はてなキーワード: フィルタリングとは
私も興味深く読んでいたのだけど、最終的な結論としては元増田に似た考えに落ち着いた。
性選択は、あまねくすべての動物で行われてる本能に基づいた自然な行為だ。
だから、美しさに惹かれる気持ちを制限すべきじゃない。多様な美の価値観を打ち出していくべき。
現状のマッチングサービスの中には男性の身長でフィルタリングできる仕組みもあるらしい。
自由恋愛、知らんの?
公的領域でのルッキズムによる選別は問題だが、私的領域では性選択の一つに過ぎない。
むかしから言うだろう、誰が誰を好きになってもいいんだよ、と。
辞書的な定義にこだわるなら確かに差別なのかも知れないが、それは言うなれば仕方のない差別とでも言うべきものだ。
本来、恋愛はたとえ差別的な基準であろうと個人の自由であるはずだ。
価値観のアップデートなどと称して、長い歴史をかけて獲得した自由恋愛の権利を手放してはいけない。
ポリコレだの何だの、問題の深くに立ち入らず表面の世間体だけ整えてクリーンさをひけらかす。
現実で女は、「ルッキズムで男性を選んだりはしないよ」と言いつつも「清潔感」を男に求める。
まさかバレてないと思ってる? 狡猾な欺瞞で言い逃れしようとしても実態は外見差別そのままだ。
そういう暗黙知の文化みたいなの、そろそろ終わりにしませんか。社会に誠実さを取り戻そうよ。
私には計画がある。
人間の本性から目を背けず、本当の自由恋愛の謳歌するための仕組みを作りたい。
あらゆるルッキズム的に禁忌とされがちなパラメータを入力させて、好みに合った異性を「何人でも」ストックしておけるような。
身長だけでなく体重、スリーサイズ、巨乳だとか貧乳だとか、猫っぽい顔とかタヌキ顔とか馬面とか、果てはペニスのサイズまで、何でも入力可能にする。
本当の意味で自由に好みの相手を選べるサービスを打ち出そう。真に多様な美しさの基準を打ち立てるために力を尽くそうと思う。過保護なポリコレを捨て、恋愛の自由さに全振りしたマッチングサービス・・・「男牧場・女牧場(仮」というのを考えています。
自己啓発本の類は読まないタイプなんだが、それでも自分のQoLを高めるにはどうするかってことぐらいは考える。
俺は今後何かで「大金持ち」になったり「大成功」することもないだろうから、今の収入のままでQoLを上げたいわけだ。
それで、そもそも「俺の精神がダメージを受けるのはなんでなのか」ってのを突き詰めたら「孤独感」ってやつにたどり着いた。「孤独」ではなく「孤独感」だ。
「周囲の人間に無視されることはサバイバル上の死を意味したから、認められるために孤独を痛みとして感じるようになった」という進化的経緯があることを知る。
だから「承認欲求」とやらは本質的に人間の社会本能であり、個人主義という最新の文化に脳が適応しきれていないことを意味する。
数学という趣味を全く他者と共有せず、一人部屋にこもってやり続けても満足できるなら、そもそも普段の社会生活で十分満足できている可能性が高い。
ところが「孤独感」を抱えてしまうような何らかの問題を持った人間は、趣味を他者と共有したいと考えたがる。
要するに「趣味がないこと」が問題なのではなく、日常生活で「社会から見放されている」と感じる何らかの要因の存在が問題だ。
お前がツイートしても誰もイイネしない。あいつはイイネをたくさんもらっているのに。
こういう本能は理性的には全く理解できない。俺がいくら理性レベルで「こういう感情ってバカっぽいな」と考えても、本能部分が勝手に「孤独感」を生み出すから制御ができないのだ。
アドラーだかなんだかは胡散臭いので、「低次機能で説明可能な場合は高次機能を仮定するな」という心理学におけるオッカムの剃刀はもっと考慮するべきだろう。
理性レベルで対処可能なのは、Twitter、Facebook、Instagramなどの主要ソーシャルメディアを使わないようにすることだ。
そのためにはDNS、ルーター、ファイアウォール、アプリケーション層などあらゆるレベルでコンテンツフィルタリングしてしまったほうが良い。
またロールモデルを作ることも僅かながらの効果はあるかもしれない。賞金を辞退したペレルマンのように振る舞いたい。
以下は参考
"Social isolation results in higher likelihood of mortality, whether measured objectively or subjectively. Cumulative data from 70 independent prospective studies, with 3,407,134 participants followed for an average of 7 years, revealed a significant effect of social isolation, loneliness, and living alone on odds of mortality. After accounting for multiple covariates, the increased likelihood of death was 26% for reported loneliness, 29% for social isolation, and 32% for living alone. These data indicated essentially no difference between objective and subjective measures of social isolation when predicting mortality."
Holt-Lunstad, J. et al. (2015): Loneliness and Social Isolation as Risk Factors for Mortality: A Meta-Analytic Review. Perspectives on Psychological Science 2015, Vol. 10(2), pp. 227–237 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/25910392/
"Results Of the 35 925 records retrieved, 23 papers met inclusion criteria for the narrative review. They reported data from 16 longitudinal datasets, for a total of 4628 CHD and 3002 stroke events recorded over follow-up periods ranging from 3 to 21 years. Reports of 11 CHD studies and 8 stroke studies provided data suitable for meta-analysis. Poor social relationships were associated with a 29% increase in risk of incident CHD (pooled relative risk: 1.29, 95% CI 1.04 to 1.59) and a 32% increase in risk of stroke (pooled relative risk: 1.32, 95% CI 1.04 to 1.68). Subgroup analyses did not identify any differences by gender. Conclusions Our findings suggest that deficiencies in social relationships are associated with an increased risk of developing CHD and stroke. Future studies are needed to investigate whether interventions targeting loneliness and social isolation can help to prevent two of the leading causes of death and disability in high-income countries."
Valtorta, N. K. et al. (2016): Loneliness and social isolation as risk factors for coronary heart disease and stroke: systematic review and meta-analysis of longitudinal observational studies. Heart Vol. 102, pp. 1009–1016 https://heart.bmj.com/content/102/13/1009
最近のAIブームで、色々と得心が行った。私の行動はAIと同じだったんだと気づいたのだ。
自分は今まで生きてきておそらく全く思考というものを行っていないのだ。ただ今まで学習してきた何かしらの文書から得られた学習の結果としての何らかのあやふやなデータから、ただ周囲から与えられている入力に対して反射的に出力を行っているだけなのだ。
仮に、思考というものが存在するというのなら、それはおそらくNSFWフィルタのようなフィルタリング機構であって、それ以外は私の身体には実装されていない。普通は、実装されているのかもしれないが、少なくとも私には実装していない。
お絵かきAIに絵を描かせている人がつぶやいていた「AIはてっきり論理ばかりがわかって感情がわからないのかと思ったが、むしろ逆で感情ばかりわかって論理がわかっていない」という言葉が芯を得ていると深く感じた。本当に得心が行ったのだ。物理的な構成も論理的なパースも完全に無視されていながら、反射的には極めて『美しい』とされているような描写を導き出しているということが、結局論理を理解できていなくとも、感情だけが出力された結果として生じうる、そんなふうに思ったのだ(もちろん、この感覚も極めて『感情的』で、欠片も『論理的』ではない)。
私は会話にしても行動にしても、何にしても反射的な行動を繰り返しては『どうして○○(Ex.人の気持ち)を考えられないのか』という返答(あるいはそれに類される言動)を返され、絶縁・嫌悪などの反応を受けてきた。
私は何も考えてなどいなかったのだ。文章を書くにあたっても、私はこの文章を書くときすら、何も論理的な思考など行っていない。ただ脳内に浮かび上がる単語を、文章らしく整っているらしく思われるこの文字を打ち込み続けているだけで、それが伝わるように構成されているのか、それとも構成されていないのかすら理解していないし、理解できない。読解する時にも、いつも表層しか読み取っていないし、下手をすれば表層すら読み取れていないのかもしれない。ただ、文面上にある単語に対して今までの学習データから想像される言動を引き出しているに過ぎず、それに対する何らの論理的整合性を有していないのかもしれない。私は論理的な整合性を考えることなど出来ていないから、私には他の人がこの文章を読み取ることができる文章となっているのかを理解できない。古いAIが行うマルコフ連鎖(この言葉の意味についても正確に使えているかなどわからない)と、結局のところ何が違うのかすら理解できない。単なる脳内に学習されてきたらしいデータ的な何かの違いだけではないか? 私には意味が通っているのか通っていないのかを単なる違和感でしか説明できておらず、それに対して反射的な言動を返すことはできるが、その反射的な言動が正しいかすら理解出来ていないし、理解することは(論理的に)できないように思う。
私はただ、キーボードの上で踊る指先を眺めて、ただ出力されている文字を眺めているだけだ。誤った言葉を打ち込んでしまったときにだけバックスペースキーを押し、それを消しているだけだ。私は何も考えることなく、ただ脳が命令したように指先を動かしているだけに過ぎない。これはどこまでも反射であり、論理的な思考などどこにも存在していない。
だから、私は他人のことなど考えて発言などしていないし行動などしていない。なぜなら私は今まで何も考えてなどこなかったからだ。ただ学習データの中から一定の方向付がなされたデータのなかから反射的に言動を引き出しているだけだから、初対面の相手までならそれなりの行動が返せても、そこから継続的な関係を結ぶためのあらゆる行動が学習されていないし、それに対して考えて思考することも当然できていない。AIが継続したデータの出力が出来ないこととあまりにもそっくりで笑えてしまう。
私は人生で何も考えてなど居なかったのだ!
強いて言うのであれば、AIのプロンプトに適切な表現を打ち込めば求めた答えが返ってくるのと同じように、うまいこと「どんな入力を行えばどんな反射が返ってくるのか」を自分自身をハッキングしていくことが大切なんだろう。
これを理解してからいわゆるマインドフルネス的な瞑想もすごくうまくいくようになった。私はただ反射でしか動いていないから、反射しているということだけを認識していれば、これは反射だとすぐにわかる。SNSで優れた人を見たことに対する反射であったり、不幸なニュースを目にしたことによる反射であったり、他人が近くにいたことによる反射であったりすると思うと、自分がどれだけ単純な出力を行っているのかが信じられないくらい整理できる。
こんな簡単なことに気づくのに30年もかかったのか。
今までの自分のような人間が、今の自分のように、誰にも殺されることなく傷つけられることもなく良いものを食べ屋根のある場所で暖かく眠ることが出来たとは到底思えないが、そんな贅沢を尽くした上で、なお、言うとするのなら、できれば生まれたくはなかったし、今も生きていたいとはあまり思わない。
はてブユーザにはアプリ派の人はあまりいないと思うが、ミュート機能ができて本当に助かった。自分のブクマを検索したりお気に入りユーザのブクマを見るのに世の悪意を見ないといけない状態だった。 . を URL に設定することでそれらを消せる。
知らない世界を見るためにはてブを見ているから使わないって人もいたが、世に溢れる悪意はこんなもんじゃないので知った気になるのは危険である。
精神衛生は自分でコントロールするものであり、リラックス状態のときに見たい情報は好きなもので満たされている方が良い。
しかし好きなブクマカでも好まない記事もブクマする場合がある。休憩時に見られるよう、明らかにそういった記事を意図的にブクマしない人だけをお気に入りに入れている。しかし多少のノイズならスルーできる気分の時もある。その時に全体ユーザではなく好ましいがノイズもあるユーザのものがみられると良いなと思ったりする。
まあ RSS リーダー側でなんとかすることが可能なので、 Web の可能性とか言っていた人がいなくなった後もそれらの機能を残してくれるのは大変助かっている。
しかし Twitter のリスト機能といい Facebook のグループ機能といい微妙なので、コンテキストで切り替えるという日常生活では普通に行っていることを TL 的なもので機能として実装してしかも使い易くするのは難しいのだろうなあ。
はてなのサービスははてなユーザであるというフィルタリングがされていることがある種の価値なのだろうが、収益化を目指すならどこかのタイミングでそれは捨ててユーザのクラスタをユーザ自身で作れるようにすべきだったのだ、などと思ったりする。 SNS っていっぱいあるのにソーシャルじゃないな、ということかもしれない。その外の SBM は…いや、もう止めよう
虐待防止や権利擁護、アンガーマネジメントの研修なんかを散々やってきたが、
結局のところ「こちらの感情のイレギュラー」への対抗策は「我慢しましょう」一択しかない。
どこまで我慢できるか、というのは、個人の価値観と大きく結びついていると思うので、
自分の価値観を曲げられなかったり、うまく仮面を被る事ができない職員ほど我慢ができず、虐待に至る。
そして現状の報酬制度では職員を高給取りにすることは非常に困難であるため、
給料釣り上げによるフィルタリングでメンタルが良質な人材を確保するという事も難しい。
価値観や自己コントロールに柔軟性がある「介護・福祉分野に適性がある」人材は、
「他の業種にはもっと適性があり、条件的にそちらを選ぶ」というパラドックスを解消できない限り、
虐待は無くならない。
ここって「弱者」とか「強者」とか「○○感」「○○性」とか、本文で定義づけもせずそういうの使ってる人の投稿見るけど、
ツリーを見ていくと議論の空中戦になってお互いが論破しあおうとして議論が破綻してるか、どちらかが「はい論破!w」って感じで終わってるケースがめっちゃ多い。
というかお互いに考えを理解して議論が着地してるのを見たことがない。多分自分自身の経験や体験ぐらいでしか物を語れないおっさんおばさんが匿名で議論しあってるからだろうな……。
引き出しが少ないから自分自身の体験や経験をそのままラベル付けして隙自語。自分と合わないラベルの使い方をする奴は全員敵に見えるので、平気で人格攻撃&レッテル貼り。
やられた奴がムカッとしてまた別のやつに人格攻撃&レッテル貼り。以下無限ループ。あと10年もしたら年金の話で盛り上がってそうだし、インターネット老害の住処みたいな感じで発展していくんだろうなと思うと震える。
・背が高すぎる男を避ける女
・高身長すぎてもてない女
街コンもマッチングアプリも、一定の身長に満たない男はプロフや顔見る前にフィルタリングや参加不可の刑に処されるが、女と高身長男はそんな惨めな扱い受けない。
チビ男は高身長女を煽りたいなら、マッチングアプリのフィルタリングや街コン参加条件など、男も女みたいに異性の顔やプロフを見る前に、一定の身長以下(以上)の異性を足切りする風潮にならないと無理
数年前の話になるが、思い返すと結構楽しく貴重な体験だったなぁと思うのでどうでもいい点も含めて書き残しておきたい。
就活のインターンは選考要素を除けば基本、会社の内情に見せかけた偽りの宣伝を一通り体験して終わり、というパターンが多い。
もちろん現役社員との交流会みたいなものも、ある程度選別された社員のみの参加となるし、言ってはいけないこともある程度決められているのが普通だと思うが、
ここだけは社員さんのひとりから「悪いこと言わんから別の会社にしとけ!笑」とド直球のお言葉をもらい、ジャーナリズムを感じて内心爆笑してしまった。
インターン参加者の名簿を見ると、皆やたら高学歴で引いたのだが、同時に結構な割合が新聞購読者だったので驚いた。
よく考えると新聞社にインターンしようなんて思う時点で、新聞という物体に親しみを覚えている人間ばかりにフィルタリングされるのは当たり前のことだった。
自分としては新聞にはなるべく新聞の枠にとらわれない知見を載せてほしいし、企業としても蛸壺化は避けたいものだろうけど、採用ってむずかしいなぁとか適当なことを考えていた。
※もちろんマスコミ系列は選考が早めなのでディスカッションの練習とかに使っていた人も多い
前述した通り、インターンは基本企業の宣伝でしかないのだが、それでも業界のキツさみたいなものはまるごと隠せるものではないみたい。
新聞購読者はゴリゴリ減っていて、年々そのスピードは加速していて、ネットの会員数も思ったようには伸びず……というのは割と周知の事実だけれど、
メインの点以外では各地の販売店をどうしていくかという問題が難しそうだった。
新聞奨学生(これも賛否あるけど)とかのように、単なる物流以上の意味合いを持ってしまっている面があるようで、
がっつり地域に根付いていて、当該新聞の論調から来るものかはわからないが一定以上の使命感を持って新聞販売に取り組んでいるところも多いので適当に切る訳にもいかないみたい。というか適当に切ったらめっちゃ叩かれそう。
ネット移行は某経済新聞が一番うまくやっているのでモデルにできれば、みたいな話も出てたけど、どちらかというと上記のような消極的な側面に引っ張られている面も大きいのかもしれない。
とはいえネット会員も現在の取材網を支えられる数には程遠く、ぶっちゃけ新聞って単体で見ると業界全体で結構前から破綻してるんじゃねと思いながら説明を聞いていた。
かといってニュースメディアが課金モデルとして成功している例ってあんのかな。NYTとか凄いみたいだけど天下のアメリカ様だしなぁ。
日々メディアの低質化を憂いてるはてなーですら有料記事を目にするとブチ切れてるような有様なので、日本ローカルでこういうモデルが成り立ってるのがあまり想像できない。悲しいなぁ(諸行無常)
まあみんな文春みたいになればいいのかもね
マスコミ利権を貪った豪遊、ではなく、巨大印刷企業でもあるのでそれ関連の仕事に従事する人たちためにあるらしい。聞かなかったけど激務に追われる記者さんとかも使うのかな。
女湯は無いらしい。時代を感じる。(時代というか男女比的にそんなもんか)
良くも悪くも数十年前に栄華を極めた企業、という感じで、来る未来への不安と挑戦的なものを感じさせつつ、アニメ美味しんぼを現代に視聴するようなノスタルジーも感じられてとてもたのしかった。
これに限らず、今はコロナでやってないかもしれないけれど、インターンは普段はできないような超本格的な会社見学ができるので、あんまり興味のない業界でも適当に応募してみると予想外の体験ができて良いかもしれない。
とか纏めた気分になっているが、なにかとネットで注目されがちな企業をネタに注目されたいって衝動にまみれたキショい文章だなぁ