はてなキーワード: 付和雷同とは
そこは話の中でそこだけ深化しただけであって
アニメの場合毎クール作品が出て、その評価の流れが決まった瞬間付和雷同的に賛なら賛、否なら否が出来るから
そこに異論が挟めなくなるわけ
それはお前の周りのコミュニティとお前の意志薄弱さの問題であって、どのアニメにも賛も非もある。
俺は萌えアニメ嫌いを公言してるがそれでもその手のアニメ好きを多分に含むコミュニティで生存してるわ。
好きな奴の前であからさまに腐すようなことしなければいいだけの話。
後段は本当伝わってないからもういいです
何が「もういいです」だよ。
そこは話の中でそこだけ深化しただけであって
アニメの場合毎クール作品が出て、その評価の流れが決まった瞬間付和雷同的に賛なら賛、否なら否が出来るから
そこに異論が挟めなくなるわけ
最近けもフレとかポプテとか途中で流れ変わった作品あるから分かりやすいんじゃない?
後段は本当伝わってないからもういいです
野球ファンは全員付和雷同か?サッカーファンもか?ジャニーズファンもか?
「あ、こいつ批判してるくせに批判受け入れられないダブスタwww」って内容よく見ずに短絡的に決めつけるのが「終わってる」って言ってるんだよ
「決めつける」も何も事実じゃん。
全然わかってないのな
「好きなやつ嫌いなやつで住み分ける」って発想を当然としてる時点で付和雷同極めてんなーって言ってる
反論するやつは終わってるとか誰も言ってないし
「あ、こいつ批判してるくせに批判受け入れられないダブスタwww」って内容よく見ずに短絡的に決めつけるのが「終わってる」って言ってるんだよ
「信者」ってのは便宜的に定めた集合であり、「好きな奴」という意味でしかない
https://globe.asahi.com/article/11530020
思うに、民主主義を素晴らしいと思えるかどうかという問題は、他人(もしくは大衆)の理性や道徳を信用できるか、という点につきるのではないか。
もし、他人の理性や道徳が信用に足るならば、投票によって選出された政党や政治家を受け入れることができる。
そして、選出された政治家の理性が十分なら、独善的な政策ではなく、野党とも議論を交えながら政治を行うことができるだろう。
当然、野党となった政治家の理性が十分ならば、建設的な反対意見と与党側との議論により、いわゆる少数意見をある程度なりとも反映する政策を与党側に提案し、説得することもできるだろう。
これは理想。
だが、現実的にはそんなことは成り立たない。
政治の場面では、例えば与党が他者の意見に耳を傾けず独善的な動きをすれば、野党側もヒステリックに反応することで、その対立は時間を経るごとにエスカレートする。
他国のことはわからないけど、少なくとも日本では上述のような理想は絵空事だ。付和雷同の傾向が強く、議論が成立しない日本人にそのような理想ができようはずがない。
そんな歴史的なことを言わなくても、Web上でも片方が極論ともいえるような内容を声高に主張し、他者はヒステリックに反応するか、無視をするという光景はよく見る。とくに現在は、Webなどの発達により意見を主張するハードルが下がっているから、そういう光景が多くなり、両者の間の溝は大きくなるばかりである。
Webの発達した現在では、そのような他人との精神的な溝を自覚しやすくなっている。つまり、他人の理性や道徳を信用しにくくなりやくすくなっているのが、現在なのではないか。
現在のような状況では、民主主義に対する疑問が出てきてもおかしくはないと思う。とはいえ、他者の意見を軍事的に潰すような政治形態は論外だ。
炎上させるな、リンチするな、過剰に追い込むなみたいな風潮あるけど、具体的に何がアカンと言いたいのかふんわりしててよくわからん。
罵倒コメントがついたのを通報したりとか、批判したりとか、批判に反論したりとか、そういう通常のは炎上とかリンチとは言わんやろ。
hagexの件とか、結果的に加害者を精神的に追い詰めてしまっていたというのは事実かもしれんけど、
hagexの例の記事も、通常の言論活動の範疇に入ると思うし、
付和雷同的かもしれないけど、はてな民による加害者に対する批判や一部の揶揄も含めて殆どが良識の範囲内に入っていた、と個人的には思うで。
もちろん犯罪予告やら罵倒やら名誉毀損だのがあれば問題だけど、実際は加害者の方がそれをしていたわけで。
炎上とかネットリンチとか止めようぜ!みたいな論陣を張ってるブログをいくつか見かけたけど、実際何に気を遣えばいいのかまったく言及されてなくてなぁ。
すでに他の人に批判されてたらもう批判したらあかんの?既にいっぱいブクマ付いてたらもうブクマしたらあかんのか?
ふんわりとネットの向こうの相手が傷つくかもしれないから、空気を読んで可能な限りソフトな言い回しをしたり、言及を控えたりしろって言いたいのか?
そういう批判とか批評とかしにくい雰囲気を作って、言論の自由を抑圧するのも害悪だと思うんやけどな。
主張したいことはなんとなくは理解してるし、今回のような痛ましい事件はもう起きて欲しくはないので
あんなあ、俺はさっきから昭和天皇や今上天皇の人柄とか何も誉めとらんw
とりあえず短期的視野で「『憲法を守る』と言ってる天皇を右翼を黙らせるため上手に利用しろ」と言うてるだけじゃ。
・
そら、まともな国民でまともな共和制ができればよかろうが、空気を読んで付和雷同か短期的利益しか考えてない本邦の民度では期待できんからな。
俺がさっきから天皇を擁護してんのは、「後ろ向きな前向き」を100も承知のうえで、最良が無いゆえの次善(五善か六善ぐらいかも知れんけど)の策だよ。
・
ひとつだけはっきり言えることがある。
ネロみたいな暴君がでたかも知れないかって? 民心で選ばれたほうがよほど救いがないよ。
天皇制が存続するのと民心で桜井誠が大統領になるのだったら、俺はだんぜん前者を選ぶよ。左翼としては敗北だとわかっていても。
「感動」するわたしたち──『24時間テレビ』と「感動ポルノ」批判をめぐって / 前田拓也 / 社会学 | SYNODOS -シノドス- | ページ 2
小田嶋隆さんは、『超・反知性主義入門』(2015)のなかで、「本音」の痛快さが消費されていく現状に疑義をさしはさみます。
近年、「『学級委員長』的言説」が忌避され、「『本音』が、まさに『本音』であること自体によって免罪されるはずのものだということを、強烈に信じ込んでいる」(p107)人の声がとても大きくなってきているように感じます。
「善悪や正邪とは別に、『本音』と『建前』という座標軸が現れた時、無条件に『本音』を神聖視する考え方が力を持」ち、「『露悪的な人間ほど信用できる』という倒錯が生じ」ています(p109)。
引用されている部分以外で小田嶋というひとがどういうことを言ってるのかは本がないので知らないが、
ここで「『学級委員長』的言説」といわれているものはいわゆる「心にもない綺麗事(上の引用部では『建前』)」というやつだろう。
「心にもない」という部分が重要だ。
「綺麗事」の脆弱性は、まさに「本人が心にも思っていない」点にある。
だから、露悪的な『本音』トークが『建前』に勝つのは当たり前だ。信じていないものと信じているものが衝突したときに、残るのはかならず後者だ。
『聲の形』という漫画がある。映画化されて、昨日公開されたばかりの作品だ。
この漫画にはまさに「委員長」である川井という少女が出てくる。彼女のキャラを一言で説明すると、偽善者だ。
小学校のクラス内のいじめに消極的に加担し、しかしそのいじめが糾弾されるようになると「わたしは止めようとした」と一転して自己保身に走る。高校生になると入院したクラスメイトのために「千羽鶴を作って贈ろう」とクラスで提案する。自分の容姿の優位性や「涙は女の武器」であることを巧みに利用して周囲を操り、それでいていかにも私は良い人ですという面で歩いている。
しかし彼女は自分自身を偽善者だとは思っていない。「私はいじめに加担してない」と本気で思っているし、「千羽鶴を折ることが良いこと」だとも本心で信じている。
メタ認知になれたネット民からすれば「浅い」人間に思われるだろう。漫画で後半、彼女は自分の無意識の計算高さに勘付く展開になる。それは置いといて、現実にも「千羽鶴を折って送ることがいいことだ」と何の留保もなしに信じている人間はいっぱいいる。
それをネットでは「自己満足にひたりたいだけの偽善者」と呼ぶ。でも本当にそうした人々は「自己満足」なんだろうか。
こと千羽鶴に関しては「ごみ処理する手間がかかる」「送られる本人は千羽鶴なんかより欲しいケアがあるはず」などといった「送られる相手を慮れ」問題が絡んでくるので一概には言えないが、「良くなって欲しい」と虚心坦懐に、千羽鶴にまるでまじないでもかかっているかのように信じている人は一定数いる。
素朴な人々、とネット民なら言うだろう。
だがその浅薄な思いやりはかつては「本音」だった。今だってそうだろう。
それが、「建前」や「心にもない綺麗事」であると、いつのころからか批判されるようになった。
思いやりには相手の事情を勘案しない「浅い思いやり」と相手に寄り添った「深い思いやり」があって、後者だけが本当の「親切」であると、いつのころから、そういうことになった。
単に「こう言えば賢いように思われる」「こう言えば周囲の仲間たちにデキるやつだと思われる」という、昔からよくある付和雷同的な同調圧力の結果なんじゃないんだろうか。
「反知性主義」だの「本音主義」だの言ってる人々は、自分の「本音」が何で、どういう部分が「建前」なのか、一回も考えたことのない人たちなんじゃないのか?
某所で「デモに参加しているようなやつは就職できない」とかいう言説があって、そんなケツの穴の小さいやつなんぞ、こっちからお断りだ、と実際思う。そういう上から目線のやつとか、気持ち悪くて仕方ない。
ただ、それに対抗する言説として、「デモに参加しているひと、自分の意見をしっかり持っている人」というのもあって、これもこれでどうかと思う。
実は、一度だけ10年くらい前にノリでとあるデモに参加したことがある。実際に参加してみると、言っていることはしっちゃかめっちゃかで、実際にデモをしてどんな効果があるかを確認しているようには思えなかった。自己満足といえば、その通り。なので、二度とこういう活動には参加しないと決めた。
また、年上の、老人の知人が最近デモに参加して、その人のFBにはいわゆる「デモ友達」がコメントをするのだけど、いつも馬鹿の一つ覚えみたいなコメントばかりで、ちょっと呆れている。
中心できちんと企画を立てている人たちはともかく、その周辺にいるような人たちは、どっちかといえば付和雷同で参加している印象が拭えず、自分の意見を持っていて扱いにくいどころか、ポイントさえ押さえれば、却って御し易いとも言える(ぶっちゃけイスラム教徒だったらISの兵隊になっちゃうような人たち)。
なので、「デモに参加しているから有能」と即断するのには抵抗を覚えるし、個人の質がすごくバラついているのだと思っている。その中で有能なのはごく一握り。その一握りを「デモに参加している」というだけで就業させないのは、相当問題があると思うけど、その他はおそらくソルジャー仕事に向いているとしか言えないでしょう。