はてなキーワード: 付和雷同とは
だから付和雷同というのは共通の背景知識や経験を踏まえているという意味なんかでなくて、態度だけ同調しても認識や価値の改訂変更はしない態度なのだから議論にならないでしょといいたいんだ。
でも認識や価値の変更なんてめったと行われないし、他人から見れば認識価値が変更されてるかどうかは態度で判断するしかない。 相手が反論してくれば「本質を見ない」「読解力が無さ過ぎる」とみなす人にとっては付和雷同こそが真の「議論」じゃないかな。
んんー?
もしかして付和雷同の使い方がおかしかったかと思ったがそうでもないな。
付和雷同って信頼なんてでてこないようなもっとネガティブな意味だと思うんだけど。
一定の主義・主張がなく、安易に他の説に賛成すること。
なんて適当な事しか書いてないね。
「論語・子路」のなかに出てくる文言で、「君子は和すれども同ぜず。小人は同ずれども和せず」の前半部分を取ったものです。後半は、「つまらぬ人間は、やたらに人の意見に賛成するが、真に共感しているのではなく表面だけを合わせているのであり、友好関係は生まれない」ほどの意味でしょう。
「付和雷同」(礼記・曲礼上)は「雷が鳴ると、それに応じて反射的に響く音のように、自分の定見もなく是非の判断もなく、賛成する」ということでほとんど同意義です。
故事百選「和して同ぜず」
こんな感じなんだけど。
だから付和雷同というのは共通の背景知識や経験を踏まえているという意味なんかでなくて、態度だけ同調しても認識や価値の改訂変更はしない態度なのだから議論にならないでしょといいたいんだ。
付和雷同しやすい人のほうが議論できるのでは?相手を信頼してないと迎合できないし、なんでも否定的に見る人は猜疑心強すぎで議論が成り立たない。
確かに否定のために揚げ足を取る奴もいるわな。
逆に「同じ意見」でないから「本質でない」と目をつぶる奴も居るわな。
実は議論というのは相互の信頼が必要な成り立つのが稀な関係なんだよ。
ほら、付和雷同の輩には出来ないでしょ?
権利と言うのはあくまでポテンシャルであって、それ自体では意味はない。
権利はみんなにあるんだけど、自分から権利を行使する、つまり主張する事をしないと無視される。税金の無駄払いみたいなもんだ。犯罪者が弁護士を雇う事が国に補償されているのは、自分のもっている権利に対する知識格差を埋め、みんなが権利をフルに活用できるようにするため。
というわけで、主張する分には別にいいと思うよ。問題は、声の大きい人がいるととりあえず従ってしまう、日本人の付和雷同気質の方にある。アメリカ式の、「とりあえず電波でもなんでもいいから大きめに権利主張しとけ」という方式を日本で実行すると、日本人はNoと言えないからやたらと通ってしまう結果になる。
受刑者(これでpolitically collectな表現?)が権利を主張するのは認められるし、認めるべき。しかし、その主張を認めるべきかどうかは別問題。
強く物事を主張しないことを美徳とし、受け手もそれを前提とした判断基準を持つに至ったわが国に、強く主張するタイプの人種が生まれ出して、結果として両者の衝突が発生している、というのが自分の観測。