はてなキーワード: 階級闘争とは
オタクカルチャーは、はじめから商業的な素人の勘違いカルチャーとして生まれたものですからね。
もともと文化人というのはそれなりの教養を身につける必要があったけど、それが80年代あたりから「誰でも文化の発信者になれますよ〜」という新たな(そして巨大な)市場の開拓が始りました。それで、それまで文化の受け手だった人たちも即席の担い手になることができるようになりました…糸井重里の新人類文化なんかがまさにそのハシリ。素人モデルなんてのもこのころ生まれましたね。でも、そこにアダプトできなかった(今で言うところのオタクくさい)若者はどうしたかというと、DAICONやコミケやワンフェスに、あるいは深夜ラジオの投稿なんかに向かったわけです。
この「プロと素人の差を意図的に喪失させる」システムが完全に固定化したのはここ20年の出来事。インターネット登場以後、ホームページ、ブログ、SNSとメディアの進化を通して段階的に成長してきました。本来は階級差の「消滅」を企図したはずのこのシステムですが、一旦階級差が無くなったと勘違いするや否や、今度は新たな階級を作るゲームがあちこちで行われました。その一つがオタクの中での階級闘争で、この新たなヒエラルキーの中で彼らは上位階級に食い込もうと常に戦い続けることになりました。でもそのためには、オタクを一つの生態系としてセグメンテーションし、ゲーティングし、ブロック化する必要がある。つまり、オタク以外は「一般人」と言わなければ、そのゲームはそもそも成立しない、ということです。
「早いうちから留学やインターン等で特別な経験を積んでおきましょう」「既卒は圧倒的に不利なので就留を勧めます」
わおすごい、留学とか就留とかそっちの世界では簡単にできるのね
いや別にしなきゃいけないわけじゃないけどさ、その選択肢が当たり前のように提示できることそのものが、ああもう生きてる世界が全く違うんだなって感じ。すごい。分断社会ってこういうことなのね。大学通うためにはバイトで稼がなきゃいけない私どもとはベースが違うのよ。あなたたち「自己破産した。本当にごめんなさい」って50歳近くの親が泣きながら子どもに謝罪してくる光景見たことないでしょ。それはもうすごい見ものよ。一生忘れられないわ
てか「ガクチカ」ってなによ。こっちが強いられてバイトしてる間に、実家の経済状況気にすることなくインターンとか起業とかボランティアとか留学とかやってる奴らにどうやって差をつけろって言うのよ。無理よ無理。そもそもの自由に使えるリソースが違いすぎるもの。私は勉強するために大学に行って、そのためにお金を稼ぐだけで精一杯
まあ大学行けてるだけ私も幸せ者だけどね。行きたくても行けない人はたくさんいるし。私はこうやってここで喚き散らせるけど、声にならない苦しみがたくさん溢れているし。それを考えると「自分はこんなに幸せなのにこんなこと考えていいのかな?」って思っちゃう。彼らの陰が私の幸せに、背中に、いつものしかかる。でも私は進まなきゃいけない。まずは自分がちゃんとしなきゃ他人だって助けられないしね
まあ私は低所得者層なりに頑張る。絶対誰よりも幸せになって、「やっぱ生きてて良かったわ~」って言いながら死んでやるからな
意外に反応多くてビックリした。やっぱ盛り上がりやすいんだねこういう話。まあ今更追記しても誰も読まないだろうけど、私の思考のログとして残しておきたいので書いておきます
「他人と幸せを比較するな」って色んな人が言ってますけど、知ってます。幸せを相対的なものとしか見れない、「勝ち組」とか「負け組」とか言ってる世の中に合わせてあえて言ってるんですよ。「クソくらえ,ブルジョワジー」なんて本当は思ってません。階級闘争ごっこです。だって怒ったってしかたないじゃん。「社会分断って本当にあるんだね〜」ってノリで書きました
別に終わりにしていいんですよ、この人生。今この瞬間死んでも「生きてて良かったな」って言える自信がありますよ、私には。人気最高潮の真っ只中で引退して伝説にしてもいいんです。でも、”あえて”生きてみたい
私が今回目の当たりにした社会分断なんて、そこら中にあります。それこそ私より貧しくて、私を「ブルジョワジー」だと思っている人もいる。多くの苦しみと屍の上に自分が立っていることを、私は知っている
そして普通は分断されたそれぞれ壁の中で生きて、終わりのない「幸福を追い求める闘争」を続けて、死んでいくんですよ。互いのことを知らぬまま
私は運良くそのゲームから脱した。だからこそ”あえて”生きて、やってみたいんです。低所得層の私が「ブルジョワジー」の中に入って、何が起きるか、どんな化学反応が起きるか、見てみたいんです。まあ何も起きなくてもそれはそれでいい。そういうものだったと諦めて他にやることを探せばいい。後悔する必要はない
「その先」を見てみたくないですか?私は見に行きますよ
弱者がガン細胞となるなら取り除かねばならないし、かといってなりえるからといって弱者を排除するわけではない。
積極的に弱者の一部を強者として格上げすることもない、弱者を最低限は必要としているからだ。
しかし、右翼が弱者の味方であるように振舞う、また助ける存在として現れることがあるのはなぜだろうか。
以下に引用する。
左翼系の団体や文化人は一貫して「貧困者を社会の敵にしている」と主張し、同番組の放送中止を求めたが 変容してきたのは右翼・保守系の論調である。 ふだんは、豪邸をあてがわれた生活保護需給家庭がいかに地域住民に迷惑をかけているだの 子供ばかり産む下層女はけしからんだの書いているウヨク新聞『デイリーメイル』紙でさえ 「『Benefits Street』は貧困者のモラルのなさを描いているのではない。彼らを作り出した社会制度がモラルに欠けていたということを示している。」と書いた。
一見して、Benefits Streetという番組を介して、
左翼は事実を隠蔽する弱者の敵として、右翼は真実を明るみにし、弱者を擁護する味方として出てくる。
私は右翼は国家有機体説をとっており、左翼は構造主義をとっていると考えている。
左翼からみても構造を維持するために奔走しているので弱者のためではないのではあるが、右翼から見てもそうなのである。
弱者から見れば右翼による構造主義の批判は、現実問題として弱者すなわち私を生み出している構造である。
そうであるならばその否定は歓迎されるものであり、味方のように見えるだろう。
問題は右翼により新しい構造に作りかえられたとして、弱者にとって改善は見込めないだろうということ。
今回はなぜ味方のようにみえるのかということで、正解とは何か思いつかないが。
未だに人様の目前で未熟に性的欲求を満たしている彼らの目の前で,使いまわされたコピペの文章読んでニヤついたんだよ.
デュフwみたいな気持ち悪い声でさ,ニチャァって.彼らに聞こえるように.
そしたらさ,今までイチャコラに夢中でこっちを見向きもしなかったのに,彼らは同時に俺の方をチラ,と見て,それから今度こそ見間違いではなくコソコソ耳元で囁きあうわけだ.
彼らは笑っていたよ.嘲笑に近い.馬鹿にしたような笑いだった.
ひとしきり俺を視線で侮蔑した後,彼らはパソコンを仕舞い,上着を羽織り,椅子から立ち上がり,さっきの調子を取り戻してイチャコラ腕を組みながら店を出ていった.
俺はさ,独身中年じゃなく,大学生なわけ.コピペで登場するのと同じ男子大学生.
本来ならイチャコラするあちら側にいるべきはずなのに,俺はコピペの中の独身中年を演じてしまったんだ.
次の瞬間,俺は年齢=彼女いない歴,年齢さえ考えなければ独身中年のそれなんだと気付いた.
日陰者の定義とはなんだ?
教えてくれ.
[1] この文書はもっぱらグーグルのマウンテンビューキャンパスでの視点から書かれている。私は他のオフィスや国について語ることはできない。
[2] もちろん、私にもバイアスがあるかもしれないし、自分の視点を支持する証拠だけを見ているのかもしれない。政治的バイアスの観点からは、私は古典的自由主義者であり、個人主義と理性に強く価値を置いていると思う。私はこの文書について喜んでさらなる議論を行いたいし、例証を挙げたい。
[3] 私は、この文書を通じて”技術職”を、ほぼソフトウェアエンジニアリングという意味で使っている。
[4] ロマンチックな男女関係において、男性はより強く地位によって値踏みされ、女性は美貌によって値踏みされる。さらにこれには生物学的な起源があり、文化的に普遍性がある。
[5] Stretch、BOLD、CSSI、Engineering Practicum(ある程度は)、それと特定ジェンダー及び人種のためのいくつかの他のグーグル提供の内部、外部プログラム。
[6] 代わりにある特定層のための潜在的なGooglegeistのOKR設定。私たちは、特定のグループにとっての環境を良くすること(それはサーベイスコアによって確認できる。)によっても、保護された地位に基づく差別化(それは違法であり、すでになされていると私は見ている。)によっても、組織レベルでの登用を増進させられる。登用増進OKRは後者のインセンティブとなりうるし、組織間でのゼロサム闘争を作り出しかねない。
[7] 共産主義は資本主義より道徳的にも経済的にも優れていることを約束する。しかし、その試みは全て道徳的には堕落し経済的には失敗している。自由民主主義社会の労働者階級が”資本主義の抑圧者”を倒そうとしていないことが明らかになったとき、マルクス主義知識人は階級闘争からジェンダーと人種の政治へと移行した。抑圧者-被抑圧者の中核的な力学は残り、今や抑圧者は”白人で、ストレートで、シスジェンダーの家父長制”である。
[8] 皮肉にも、IQテストは当初能力主義が貴族政治の犠牲者を助けとなることを意味していた時代に左派によって擁護された。
[9] もちろん、全国的な総計において、女性はさまざな理由で男性より賃金が低い。ただ同じ職業につく限り、女性は男性と同じだけの賃金を得ている。女性が男性よりお金を使い、給与というものが従業員がどれだけのものを犠牲にしたか(例えば、より多くの時間とストレスと危険)の指標であることを思えば、権力に関わるステレオタイプを考え直す必要がある。
[10] 伝統的なジェンダーのシステムは支援が必要な男性というアイデアをうまく扱えない。男性は強く、不平を言わず、自ら問題に対処することを期待される。男性の問題は、ジェンダーによる行為主体性の考え方によって、しばしば犠牲者というよりは個人的な失敗とみなされる。これは泣き言、不平、弱さの現れとみなされることを恐れて、男性が男性の問題(それが個人的なものにせよ集団的なものにせよ)に注意を払うことを妨げている。
[11] 政治的正しさは、”社会的に恵まれない人たちや差別されている人たちの集団を排除し、軽んじ、侮辱すると受け取られるような表現と行動を避けること”と定義される。それでなぜそれが左派の現象であり、権威主義者の道具であるのか明らかだろう。
面白い話を一つ紹介しよう。
かつて国際連盟の労働部長であったユダヤ人、アルベール・トーマが日本の労働事情調査のため来日した。
国際連盟といっても、教科書的歴史観しか教えられていない日本人にはその本質を知る人は少ないようだが、これはユダヤの世界政府ともいうべきものである。
第一次大戦の結果、金融支配力に自信をつけたユダヤ人は政治面へも進出をはかり、その結果作られたものが国際連盟なのである。
この連盟の指導者は、日本人の杉村陽太郎氏を除いて外は皆ユダヤ人だったのである。
なぜユダヤ人が労働問題にかくも力を入れるのかということは、マルクス主義の階級闘争史観をご存知の方はお分かりいただけると思うが、かつてユダヤ人は非ユダヤ人の協力者を集めるためマルクス主義の階級闘争史観を宣伝したのであり、その結果エピゴーネンとしての各国共産党を生んだのである。
話がちょっととんだが、面白い話というのは、アルベール・トーマが来日し、日本へ階級闘争の激化工作をしようとした時、その前に立ちはだかったのが、日本の強固な家族制度だったのだ。
「日本では家族制度が強固なため階級闘争、つまり労働運動の激化を仕掛けることは非常に困難である。
この家族制度を何とかしない限り、日本へ階級闘争を持ち込むことは難しい」
といっているのである。
アインシュタインもまた来日した時、日光の金谷ホテルからドイツのユダヤ機関へ手紙を書いているが、その中に日本の家族制度の立派さを書いているのである。
ここでまた日本人にお詫びをしなければならないのであるが、この日本のすばらしい家族制度を破壊したのは我々ユダヤ人なのである。
具体的には、占領改革の時ニューディール派が行ったものである。
前述のアルベール・トーマの件でもお分かりと思うが、ユダヤ人がマルクス主義的変革を実行するためには、家族制度は国内の君主制といわれる如く邪魔な存在だったのだ。
家族制度が「小さな君主制」としてユダヤ民族のマルクス主義的変革事業の邪魔になるということは、なにも今日昨日の問題ではなかったのである。
『あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい』(モルデカ・モーゼ)より
----------------------------------------
このことから判ることは、核家族化や女性の社会進出は人類社会の進歩と共に自然に生まれてきたものではなく、国家を内側から破壊するために輸入されたものであるということです。
もともと日本の国体は、天皇家が本家で国民はその分家という家族国家として成り立っており、家族制度はその縮小版の「小さな君主制」で、国民はすべて「絆(きずな)」で結ばれていました。
家族制度の破壊は、その「絆」を分断して国家を解体するという作戦だったようですね。
近隣諸国同士を争わせること(つまり絆を破壊して信頼関係を失わせ、本当の敵を見えなくすること)によって他国を支配することを分断政策といいますが、その国内版が家族制度の解体だったようです。
戦前は日本の家族も、最小の本源集団として共同体性を色濃く残していたのでしょう。
分断統治を得意とするユダヤ人もこれには手を焼いたということ。
そして、大家族で行ってきた子育てを核家族で行うのが困難になり
へと続く・・・
相も変わらず、プロブロガーたちの無駄な煽りがインターネッツに溢れている。
プロブロガーたちの主張は「自由気ままに暮らせるブロガー・フリーランスという生き方がある。何故みな、それをやらないのか」に尽きる。
彼らの主張はもう散々聞き飽きた。もう十分だし、その考えとは相容れないから、さっさと視界から消えて欲しい。
こっちに影響を及ぼさない程度に、好きにやっててくれ。
と、思ったところで、ふととある考えが頭を過ぎった。それが表題だ。
全共闘からの左翼の連中は「共産主義だ、階級闘争だ」を掲げて、デモを繰り広げ、ときには暴れていた。
どんどん先鋭化して極左になり、彼らは「労働者が運動に加わらなければ革命は起こせない」と悩みつつ、「革命のためには暴力も辞さない」と過激化していった。
その結果が山岳ベース事件とあさま山荘事件。そして、その後の顛末はご存じの通りだ。
元赤軍派の議長、塩見孝也氏(75歳)という当時は雲の上と思われていたオジサンがいる。
これまでの生活費は援助やカンパで革命運動をやってきたそうだ。が、子育ても何もあったもんじゃない。
~息子との関係性について問われたことに対し
「親に対して幻想は多少あったでしょうね。だけど、実際出所した俺は経済能力も世間の常識もない無能力者なわけで、すぐに幻滅されちゃったわけ。」
「結局は理屈じゃないんだよな、親は。金とか実質で役にたたんと。『マルクス、レーニンだ。階級闘争だ』言っててもしょうがないって話ですよ。
その点、女房はずっと飯食わせて育てて、理屈じゃない訳だから絶対的な権威がある。
俺はそういうこと一切やってない。多分、全共闘時代の左翼の親父どもはみんなそうだよ」
https://twitter.com/rsr80930/status/590587310367969281
左翼のシンパのような方で年齢は察するに50代~60代前後。郵便局で勤めており、集会やデモにもよく参加している。そんな彼はこう綴っている。
「何もないのだ。その人が生きていて死ぬ。周りの人は「そんな人いたな」と思い出すこともある。。そして忘れる。また思い出すこともあるかもしれない。周りの人もそれぞれ生きて、死んでゆく。その繰り返し。何もない。ただその繰り返し。
私もいつ消えるかわからない。熱中症でひっくり返りトンデモ病院に投げ込まれたときは「もうダメか」と思った。それはちょうど二年前の6月だ。それで退職を決断とはならず、引っ越すのがめんどくさい、東京を離れたくないなど諸理由によりずるずると生きている。とにかく死なないように適当に生きる。ホントに働いたら負け。
できれば消えてなくなりたいが、いずれ孤独に無様な姿でクソまみれで死んでいくのだろう。たぶん極貧と他者からの軽蔑のなか、のたうち回りながら「俺は死にたくねぇ」とか泣き叫びながら、それで"game end"。美しい思い出、来世への期待など何もない。そう何もないのだ。」
http://open.mixi.jp/user/7349954/diary/1953348530
左翼として活動していても、いなくても、世の中は無常で儚いものであると思うかもしれない。
「取り上げたサンプル2つで何を言う」という反論もあるだろう。
それにしたってにじみ出てくるものがある。極左たちの老後は惨めすぎやしないか……と思うのだ。
プロブロガーの老後だったりも、正直どっちに転ぼうが、知ったこっちゃないんだけどさ。
面白い話を一つ紹介しよう。
かつて国際連盟の労働部長であったユダヤ人、アルベール・トーマが日本の労働事情調査のため来日した。
国際連盟といっても、教科書的歴史観しか教えられていない日本人にはその本質を知る人は少ないようだが、これはユダヤの世界政府ともいうべきものである。
第一次大戦の結果、金融支配力に自信をつけたユダヤ人は政治面へも進出をはかり、その結果作られたものが国際連盟なのである。
この連盟の指導者は、日本人の杉村陽太郎氏を除いて外は皆ユダヤ人だったのである。
なぜユダヤ人が労働問題にかくも力を入れるのかということは、マルクス主義の階級闘争史観をご存知の方はお分かりいただけると思うが、かつてユダヤ人は非ユダヤ人の協力者を集めるためマルクス主義の階級闘争史観を宣伝したのであり、その結果エピゴーネンとしての各国共産党を生んだのである。
話がちょっととんだが、面白い話というのは、アルベール・トーマが来日し、日本へ階級闘争の激化工作をしようとした時、その前に立ちはだかったのが、日本の強固な家族制度だったのだ。
アルベール・トーマは、
「日本では家族制度が強固なため階級闘争、つまり労働運動の激化を仕掛けることは非常に困難である。
この家族制度を何とかしない限り、日本へ階級闘争を持ち込むことは難しい」
といっているのである。
アインシュタインもまた来日した時、日光の金谷ホテルからドイツのユダヤ機関へ手紙を書いているが、その中に日本の家族制度の立派さを書いているのである。
ここでまた日本人にお詫びをしなければならないのであるが、この日本のすばらしい家族制度を破壊したのは我々ユダヤ人なのである。
具体的には、占領改革の時ニューディール派が行ったものである。
前述のアルベール・トーマの件でもお分かりと思うが、ユダヤ人がマルクス主義的変革を実行するためには、家族制度は国内の君主制といわれる如く邪魔な存在だったのだ。
家族制度が「小さな君主制」としてユダヤ民族のマルクス主義的変革事業の邪魔になるということは、なにも今日昨日の問題ではなかったのである。
『あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい』(モルデカ・モーゼ)より
----------------------------------------
このことから判ることは、核家族化や女性の社会進出は人類社会の進歩と共に自然に生まれてきたものではなく、国家を内側から破壊するために輸入されたものであるということです。
もともと日本の国体は、天皇家が本家で国民はその分家という家族国家として成り立っており、家族制度はその縮小版の「小さな君主制」で、国民はすべて「絆(きずな)」で結ばれていました。
家族制度の破壊は、その「絆」を分断して国家を解体するという作戦だったようですね。
近隣諸国同士を争わせること(つまり絆を破壊して信頼関係を失わせ、本当の敵を見えなくすること)によって他国を支配することを分断政策といいますが、その国内版が家族制度の解体だったようです。
戦前は日本の家族も、最小の本源集団として共同体性を色濃く残していたのでしょう。
分断統治を得意とするユダヤ人もこれには手を焼いたということ。
しかし戦後は彼らの思惑通り、核家族化が進み、労働運動も盛んになります。
しかし一方で、たとえば実業の世界で従業員数百人規模の新興企業を立ち上げつつ村ブロガーやってたら、嫉妬ややっかみや誹謗中傷で叩くのが、この場所なのだった。
功なり名なりを遂げたら匿名で活動したほうがマシな(というかそうでないと囲んで出る杭を叩く)文化をもつこの国において、ブロガーなどというのは、実際もっているかどうかを棚上げしつつ「持たないこと」を売りにヘンテコテキストバトルを繰り広げるのが最適戦略なのではないか?
病人、ネグレクト被害者、鬱、無職、なんでもこい。むしろ、世間ではネガティブだと思われている弱点属性が武器になる!
「俺のような弱者でも必死に生きている」というアピールをしつつ、健常者や一般的生活者に対して「傷つけられた! 君たちの放つ充実した幸福の波動に、ボク傷つけられた! 弱者の気持ちを想像できない強者の傲慢! 自己責任社会の被害者を救え。謝罪を要求する!!」とわめくのが、この村における階級闘争の実態なのだ。
強肉弱食の逆ピラミッドが今日もうなりを上げているぞ。がおーんがおーん(ぱおーん)。象さんはちょっと顔を隠しておこうね。オフ会で出会っちゃう人たちの話題は、周囲を無差別に傷つけてしまうんだぜ。たとえここが村であってもだ。