はてなキーワード: 理解力とは
マジで怖い。
理解力のある車のドライバーは、車のドアを開ける時、最初に数センチだけ開けて、一瞬止めてから大きく開けてくれるので、
自転車側からみると、ドアが開く予兆を察知できるので、事故にならなくて済む。
一方、キチガイドライバーは、横を通過する自転車を事故らせようと、自転車が接近してきたところに、わざと急に大きく開く。
事故らせてm9(^Д^)プギャーしたいのか、あるいは、保険金・賠償金目当てなのか分からないけど、
ぶつかる前に停止したり、横に神回避すると、チッって舌打ちされることがよくある。
ファミリーカーは、後部座席のドアを子供が勢いよく開けてくることが多い。
危うくぶつかりかけると、父親らしきドライバーに平身低頭で謝られることが多い。
ワイが怖そうな顔してるせいなのか分からないが、内心、「いやぁ、子供のやることですから、しゃーないですわな」と思いつつ
満面の笑みを浮かべて通過してる。
そういう人で数学の成績がそれほどでなかったり大学で数学を専攻している人というのが少ないのは、根本的に数学に対して能力がないのではなく、数式には文章と違って情感みたいなものがないとかいった理由で愛着を持てないからだと思います。
それで熱心に学ばないからそうなってるだけで、彼らのような類に数学の勉強を強制させたらそれこそ大化けして並みの数学者を凌駕する理解力を発揮するのではないでしょうか?
確かに高校時代まで重視される計算力(速さ)という意味の数学力は読解力とかすりもしない概念でしょう。
しかし大学に入ってまず習う位相や集合の理解にしてもあのページが進むごとに論理的に入り組んでいく解説についていくということについてはまさしく国語で成績を取ってきたのと共通する読解力がものを言うように思えてなりません。逆にあれを理解するのに要する読解力と小説なり評論なりの問題を解くのに要する読解力とでどこに違いがあるのか探す方が難しいでしょう。
双対の原理の事典での説明を私が見ても、パスカルの定理とブリアンションの定理の双対性が、束の外延と内包の双対性が成り立つからその特殊な場合として明らかに成り立つものなんだと言えるという趣旨に対して、束という遥かに抽象的な形式論理のなかで成り立ってることがあの目で見える形で定理の妥当性が明らかな射影幾何の双対性に一般と特殊の関係のなかでどうつながってくるというんだとさっぱり納得感がないわけです。
(というか双対の「原理」とかいっちゃってるけど、それはパスカルの定理とブリアンションの定理が同時に真であるということ公理として幾何学が構成されてるってこと?この場合まだ2定理が真なことは図示したとき直観的に明らかだからまだいいけど双対の原理に沿うように言葉を入れ替えた命題が全て視覚的にも正しいと判断できるような状況になってる保証はどこにもないよね?それをもそれを「真」と認めるものとして幾何学を構成しちゃってるってこと??)
国語において読解力があると知られている人は、そういう言わずもがなの部分も何が省略されているか察知する力に長けているはずというか、往々にしてその力の結果が間接的にも直接的にも「読解力が高い」と人に言わしめるときの「読解力」の構成要素になっているはずなのです。
だから、事典の記述についても私が納得できないのはその記述における「言わずもがな」の部分に想像力が及ばないからだとするなら、読解力の高い人ならこういう数学の高度な概念の解説も読みこなせるのではないかと思うわけです。
そういうわけで少なくとも数学の理論を学ぶという段階だけで見るならむしろ理系ぶってる人間よりも読解力が高い人のほうが驚異的な力を発揮するように思えます。研究の段階になるとそれがそうじゃなくなるんでしょうかね。
第一線の数学者は他のどの科学者よりも難しい問題を達成していると思うのだが、特に現代数学において誰でも知っているというような人が全然いない事実にひっかかるものがある。
マルクスみたいな経済学者とか、ファーブルみたいな生物学者など、他の学問には数学者よりは高度なことはしてないというのに一般の人でも知っているという人がいるのに、これはどういうことなのか。
数学者で有名といったら、せいぜいピラゴラスといったような古代人、現代数学でいえばリーマンとかラプラスとかだ。
これらの人物に共通するのは小学校から大学までのカリキュラムで扱う理論や公式の発見者かどうかということに過ぎない。
特に古代人が考えたことは現代から見れば易しいものなので義務教育の内容に採用されやすい。だからあのへんの時代の人物は数学者でも知名度が高い人がいることになる。
ようするに言いたいのは数学者の有名無名はただ単に教育制度次第になっているということだ。
高度な現代数学でも岡潔や望月新一と有名な人はいるじゃないかと言う人もいるかもしれないが、あれらが有名なのも、実績の価値が正しく一般の人にも伝わって認知度が高まってきたというものではない。
岡潔なら統合失調症だったなかで戦時下を生き抜いたこと、望月新一なら自分のコネを使って論文を掲載させたこと。
そういう生き様のセンセーショナルなところがもっぱら庶民の関心を呼び起こしているに過ぎないのだ。
ポアンカレみたいな「未解決問題を解いた人」というわかりやすいラベリングを持った人間が有名なのも本質的には上述したのと同じところにあるのだろう。認知している人の多くが業績の概要と価値だけでも正しく理解してるか疑わしい。実績の内容に関する関心ではなく、未解決問題を解いたという一点で共通認識化されているように思われる。
ちょっと単純化が過ぎるかもしれないが、数学以外の科学者の土俵はもっぱら実験や実証のなかにあると思う。
実験により、何かをしたらこういう結果が出た、という目に見える因果関係を把握する力さえあれば誰でもその分野の大学者になれる素質はあるとさえ言える。
もちろん実際に誰もが知ってる大学者になれるかどうかはもちろん有用な結果をはじき出す実験にこぎつけられたらという話になるが、どちらにせよ彼らは比較的易しい具象の中で研究対象と戦っているということには違いない。
一方で数学ときたら現時点で新規性のある高度な数学論文をしたためるには何万ページという論文が語る知見に対する確かな理解の積み上げが無いと無理だろう。
理解する過程においても数千ページ目にあたるある論文が理解できないとなったときどこに理解の欠落があるか今まで読んだ論文から探しなおさなければならないわけである。
理論の構造自体も目に見えるようなわかりやすい因果関係から成っているのではなく、抽象的なわけだから、知識の欠落がなかったとしてもその理解は純粋に難しい。
しかし高度な論文の作成はその先にあるのだからこの数学の研究というものは果てのない作業なのである。
望月もそのような作業を経てついにはIUTの創出という高みに至ったはずである。
そして望月以外にも当然少なくとも月ごとには相当数、同程度の高みから発した高度な内容の論文が公開されているはずだが彼らの中から一般人にも有名という人は現れて来ない。
ようするに現代数学者は天才である。あの手の分野の数学者は受験勉強を全くせず東大に悠々と合格するような人間がざらであるらしい。もっとも現代数学者の絶対数が少ないのだから「ざら」というのは数ではなく割合の問題なのであろうけど。
そんな数学よりは高度な理解力を要しない学問では誰からも知っている人が出てきているのに、現代数学ではせいぜい専門家の間で有名という程度にしかなれないというのは理不尽なことだと思う。
私にはそれほどの数学の才能はないので数学ができる人間に対して劣等感がある。
だから劣等感の元凶である彼らにはせめてとことん栄誉ある立場にあってほしいのだ。
彼らすら大して評価されないのでは彼らと違って能力のない私には何も救いがないではないか。
あるいはこういうことなのかもしれない。既存の知識を理解するという力と新しい見識を発見する力というのは異なるものなのではないかと。
つまり数学の功績は高度な理解力の上に成り立っているものだけども、高度な理解力をもった彼らがもし別分野を志していたとしたら果たして一般の人の記憶にも残る大学者になれていたのかどうか。
現代数学者にチョムスキーの生成文法もその理論を考え出した背景にある理論も含めてその気にさせれば簡単に理解してしまうだろうが、かといってもし彼らがチョムスキーと同時代に生まれて言語学を志していたらチョムスキーを出し抜いてあのような文法理論を創造できたのだろうか。漢字の世界で白川静みたいな業績を打ち立てることができただろうか。丸山真男のような戦後思想史の巨人になれただろうか。
理解力は結局脳の処理能力という量的な要素に還元されるものに思われるが、理論の創造というものはどのような分野にしても大胆なひらめきがものを言い、これなるものは量化などもちろんできない、一種の特殊能力なのではなかろうか。
数学はむしろ知見が論理的に緻密な状態でに充実に蓄積されているのに比べ、他学問の知見は相対的には雑駁というかなんというか、とにかくそういったところから新しい理論を考え出すのには数学以上に何かアクロバティックな部分が必要にも思える。
コペルニクスだったかは海上の水平線で帆船が見えなくなる事実から地球が丸いということを歴史上最初に悟った人物らしいが、彼のような発見は彼より多くの知識を持った、つまりは理解している天文学者には出来ないはずだと朝日新聞の轡田だかいう論説委員の本に書いてあったと思う。
本当だろうか。現代数学者がその時代に生まれても無理だったのだろうか。でももしそういう発見という意味での知性が特殊な力なのなら、ここは素直に認めておくべきことなのかもしれない。数学者こそ昔の偉人が発見した事実をベースに論文をしたためることができているだけで、彼らがいなかったらならば今のような仕事はまるでおぼつかないものになっていたかもしれない。
ただしコペルニクスやデカルトみたいなあの手の啓蒙思想の潮流で偉人扱いされている人がもしも今生まれたら、史実でその発見をしたときのインパクトと同じぐらいのインパクトを持った発見ができるのだろうかという疑問はある。
しかしできないのだとしてもそれは役割の問題なのだということになるんだろう。コペルニクスにはその特殊能力をもって彼にしかできない発見をしたのだし、現代数学者も彼らの理解力をもって高度な論文を発表している。それでよしとするべきことなのだろうか。19世紀から20世紀のイギリスでは優秀な人間は天文物理学に行くものだという常識・慣習があったのも引っかかる。
学者としての優秀さというのは最終的には理解力のような計り知れるものではない、ひらめく力・直感のセンスで決まると認識があった証左なのだろうか。
そうであるなら私についてもまだまだ人生これからで、数学以外の学問でひらめきを発揮する道はあるのかもしれない。
そうだとすれば劣等感を抱く前提条件も崩れ、数学者が一般に知られていようといまいが気にする問題ではなくなってしまうはずであるけれど、ここまで掘り下げて考えてしまったので、まあそれはそれとしてこの疑問は解消されるまでことあるごとに私を悶々と悩ませるには違いない。
まあそれでも既存の知識を理解することにおいては絶大な才能があること、つまり学者がどんな難解な理論を提唱しようがたちまち理解してしまうという意味で、あらゆる人に対してタイムラグはあるにしてもそれを無視した見かけ上はどちらの方が物事をよく理解してるかということについては遅れを取ることがないという点にはやっぱり羨やむものがあるかな、ノー勉で東大に受かる素質というのも素直に?率直に?畏敬の念に駆られてしまう。
dorawiiより
結婚だとか同居だとかをする前に確認をしておかないといけないことは、
その人物がテレビをつけっぱなしにしないと生きていけない種族(これの呼び名はまだない)かどうかだと思う。
もちろん自分がテレビをつけっぱなしでないと生きていけない種族ならば逆のパターンだ。
同じか少々大きいくらいの音量ならまだ道路工事の音の方がマシというものだ。
テレビというのは視聴者にテレビを見てくれ!と常に大げさな演出が施されている。
なのにその内容自体に全く興味が抱けない人間にとってそれは拷問でしかない。
頼まれてもいないオススメTweetを羅列してくるイーロン・マスクなんて赤ちゃんの微笑みのように可愛らしく感じられるくらいだ。
だいたいにおいてテレビをつけっぱなしでないといられない種族の人間はテレビを見ていない。
同じ番組の内容に対する理解力が極めて低いことからもそのことがわかる。
こういうことがある。
ダダッ漏れっ放しの朝のバラティニュースで間もなく天気予報が始まるというところでチャンネルを変えた同居人。
(そうテレビをつけっぱなしでないといられない種族の人間はチャンネルを固定すると死んでしまう病にもかかっている場合が多い。)
そのあとでいう一言。
その答えはお前がチャンネルを変えなければテレビ様が教えてくれていたことだろうよ…。
みたいなことを何度も繰り返すことになるから、
そして大事なことはテレビつけっぱなし属性の人間は他人の話を聞いていない。
テレビ属性はどのようになっているのか事前に行動でしっかりと確認しないといけない。
私の同居人が時々、外の人間に向かって言うことは「テレビなんて見てないしどうでもいい」、だ。
そして、もちろん家では一刻たりともテレビの電源を消すことはしない。
余談
なにわともあれテレビがないと始まらないだろうとテレビを視聴するためのカードを買うための千円札をたくさん持たせようとしたときの答えが
もちろん、手術が終わって次の日に言ったことは
だった。
景気が悪化している中で増税、インボイス導入と経済的弱者を甚振るような政策ばかりをしているけれど、別に岸田総理の頭が悪いわけではないと思う。
貧乏を一度も経験したことがないから、貧乏であることの苦しさや貧困によって精神的に追い詰められ苛まれる苦しさを単純に知らないのだ。
これは頭の良さとはまったく関係のないことで、たとえIQが200あろうと300あろうとその場の空気感というものは実際に体験してみなければ分からない。
だからこそ本来であれば貧乏を体験し、赤貧に耐えてきたような人物を一人ぐらいは官僚に入れるべきである。
そうならないのは二世、三世と世襲するのが当たり前になっているからで、彼らは貧乏な家庭に歩み寄ろうとはしない。
歩み寄ろうとしていればここまで経済格差は広がらなかったはずで、彼らにとっての親世代が残した負の遺産、政策失敗の象徴を進んで目の当たりにすることは苦痛であり、そもそも親の仕事を引き継ぐ時点で親の仕事を評価しているはずなのだから。
だがそうした支援によって潤うのは詐欺まがいの行為を行う連中だけで、こうしてばら撒かれた税金の尻拭いを結局は貧困家庭にも押し付ける。
悪循環だ。
結局のところ、一番の問題は理解力がないことなのではなく、知らないことなのだ。
だが同時に、それは仕方がないことでもある。
感性の問題なので人それぞれだしそれは自分がそう思ったのならそうだろうとは思うよ
作品が面白いかどうかなんていうのは面白さなんてものの成分や数値があるわけではないのでそれそのものが面白さというものはないんだよ
人と共有したり共感したり人がそこにいると考えたり仮定してその関係性で自分自身のあるさまを感じるから楽しいんだよ
一番身近な人にも魅力を伝えられないのに赤の他人になら伝わるはずということなのは一体どういうことなのかね
最愛であろう自分の愛して一番そばにいてほしいと願いそれがかなった相手に認められていないことがどこかで面白いはずだと自分に共感してくれる人がいるかもしれないって思う事自体それなんなのかね
キャバクラの若い娘がわかるーと言ってくれたから何十年連れ添った奥さんよりも理解力があり自分を幸せにしてくれるはずと思ったりするような感じなのかね
ここまで書く必要はないと思うけど一番自分の感性を刺激して共感で気持ちの満足感を得るべきは一番そばにいる人にそれを与えることが結果自分に与えられることだと思うよ
一番すべきことはそれだと思うしそれをするとこんなところに書きこんだりしなくても十分にそれは満たされどこかのだれかを求めたりするようなことはしなくて済むとおもうよ