はてなキーワード: ごっこ遊びとは
個人の感想だし あと自分が腐女子な時点で石の下のダンゴムシかゾウリムシどっちがマシ?どっちもキモいねそうだねっていう話なのはわかってる。
その上でさ 本当に無理
普通の写実的なアクキーとか等身を再現したぬいぐるみならいいんだよ。
でもわざわざ太鼓の達人みたいな等身にして可愛がって、あまつさえ“外で”(ここ重要 家なら好きにしろ。でも外で 一般ピーポーから奇異の目で見られるところでよくできるな!!?)写真撮るのゾーっとする
あと結構な割合でぬい好きと腐女子どっちの性質も併せ持つヒソカ系腐女子がいるんだけど、アイツらぬいの状態でエロ描いたり子供産ませたりする(!)
“““ヤバいだろ”””
ぬいぐるみだぞ…ちいちゃい子がごっこ遊びしてんのとちゃうぞ…
キャラを太鼓の達人状態にした上であまつさえエロいことさせて子ども産ませてるんだぞ。
異常だよマジで。
子供の頃の性被害って、露出狂と特殊な痴漢(?)くらいしか体験ないなと思っていたのだが、最近ふと思い出したことがある。
幼稚園の時、仲良しだったAちゃんと遊んでいるときに、ごっこ遊びの延長かなにかで、おっぱいを舐めるように言われた。
Aちゃんはすごくかわいくてハッキリした女の子だったので、愚鈍な私はその子の言いなりで、おままごとではお父さん役、セーラームーンごっこではタキシード仮面役を押し付けられていた。
この時もそういう男役の押し付けの一環だったのではないかと思う。
ほぼキャミソールを舐めただけみたいなかんじだったと思う。
夕暮れ時の子供部屋で、自分のベッドの上でAちゃんに覆い被さったこと、Aちゃんの白いキャミソールの布に自分の唾液がついて濡れたことを覚えている。
そんなことをしていたら当時専業主婦で子供を気にかけていた親は気がつくし、問題にもなると思うのだけど、そういう記憶は一切ない。
それが本当にあったことなのか、自分の脳が過去の記憶として捏造した妄想なのかすらあやふやだ。
子供の頃の性被害って、露出狂と特殊な痴漢(?)くらいしか体験ないなと思っていたのだが、最近ふと思い出したことがある。
幼稚園の時、仲良しだったAちゃんと遊んでいるときに、ごっこ遊びの延長かなにかで、おっぱいを舐めるように言われた。
Aちゃんはすごくかわいくてハッキリした女の子だったので、愚鈍な私はその子の言いなりで、おままごとではお父さん役、セーラームーンごっこではタキシード仮面役を押し付けられていた。
この時もそういう男役の押し付けの一環だったのではないかと思う。
ほぼキャミソールを舐めただけみたいなかんじだったと思う。
夕暮れ時の子供部屋で、自分のベッドの上でAちゃんに覆い被さったこと、Aちゃんの白いキャミソールの布に自分の唾液がついて濡れたことを覚えている。
そんなことをしていたら当時専業主婦で子供を気にかけていた親は気がつくし、問題にもなると思うのだけど、そういう記憶は一切ない。
それが本当にあったことなのか、自分の脳が過去の記憶として捏造した妄想なのかすらあやふやだ。
子供の頃の性被害って、露出狂と特殊な痴漢(?)くらいしか体験ないなと思っていたのだが、最近ふと思い出したことがある。
幼稚園の時、仲良しだったAちゃんと遊んでいるときに、ごっこ遊びの延長かなにかで、おっぱいを舐めるように言われた。
Aちゃんはすごくかわいくてハッキリした女の子だったので、愚鈍な私はその子の言いなりで、おままごとではお父さん役、セーラームーンごっこではタキシード仮面役を押し付けられていた。
この時もそういう男役の押し付けの一環だったのではないかと思う。
ほぼキャミソールを舐めただけみたいなかんじだったと思う。
夕暮れ時の子供部屋で、自分のベッドの上でAちゃんに覆い被さったこと、Aちゃんの白いキャミソールの布に自分の唾液がついて濡れたことを覚えている。
そんなことをしていたら当時専業主婦で子供を気にかけていた親は気がつくし、問題にもなると思うのだけど、そういう記憶は一切ない。
それが本当にあったことなのか、自分の脳が過去の記憶として捏造した妄想なのかすらあやふやだ。
大手企業の企画系に居るような中途半端な中流エリートの話を聞くと
起業ごっこしたり投資ごっこしたりして小遣い稼ぎしてたって話をめちゃくちゃよく聞く
しかも決まって「肉体労働なんてしたことないよー」という武勇伝を語りたがる
こういう奴らは親が強いわけでもないし貧乏でもなくてやっぱり中流
上流階級の金持ちはそもそもお金に困ってなくて留学したり海外修行という名の長期旅行したりしてるが
そういう人は意外と親の仕事を手伝うっていう名目で時給で働いたり
なぜか普通のアルバイトをしたり引っ越しアルバイトしたりしてる(興味本位らしい)
一方で国立大からの成り上がり系エリートは学生時代にアホみたいにいろんなバイトしてて
危うく反社系のバイトをさせられるとこだった、みたいな武勇伝もよく聞く
いろんな経験してる人が仕事では重宝されるし実際にも優秀で出世していくので
中流エリートはうざがられて成り上がり系エリートが成功していく
大企業に残らなくても転職したり新規事業したりして成功しているし人生を謳歌している人が多い
肉体労働せずにごっこ遊びしてた奴らは中流エリートで留まってそれより上に行った人はいないし
😂[年収1500万既婚40歳フリーランス]<氷河期は切り捨てられた!俺は世間を恨む!」
🤪[年収1200万既婚40歳大企業社員]<マッチングアプリでー(嘘)
🥳[年収2000万楽しい独身40歳]<NISAは詐欺!(本人は満額積立済み)
消すやつはホンモノかもしれんけど
第4の壁によってそれらは真っ二つに区切られている。
「一度もゲームオーバーになることなく最終決戦まで生き延びる主人公たちの物語」
「何度もゲームオーバーになりながら、リトライを繰り返しながら成長するプレイヤーの物語」
もちろんこの二つを両立させることは出来る。
それはゲームオーバーと死を結びつけないことだったり、周回プレイさえも含めてキャラクターの設定に組み込んでしまうことがそれだ。
クリアと同時にセーブデータを消去したり、更にはセーブデータを消した事実さえゲームの中に組み込んでくる作品も出てきた。
それでも、新しいゲーム機やPCを購入すればプレイヤーは0から世界をスタート出来てしまう。
同時に、まだプレイしたことがないゲームのネタバレを知ってしまえば、0からゲームを始める機会は永遠に失われる。
「ゲームの物語」と「プレイヤーの物語」は絶対的に独立している。
それを打ち破ったのがMMOゲームの凄さであると語る人もいるが、たとえゲームの中の時計を止めることを不可能にしても、プレーヤーの物語をゲームの中に組み込もうとしても、結局それらはゲームであることから脱することはないと私は考えている。
ゲームがスポーツとしての側面を追求することでプレーヤーの物語をゲームの勝敗に引きずり込むことは出来ても、そこまで来ると今度はゲームの中におけるストーリーは形を失い、競技のための触媒でしかなくなるのではないか?
将棋盤の上に広がっていた国盗りの物語は、プレーヤーの技術向上に伴いただの記号となる。
その昔、「物語が素晴らしい」と語られるゲームは「ゲームの中の物語」に対して送られる言葉だった。
だが、時代と共にそれは変化し、ナラティブの重要性が語られるようになる内に「プレーヤーの物語」こそが重視されるようになった。
たとえばSEKIROだ。
主人公では死の淵から蘇る設定こそあるが、ボスキャラクターに敗北したときは世界の時間そのものが巻き戻る。
第二形態になるまで痛めつけたはずの敵は無傷へと戻り、登場人物は同じ会話を何度も繰り返す。
「主人公の物語」は「ただ一度の敗北を除けば、不死の力により強敵を打ち破り続けた豪傑」であるが、プレイヤーは「何度も敗北しながら相手のモーションを盗み、時に攻略サイトや動画を覗いて対策を練り上げることにより遂に勝利した」という物語を歩んでいる。
そして、SEKIROで評価されている物語は、この後者、「プレーヤーの敗北と復讐の物語」である。
プレーヤーはコントローラーを通して画面上の何かをラジコンのように操作し、それによって何者かを演じる。
独裁政権の暴君であったり、愛らしいマスコットであったり、不気味な怪物、英雄たちの指揮官、様々なものに乗り移り成り代わる。
ゲームがまだ全くリアルでなかった頃、ゲームセンターや喫茶店でレバーを握っていたプレーヤー達が演じていたのは画面のキャラクターではなかった。
「難しいゲームをスイスイと攻略するゲーマー」という役を演じていた。
レトロな世界は人間の想像力を掻き立てはしたが、そこにある没入感には限界があり、プレーヤーと画面の中のキャラクターの間にある第4の壁の厚さは現代の比ではない。
そんな中、ゲーマーを名乗る者達は「ゲームというごっこ遊びを上手にこなす自分」を演じたくてコインを投入し続けたのである。
段々とゲームは映画のように物語を見せるものへと変化していき、プレーヤー側も「キャラクターの冒険を追体験する」という感覚を求めるように変化していく。
そのうちにゲーマーは観客となり、コントローラーを握る行為が本のページを捲るのに似通ったものとなっていく。
ゲームを薦めることはストーリーを追うための手段であり、それ自体は目的ではなくなっていった。
そんな時代が続くと今度は、「自由度」「選択の影響」といったものが重視されるようになった。
単に決められたフラグを順番にこなすだけの作業は、ごっこ遊びとしては退屈になってきたのだ。
選択がゲームの世界に影響を及ぼすことにより、その世界の構成要素としての没入感がより強まることが発見される。
だが、その時代も少しずつ陰りを見せ「結局はトゥルーエンドがある」だとか「何周もするのが面倒だ」とか「どうせ全部動画で見る」だとか、そういった体験が積み重なることで、自由な選択もまた単なるフラグ管理の確認作業へと認識が変化していったのである。
「自由な選択」や「選択の責任」といった要素が飽きられだした今、ごっこ遊びはどこへ行ったのか。
再び「ゲームを遊び倒しているゲーマーの自分」を演じる遊びへと帰ってきたのである。
トロフィーの獲得状況を見せ合ったり、考察を語り合ったり、配信で盛り上がったりと、プレーヤー同士の交流が盛んになることによりゲーセン時代の「ゲームやりまくりな俺凄くね?」の遊びがインターネット上で繰り広げられるようになった。
その中で伸びていったのが、「高難易度と成長しやすさを両立したゲーム」だ。
「遊びにくさと難しいを履き違えるな」という金言があるが、これを完璧に守りきり「遊びやすいが難しい」を完成させたゲームがこのジャンルだ。
一見理不尽なほど難しいが、プレーヤーが成長することによって確実に強くなれる丁寧な階段がその中に仕込まれているゲームである。
それの亜種として「入り組んだ設定があるが、情報を整理すれば読み解けるゲーム」も人気となっている。
苦戦した強敵を軽々と倒し、まだクリアしてないプレーヤーが苦戦しているのを高みの見物をするゲームと、何回な設定について考察サイトで議論を重ねたり盗み見て理解し、それに初めて触れたプレーヤーに「いずれ分かるさ」と上から目線をかますゲーム、コントローラーを握っている間の難易度こそ違うが、そこの性質は良く似ている。
「やり込んだプレーヤーが自分の成長(成功)を感じることが出来る」という点だ。
ゲーム内外にプレーヤーの成長(成功)の物語が散りばめられており、その成長(成功)を「つい最近始めたばかりで苦戦しているプレーヤー」との比較によって実感できるようになっている。
人は、昨日よりも優れた自分になりたいという願望がある。
現代人気のゲームは、その願望を実現したかのような気持ちにさせてくれる機能があるゲームだと言えるだろう。
カルトな人気を誇るゲームを「ものすごい体験をした」と持ち上げるプレイヤーの中にある心理も、「物凄い体験をした自分」と「その体験をまだしてない自分」を比べて、成長や成功の感覚を、自分の物語として味わっているのである。
叩かれるべきはARKの方でしょ。
誰得としか言いようがないクッソ面倒くせえ仕組みをモリモリにしてるせいでフレンドをいくら呼びこんでも「ダル……こんなゲーム遊んでられねーわ。俺ニートじゃねーし」と帰っていく。
そんな状況に対して公式やファンの多くが「恐竜をテイム出来る最高のゲームなのに!なんで分かってくれないんだ!」とシステムの粗さから目を逸らしてばかり。
お手軽じゃないことがARKらしさってのは確かにあるんだけどさ……でもユーザーに単なる面倒臭さをばら撒くのを「これがリアリティィ(キリリィィ)硬派ぁぁ(キリリィィンン)」ってしてるのは流石にどうかと思うんだよな。
ゲームデザイン的な面白さとかじゃなくて小学生がごっこ遊び中に思いつきで追加した「本物ならこうなるはず」と変わらねえっつーかさ。
勇者がタンス漁っても誰も咎めない世界でいちいち全部の家屋にトイレをちゃんと住人が困らない数だけ設置するこだわりを見せられてもズレてるとしか感じないっつーかさ。
面白いことを最優先しようって気持ちがないっていうか、「俺の考えたごっこ遊びのルールに文句があるならこの公園は使わせないぞ!」みたいなアホっぽさがあるっつーかさ。
そういう惜しさを超えられるだけの魅力があっても、間違いなく取りこぼしは起きるわけじゃん。
それも仲のいいヤツとさ。
運営はそういう気持ちを汲み取って不要なハードルは減らして欲しいなと感じるわけだよ。
ポケモンは良くわかんねーけど。
GOとSLEEPを除けば最後にやったのは白黒だからもう10年ぐらい動き知らねーけどさ。
でも多分きっとARKより酷いことはないと思うんだよな。
それならもうとっくに会社傾いてるよ。
これ本当に疑問に思ってる人がいるんですよ!
答えは明らかです!
「ゲームというのはグラフィックが本体であり、グラフィックがオリジナルのIP「っぽいか」が最重要だから」
ゲームのアイディアで本当に発明と呼べるものなんて一つもありません。
マインクラフトが大発明に見える人は単にパネキットを遊んだことがないだけでしょうし、パネキットが大発明に見えるならレゴブロックも積み木も買ってもらえない家庭で育ったのでしょうね。おー哀れ哀れだ。
何故ならゲームとはごっこ遊びであり、ごっこ遊びで一番大事なのは見てくれだからです。
「あなたは弓の名手エルフです。森に入ってきた化け物を弓でぶっ殺しましょう」からスタートするゲームと「弓で敵を撃ってください。スコアが増えて嬉しい」ではゲームとしての没入感が全く変わります。
ゲームで売っているのは体験なわけですから、体験に影響が強い要素こそが正義なのです。
たとえばゲームの評価では「UIがクソすぎて入り込めない!」「バグが多くて萎える!」といった要素が重要視されますよね?
体験を阻害する要因は大きなマイナス要素として評価されるのです!
たとえばゲームの外見が他のゲームに似ていたら「俺はパクリゲーをやっている?パクリなのか?この体験は?」という感覚になってイマイチ入り込めないでしょ?
たとえばこれがモンスターを探してモンスターボールを投げるだったら、ポケモンのパチモンです。
でもモンスターを狩って武器を作るからモンハンになるわけです。
ガワに合わせてゲーム性をマイナーチェンジすることにより、プレイヤーの体験は「全くの別物」にさえなるんですよ。
ポケモンGOにおいては出会うモンスターは将来の仲間ですが、モンハンGOではどこまでも討伐対象、これは全然別物ですよね?
パルワールドの問題点は、外見がポケモンっぽいということ以上に、ゲーム性がポケモンと全く違うのにビジュアルがポケモンであるということにあるのですよ。
ポケモンにミサイルを載せるということ、ポケモンに銃を向けて攻撃すること、これらに対してユーザーは「え?それは違うよね?」となることが駄目なんです。
なぜ違和感が生まれるかといえば、それはゲームのデザインが先にあってそこから生えてきたのではなく、他所から借りてきて混ぜているから。
接合部の雑な処理が見え隠れしちゃってイマイチ~~~ってことです。
作る側が「この世界に似合うデザインのキャラクターは……」と一から考えてないからこんなことになるんですね。
パルワールドのキャラでも、「パルワールドらしさがある」キャラは結構いい感じでしょ?
なんかおかしいって感じるのはどれもパチモン臭のする奴らですよ。
別にね、プレイヤーはポケモンの著作権なんて守りたいんじゃないんですね結局。
もっと面白く出来たはずのゲームが、変な違和感によって体験の質を残っていることを問題としているわけです。
そうじゃなくて本気で「著作権侵害!犯罪!許さん!」とか言ってる人がいたら、ソイツは適当な理由でポリコレ棒を振り回したいだけの蛮族でしょ。