だし、無駄どころかマイナスになるとは思う
俺は学生の頃はゲームをやることで友達を増やしたり、純粋に楽しんでストレス発散になったけど、大人になってからはゲームを通じて人脈を広げる時間がなかったり、ゲームの競争性が上がって辛くなることの方が多くなったので無駄だなと思うことが増えほぼ辞めてる
そんなラーメン二郎を模したいわゆる「インスパイア系」なる店もたくさん存在する。
私が一部のインスパイア系に対して思うことがありまして。。。
それがカウンターに「食べ終わったら丼上げて台を拭いてくださいね」という注意書き。
いや、やるけど。
あれって
これらを実現するためのジロリアンの協力だと思っているんですよね。
でも混んでもないし安くもないインスパイア系で「食べ終わったら丼上げて台を拭いてくださいね」という
形だけ真似してそれを客に強いる店が所々存在する。
令和の時代に5、 600円で腹いっぱいラーメンが食べれるのは
ジロリアンの丼上げと大拭きが無かったら無理だと思う。
先述した条件の両方と言わずせめてどちらかを満たしているならわかる。
ただ、そのどちらも満たさないならまず飲食店としてのサービスは保ってくれよと。
まぁ、体が癖づいてるからやるんだけどさ。
"THE WORLD IS MINE." 誇張なしにそう思っている。
高校、大学、会社 どこにいっても自分より優れた人間には常に触れてきた。
能力の優劣だけではない、共感性、倫理観、義務を全うする精神など社会的に求められる要素が一部自分に欠けているということも理解している。
しかし能力が劣っていようとも、社会的に必要な要素が欠けていても、それらは何ら問題ではない。自分の認識する世界を最終的に律するのは自分の認識だ。
自分の認識する世界において自分が特別となるのはなんの能力的裏付けも必要でない、と少しひねくれたデカルトのように考えていたわけだ。
社会人になり金銭的・社会的にも余裕が出来た状態でふと思索をめぐらす機会に恵まれ、一般的な人間より思考する際に自分の認識に重い比重をかける傾向に気づいた。
しかしこれは "ルールがあるから守る" と考えているわけではなく "俺様がルールを守ると決めたから守る" と心の中では思っているわけだ。
そのルールの成り立ちや必要性を理解・共感しているわけではなく、"自分が守ろうと思ったからルールを守る" と考えているわけだ。
価値判断が極めて自己中心的なのである。しかし結論として下される判断が標準的な判断と大きく外れていなければ端から見たらわからないだろう。
そしてこのような傾向は大なり小なり人間にはあるものなので程度の問題だとこれまでは流してきたわけだ。
さてここで終わればいつも通りの年がまた始まったのだが、年も開けたことだしと "2021年 匿名ダイアリーTOP200" を読んでいた所 "自己愛性パーソナリティ障害" という言葉を目にした。
端的に言えば自己を極端に賛美、特別視するような人格を指す言葉のようだ。
これはまさしく自分の症状そのものであると思う。大なり小なり人間に備わった傾向だと思っていたが、それも極まると病気と判定されるようだ。
最初に "自分が何か優れた人物ではないということは自覚している。" と表現した。
これは一見自己愛性パーソナリティ障害とは矛盾するようであるがそうではない。
自分が何か優れた人間でないというのは、蓄積された経験から導きだされた経験的推論だ。(そして残念なことに事実でもある。)
この事実を理解は出来ている。しかし共感あるいは自分で受け入れることは出来ていないのだ。
論理的にはその事実を導き出したものの、その事実を認めることは出来ていないのだ。
だからこうしている間にも心の奥底では "自分には何かとてつもない才能が眠っているはずだ。" と思い込んでいる。
これが回り巡って、何を考える際にも "自分はどう認識しているか?" というステップを挟み込むことになり、自己愛性パーソナリティ障害となるわけだ。
病気であることはわかった。病気であること自体は別によいのだが(← ここでも既に自己中心的な価値判断が発動している)、この性格により自分が損害を被ることはないかと改めて考えてみた。
ひとつに、自己中心的な価値判断が標準を大きく外れた際に、標準的な判断へ修正する速度が極めて遅くなるというのが考えられる。
・ 病気を治す
気取った言い方だろうか?端的に言えばこうだ。
・ 腐った性根を治す
・ 間違えない
整理したうえで思い返してみれば、これに該当するような指摘・注意は人生で 2 度受けたことがある。大学生、社会人でそれぞれ 1 度だ。
指摘をまとめると、 "最初に自分で出した結論に固執する傾向があり、アウトプットの質に問題がでていることがあるのではないか" ということだった。
その時は確かこう答えた "自分の最初の出した結論に固執するのは性格なので治りません。なので最初に出る結論が間違えないようにします。" と。
結局時間を惜しまずひたすら知識と経験を詰め込むことで当時の問題は解消して、指摘を賜った人にも "大きく成長した" という風な言葉を頂いた。
しかし腐った性根はそのままだ。
圧倒的なインプットと経験により、標準的な(適切な)価値判断が自分でエミュレートし続けられれば理論上は問題は発生しない。
しかしそれが死ぬまで続けられるほど才には恵まれていないこともわかっている。
そろそろ腐った性根を治す時期が来たのかもしれない。
クリエイティブな仕事をする人はアウトプットを大量に出すことが大事だけれど
優れたUIを作る人は普段からいろんなUIに触れて使い倒している
創作の基本は模倣から、というのと同じでとにかくインプットを増やさないとアウトプットは出ない
インプットの無いアウトプットは駄作か同じものばかりになるか、途中で飽きて何も出てこなくなる
逆にインプットばかりが多くてアウトプットしないとどんどん肥えていく
評論家という形のアウトプットに落ち着いてクリエイティブなことはできなくなるか
模倣やくだらないもののアウトプットをたまに出すだけになってしまう
便秘気味でたまに固いのを出すか水洗では処理しきれない量を出して困らせる状態と同じだ
このあたりはクリエイティブな業界では概ねコモンセンスとして受け入れられてきていたが
最近思うのはこれは人生においてもあてはまるのではないか、ということだ
学生時代にインプットとアウトプットを繰り返してとにかく社会に早く出ようとするような人達がいる
いわゆる意識高い系と呼ばれている彼らだが
彼らは学生時代や社会人になって数年ほどはそれなりに活躍するものの
その後に伸び悩むことが非常に多い
少量のインプットに対して少量のアウトプットを繰り返し、細々と先端領域に住み着いているように見受けられる
先端領域だから食べられるご飯も少なく、少し食べたらすぐにウンコしてるような胃が小さい人種に育ちがちだ
一方で30台後半ぐらいからメキメキと活躍をするような中年層のクリエイターは
学生時代や社会人の初期に多くの経験という名のインプットを行い
アウトプットはそこそこで腹にため込みながら
この頃になると逆にインプットを減らし、アウトプットを増やすことでモリモリとアウトプットをし続ける
アウトプットされたものはすぐには流されないのでしばらく滞留することになるが
器用貧乏で、何やっても大成功はしないが、少成功ならするタイプ。
せどりによる副業もやっぱり半年で本業の半分くらいの収益に達した。
合わせて月15万くらいか。
1000万プレイヤーがごろごろいる増田では鼻で笑われるだろうが、
底辺が仕事の合間にやる副業としては失敗まではしてないと思う。
その他、ネットで調べれば出てくることなら、それを真似してそれなりにこなせる。
そりゃソースは見るに堪えないスパゲッティだがバグなく動くものは作れた。
何のエキスパートにもなれないが、最低限、あくまで最低限は取り繕える程度にはそれなりにこなせる。
ただ、絵だけは、絵を描くことだけは本当に全く、何の芽もない程に駄目だった。
絵は昔から好きだ。妄想体質であり、自分の妄想を形にするのが好きだ。
しかし私が描くりんごはナスになり、動物を描けばSAN値を削るクリーチャーになる。
デッサン教室、各種オンライン講座、対人・無人問わず。本も大量に買った。
社会人になって使える金が増えて、トータルで5年200万は自己投資しただろう。
そこに存在しているものを写し取ると言う基本的な作業ができない。
同じサイズ、同じ形で隣に描くことすらままならなかった。
本人は完璧に写し取っているつもりなのだが、できあがってから重ねると、
重なるところがないくらいにまったく別の形になる。
ある意味で才能がマイナスに振り切った結果、新たな価値を生み出しているが、
なんで真円を写し取ってるのに、できあがったものは角張った楕円なのか。
本当にどうしようもない苦笑いしながら言った、その講師の言葉は心をえぐった。
これからも、私は大成はせず、細かな少成功の積み重ねで生きていくのだろう。
別にうまくなくてもいい。人なら人、犬なら犬と認識できるレベルの絵で良かったのだ。
しかし私にはその才能がなかった。
英語に兄や弟の差別用語はないから、普通「Big Brother」をキーワードにしない。
『1984年』を持ってる人は巻末のニュースピークを確認するといい。
「資本」「社会」「会社」「社長」「経済」「経営」「広告」「契約」
「主語」「主観」「客観」「概念」「抽象」「具体」「経験/体験」
「義務」「教育」「教科書」「教師」「教皇」「宗教」「教会」「司教」
【努力】「問題」「存在」「選挙」「表現/表情」「交換」「説明」
「会話」「感情」「感性」「情緒」「理性」「思考」「論理」「議論」
ほぼすべて造語。現代日本語なんて妄想。非現代非日本語。やったぜ!
間違ったロボットは正しいオピニオンを言われても
そういうとこだぞ (´・∀・`)
増田さん、問題提起ありがとうございます。
交通の生産性とは時間あたりに通行する移動単位の数量で測定されるべきだと思う。
しかしながら、通常生産性を語るときにインプットの話をせず、アウトプットの定義だけを行うのは片手落ちです。
増田さんの文章を拝見すると、おそらくインプットについて、移動という行為に投入する時間のみを捉えていると考えられますが、実際には交通手段によって投入するエネルギーコストがおおきく異なります。
そのほかにも、交通利用者の便益として、事故減少にともなう渋滞緩和→結果的に期待する移動時間の正確性向上、運転者の疲労、貨物の痛み軽減など考慮すべき要素としてあげられますが、エネルギーコストに比べると軽微な影響だと考えられます。(走行経費原単位でググると、これらをまとめた資料を見ることができます)
体重70kgの男性が時速4kmで歩いた場合、時間当たりのカロリー消費は220kcal程です。直接比べるのも微妙ですが、ガソリンは8,266kcal/Lの熱量を持つため、リッター150km以上走る移動手段の場合のみ、エネルギーコストにおいて歩行者の生産性を上回るといえるでしょう。車両の乗員が増えれば可能性はありますが、まさか生産性を語る増田さんは自家用車などには乗らないですよね。
ここに速度も加味して生産性を考えると、最も効率が良い乗り物は自転車であり、車よりも歩行者、さらに言うなら自転車がより優先されるべき、と言う話を付け加えておきます。