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はてなキーワード: 評論とは

2023-12-18

ゴジマイ評

アメリカ人日本原爆を落としたという負い目を持っている

なので、戦後すぐなのに日本人が元気で、頑張ってゴジラを倒すという物語

彼らの罪悪感を軽減させる都合の良いものであり、したがってアメリカでの大ヒットに繋がったのだ

という嘘評論考えたけど、別にアメリカ人罪悪感持ってなさそうだしダメだな

2023-12-17

anond:20231217181338

事実関係を整理した上での評論感想なんですか?ちゃんと本書いてる人もいます

それあなた感想ですよね?

2023-12-06

この世界の片隅に

アニメ映画も、最近はすぐに政治の分断に使われて、普通の論評ができないのが馬鹿馬鹿しい。

自身リベラルで、かつ、この映画評価しない。けど、それは別に政治的な主張が良い悪いという理由じゃない。

単に、あまりにも記号的な書き方が芸術として評価できないだけだ。

 

流石にもう「ネタバレ」とは言われないだろうけど、終盤主人公空爆で腕を失くす。

それがあまりにも痛くなさそうで、しかあんな状況なのに処置が綺麗で、虫も沸かない血も滲まない。

エンディングに腐乱死体が出てくるけど、いしいひさいちあたりが描くギャグ漫画ゾンビ描写みたい。

すべての表現が徹底的に記号化されて、戦争空気感が「無痛化」「無臭化」されている。

これで「日常リアルを描いた」って、もうそれだけで表現としては噴飯ものしかない。

右も左も関係ない。芸術的な濃度を求める感性があれば、こんな病人食のようなもの評価できるわけがない。

 

そういうリアリティのなさが単純にすべて馬鹿馬鹿しくて、政治的に良い悪いの問題じゃない。

強いて言えば、そういう政治的な問題意識が、「はだしのゲンレベルでも耐えられない精神なお子様向けのものであることが問題っていうあたり。

こんな幼稚園児向けの絵本レベルに誤摩化さないと、日本大人って、戦争の痛みが受け止められないの? って。

 

そういう根本的な表現幼児性にまったく引っかからずに、ただ作家監督政治思想が云々って語るのに何の意味がある?

それ自体ごっこ遊び政治評論モドキとしか言いようがない。

幼稚なネットユーザー政治ごっこ劣化し続ける日本言論文化にはもうまっぴら。

2023-11-27

anond:20231127144156

ジャンプ漫画支持者なんてほぼほぼみんな「流行りに乗るタイプ」やろ。

ジャンプって媒体のもの流行りの塊なのは自明やろ、ジャンプに限らず評論ごっこしてる寂しいオタクフリーレンに限らずいろんな漫画ケチつけてるだけやと思うやで。

2023-11-18

anond:20231116212314

そら地頭が良くて文化的に恵まれていて、学力も高くて文章うまくないと、ちゃんとした評論なんてできないからな。

2023-11-14

ボーカロイド音楽論」(ぱてゼミ)は何故あまり批判されないのか

追記そもそも「何故もっと批判されるべきなのか」については、【最後に】の後に追記した(2023/11/15)。

【背景】

 東京大学東京芸術大学では、鮎川ぱて氏(以後、ぱて講師)による「ボーカロイド音楽論」という講義が開講されている。東京大学の方の講義はぱて講師による著書『東京大学ボーカロイド音楽論」講義』においてその過去の内容が公開されている。このダイアリーの筆者(以後、「筆者」)は「ボーカロイド音楽論」の元受講生であり、書籍を購入し一読した。同講義Twitter(現X)での実況が推奨されておりTwitter上で一つの活発な動きを毎年見せているが、「ぱてゼミ 批判」「ボーカロイド音楽論 批判」などと検索しても同講義に対する明確な批判ツイートはヒットしない(Twitter検索システムが悪いという可能性は保留する)。書籍についても、これに批判的な書評Amazonレビューやブックメーターにわずかに存在するのみである講義内容全体のレビューはそれらに譲るとして、本ダイアリーは、この「批判の少なさ」の原因について仮説を立てることを目的とする。

 本ダイアリーは直接の筆者の特定を避けるため匿名形式をとっている。内容について「そんなの当たり前じゃん」「その仮説は的外れだ」と思う読者もいるかもしれないが、このように書き残さなければ何も始まらないということでご容赦願いたい。また、筆者は全ての年度や東京芸術大学講義を聴講したわけではないこと、このダイアリーの内容は主に『東京大学ボーカロイド音楽論」講義』の初版第一刷(以下、書籍)に基づいていることを断っておく。

【本論】

まず結論として、 「ボーカロイド音楽論」に対する批判の少なさの原因として、筆者は次の4点を提唱する。

1. 媒体:現地で行う音声形式講義では記録に基づく批判が困難であるという点。

2. 受け手資質講義対象となる学生や読者のほとんどはその議題についての非専門家であり、しか批判に割くだけのリソースを持っていないという点。

3. 内容:この講義の内容が批判を先んじて封じてしまうように作られている点。

4. コミュニティ:この講義ボーカロイド音楽が好きな東大生のうち一部を迎え入れるコミュニティ形成する役割を同時に担っており、コミュニティ批判との相性が悪いという点。

以下、これらの点を順に見ていく。

1. 媒体

 書籍が発売される前、「ボーカロイド音楽論」(以下、この講義)は大学の構内の教室で開講されているのみであった(初回の何回かこそニコニコ動画配信されたが)。そこではぱて講師の口頭でのみ内容が話され、レジュメは一枚も配られることなく、板書も最低限であった。言われたこと全てを紙に書きとるのはほとんど誰にもできないだろう。従って口頭の講義に基づく批判は、言った言わないの水掛け論になってしまやすい。現に筆者がこのようなダイアリーを書くことができるのも書籍が発売され、何を書いてあり何を書いていないかを把握し見直すことが可能になったかである

2. 受け手資質

 この講義は主として東京大学教養学部学生に対して開講されたものである。その多くはこの講義で取り扱った多くの思想概念の(多くとも)全てについて専門家であるというわけではない。またぱて講師自身もそれら全ての専門家でないことは講義中に明言している(85ページ脚注5など)。従ってぱて講師によるそれらの援用が妥当でない可能性は常にあるが、そのような観点から検討をすることは学生にとって難しいだろう(勿論専門家のみがそれらを扱うべきだという立場をとることは避けなければならないが)。さらに言えば、進振りのための勉強で忙しい学生にはわざわざこの講義批判するためだけに捧げる時間も体力も残っていないということ(そしてこの講義のもの大学が門を閉める時間まで延長していることもそれらのリソースを奪う一端となっていること)を指摘しなければならない。これは書籍の読者の多くについても同じである

3. 内容

 ここでは書籍でぱて講師が用いた概念の内容が批判を先んじて封じる性質を持つことと、ぱて講師が「論じるべき内容を論じなかった」ことが批判すべき点を覆い隠す機能を持っていることを指摘する。

 まず、ぱて講師はテマティスム(テーマ批評)に則ってボカロ曲評論するとしている。ぱて講師の言うテマティスムとは、以下に抜粋する通りである

「テマティスムは、作家メッセージをその意図の通りに読み取るということではありません。そうではなくて、むしろ作家作品の細部から作家自身も気づいていなかったかもしれないテーマ抽出し、作品価値を読み替えていく。それがテーマ批評という手法です。」(40ページ14行目-41ページ1行目)

さらに、この講義の鍵となる概念の一つとして「アンチ・セクシュアル」をぱて講師提唱している。以下に書籍抜粋を示す。

「本講義の当面のキーワードは『アンチ・セクシュアル』です。性や愛をめぐる通念を自明のものとせずに扱う感性が、ボカロシーンには多く見られ、そして支持されました。なにに比してかというと、いわゆるふつうのJポップに比してです。Jポップのチャートを見れば瞭然でしょう。ラブソングばかりです。」(42ページ8-12行目)

「『アンチ』といっても、それは必ずしも単純な否定のことだけを指しません。性愛を疑ってみたり、気持ち悪いもののように言ってみたり、ときにそれは、米津玄師において見られたように、アンビヴァレントな愛憎を差し向けるというかたちをとることもあるでしょう。」(43ページ2-4行目)

 つまるところ、「テマティスムを用いれば、性や愛をめぐる通念を自明とせずに扱う感性(単なる否定に限らない)をボーカロイド音楽から読み取ることができ、そのような音楽がシーンの人気を博した。一方で「いわゆるふつうのJポップ」からはそのような読み取り方のできない曲が人気を博している。」という主張をぱて講師はしているということになる。この主張に当たって用いた「テマティスム」と「アンチ・セクシュアル」の二つの概念は、この主張に対する批判として想定される「作者はそこまで考えていないと思う」型の主張や「この曲は性や愛めぐる通念を否定しているとまでは言い切れない」型の主張を先んじて封じる機能を持つ。このため、読者がすぐに思いつく形での批判ができず、ぱて講師の主張に対する批判が少ないことに寄与していると考えられる。

 もう一つ批判封じに寄与しているのは、「論じるべきところを論じていない」ということである。「いわゆるふつうのJポップ」についての記述に注目すると、ここでぱて講師が行わなければならないのは、

①「いわゆるふつうのJポップ」を「『アンチ・セクシュアル』な感性を持たないJポップ」以外の形で定義すること

個別楽曲評論を通じて「いわゆるふつうのJポップ」に該当する曲に「アンチ・セクシュアル」な感性が備わっていないことを論じること

③それが「Jポップのチャート」に非常に多く見られることを指摘すること

であるしか書籍の中で「いわゆるふつうのJポップ」についての言及があるのはここのみで、上記3つ全てを行っていない(ぱて講師言葉を借りれば、「瞭然」という「感覚思考俎上に載せ」ていない)。それもそのはず、「テマティスム」と「アンチ・セクシュアルな感性」を用いた読解だけではこのようなことは到底不可能からである。「テマティスム」は確かに「作者の意図」に縛られない自由評論の基礎であるが、それは同時に評論者次第でどうとでも言えてしまうことを意味する。同じ曲が違う評論家によって「アンチ・セクシュアル」であったりそうでなかったりする。もし「そうは言ってもこじつけってものがあるでしょ」と思うのであればそれは「良い評論」の基準として「テマティスム」以外の何かを想定していることになる。さらに言えば、「アンチ・セクシュアル」という概念の幅も広い。同じ言葉賞賛にも皮肉にもなる世界で、「性や愛をめぐる通念を自明のものとせずに扱」っているかどうかを「テマティスム」のみで確定させるのは不可能だ。つまるところ、ぱて講師が「いわゆるふつうのJポップ」を論じないことは「テマティスム」の持つ脆弱性、あるいは、「何でも言えてしまうが故に何も言うことができない」性を(本人の意図とは無関係に)覆い隠し、批判を予防することに寄与していると言える。

4. コミュニティ

現地での講義に付随する活動として、コンピレーションアルバム作成ちょっとした食事会など、ボーカロイド文化が好きな東大生のためのコミュニティ積極的提供する姿勢をぱて講師は見せている。それ自体マイノリティたる若者鼓舞するという目的からすれば妥当であるが、評論の面ではこれが裏目に出ている。余程肝が据わっていない限り人間は、自分を匿ってくれるコミュニティの発起人の言うことに盾突いたその先を恐れる。発起人自身が何とも思っていなくても、同じコミュニティの仲間から邪険に扱われるかもしれない。仲間が何とも思っていなくても、内なる自分が責め立てる...。こうなれば講義批判するのは難しい(批判したとて有耶無耶に言いくるめられるだけだ、という疑念もあろうが)。「肝を据わらせろ」という主張はマッチョイズムなのでしないが、しかコミュニティ形成するとはそういうことなである

最後に】

 「ボーカロイド音楽論」の講義書籍化されたことは、この講義自身にとって、そしてボカロシーンにとっての大きな一歩であると筆者は考える。内容の巧拙政治的立場はともかく、書籍化されたことによってこの講義は「亡くなったボカロPを悼み、内輪でボカロ曲をべた褒めする会」になってしま未来を脱して、元受講者やボカロ関係者を含む全ての人の衆目に晒され、批判され、検討され、洗練され、時に新たな論を生み出していくことができるようになった。後は実際にそうしていくだけである。筆者よりもっと優れた批判をできる人は多くいるはずなので、後は彼らに託してこのダイアリーの締めとする。

追記:何故もっと批判されるべきなのか】

 強い言葉で言えば、

「『ボーカロイド音楽論』などと大層な看板を出しながら、その実著名な学者の業績を形だけ借り"正しい"思想を添えた類推だらけの持論を『教養』と称し、[『教養』]と[『教養』を並べ立てた個別楽曲評論]を弱い脈絡の下で繋げただけの、部分を詳細に語っただけで全体を語った気になっている、評論と呼ぶべきなのかもわからないものが、まともに批判されずに学生の間や世の中に広まることが許せないから」

である(「まともに批判されずに学生の間や世の中に広まる」という心配杞憂であってほしいが)。

 筆者がこの講義書籍の内容が批判されるべきであると考えている理由は3つあり、これらを以下に簡潔に説明することで追記とする(注あり)。

1. タイトル詐欺:「ボーカロイド音楽論」を名乗りながら、その大部分は個別作品の読解に費やされている上、それらを踏まえて「ボーカロイド音楽とはなにか」をまとめて論じている内容が存在しないこと。

2. 「思考俎上」に載せる「感覚」の選び方の恣意性:本論で述べたように、思考必要なぱて講師感覚があるにも拘わらずそれを思考した形跡が存在しない箇所が見られること。

3. 「思考」の粗雑さ:「感覚」を正当化する目的しか思考」が用いられていないこと。「思考」に用いた「教養」の内容もそれぞれの分野を専攻した読者から見れば的外れものになっていること(注1)。「類推」や「テーマ批評」などのいくらでもこじつけることが可能手法を用いているのに、何故その手法を用いるべきなのか、その手法限界はどこにあるのか、といった説明がされていないこと。

注1:少なくとも一つの例として、筆者が専攻していた生物学に関連した部分を挙げる。リチャード・ドーキンス書籍利己的な遺伝子』に言及した後、「しかしこれらのような個体利他行動も、種や遺伝子主語にすると、自らを温存するための利他行動にすぎない。」(54ページ8-9行目)と段落を結び、その後「性はこのように、種の都合のための機能主義的なプログラムであるという言い方もできるわけです。」(54ページ18-19行目)と主張している。結論から言えば、この言い方はできない。生物学を学んだことがある人物なら絶対にこのような主張はしない。進化の結果としてある個体Aが(同種とは限らない)他個体Bに利他行動をする形質を獲得する条件はあくまで「それが後に個体A自身生存繁殖に有利となる可能性が十分高い」あるいは「個体Aと個体Bで利他行動に関連する遺伝子を共有している」であり、そこに「種」の概念は一切関係しないかである。(遺伝子自然選択対象となり得るのに対して)「種」という概念は観察者が生物を分類する際の線引きのツールであって、自然選択対象として観察可能ものではない以上、「性は種の都合のためのプログラムである」ということを(観察によって)事実として得ることもできない。つまり「種」を全体と見立て個体」を部分と見立てるような類推は成立しない。百歩譲って「利他行動に関連する(種を問わず)同じ遺伝子を持つ全ての個体」を全体とみなす形で類推を成立させるとしても、それは「類推を成立させるためだけに拵えた全体」であることを指摘しておく。

2023-11-07

anond:20231107174847

お前卵産めないんだから、二度と卵の評論すんなよ?

2023-10-26

anond:20231025074032

中学だったか高校だったか国語でこういう評論文で読んだなー

その評論文では、日本人は藩が国家同然だった時の名残で今も地方アイデンティティがあるという解説だった気がする

2023-10-23

記号攻撃することのバカバカしさ

簡単記号原色の色使いを攻撃するのがバカバカしい

同様に簡単記号意味に過剰に文脈を読み込んで批評する評論バカバカしい

(というか、そういう評論文脈の通じる者同士でのすごく狭い領域を前提に限られた界隈で読むためのもので、その領域を外れたとこまでフォローしてない)

記号って「大まかにまとめる」ために使うので、そもそもかい差異無視して使う前提で使うようになってる

まり多様性配慮するという考え方とそもそも正反対の使い方を想定してる

ひらがな50字は50字で森羅万象の音を表現するという無茶な簡略化をしてるが、「そういう使い方をする」という了解がないと使えない

現代では専門性が深まりすぎたのと、情報拡散が容易になりすぎた結果、

使われた記号文脈を使われたそのタイミング解説聞きながら視聴するようなスタイルが出来てしまったけど(ウマ娘ガルパンニコ動解説のような)

それに乗じて読解の正当性を万人が主張しあってたら、記号本来の使い方(簡単にまとめて、簡単に伝える)が機能しなくなる

というか、もう既に、そういう機能不全を意識して狙ってやってるやつがい

みんな、頭が良くなり過ぎだと思う。もう少し無頓着バカでいい

ハッキリ言って性差問題になるのは結局は所得格差なんだから社会主義的と言われようが金の再分配だけやってれば解決する話が大半である

意識高い系って、金の分配の話から目を逸らしたくて、マイノリティとか性差とか歴史とか言ってるだけだろ

実際は金で解決するのが一番簡単もっと記号的で色がつかなくて配りやすいのが金だから)なのに、金の話をしたくないせいで、どんどんややこしくなっている

バカバカしい以外に言いようがない

2023-10-19

anond:20231019165450

文学評論やろ

作者の真意なんてどうでもええんや

我々がどう読むか、どう読めるかのほうが重要なんや

2023-10-07

人権思想を相対化したり絶対ではないなどと抜かす不届き者は無知で愚かな冷笑ネトウヨらしいですけど、ニーチェって人権についてなんか言ってたのかな。神蘇ってますけど。

あと現代文魯迅だか丸山眞男だかの評論絶対ではないからこそ注意してないと終わっちゃうよねみたいな事書いてた気がするけど、人権絶対異論は許さないみたいな人ってその辺どう思ってんだろう。

2023-10-06

anond:20231005155424

増田ありがちなうまい文章を書く奴が偉い」みたいな価値観どうにかしてほしいわ。文章相手表現の全てで文章しか相手の力量を推量れない場に引きこもってるとそういう価値観になっていくんだろうがやはり明らかに世間からずれてる。文章のうまさなんて人の価値の一側面でしかないし、別にこの元増田の種の文は芸術としての文学でも多少なりとも技巧が問われてもしょうがない評論文というわけでもなく、ただの考え開陳目的の報告文だから、「内容が興味深い」のでさえあればそれで文章価値としては必要十分だ。報告文に技巧求める方がきしょいわ

2023-10-03

なぜ男性は炊事場に立たないのか、みたいな常識を問うことは割と良しとされても、人権とは何なのか、そもそもそれは存在するのか、みたいな疑問については混ぜっ返し、拗らせ、人類の叡智の否定、野生への回帰歴史勉強不足、愚行と断じられるのってなんか茶番っぽさを感じる。

もちろん人間の半分を占めてる女性を抑圧しかねない規範疑問視するのと、ごく一部の強者欲求を抑圧して大多数の弱者恩恵をもたらしてる(と少なからずの人が思っている)規範とでは話が違うんですけど。

自然法則神様が決めた絶対ルールであって、誰が何を思おうがリンゴが地面から枝に戻っていく事にはならない。でも規範は誰が何を思うかそれ次第、というかそれが全て。時間が流れて考えが変われば常識も変わって法律だって変わる。正しさを見出したのか単に考えが変わったのか、それは答え合わせのしようがない。その口から絶対の真理が告げられる神様でも連れてこなければ、どちらの捉え方が間違っているとも正しいとも、断言のしようはないと思う。

人権思想とて数ある思想の中の一つだ。

なんて言おうものなら烈火の如く怒り出す。人権お気持ちなどではなく絶対です。異を唱えるのは勉強不足でバカネトウヨ冷笑系です。

みたいな人はネット床屋政談で割と見かける。

人権歴史的に形成された世界レベル合意

いつどこで何時何分地球が何回回ったとき私が合意しました?

誓約書を書いた覚えも、同意しますと言った覚えもないんですけど。それとも世間一般の人はそういうのやってるんですか?

そんな事を言ってるオマエだって人権利益享受してるだろって?

それは話がすり替わってますよね?私が人権利益あやかっているのと、人権が本当に合意であるかどうか、絶対的な価値であるかとは論理的に繋がらない。

いくら人権がもたらす利益を並べ立てたところで、人権思想を広める有用さを示すには十分だけれど、人権絶対かという問いからはズレてる。

疑問を挟む奴は人権剥奪のような言いようではまるで異端審問会ではありませんか。

他人を無闇に害してはならない。ムカつく奴を殺したい。これは根拠を辿れば等しく快不快問題になる。どちらも論理だけでその考えの正当性を示す事はできない。論理と言うより、どちらかと言えば共感問題だ。

意見とは価値観や感情を土台にしてそこから論理を積み重ねていくものだけれど。人権思想は根源的な感情論理を乗せたというよりは、感情多数決のものではなかろうか。

とは言っても人権思想が多くの人にとって都合が良いというのはまあ確かなのだろうし、多くの人は「多くの人」に包括されるのだから別にそれでいい。論拠などよりも肝心なのは得られる結果なのだし。

別に論拠なんかなくても快不快多数決で良いじゃんというか、そうする以外にないと思うのだけれど。

人権「真実」に目覚めたバカ共と違ってこちらは論理的な話をしているが?みたいな感じで、その実さしたる論拠はない所が、なんというか不誠実だよねって思う。ナイーブといえばそれまでだけど。

人権の何たるかについて厳密に議論する事と人権が相対化され果ては軽視される危惧とを秤にかけて、後者を選び取った上で自覚的絶対的なものだと喧伝しているのかもしれないけどね。

まあ絶対的なものではないけれど、いやないからこそ、不断努力によって維持せねばならない。高校の現文の魯迅だかの評論でそんなような事を言ってた気がする。当時は理屈レベルしか今はまあ肌感覚でそうかもねって思う部分もある。

……人権を相対化したからにはこうやって結ばないといけない感じなのもなんか茶番っぽいよなって思う。まあ実際、普通ならそういう結論になると思うけど。

普通」ではなくて、別にそう思わない人がいた所でそれは単に価値観の相違だろうし、それを否定するには「や、まあ……一応世の中そういう事になってるらしいんでどうぞここは一つ……」って多数決で突っぱねるしか無いんじゃねって思う。というか実際そうされてるだろうし。

みたいな事をバイト中の暇潰しに考えてた。こんなつまらない事ではなくて、もっとくだらない事を考える脳みそにしていきたい。

2023-10-02

海外音楽評論を直訳するの好きな香具師おる?

嘘をつくつもりはありませんが、生涯のギター愛好家として、私が涙目になるソロほとんどありませんが、これはその数少ないソロのうちの1つです。 本当に信じられないほどです。 これまで演奏した私のお気に入りソロひとつ…彼がこれをリッピングしていたとき、誰に何をチャネリングしたのかはわかりませんが、彼の心は別次元にありました。 私はここ数年、自分修正を得るために数か月ごとにこれに戻ってきました

こういうやつ。

なんか直訳だと妙に味がある。

【翌朝追記あり】劉慈欣「三体」の好きなところと微妙なところについて

ネタバレ注意!









好きなところ

たった一つの原理から出てくる結論三部作最後まで貫いている

この物語基本的原理は次の通りだ。「宇宙資源は有限であるしかしすべての文明は成長し・生き残りたい。よって、自分が生き残るためには相手を皆殺しにしていい。さもなくば相手に殺される」。そこから出てくる結論は「相手位置がわかったら即座に抹殺するのが最適解」。「相手と対等の立場に立って交渉するには、いつでも相手文明の座標を全宇宙晒す装置を作ればいい」。

これが適用されるのは地球人エイリアン・三体人だけではない。宇宙戦争ののち、孤立した地球人宇宙船同士も相互不信に陥り、突然殺し合いを始める。この原理原則例外はない。

どうしても攻撃したくなければ、相手の脅威にならないと示すため、限定された空間の中に引きこもるしかない。

絶望的な世界観

エイリアンのたった一つの水滴という兵器に、地球の最強の兵器であってもまったく歯が立たない。あるいは、エイリアンが数百年の偽りの平和ののち、地球人を何の共感もなくジェノサイドする・餓死させることを宣告する場面。主要なキャラであっても容赦なく殺してしまう命の軽さ。無意味に死んでいく人々。愛し合うカップルであっても、異なる早さの時間に引き裂かれる。この絶望感こそが本作の醍醐味だ。

さらに、地球人文明通りすがりの三体人とは別のエイリアンの作った名刺大の兵器で、三次元から二次元物理世界に落とされて再起不能になるまで破壊されるシーン、これは最も美しく壮絶な太陽系人類滅亡の場面だ。これを読むためだけに「三体」を買うだけの値打ちがある。

それだけではない、現在宇宙四次元時空で光速が有限なのも、本来は十次元光速無限だった世界が、宇宙戦争で使われた次元兵器による「堕落」の結果だと示唆される。感動的なまでの悲観主義

SF兵器なんでもあり

宇宙戦艦、超兵器エイリアンコールドスリープ、超構造体(メガストラクチャー)、ネトゲなど、絵になる風景ばかりだ。確かにSFモチーフを大量に詰め込むと粗削りになりがちなので、作品によっては一つに絞ったほうがいいと思うこともあるんだけど、これはいい

舞台中国である

これは欧米SFではほとんど見られない。中国が扱われるとしたら古代文明の謎であるとか、悪の共産主義陣営とかで出てくることが多いので、まず中国舞台であるというのが新鮮だ。始皇帝とか荊軻かい名前が出てくるだけでもうれしい。中国から見た日本文化ってのも、なかなか見られないか楽しいケンリュウも書いているけどね。あと、中国からしても日本と言えばカミカゼ忍者茶道なのね。あとは雀魂とか)。

関係ないけど、英語版ウィキペディアは概して日本よりも記事が多いし細かいことが書いてあるが、中国の歴史については日本語版のほうに一日の長があることもある。

あと、文化大革命が背景になる中国小説とか映画とかって、面白いのが多い。

宇宙の最終的な運命まで描き切る蛮勇

クラークとか小松左京とかじゃないとやらないくらいの発想がぽんぽん出てくるのが素晴らしい。

SFリアルさを求めて、技術革命とそれによる社会の変化を描くこともあるし、現実社会問題に肉薄することもある。雑食の僕はそれはそれで面白くて大好きなんだけど、定期的にSFルーツにある「人類の、そして宇宙の終局的な運命とは」「不可解なるエイリアンとの出会い」みたいなテーマ作品をどうしても読みたくなる。

微妙なところ

概して女性の扱いが悪い

第一部でエイリアン軍勢地球に呼び寄せてしまうのは人類絶望した女性科学者・葉文潔だ。「いっそ愚かな私たちを滅ぼしてくれ」と宣言してしまう。第二部ではエイリアンに対抗するために地球資源を使い放題にしていいと許可された「面壁者」羅輯が、どうすればいいかからずに、かわいいだけの理想の妻を求める(一緒に問題を考えるパートナーではない!)。さらに、第三部ではエイリアン和解した人類が、数百年の平和を経て穏やかになっており、「日本韓国アイドルのように」「女性化」していると描写される(前に「原神」のキャラとか”男らしくない”俳優とか実際に規制されてたよね)。

そして、コールドスリープから目覚めた主人公女性・程心もエイリアン文明破壊するための報復装置を、弱気から起動し損なう(これがさっき述べたエイリアンによる人類ジェノサイド宣言につながる)。

同時にコールドスリープしていた軍人は「この社会もっと雄々しくあるべきだ」という趣旨マッチョなことを述べる。2010年SFだけどこれでいいのか。このシリーズ普通に面白いと褒めていいのかオバマさん。僕はジェンダー意識がかなり保守的なほうだと自覚してるけど、これはちょっと弁護できないな(というかこれだけ女性の扱いが悪いと、作者には過去につらいことがあったのか? って心配になる ※1)。

さらに、第三部の主人公・程心は、使者として脳だけになってエイリアン文明に入り込んだ恋人・雲天明が、エイリアン文明の中枢から伝えてきた、人類文明を救うための暗号化されたメッセージを解読し損ない、これも人類滅亡の遠因となる。

まり人類の滅亡の契機は、ほぼすべて女性に起因している(いずれエイリアンに見つかっただろうけれども、直接の契機は女性)。寡聞にして、この点を検討している評論を見かけていないけれど、ググればどっかにあると思う。

三部作全部ドラマ化するとしたら、この辺テコ入れされるんじゃないかな。

※1 同じ心配をしているのが「たんぽぽ娘」のロバート・F・ヤングで、若くてかわいらしい女の子といちゃつく小説がやたらと多い一方で、「ジョナサン宇宙クジラ」では年上の女性たちや・女性上司日常的に暴力を振るわれている描写がある。成熟した女性に対する嫌悪と恐れを読み取ってしまうのは、気のせいだろうか。

被害妄想

エイリアンとの戦争に勝つためにはどうすればいいか軍人議論する中で「エイリアンに負けるかもしれないという精神的敗北者を追放する」「エイリアンシンパスパイ排除する」という結論が出てくるの、なんというか現実中国共産党の発想なんだけど、エイリアンに対してこういう態度を取るのは欧米だと冷戦時代SFが多い(この前のホーガンとかね。でもホーガンは「未来からのホットライン」が面白いよ。「シン・エヴァ」の元ネタだし)。なんというか、「三体」が悪いというより、中国政府がいまだにスパイ大作戦な冷戦世界観世界を見ているという感覚が生々しく伝わってきて幾分げんなりする。マジで共産党が「最善の防御は皆殺し」とか考えていませんよーに。さっきの女性の扱いと含めて、数十年前のSFを読んでいる気分になってしまった。

第一からエイリアンの超粒子で地球文明監視されて物理学の発展が阻害されるんだけど、これも敵のスパイに見られているという被害妄想的な感じがする。

深読みすれば、共産党監視されている国民の恐怖・心象風景なのかもしれないけどね。

ときどきトンチキ

SFってのはある程度ブラフ必要で、トンチキな場面も出てくるんだけど(それをどうやって読者に悟らせないか仮定文学であるSFテクニック)、たとえば第一部で地球文明を隅々まで監視できるだけの技術文明を、地球ナノワイヤで倒せるってのは、ちょっと無理があるんじゃないか?(追記。せめて向こうでナノテクが発展していないエクスキューズがほしいよね)

総評

人類に対して敵意を持っている宇宙の中での、人類の行く末について最後まで描き切った蛮勇がとても好き。三部作の壮大さのおかげで、隠せない欠陥にもかかわらずこの作品を気に入ってしまっている。第一部よりも第二部、第三部の順で面白くなっているのもいい。自分の中では★二つから★四つ半くらいまで評価が上がっていった。作家として器が大きくなったって感じたよ。

ラストの逃避にも似た、小さな農園を備えた小宇宙も、中国伝統的美意識神仙思想隠遁に繋がっていていい。美意識が共有できると嬉しいよね。

全体として思ったのは「これって炒飯ラーメン餃子の特盛セットじゃん」ってことだった。みんながSFと聞いて思いつくネタをがっつり取り込んでいる。読んだSFの冊数が増えると、青椒肉絲とか麻婆豆腐とか黒酢酢豚とか、燕のスープとかフカヒレかいろいろあるのがわかってくるし、全部乗せを馬鹿にしたくなる気持ちも出てくるけど、なんだかんだで小さい頃に食べた大味な全部セット無性に食べたい日もある。

読書楽しい

時々どうしても受け入れられない価値観出会うこともあるけれど、なぜそう考えるようになったのか? なぜ自分不快と感じるのか? と考えると、共感的に理解できるかもしれない。少なくとも自分価値観あぶり出される。

過去批判し、そのうえで現代をよりよくしていこうと思うが、だからといって過去を見くだしたいとは思わない。好きなところ、好きになれないところ、両方を検討するのは楽しい作業だ。

本を読んだときはたった一つの気に入った言葉があればいい。映画を観たときは一つでも好きな場面を見つけられたら良しとする。美術展に出かけたら、一枚だけでも気に入った絵があれば外に出た甲斐がある。

こうして欠点もあるけれども面白かった作品について書いてみて、「もういいや」って思ってた外伝にも、手を出したくなってきた。

それではまた。

前回

今さだらけれどセンスない認定されたSF作品を弁護したい

お昼の追記

「三体」人気すごいなあ。久しぶりにバズったよ。

以下ブコメレス

人によっては人物名前を同定できるかがハードルになりそう。

これは外国文学を読むとき鬼門で、自分三国志ゲームとか小説とかで親しんでたからなんとかなったけど、そうでないとしんどいかも。

おすすめロシア文学もなかなか読んでもらえないのもこの辺りに理由がある。

基本的にはメモしたり声に出したりしてその国の言葉リズムに慣れるのがおすすめマニアになってくるとジョンとヨハネイワンが同じ起源だとか気にし出すけど、これが通用するのはアラブ世界までだしね。

この方が好きなSFもっと知りたい。

SFじゃないのも含むけど、

必読書コピペにマジレスしてみる・自分のオススメ41冊編(1)

必読書コピペにマジレスしてみる・やっぱりオススメの21冊編 (1)

あとは、

必読書コピペにマジレスしてみる・海外文学編(1)

必読書コピペにマジレスしてみる・日本文学編

必読書コピペにマジレスしてみる・ミステリ編

必読書コピペにマジレスしてみる・哲学編

これは読書リスト

2022年に読んだ本

ではでは。

夜の追記

良くも悪くも手触りが野蛮な旧世代SFなのがむしろSFクラスタ外にもウケた理由なのかもしれないとは思う

これはちょっと思った。原初SFにある奔放な想像力、よくそんなネタ思いついたな! みたいなのがたくさんあるのが「三体」のいいところ。

で、それがモヤモヤする理由でもある。SFが洗練されてくると科学的正確さとか政治性とかを無視するわけにはいかなくなる。自分と異なった属性に対して誤った知識が広まらないよう、表現ルールがあるのは大切だと信じる一方、気持ちの面では想像力が羽ばたくのを少しも邪魔されたくない自分もいる。だから、反発する人の気持ちもわかる。

なので、正確性とかに気をつかったSFに慣れた身からすると「こんな粗削りでもウケるんだ! 売れるんだ!」という意外さと、先を越された悔しさがある。だから元増田みたいにSFの外にまで広がった作品を「センスがない」とディスりたくなるのかも。

でも、僕も最初はそういう作品から読み始めたわけだし、重箱の隅をつつくような外れ値の古参よりも、作品を買ってくれる新しいファンがどんどん増えたほうがジャンルは育っていくし、若いファンは「にわか」呼ばわりするのを恐れずどしどし読んでほしい。

思い出したこと

そういえば第三部でアボリジニおっちゃんが出てくるけど、欧米作品だったらもっと白人文化に対して批判的だっただろうし、なんだったら三体人に押さえつけられるときももっと痛烈な言葉をはかせていただろうな。より強い文明出会たことによる悲劇メタファーとしては扱いが若干雑だ。

欧米作品とのこの辺の感覚差異面白い

他に書いた文学関係増田

村上春樹のヒロイン・登場人物たちのつながり

カズオ・イシグロ大体読んだけど好きかわからなくなった

以上。

翌朝追記

おすすめの本のリスト追加したよ。

2023.10.12追記

早川書房翻訳SFファンタジイ編集部ツイッターに捕捉されてて吹いた。

anond:20231002011601

小説を書いて公募に出す

人への共感性の乏しいASDには文芸は不向きやろ(芸術以外の分野に関する評論批評などなら別かもしれないが)

自分のワークを世に知らしめたいという承認欲求を満たすのが主眼なら、オープンソースソフトウェアへのコントビュートとか別の道を目指すべきじゃないか

2023-09-29

anond:20230929131325

キモオタ萌えアニメ評論してるし

エセバンドマンマイナーバンド評論してるし

無職ゴミ無料漫画コメント欄評論してるし

みんな自分が何者かであるように近くにあるもの評論したがってる

もちろん俺は増田ゴミどもを評論するのさ

anond:20230929131146

大した食い物でもないのになんでそんなに評論したがるんだろうね

ラーメン評論家

定期的に死んで入れ替わってくれるのはおもしろいが、

評論文体ほとんど同じで、見分けがつかない。

そして、そもそもラーメンってそんなにおいしくない。

2023-09-23

自分数学を好きだったのは、数学の中の世界に親が干渉してこないからだった

特に国語なんかは、文章を読むという行為は親でもできることだから、「お前には国語力が無い」みたいなクソ発言をされたりしたので、嫌だった。(逆に、お前に古典評論が読めるのか!と言いたかった)

社会理科英語も、新聞政治面を読んだり、テレビ生物特集見たり、カタカナ語単語だけ半端に知ってたりで、何かしら自分知識があることを主張してくる(俺もその学問を知ってる風な発言。お前とは勉強時間や知ってる量が全然違うんだよ!知ったかすんな!!と言いたかった)ので、嫌になる可能性があった。

ただ、数学は違った。たしか算数のころは、四則演算やら割合やらで、ああしろこうしろ干渉があったが、数学になってからはもう何も言ってこなかった。

連立方程式も2次関数も、親にはもう何もわからなかったのだ。そういう意味で、数学は親から干渉されない幸せ空間だった。

親の、半端で何も本質がわかっていない発言に、下手なダジャレを聞くようなイライラを感じなくて済んで本当に幸せだった。

から、私が数学勉強するという行為は、数学自体が好きだからということ以上に、そういう親から独立手段ひとつだったんだろうと今は思う。

そして自然な流れとして、数学科に進学し、実家の近くにそのような学科は無かったこから物理的にも独立して生活することができるようになった。

本当に幸せを手に入れることができたのだ。

まあ、結果として、数学研究者になることはできなかったのだが、そういう点で今現在でも、数学という学問存在に心から感謝している。

数学は、親という干渉から逃れる精神的な支えであった。数学という抽象的な学問が、抽象的に私の人生を救ってくれたのだった。

2023-09-13

山道を日々走る俺が山道走行のコツについて述べる

https://anond.hatelabo.jp/20230912211531

こんな増田話題になっていますね!この増田に向けてと言う訳ではありあせんが、日常的に山道生活道路として走っているので、アドバイスしておきます

結論から言わせていただくと

以下解説しましょう。

車間距離短すぎだろ下手糞が

増田はこのように書いていますね。

こういうドライバーは後ろから追いつかれても絶対に譲らない。チンタラ走り続ける。制限速度で走る場合その速度をキープしてくれればまだマシなのだが、上り坂でアクセルを踏まず大減速して渋滞を作るし、下りではローギアに落とさずブレーキパカパカ踏んで減速するため傍から見ていても危なっかしい。カーブライン取りも甘く、インから入って外に膨らみ、曲がりきれずカーブ後半で急旋回する。同乗者はたまったもんじゃないだろう。車内はきっとゲロまみれだ。

こういった運転の細かい所まで観察でき、その影響をダイレクトに受けるようなレベルでは車間距離が短すぎます一般の平地に比べて、2倍から3倍くらい、車種がわかるかな?ぐらいの長い車間距離とりましょう。

そうする事によって、上り坂に入った直後の急減速や、下り坂でのカーブごとの減速などに追従出来るため、ストレスなく走る事ができます

山道カーブアップダウンが激しいことがありますし、カーブの先が全く見通しがないこともよくあります。そしてそれぞれの車や荷物をの状況などによっても挙動が変わってきます。その差を吸収するのが車間距離です。先に進んでいる車が自分の車と同じ挙動をすることはありません。とにかく車間距離とりましょう。仮に増田妄想が正しいとしても、事故に巻き込まれ可能性を減らす事ができます

もっと言うと、ライン取りの評論が出来るくらい近い車間距離は、山道でなくとも近すぎます場合によってはあおり運転解釈される場合もありますから、いつも車間距離を長くとりましょう。

すぐに追いついてしまう? それは単にスピードの出し過ぎです。流れに乗ってください(笑)

他人に譲れという前に貴様がまず時間を譲れ。周りはお前のママじゃねえんだよ

とにかく時間に余裕を持って行動することが大切です。そして増田相手自分に会わせて譲らないことが大切だとおっしゃっていますが、なかなか分かってもらうことは難しいです。

ドライバー感の譲り合いの精神大事ですね。身振り手振りやアイコンタクトなどによる非言語コミュニケーションかなり大事だと言うことが言われており、自動運転で難しいのがこの辺りだという研究結果も存在しています。ですから、その総論には賛成できます

ですが、それを相手に求めたからといって、貴方自身になにかよいことがあるのでしょうか?私は無いと思います

また、相手は、山道に不慣れだけれど、何か特別用事があってやむを得ず運転している場合があるかもしれません。と言いますか、山道を深夜走るのは、日常的にその時間通勤などで使う人でなけえば、大抵はそう言う人々です。コミュニケーションとは、相手の事を察することも含まれるわけですから、まずはそこから心がけてみてはいかがでしょうか。

それでもどうしてもイライラしてしまう、そんな増田お勧めなのが「自分時間を譲る」という方法です。路肩の安全なところに車を止めて、10分ほど時間をおいてから出発する「時間を譲る」考え方です。なあに、10分なんて、Youtubeで大好きなDQN動画でもみればあっという間です。

貴方スピードを出しているつもりかもしれませんが、実際には到着時間にしてみると、5分も差が無いことが殆どです。ですから、それだけズレていれば、貴方一方的に恨みを募らせている被害者に追いついてしまうことは無いと思います

まずは隗より始めよ!ですね。

これは運転に限らずです。どうしてもリズムがあわないと感じたら、相手に向かって呪詛を吐くよりも、自分がうまく譲る事を覚えましょう。

次の低速車が来てしまうかも? それは…そんなに低速車に当たるようなら、お祓いなどを検討された方がいいですね!
もちろん冗談です。まずは、低速車認定する閾値が低すぎるのではないか?と言う所を考えてみた方がいいかもしれません。常に心と時間と車間距離には余裕を持ちましょう。

山道生活道路。ここはテメエの遊び場じゃねえんだよ。大人しくスマホでポチポチゲーでもやってろや

趣味ドライブ!いいですねえ。昼間のドライブで、道の駅などを巡って美味しいものを食べて、温泉入って、地元お金をとしていただくことは大変うれしいです。助かります。でも、深夜の山道、ですか……?

都会の人が地方に来て「こんな立派な道が何故山奥に?」と驚かれることがあるのですが、こういった道は、昔から街道筋にあることがほとんどです。そして、かつての産業を支えた道でもあるんですね。そして現在は、都市間をつなぐ役割高速道路に譲ったものの、その街道を支えた集落集落の間をつなぐ道として存在しているわけですね。

そして、地方部の場合は、その道一本しか無い場合もあります。この道が潰れたらもう出勤もできないし、救急車も通れないわけです。ですから、人々の生活を守るための道として存在しています

趣味が車、ドライブであるというのは否定しません。否定しませんが、深夜の山道珍走する行為は、そういったライフラインを無闇に危険さらしている用に思います。またただでさえ過疎化で維持コストが高まっているところで、生産性もなく走るだけと行ったフリーライダー行為は控えてほしいと考えています

少なくとも、そう言った存在に、地元の人たちは迷惑している、と言う事は表明しておきたいです。

スピード超過で事故るならテメエひとりで事故れ、他人強要すんなよカス

皆さんは、道路制限速度はどういった形で決まっているかご存じですか?

近年作られた道ですと、設備歩道が別けられて中央分離帯があるか、など)やカーブの有無などによって、設計速度というものがあり、そこから一定の係数をかけて最高速度が決まっています

例えば、新東名高速道Rは140km/h と言う設計速度で作らていますが、ついこの間まで100km/h でした。そう考えると、速度を超過しても安全である、それよりも流れが大事だ、と言う考え方は一理あるように思います。もしかしたら一部の状況ではそれが正しいと言える事があるかもしれません。

しかし、山道など昔からある道はどうでしょうか? 実は、こういった道は「過去の経緯」で、現在規制基準に比べると、高い制限速度になっているケースが多いのです。現在基準で当てはめると40km/h や30km/h になるべき所が、50とか60とかになったままになっていることがあります。例えば、トラックなどはその速度でカーブ突入すると、横転まであり得ると言うような急カーブ存在していることがありますが、制限速度はそのままです。これは、高速道路が整備されるまでは、そこを基幹輸送を担うトラックなどが走っていたことのなごりかもしれません。

そして、そんな山道でも、突然制限速度が厳しくなっている箇所がありますよね。あれは、そこで以前、重大な事故があった証拠です。山道はあまりお金をかけられません。道路を改良するより、速度規制を厳しくすることで対応しているのです。

そういった状況で、15km/h の超過ならつかまらない、といった「捕まらなければその速度で走って良い」と解釈するような動きをするとどうなるでしょうか?

しかしたら、増田はスーパーカーを持っていて、走れるかもしれません。しかトラックや、軽のハイトワゴンなどはどうでしょうか?

制限速度は守りましょう。どうしても自分は超過して良いと考えるようでも、他人にそれを強要するのはやめてください。それぞれ事情があるのです。少なくとも言える事は、早い速度で走って問題ない車を遅く走らせる事はできますが、逆はできないと言う事です。

まとめ:お前運転向いてねえわ

あおり運転で捕まった人間のうち、ほとんど「煽ったつもりはなかった」というそうです。もちろんしらばっくれている人もいるでしょうが、実際には本当に本人は煽っているつもりはないと思っているかもしれません。

また、そういう方ほど、ご自身運転に自信があり、車間距離などを短くとる傾向があるそうですから、それが端から見るとあおりに見えている、ということがあるでしょう。

山道では、特にそう言う事が起きやすい傾向がありますので、皆さんも注意してみてください。

さあ本日もご安全に!

2023-09-09

anond:20230908184604

ちょっと意地の悪い感情も正直あるのだが、フェミニストに今回の現象評論してほしい。

フェミニストジャニオタ女性をどう擁護するのだろうか。

彼女たちもまた「有害男性性」」に影響された「被害者なのだろうか。

結局加害者男性ではないかというかもしれないが、ジャニー喜多川典型的なLGPTQなので、「シス男性」というカテゴリには収まらない。

2023-09-07

ドクダミはタフ。草むしりをしててもそれは感じる。

でも地下茎が地中に5cmでも残ってるだけで復活する、みたいな話にはまたまた……と思ってた。

抜いた草を突っ込んだゴミ袋が蒸れてるんでかき回してた時、真っ白い新鮮な根っこがニョロニョロと生えてるのに気がついた。

まさかな……と思って調べたらドクダミの地下茎で、小さい葉っぱまで生えていた。根っこも結構伸びてた。他の雑草腐葉土と化してんのに。

今年の夏は結構気合い入れて草むしりをした。更地になれば新たに生えてくる雑草も目立つもので、せっかく綺麗になったんだからマメに手入れをしてた。

質量保存の法則というものがあるんだからドクダミの成長だって無限じゃない。葉っぱがなきゃ光合成は出来ないだろうし、光合成が出来なきゃ地下茎だって減る一方に違いない。

根比べじゃいと思って少しでも葉っぱが出たらむしったし、根本の地下茎も毎回結構な所までほじくり返した。

でもゴミ袋の中で逞しく生きる生命力を目の当たりにして、なんかもう面倒臭くなってきて液体タイプと粒剤のネコソギポチった。葉と根で挟み打ちだ。

ビッグモーター御用達除草王が話題になってたけど、除草剤の効き目をこの目で見てみたいという思いも無意識的にあったのかもしれない。

緑一つない庭を見てると気持ちが良くなる。

心なしかヤブ蚊も少なくなった気がする。

土を掘り返して乾かしまくって砂漠化させたらとても気持ち良いんじゃないかって妄想を膨らませる。建物への害がなかったのなら塩を撒くやつも試してたと思う。

ガーデンニングとは真逆を行っている気がするがガーデンニングの楽しみのエッセンスに触れている気もする。理想支配の願望を形にしていく感じというか。

高校現代文里山って不自然だよなみたいな評論を読んで以来、盆栽とか不自然の極みみたいな趣味だよなって思ってる。

2023-08-31

anond:20230831114402

国語教科書もっと分厚くしよ

薄っぺら言語学社会系の評論女流作家系の歯ごたえのない小説を削って文豪もっとふんだんに入れてほしい

2023-08-23

コミケが終わると毎回落ち込む

「あーあ、楽しいコミケが終わっちゃった」という感じじゃなくて、

(ほんと自分って価値ないなぁ……)という感じの。

そもそもオメーに価値なんてねぇよ!…とは思いたいが、そんな風に思いたくない、というか信じたいのよ。

からコミケ後は落ち込む。

毎回作った評論本が余る余る。

かい対策いかね?

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