はてなキーワード: 付和雷同とは
年賀状や夏場のスーツを無くしたいなら、さらに言えば、不景気やブラック労働を無くしたいなら、
老人を死刑にするしかないんだよ。老人を殺してパラダイムシフトを起こすしかないんだよ。
みんなただ愚痴るだけで、社会を変えるために行動を起こす気はないんだな。
まあ仕方ないか。
どいつもこいつも受験脳で付和雷同で、自分の意見なんて無いもんな。
おまけに行動を起こした勇者を監視して採点して、遠回りに自分の首を絞めてる。
コストをかけずリスクもとらないやつの言葉など、軽すぎて話にならんよ。
俺はやるよ。
後期高齢者の年金や医療に垂れ流している税金を使って、新しい持続的な社会保障を作る。
今はその政策の詳細を詰めているところ。
一度きりの人生。
やりたいこと、やるべきことをやって、生きた証を残したい。
「スペインは恐ろしい国である」と日本総研理事長で、評論家の寺島実郎さんが「世界」10月号で書いていた。
どこが恐ろしいのか? 寺島氏は15世紀の異端審問を例に引く。フェルナンド2世の時代になって、モスリコ(改宗イスラム教徒)の公開火刑など、その弾圧は凄惨を極め、それに震撼した民衆も隠れ異教徒告発へと変わっていった。
〈この大量殺戮と集団的狂気をスペイン人としてどう受け止めるべきか。宗教上の権威付けと「民衆」の無知が一体となって異端排除に向かうと異様な集団的狂気が爆発する傾向をスペインの歴史は何回か繰り返している。教義には融通無碍だが時代の空気には付和雷同するという意味でスペインは恐ろしい国である〉
寺島氏はこう書いていたのだが、こうしたスペイン人の特性は今でもそこかしこに見られる。つまり、お上の権威付けによって、時代の空気が醸成されると、何も考えずに付和雷同してしまう国民性だ。それに賛同していないものは「排除」しようという「狂気」も、だ。
くしくも、そうした国民性を改めて浮き彫りにしているのが五輪招致の熱狂ではないか。猫も杓子も五輪で騒ぎ、ちょっとシラケた目で見ていると、「異端児扱い」されかねないイヤ〜なムードだ。
しかし、この五輪招致はスペインの多額の債務をごまかし、「経済は順調です」と強調、不況に苦しむ国民を切り捨てた招致である。
狙いはお上の権威付けと商売で、マトモな人間であればマユをひそめたくなるのだが、多くの国民は権力におもねり、無邪気に付和雷同し、ハッと気づくと、「こうした招致はいかがなものか」という正論が異端になってしまっている。テレビを筆頭に大メディアが五輪の感動を押し付け、それに感動しないものは居場所がなくなるような窮屈さ。最先端都市を気取りながら、まさしく封建社会がいまなお、根付いているかのようだ。
http://asumaken.blog41.fc2.com/blog-entry-9879.html
確かにこういうことを書いて許されるとは思えない。
ニセ科学批判者全般に言えることだけど、安全地帯から嘲笑しているだけ。リスクは取らない。増田と同レベル。
(もちろん例外はいるよ。そういう人はマジに尊敬する。でも圧倒的多数は違う。)
まあ電凸くらいはするかもしれない。でもそれはねらーも同じwwww
「カネに換算しない」というのも環境経済学の人たちとコンタクト取ったりするのがある意味リスクになりかねん、ということなんだけど、それよりもっと具体的には以下のようなことだ。
ホメオパシーの例をみても、権威ある学術団体の声明、というのはアカデミック内部の人間が想像しているよりずっと大きな力がある。とくに行政が絡んでいるところでは。
(もちろんそれでも押し切られてしまうこともある。でも、それはその行政機関の方針の中軸に関わる場合がほとんど。同じく行政サイドが推進していても、それが機関の方針の枝葉なら、影響は無視できない。)
もし、EMが批判者の言うとおり「典型的なニセ科学」であって、その実害が無視できないレベルに達しているのなら、
全国レベルの権威ある学会が(できれば連名で)声明を出せば、かなりインパクトがあると思う。もちろんプレスリリースも出す。マスコミにも取り上げられるだろう。
でもEM批判者が、積極的にこういうことを目指しているようにはとても見えない。
なぜか?
学会に声明を出させるように働きかける、という行動は、〈自分の研究キャリアにとって〉リスクある行動だからだ。
「学会はそういうことをするところではないwww」、当然そのような反論が予想される、それもお偉いさんにそういう人が多そうだ。ふにゃーww、面倒くさいwwww それより、はてブで、口だけは痛快なEM批判エントリに付和雷同ブコメ書いて、同志たちのブコメにスターをいっぱい付けるほうが「正義を実践」していることになる。リスクも負わないwwwwww
というわけでこういう人たちに心から訊きたいのは
世界的に見て日本は一国家としては必ずしも低い評価を受けてはいないが、1人1人の「日本人」という立場で見るに日本人は折衝力が極めて低い民族とみられているのは確かだ。
それは今に始まったことではなくペリー来航の頃から少なくともそのようになっていた。これは長年にわたる遺伝子の取捨選択の結果とするならば、その原因は日本の風土にあると言わざるをえない。
日本人は人に何か強硬な主張をされたり何か痛い部分を批判されたりした場合に、じっと堪え忍ぶ民族と思われている。
それは日本の古き良き付和雷同の文化では個が強く主張するのは好ましくなくて、少しへちまなことを言えば村八分やGoogle八分にされてしまう。
日本の風土を考えるとこれはさも当然のことと言える。底辺校でもデキる奴はデキるように見えるのと同じく日本でも主張の激しい人はいる。それは海外諸国の大多数では平均なのだ。
それが世界から見ていかに奇異に映ろうとうちはうちよそはよそであり郷に入れば郷に従ーえであるからそれ自体は問題ないと言えるが、それに付随していささか厄介な問題が付随しているということを今申し上げているのである。
具体的に話すと日本は何か言われたときに言い返すと基本的にバカをみる国でありだからスルー力がことさらに言われるのであることは想像に難くないであろう。
しかしよくよくつぶさに観察してみれば本当にコミュ力のある人間はちゃんと言い返せる。このコミュニケーション様体をアサーションと呼ぶのが一般的だ。
言いたいことも言えないこんな世の中じゃの言葉通り言いたいことを言えないのが人間にとって一番苦しい。その場で言い返せればいいが言い返せない時は裏で陰口をたたいたり
机の引き出しの奥にしまってある日記帳に怒りとともに激しく書き殴ったりするのが日本風である。それでも我慢を重ねているうちに無駄に耐性がついてしまうのが人間の設計の悪いところ。
人間は我慢というスキルを無駄に身につけてしまったがために、より良い適応のチャンスを失ってしまった。
つまるところ、その場で変に押し黙ったり変に意地悪な態度をとったり変にねじ曲げたりせずに素直に自己主張しなさいという話である。普通に接することのできる人間を人は最も信頼するのである。
だからホームステイなどした人の体験談に頻出するのが日本人はよくわからない人、それも単に変な人やシャイな人という意味ではなく、人として普通に接しにくい人とみられてしまう。
この前知り合いと飲み屋で、その知り合いの女性が4万もする個人セラピーをやってるのは如何なものかというお話になった。私もホメオパシーなど半信半疑に思っている。歌手のUAがホメオパシーを好きだがUAの音楽は大好きだがそういう部分に関しては疑問がある、例えばこういう事件もあった。
2009年8月、山口市在住の女性が助産師の指導のもと長女を自宅出産した。同年10月、長女は生後2ヶ月でビタミンK欠乏性出血症による硬膜下血腫が原因で死亡した。
死亡した新生児は、ビタミンK欠乏症によって出血死(新生児メレナ)したと考えられる。母子を担当した助産師は、ビタミンKの「記憶」や「波動」、「オーラ」を持ち「ビタミンK」と同程度の効果を持つと彼女や彼女が所属していた団体が主張している砂糖(いわゆる「レメディー」)をビタミンKの代わりに新生児に舐めさせた。担当医師に気づかれないよう母子手帳には「ビタミンK投与」と偽って記載されていたことがわかっている。
精神世界は否定はしないけど(むしろ興味が有るくらいだが)、それが個人の心の逃げ場や役立つものと思われるならそれこそ自己啓発のビジネスミナーや詐欺まがいの新興宗教と変わりないんじゃないかと思う。
昨年夏にも精神世界に精通してる高齢女性の集会に行ったが、テーマは次世代エネルギーについてだったがこの方の集会では必ず泣き出す人がいるそうだ。
EMというやつも口蹄疫や震災や放射能の不安から疑似科学化して元々用途は農業用だったが子供の風呂に使ったりと少しカルト化して付和雷同している面がある。昔EMを土壌使った野菜を食べた事はあるが活き活きとして美味しかった。
結局精神世界や疑似科学に行く人はナチュラリストの人が多いが人間関係(既婚者なら旦那との不仲など)や資本主義の嫌悪で自然に逃避している風に思える。(大学時代、馬術部のお手伝いをした事があるが動物や自然に逃避して大学に馴染めない人の集まりという感じだった)
2007年から2009年にかけて、2年弱ではあるが、外資系金融で派遣社員として働いていた。
外資系企業で働くということは、私にとって、黒船到来とでもいうべきエポックメイキングな出来事だった。
日本のベンチャー企業で解雇の憂き目に逢い、1年以上ニートをやっていた30歳過ぎのキャリアもない女性に仕事などなく、
私は今でこそ「社畜」と形容される日本の会社の風土そのものに全く馴染めない社会不適応者であるのだが、外資系企業は、
そんな私でも馴染む組織であるということを働いてみて初めて知った。
日系大企業に見られる「社畜」の風習である、空気を読む、他者迎合、足の引っ張り合い、残業していることをPRするための
残業(残業自慢)、横並び意識、おべっか、滅私奉公、給料=我慢料、「あれをこうして」という抽象的で意味不明な指示、
非ロジカルな会話、議題のない長時間の会議、社内政治、客よりも組織内の利益を優先する、奴隷営業、就活の茶番、パワハラ、
セクハラ、長い物には巻かれろ、付和雷同、といったありとあらゆる理不尽を永遠に繰り広げる旧陸軍のような環境そのものが、
反吐が出るほど嫌いだった。
しかし、外資系企業では、これら当たり前だった日系企業の風習が、随分緩和された環境であるということを経験した。
もちろん、外資系企業といえど、日本人社員が比較的多い組織を渡り歩いたので、上述のような風習が全くないというわけではない。
それでも、日系企業の「社畜」に囲まれる空間より、居心地が良かった。
景気悪化により、2010年より、私は日系企業に再び戻ることになった。典型的なドメスティック企業で、旧態依然とした社風に
発狂しそうになった。それでも、自分の希望する職種であったため、社畜集団しかいないということは織り込み済みで働くことにした。
面接した当初、直接雇用を視野に入れているという言及があったものの、後にカモフラージュであることが判明。
勤務先の管理職より、先月6月の株式総会後、経営方針の変更等という上っ面の理由で、
直接雇用はしないという旨を暗に諭され、転職活動を真剣に視野に入れるようになった。
ダイレクトかつストレートかつ正直に現況を述べず、オブラートに包むやり方は、いかにも日系企業らしい。
会社から直接契約終了とは告げず、私が辞めてくれるのを手ぐすね引いて待っているような状況である。
自分たちは決して悪者にはなりたくない。。。
怒りすら生じなかった。
以前、就業していた派遣会社に問い合わせたところ、早速現在の仕事に類似した外資系企業を紹介された。
このご時世、このようなタイミングで希望する職種に近い求人があるのは非常に珍しい。
派遣といえど、リーマンショック後は、書類選考や面接を行い、スクリーニングするようになった。
誰でもできるような一般事務で、誰もが知っている大企業の求人になると、50人〜100人くらいの応募者が殺到することすらある。
企業の選びたい放題である。完全に買い手市場だ。現在の私のポジションも、3〜4人面接を行い、最終的に私にしたと管理職から聞いた。
この2年半で、外資系企業に再び戻って働きたいという渇望は募るばかりで、過去の経験に基づく事実が心の中で勝手に膨張され、
妄想になっているのではないかという懸念はあった。片思いの人に入れこみすぎて、リアルな人物像よりも勝手に素晴らしい人物像を
今回は、そんな妄想を打ち破る現実に直面するかもしれないという覚悟はしていた。同時に同業他社動向を知りたいという好奇心もあった。
■面接で聞かれたこと
全部で4人の方と面接した。
日本の会社のように「自己紹介をしてください」という決まり文句からはじまり、新卒から現在に至るまでの経歴を延々と述べることはあまりない。
外資系企業の多くは、予めレジュメ(履歴書)は閲覧しているので、気になる点をピンポイントで質問するというパターンが多い。
転職歴の多さ、年齢、既婚未婚、協調性、弊社を選んだ理由といった典型的な質問や、会話のあいまいさに起因する論旨の不明瞭さ
今回の会社では、直近に携わっていた仕事をどこまで踏み込んでやっていたのか、何ができるのか、という1点に絞られた。
私は具体的な数字を述べ、先方に業務タスク量が明確にイメージできるよう述べた。また、業務裁量に関しても、具体的に
どこまで自主的に仕事に取り組んでいるのか、先方に理解できるようPRした。
その後、現在の勤務先の取扱商品数と、取扱金額も質問されたので、明確な数字を述べた。
面接した企業と、現在の勤務先のビジネス規模は殆ど同様であるということが判明した。
そして、今後携わる仕事内容について、詳細な説明がなされた。
現在の仕事と先方の業務内容で、決定的に違うポイントをその場で端的に指摘された。
そして、その違いが、先方の業務の肝であるということが面接を通じてお互いに理解できた。
このような理解に至るのは、面接官が非常にロジカルに会話を展開するからだろう。
現在の勤務先で自分が携わっていることを詳細に質問するので、自然とPRに熱が入る。
日本の会社はどちらかといえば、圧迫面接に近い感じがするのだが、外資系企業の多くは、ポジティブに過去の業績をPRしたくなる雰囲気がある。
狙ったわけではないが、業務上最新の注意を払っていることについて、述べた所、何故か「オチ」のあるギャグになってしまい、周囲が笑いに包まれた。
久々に外資系特有の「会話のテンポやノリ」に触れることができた。
今回の求人は、携わっていた正社員が海外移住するとのことで、ポジションが空いた求人だった。しかし、本国のバジェットの都合等の理由で、
正社員のヘッドカウント(頭数)が正式に降りず、申請中との説明を受けた。ただ、打診は行っている最中であるとのことで、私のパフォーマンスと、
本国からのヘッドカウント承認如何では、そのまま直接雇用の可能性があるとのこと。その一方、私のパフォーマンスが悪い、もしくは、
本国のバジェットの都合で雇用は1年契約で見送る可能性もまだ残されているため、その場合、雇用契約は終了する可能性があるという説明も受けた。
要は、首になるというリスクを予め、面接時に開示している。会社の保守的な(悪くいえば都合の良い)防衛策でもあるのだが、
日本企業の期待をほのめかしながら、最終的に公約違反を平気でやってのける卑怯なやり方よりは、随分良心的である。
■業務内容のロジカルな説明について
業務内容の説明時に、一通りメモをしていた。現在の業務に関連する仕事ではあったものの、業務特性は異なることが判明。
私は現在、編集土方として制作物をリリースしているが、外資系での仕事は、編集コーディネーター(執筆者とのリエゾン)
としての要素が非常に強い業務内容だった。
面接官の説明が、非常にロジカルだったせいか、メモの内容を友人に話すだけで、非常に明瞭な業務内容の説明になっていた。
私は人前で何かを説明するのはおろか、吃音なども多少あるので、基本的に会話が苦手である。しゃべることができない。
しかし、メモを読むだけで、誰にでも分かるような業務フローを述べることができた。
それくらい、面接官の説明がロジカルで明瞭だったのだろう。キレのある人達だった。
■業務プロフェッショナルとして
過去の私の経歴をざっと説明していたとき、面接官でトップの人が、法的専門知識に関することをポロッと余談のように言及していた。
その知識は、現在の勤務先の部課長よりも、明らかに深い内容であった。
非常に嬉しかった。
しかし、焦点は編集作業員から、編集コーディネータ要員という毛色の異なる業務に注力できるか、否かということだった。
結論としては、私は編集作業員(土方)としての経験がなかった時から、編集業務を全うできるだろいうという根拠のない自信はあったが、
コーディネーターとして業務を全うする自信はあまりないと判明した。
友人曰く、「コーディネーターとして采配を振るう仕事は、あなたが例えばマネージャー以上の権限のあるポジションだったら、
強く出ることはできるのでやりやすい仕事だと思うが、派遣という立場をあなたが意識してしまうと、調整業務に支障が生じる公算が大きい。
あなたは、力のあるポジションじゃないという理由で被害妄想を抱き、ひるんだり、やる気をなくしたりする弱さがある」と。
友人の指摘の通りである。
悩みに悩んだ末、今回は辞退させていただいた。
たった40〜50分の面接で知り得た断片的な商慣習、そこで働く人、カルチャー。。。
同じ日本人でいながら、黒船に乗った人々は、もはや、日本人の面をした、外国人なのである。
きっと、あの組織ならば、満足度の高い環境で仕事ができるだろう。
しかし、どんなに環境が良くても、不得手な仕事を長く続けられるかといえば、NOなのである。
そう思ったとき、現在の自分の仕事に、かなりの自負があるということに気がついた。
精神病を発症させ、毛嫌いしている日系企業で、社畜として猛烈な我慢と忍耐を強いられながら、
■熱病
できれば、一生おさらばしたい。
もう、こうなると、ただの熱病のような岡惚れといっても差し支えない。
私は熱病にうなされながら、次を目指す。
http://anond.hatelabo.jp/20110828160011
元増田。 初めて増田を書いてみて色々と辟易しているんだが、それでもコミュ障を減らしたいので書く。
前記事同様、面白いと思ったら、拡散、フィードバックいただけるとありがたい。
前記事の要点は、
コミュ障をコミュ障と思わないことで、認知が変わり、結果的に行動が変容すること。
何故か認知にばかり目が向けられていたが、認知が変われば、当然行動も変わるだろ…(そうなるように認知を変えたつもりだったんだけどな)
まぁ伝わりづらかったし、あえてあまり触れていなかったポイントがあるので、それを書く。
…俺もコミュ充じゃないし、偉そうなことは言えないんだけどなw
「そしてエゴが満たされた時には、大きな喜びを感じる」
「エゴ=自分の主張、したいこと、自分が満たしたい欲求」とかにしておく。
お前ら、いい子なんだよな。
だから、学校の校則とかあると、「ズボンはちゃんとあげるべき(キリッ 」とかって守っちゃう。そこに疑いの目を向けずに。むしろ、そこに賞賛の目が向けられるからな。
でもさ、そんなルールどう考えたって理不尽だろ? でもそれをルールは守るべきものっていって、理性で抑えて守っちゃう。
「そんなルール意味わかんねーよw 死ねよw」って思ってるやつはそれを無視してはdisられ…を繰り返す。あるいは、意味ワカンネ、死ねっていいながら守る。そこでは理性では抑えられてない。
…要はお前らってさ、これの連続で生きてきたわけ。
それは親、学校、社会、友達…なんのせいか分かんないけど。 いじめられてる奴はしたいことなんてデキないだろ。勉強してたら、本読んでたらdisられる。虐待受けてたら親に媚びるようになる。
その結果、理性でもってエゴを抑圧して生きる人間が出来上がる。
…そいつには、自分の主張がやがてなくなる。考える、感じることができなくなる。俺はそうだった。
たとえあっても、おれがこれを言ったらdisられる…、あの子の前で右手をあげたらキモいと思われるかも…なんてばっかり考えてる。
…いわば、理性を働かせる天才だよ。常に周りを気にして、考えながら生きてる。
そうやってエゴを押さえつけてる人間に、自己主張が出来るか? 媚びること、迎合すること、付和雷同することしかない、端からみれば能なしとしてしか生きられないだろ。
まず、話したいことがないし、あってもそれを話していいか迷って結局話せないし、前記事にも書いたけど頭を使いながらする会話って続かない(続いてるときは本能に忠実に
考えないで話してる)。
気持ちが通わない、形式的なコミュニケーションなんてお互いに面白くない。
逆に、自己主張をすることって、楽しいんだよ。 エゴが満たされるから。
…文章書くの下手くそでごめんな。
まぁ、反響があれば、具体的にどうすればいいか、書いてみるよ。
ここまで読んで、前記事振り返って、学び取ってくれると嬉しいんだけど、書き足りないことまだまだあるしね。
やたらきれいにコミュニケーションすることがコミュ障克服みたいに捉えてる人いるけど、
コミュはあくまでも手段だよね。そこもはっきりしないとなー
まぁ例えば他人を否定することでエゴを満たす人間がいるとして、その人がどうすればいいのかについてまではカバーしてないのは事実だけど。
君は
「学校教育は一人一人の人間に与えられるべき機会であるから、それを平等にするべき。
それが朝鮮人であっても。国家間の争いと子供の教育は連携してはいけない。」っていう考え方なんだよね?
私は
「ある国家崇拝を枢軸としている国家と連携をとって行われる国内の教育機関がで行われる教育に強制的な国家崇拝が含まれていて、その教育機関の内容は倫理的に許される範囲で自由にやっても構わない。」と考えている。迷惑な考え方(右とか左とかじゃなくてもっと酷い奴だよ。道の真ん中に爆弾仕掛けましょう。とかね。そういうの)じゃなかったら別にいいと思うから、「他の子供達同様に無償化の対象にする。」というのはいい。OK。個人的には無償化は外国人向け学校とかだけじゃなくて私立の学校に自ら進んでる高校生にまで適用されてるのがおかしいと思ってるが、この話とそれは別。アメスクや私学も無償化対象なら、朝鮮人学校も無償化対象にしてOKなんだ。これに異論はない。ただ「その国家が同盟国に敵対を意思表示して更に反人道的な声明を発表している。尚かつ自国の動向(この場合砲撃とかね)を是とするなら、そこと連携を取る機関(教育機関を含む)に日本という国の財を平等に支援するべきではない。」「ある国家と同盟国家間の争いと、その国家への教育機関に対する経済的制裁は連携してもある程度は仕方ない。」という考えな。全く違う考えなんだよ。経済的制裁にその国家と連携をとる学校への支援停止も含めて良い、と思ってる。混ぜている訳では全くない。私の中では朝鮮人学校への支援停止と万景望号の入国禁止等と同じラインにある。それを「混ぜている」って捉える事もできるね。ただし、これはれっきとした制裁なんだよ。先のポストで私が混ぜているっていったのは、日本が国家に対して制裁を加えるために当然として行ってることを、子供の教育機会への不平等が起きている、と問題を「混ぜて」批判している人が多いという点。この二つの「混ぜている」はある側面からいったら同じものにも見えがちだけど、全く違うものを「混ぜている」よね?分かるかな?
ただ、教育内容に対して日本側は爆薬を作ったりテロを起こそうとしてるんでなければ、弾圧を与えるべきないんだよ。民族学校の授業内容を取りつぶすべきとか考えていない。民族伝承を阻害するのは本当に人としてやっちゃいけないこと。そういう教育内容の介入を日本は行ってないでしょ?経済的制裁だけでしょう。何でやってはいけない?朝鮮籍の子供達の教育機会の損失には全く至っていない。北朝鮮という国家がもっと歩み寄る努力をすれば全く問題が起きなかった所なんだよ。
正直私には君の考えは似非平和主義にも見えるんだけど、だからこそ理解できないかと歩み寄ってるつもり。君の考えが理解したいから朝鮮学校はどういうものなのか理解に誤りがないか、そういう情報を求めているのに全く掲示すらない。あと、朝鮮学校に通う子供達が同じ民族教育が行われている韓国の学校に移るのになんの問題があるのか、ちゃんと説明して欲しい。全くそれに対する返答がない。チョコと煎餅を例に出してる理由もわからないの?考え方の好みが違うだけなんだだよ。国家間の争いに子供の教育機会が連携しちゃ行けないっていう人が居ることもわかるけど、私はその考え方は違うと思ってて、自分の考えを書いただけ。意見は人それぞれ違うんだから、態々引用や太字を使って意見を変えさせようという説得に掛かるんだったら、その前に私の書いている事を理解してから返答が欲しい。全く理解しないで自分の意見だけぶつけてくるのは品性として如何かと思う。国家間の問題が発生しているのに、子供が可哀想という理由で付和雷同して無償化の支援金が得られないのを批判するのは間違ってる。その民族ベースの学校に通いたい子供達にも「韓国人学校に行く」という選択肢があるのにもかかわらず、ね。
どうだろうか。
では、私が知らなかったそういう経緯があったとしましょう。しかしあれに反応した一般の人の中には、私並みに無知な人も大勢いたのでは?
繰り返し私は書いていますが、18歳未満のセックスを禁ずることで、コンドームやピルを手に入れられなくなる事の弊害は、どのように考えますか?
禁じれば手に入らなくなるという理屈がわかりません。未成年者に対してポルノの販売は今でも「建前上」禁止・自主規制されているはずですよ。
そして、「建前上は杓子定規で実質はザル、そしてセーフティネットがきちんと存在する」という状況こそが大事だと思います。下でもう少し詳しく書きます。
そもそも、危険性では圧倒的に低い酒やタバコにしたところで、「酒はやめておいた方が自分のためだよ。どうしても無理でも一気飲みだけはやめておきなさい」なんて生ぬるい教育が通ると思いますか?
まさに今、大人が子供に対して、酒との付き合い方として教えているものじゃないですか?そしてそれを私も支持します。
これが一般的なのか私も自信がなくなってきましたが、私は高校生のうちから期末試験や文化祭の打ち上げで普通に飲酒していました。高校教師や親はそれを黙認し、「一気飲みはするな」とだけ言ったものでした。
いや、あなたの過去に関して言うならば、私もそんなものだった(期末試験ぐらいでは飲まなかったが)し、高校卒業後大学合格の報告に行ったときには、恩師がお祝いに飲みに連れて行ってくれたこともありましたよ。形式上は卒業していなかったわけだから、今ではちょっと考えられないかもしれませんね。卒業式後に野球部員が飲酒していたせいでどこかの高校が非難を浴びて甲子園を辞退させられた一件の時は、なんといやな時代になったものかと唖然としたものでした。
それでも、高校時代は建前上は「飲酒がばれれば停学」だったし、実際に限度を超えた人などで処分を食らっていた人もいます。私の学校は締め付けが緩いことでむしろ有名だったのですが。「やめておいた方が自分のためだよ」なんて甘っちょろい忠告だけというよりは、もう少し緊張感があって、建前は建前としてきちんと生きていましたよ。ハレの日のみ多少「武士の情け」があり得るという暗黙の了解はありました。
性に対してもそういう態度が必要だと私は思います。人間を信用しないゼロ・トレランス方式は教育の場にふさわしくない愚かきわまりない方針だと思います。しかし「建前」は大事です。そうすることで、自分たちのやっていることを真剣に考えるようになるからです。それが一番重要なことです。
児童ポルノ法が取り締まるのは児童買春と児童ポルノです。また、各都道府県にある青少年保護条例が規制しているのは児童との淫行です。真摯な恋愛関係にある限り、13歳以上を性的対象にすることは虐待ではありません。
ところが、出典は失念してしまいましたが、自分の裸を撮ったことで、本人が「児童ポルノ製造」の罪で逮捕されたという話がありましたよ。キリスト教原理主義の強い米国でその種の事件がいくつかあるのはわからなくもありませんが、日本でまでこういうことが起こるのは唖然としました。明らかにこの件については取り締まりの目的と手段が主客顛倒し、そしてそれが余り疑問にも思われていない実態があります。
また、「一部の強硬な人を除いては「規制あるのみ、問答無用」」という状況にあるようには思いません。そうなら、もう規制されてますよ。声が大きい人とアグネス・チャンは目立つので、そのように感じているのかもしれませんが、東京で青少年保護条例の改正が否決されたように、規制反対派は沢山います。私もその一人です。
沢山いますが、それはこの問題に関心を持っている人だけですね。案外キャサリン・マッキノン並の道徳を持っている人は世の中に多いのではないでしょうか。少なくとも、「日本は児童ポルノ大国である」というような(事実としてかなり疑わしい)宣伝がこれだけなされていれば、欧米の過剰規制(アグネス・チャン並の)が日本にも導入される日は決して遠くないでしょうし、未成年者の飲酒に対して世の中がこれほどまでに手の平を返した以上は(プロ野球の優勝記念の「ビールかけ」に19歳の選手が参加できない時代ですよ)、案外抵抗もなにもなくビクトリア朝並の世界がやってくるような気がしてなりません。フランコ・ゼフィレッリ版の「ロミオとジュリエット」みたいなのも児童ポルノ扱いされてしまって不思議はありません。捕鯨問題に見るように、世界には良識という名の狂気は充満していて、付和雷同する人が多い日本の世論なんて甚だ心許ないものです。
そうした狂気から身を護るためにも、グレーゾーンはグレーゾーンとして残しておく必要があると思うのですよ。そうでなければ、結局は全部黒とされてしまうのがオチだと思います。違うでしょうか。だからこそ私は、「白」の領域を無理に拡げようとすることに抵抗を感じるのです。
しかし、児童買春と児童ポルノの製造(これは15歳あたりで線引きすべきと考えるが別の話)を行ったものの罪はもっと軽くすべきであるという、あなたが最初に書いた論には乗れません。
いや、「軽くすべき」というのは「児童を性的主体と認めるならばそうなる」という話であって、それは逆説で言っているのでお間違えのないように。私は本音では「建前上認めるべきではない」という立場なので、「軽くすべき」だとは思っていません。
ネット黎明期は短文書くと「一行野郎」とか言われて、「駄レスすんなヴォケ」とか言われることが多かった。
いまは、そういう光景は稀で、短文のほうが好まれる。いつからそうなったのか分からないが、短文馬鹿が台頭しだしたのである。
時代のニーズがそうさせるとも言えるのかもしれない。ともかく、長文がやたら叩かれるようになった。
間違いなくその時代の変化の一つの中心にあるのが、ニュー速板と、その派生であるVIP板である。
両者は相容れない気風を持つかのように捉えられるが、実際のところ似たり寄ったりである。
この両者から流れてきた人が、学問板などの長文が好ましい場でも長文を叩く気風をもたらしたのだと思う。
2chの過去ログで「名スレッド」と呼ばれるものを堀り起こしたことがあるだろうか?
学問板の名スレなどでは、非常に長文が多いことに驚かされる。当時のネットがライトなノリというより硬派なノリだったことも伺える。
そういう時代も、ちょうど2001年~2003年ごろに終わり、VIPなどの隆盛によりネットとりわけ2chの文化が一転した嫌いがある。
短文馬鹿の台頭により最もダメージを受けたのは、長文を書きたい人間だろう。
ホリエモンは著書において「長文書く奴は仕事できない」とハッキリ書いてる。ちょうどそれが2004年頃。
ホリエモンもまた時代に影響されていたのだろう。言うまでもないが、当時のホリエモンは短文、今のホリエモンは長文をたくさん書いている。
結局、本質的な根拠があって長文叩きをしているわけではなくて、単なる文化の違い、時代の違いなのである証左である。
ネットが一般化してライト層が増えたことと、情報のスピードが高速になったことにより、明らかにライトなコミュニケーションスタイルが好ましい場面が増えた
ことは確かであるが、だからといって、長文を否定していいかには疑問が残る。
日本人に多い「空気を読む」思想の履き違えとして、「みんなが自分と同じこと思ってる」という思い込みがある。
互いに付和雷同して、空気を読むことで、誰も望んでいない形で妥協しないといけない悲しみがそこにある。
長文叩きもこれに似た思想であり、「和を乱すな」という思想のもとに、短文馬鹿の単純な思考スタイルに全ネット人口を一律化させ、多様性を排除しようとする。
これとはまた別によく言われることとして、「簡潔に書けない人は頭が悪い」というものもある。
これは簡潔に書かれないと困る人達のプロパガンダでしかない言葉だということを忘れてはならない。
例えば、支配者階級、ブルジョワジー、周囲より飛び抜けた知性を持った人物などは、多数の人間のグダグダした物言いはゴミでしかない。
よって、「簡潔に書けない人は頭が悪い」と言うのである。しかるに、当の書いている本人には簡潔に書く必要性は全く無いことが少なくない。
こういった言葉の背景を忘れ去って、字義通りに受け止める人が氾濫することで、言葉が文化を一律統制している時代に差し掛かっている。
インパクトある言葉を使いこなせる、センスのいい短文馬鹿が台頭しだしたことで、このような一律統制がまかり通っていることに私は危機感を抱いている。
偏見で汚い物事を嫌う潔癖症な偽善者がよくいるが、最近とくに増えてきているのではないかと思う
統計がないのでなんとも言えないが、もし増えているのだとすれば憂慮すべき事態である
典型例の1つとして、ガキにケータイを持たすなという論者がいる
可愛い子には旅をさせよという健全な教育理念を持った親は、今やマイノリティであり、
あろうことか父親までもが、ガキ嫌いもあってか、それに付和雷同しているから、もう手に負えない
俺の母も教育ママでキモいくらい干渉してきたが、父は寛大で器が大きく、信頼できる父親だった
また、俺の世代だと、核家族化がそれほどでも無かったので、祖母に甘えることだって出来た
祖母はお小遣いをくれたり、ガミガミ言う母をたしなめたりしてくれたものである
これに類する現代人的潔癖症というのは、この紙幅に書き足りないくらい、他にもたくさん例があり、枚挙に暇がない
文明が豊かになり、生活が便利になり、選択の自由が出来たことで、それが潔癖症の温床となり、
そのような患者・・・これは患者と言って良い・・・は、人生において数々の制約や衝突を被ることになり、
あとあとの人生の幅を大きく狭めることとなる
すべて自業自得である
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「潔癖性」を度を超して嫌う「潔癖性」に陥ってないかな
それは何かに対し否定的な人に対して否定的な態度をとる時に共通する構造だから、無理のある批判
過干渉は教育学でも問題視されているから「度を超している」わけではない
結局、この文章から何かを察知できないという事は、根源的に人間理解が異なるんだよ
そういう人が最近多いことは確かだ
ガキにケータイ持たせるなという人の多さに疑問を抱いたことが無いとすれば、根本的に感覚が異なるということだね
上のコメントにも見られるような形ばかりの批判をする人は、たいてい感覚が麻痺してて、安直にすぐに価値を相対化してしまう人が多い
なるほど、任意の価値Xに対して、その反対の価値Yを持ち出し、X-Yという対立軸を作れば、なんでもかんでも相対化してしまえる
それでもって、中庸が一番と主張すれば、いかなる価値Xの絶対性をも崩すことが出来る
例えば、Xが人を殺してはいけないというものであれば、流石に相対化されにくいけれども、
近年では選択の自由が広がったため、多くの価値が相対化されやすくなっていることは事実である
なんでも相対化される背景には、様々な価値観が共存するごった煮社会になり、何が正しいかの感覚が麻痺していることがある
すぐに相対化してしまえる人が何よりも厄介なのは、相手を理解せずに勝手に相対化する点だ
今回の例で言えば、「ガキにケータイ持たせるなという人の多さに対する疑問」を理解できない人が勝手にそういう考えに対し「放任主義」というレッテルを貼る
ここに大きな問題がある
実体験や知識に基づく詳細な理解が無いまま、対立軸を作って相対化し、形ばかりの批判をする
自分で何かおかしいということに気づかないといけない
一言で言うと、理解なき批判は悪ということ
実体験はさすがに難しくとも、せめて知識面だけでも、土台となる知識を身につけることで、将来の人生での知識の実りを大きくし、
それにより、きちんと理解ある批判が出来るようになる
そうではなくて、さまざまな物事に対し、しっかりした理解に基づいた態度をとれるようにすること、それにより、多くの物事との接触を可能にすること
以前からミクシイきもいミクシイきもいと、はてな界隈や2ch界隈で言われていて、
なるほど確かにきもいなと納得だったのだが、それは単なる内輪の馴れ合いのきもさだと思ってた。
しかし、どこかそれとは違うきもさを感じてもいた。
このたび、そのきもさの正体がようやっと判明した。
つまり、ミクシイでは、病的なまでの付和雷同が見られる。
ただの馴れ合いなんかじゃない。馴れ合いなんて言葉で語ると本質が見えないなとはつねづね思ってたが、
それは付和雷同が病気なくらいものすごいから、馴れ合いという言葉では筆舌に尽くしがたいからなんだとようやっと気づいた。
わかりやすい例をあげてみる。
ミクシイをやったことのある人ならよく知っているだろう。
トピ主がトピックを立てると、そのトピック文章をたいていの人はよく読まずに脊髄反射レスをする。
そして、「私もそう思います」「俺も同感」といったレスが続く。
あるいは、「トピ主最低の人間だな」「トピ主は馬鹿」といった誹謗中傷が続く。
いずれの場合にも、ただの馴れ合いなんかじゃないくらいきもいレベルの付和雷同なのである。
自分で考えずに他人の模倣ばかりする日本人の問題点についてはよく指摘されることだが、
その日本人的きもさを濃縮したのがミクシイと言えるんだと思う。
ともかくミクシイのいたるところでそういう過剰な付和雷同が見られる。ニュース日記もそうだ。
2chのレスでもスレの流れというのがあってみんなそれに乗っかるという傾向があるので、
付和雷同と言えなくもないが、ミクシイと根本的に違うのは、スレの主旨から逸れる発言をすれば叩かれるということだ。
ミクシイではトピズレしても修正する人がいないまま、トンチンカンなコメントが続くということが決して珍しくない。
しかも、なぜかみんな同じ内容のコメントを自分の言葉で言い直さないと気が済まないかのように、
同じコメントをくりかえしている。要は自分が語りたいけど彼らはオリジナリティが欠如しているので既出な発言を繰り返すしかないのだ。
見る側としてはたまったものではない。同じことばかり聞かされるハメになる。
そういうところがミクシイのきもさの正体だと最近ようやっと分かってきた。
関連箇所でいろいろ言及されているように「おかしな奴」は数人、場合によっては1人か2人だと思われる。どっち側もね。