はてなキーワード: 親の期待とは
ここでいう「普通」というのは正社員の人材市場で価値があり結婚して子どもも作れる社会や親の期待値に応えられる能力を持った人の事
資本主義の社会では金を稼ぐのに不要な個性は企業にとっていらない
「気配り」「見た目」「そこで仕事をするのに最低限の知的能力」「意思疎通能力」「やる気」すら取り揃えられない「歯車」にもなれない人の世界もある
それが「普通」とそうでない人とのハザマ
「消費者」としての価値や他の事で社会に貢献という奇麗事言っても始まらない
他の才能に特化していれば不利なのも覆せる人もいるけど
「普通」未満の「知的能力」しかない人はどこかに雇われなければ生きていきにくい
一人で稼いでてもより大きな組織化された資本が表れれば負けやすい
「普通」でも磨り減って「歯車」としての価値が無くなれば見向きもされなくなる
この手の人達は「ポジティブ教」「自己啓発」「情報商材」でご飯食べている人のいいカモになりやすい
「ネット言論で有名人になりたい」「まとめサイトつくってアフィでご飯食べて生きたい」「ソーシャルなつながりをビジネスに生かしたい」
将来の「夢」や「希望」を持たずに生きるために経験値を溜める為にこつこつ働くしかない そして人材市場で価値が無くなったら年金貰える前に飢え死に
それが「私」の未来予想図 「夢」「希望」「ポジティブ」それは「普通」以上の知的能力を持っている人達だけが持てる特権
見た目どころか考える能力にすら大いに欠けている人達が 普段は「普通」の人達から見向きもされない透明な背景としての存在が行き場が無くてたむろっているのがSNS
「普通」の人達はどこかに雇われて社会に必要とされている人達は 「普通」でない人達の「絶望」が邪魔っけで「ネガティブ」すら見たくなくてネットからすら汚い醜い
モノすら消したりたくてたまらない そういう感情は「穢れ」だから
でもそういう人たちには「SNS」しか生き場所が無い 現実に戻っても「普通」の社会には参加できない「使い捨て」もしくは「使い捨てにもなれない」
雇われて稼いだお金から生活費引いて貯蓄引いて「今日自由に使えるお金は数百円かあ 正月のおせちやお年玉の為にお昼は自宅から持っていく海苔おにぎりの
お弁当だけですまそう」と考えていると頭の良い人達が奇麗事いっているの見るととても嫌な気分になる
「やればできる」(その言葉の裏には本当はその人にそんな知的能力は無いことがわかっているのに「ネガティブ」を取り上げて「ポジティブ」を押し付けるポジティブマッチョ)
今ある手持ちの能力のパラメータこつこつ経験値貯めて伸ばして食いつないでいくしかない できなきゃ寄る辺も無い人は飢え死にするだけ
純粋に自分がしたい、という要素が薄いように見える。親の期待にのっかってる部分が多いというか。
そういうのは天職って言わないでしょう。子供が夢中になれる何かがあってそれを親が自由に伸ばしてやると
だから天職を見つけない方がいい、ではなく、問題は親との意思疎通が希薄で彼らのクソさに
なかなか気づかなかったってことだと思う。まあ人間どこかしらクソな部分はあるし親だって完全ではないんだが、
それにしても増田の親はちょっとアレだと思う。親も自分の家業に縛られてて自由にできなかった抑圧があったんじゃないか。
きっとそれは言うべきではないと思って生きてきたけれど、増田とのすれ違いで崩壊しちゃったんじゃないかね。
何にせよ増田はこれから親がとか生まれがとかいう縛りのない世界を生きなければいけない。
やりたいことある?
やりたいこがあるなら、もうやってるもんなの?
「やりたい!」と思ってることがあるとして、その目的のために今動いてないってことは、実は「本当にやりたいことじゃなかった」んじゃね?
たぶん、日本の多くの若者の「やりたいこと」って、「本当にやりたいこと」じゃない。
親や学校の先生の顔色をうかがってできた「やりたいこと」って辛いよ。
今の子供に「将来の夢」を聞いても、9割その夢は「子供の夢」じゃないと思う。その9割の子供は空気読んでると思う。
子供を育ててる親がいたら、子供に「将来の夢」を安易に聞かないほうがいいぜ。
本当は「夢」なんて無くて当たり前なのに、あることを前提に聞かれても困る。
俺の場合、小学生のときから空気を読んでしまって、もう3回以上は「嘘の将来の夢」を言ってしまった。
別に嘘をつきたくてついたわけじゃないけど、説明するときに「矛盾しとる」とか「それは言い訳」って言われるたびに、悲しいぜ。
「やりたい」と思ってたことが実は「本当にやりたいことじゃなかった」って気づく度に、親にどう言おうかすごく悩むぜ。
そういうわけで、この18歳の僕が、全国の「いい子」の諸君に言いたい事があるとするならば、
・親の期待は裏切っていいし、期待に答えようとしなくていい。
・働きたくなかったら働かなくていい。ただ、「最終的に自分はどこに向かうのか?」を考えて欲しい。
・表面的には従ってもいいけど、自分の心を最優先に守り、心の中で反抗するのをやめないで欲しい。
・自分の心を傷つけるような家族や学校の先生の言うことなんか聞くな!
・自分の心を尊重する行動を最優先に取れ!
やりたいことは無くて当たり前だと思うし、いつもどおりのニートでいればいいのさ。
人間ってのは「生きねば!」と危機感を感じて初めて、お金を得るために働くものだと思う。それが健全。
何を言われようと働きたくなかったら、働かなくていいのさ。
たとえそれで餓死したとしても、
嫌々働いていて自分が奴隷になってることに気付かないヤツらや、自ら命を断ってしまうヤツらより何万倍もマシだと思う。
ニートでも、養ってくれる人がいなくなって本気で「ヤバイ!」と思うときが来た時、
本能的に「生きたい!」って危機感を感じて初めて「自分の心に忠実な行動」を取り始めるもんだと思う。
だいたいニートのような「ダメ人間」たちを嫌っている人たちっていうのは、
「相手のダメなところを受け入れることができない人。ダメな時期・ダメなところ・ダメな人を受け入れることができない人。」
なんだと思う。
これは僕の「嫌いな人リスト」に入ってた。
はてな匿名ダイアリーで「ニート」関係の記事をよく書く自分。
肩身は狭いけど、僕は自分の中に答えを生み出し続けるのは絶対にやめないし、今のところニートを続けるつもりさー。
やりたいことがある奴は、もうすでにやってるから、
30歳になるまでに子供を産みたいと思ってたけど、来月に妊娠しても、もう時間的に無理になった
子供を連れた同年代の人を見かけると、妬ましい気持ちになることもある。
が、今までも、恋人がいる、就職の内定を貰った、結婚した、等々他人を羨んできたから、
もしこの先、子供を授かったとしても、二人目が、三人目が、男だ女だで無いものねだりを続けそうな気がする。
一方子供なんか産むだけ損とも思っている。お金がかかるし、時間は取られるし、泣き喚くとうるさいし。
夫婦二人で生きていくのも気楽でいいかも。好きなときに好きなことが出来る。
上記の無いものねだりも、子供が欲しいって気持ちも、結局、親の期待に答えたいだけなのかもなー
親を言い訳に使ってるだけだとも思う
整理番号を引く機械で待ち構える女性2人ににこやかに用件を聞かれる。
母子手帳その他をもらうだけなので受け取って終わり、
それ自体はスムーズに済んだが、
ファンシー極まってる。
ん~。クリーム色。はよしとしても、
ん~。いっぱいいる。黄色い熊をね、取り囲んでる。
わぁっ!って感じになってる。飛び出すぞーって。
母子手帳も近年は妊婦の要望により(おそらく)ディズニーをはじめとした
そういうのって、まあ最大公約数的になるよね。
それに、住まいは都内とはいえ市なので、まあ役所のサイトのデザイン等を見ましても
洗練されているとは言い難い。ええ、それも仕方ない。
衝撃を、ファンシー極まる手帳から受けたのであります、月曜朝に。
ん~、せめてこの熊キャラ使うにしても、
なんつーか、卒倒だよ。卒倒しそうになったまじで。
仕事へ向かう電車、暗澹たる気持ちで母子手帳ケースを検索しながら
(ん~、これまたどれもこれもしんじられないダサさ)
予想された事態にもかかわらずなぜこんなに衝撃を受けたのかを考えた。
これって、
「妊婦はこういうの好きでしょ☆キャピ」
と思った。にこやかに。
え、あなたわたしのことなんにも知らないよね?
えーっと。そりゃそうだけれども。
思い返せばいままでわたしは
親の期待する「子供はこうあるべき」「良識ある女子はこうあるべき」像を無視し、
会社の期待する「若手はこうあるべき」像を無視して生きてきた。
その結果、会社勤めはつづかず流れ流れて自由業になり、
だいたいにおいて空気読めなくてもつきあってくれる友達だけが残った。
だからね、おそらく、四捨五入してアラフォーになる年になって今日はじめて
黄色い熊がね。っていうか、役所がね。
でもね、熊ごめん、わたし手帳を母子手帳ケースに入れたとしても
この表紙には好きな柄の紙を貼ってしまうと思うわ。
世間のすみずみにまで行き渡ってほしいと強く願いつつ、
世間はわたしに型を押しつけることがあるのだと痛感したことを
ん~、きっと妊婦および小さい子持ちというアイデンティティとしては
これからもこんなふうに感じること、エベレストの山のごとくあるんだろうな。
さーどこまでそれを無視してわが道をゆけるかしらん。
東京の秋葉原という同じ場所で、コミュニケーションヘの過剰適応の同じ沸点から、一方は身体性を破壊し、人間を「削除」する方へ、他方は身体性を回復し、生を励まし合う方へ分岐していくできごとがあった。一方は二〇〇八年六月八日秋葉原の路上で起こった二五歳の若者による無差別殺傷事件であり、他方は○五年から秋葉原の専用劇場に拠って活動を開始したAKB48である。
若者は一九八二年青森市に生まれた。教育熱心で上昇志向の強い両親の期待に応えて成績優秀な「いい子」に成長した。しかし高校時代から成績が下降し、同級生が多く四年制大学に進学するなかで波は短大で自動車整備工の訓練を受けた。卒業後は派遣社員として職を転々とした。自分が「派遣切り」にあうという思い込みで工場づとめをやめ、「勝ち組はみんな死んでしまえ。そしたら、日本には俺しか残らないか。あはは」といった荒涼とした書き込みをされて、唯一の居場所を失った感覚も犯行へと彼の背中を押した。
AKB48は、ネットを通して人気が広がり、テレビでブレークしたが、更にその先に、ファンと共につくる身体性を伴う共同体が、当初から目指されていた。プロデューサー秋元康のデザインに沿って、歌も踊りも人並ていど、可愛さもほどほどの普通の女の子が一所懸命練習して成長していく姿がファンの目近に可視化されたから、ファンは感動して見守りながら俺もがんばるという一緒意識が生まれた。ファンの身体性を伴う参加感覚は、新曲を歌うメンバーを選出する「総選挙」で投票したり、選出のための「じゃんけん大会」の場に居合わせた力、全国で聞かれた「マラソン握手会」にかけつけることで高められた。「会いに行けるアイドル」の身体性を伴う自己提示と、ファンの側の身体性を伴う参加とが協働して、身内感覚にあふれるローカルな共同体が構築されたと言える。
暇を持て余している神々のような方が読んでくださればうれしいです。
http://wired.jp/2012/08/16/disney-vs-miyazaki/
こちらの記事を読んで個人的に感じたことを。
結婚について今更ながら考えるところのある33歳独身の女です。
うちの父にちょっと似てるな、と思い、なんとなく懐かしく思いながら読みました。
本人に育児方針など直接聞いたわけではないんだけれども。
父はとにかく宮崎アニメの大ファンで、わたしが小さいころから、新作が公開されるたびに家族で鑑賞するのが恒例でした。
わたしが初めて風の谷のナウシカの映画を見たのは4歳のときでした。
子どもに聞かせるつもりで話していたのかどうかわかりませんが、父が、クラリスやシータの受動性と対比させつつ、ナウシカの勇猛果敢でありながら豊かな母性に溢れる高潔な精神を繰り返し賛美していたのをよく覚えています。
「ナウシカ=父の理想の女性像=わたしがナウシカみたいになればお父さんは喜ぶに違いない=わたしはナウシカのようにならなければならない」
という式をわたしは自分の中で早い時期から確立させていたように思います。
もともとの性格に加え、夫の転勤について行く専業主婦、という立ち位置が余計に母をそうさせていた面もあるのかもしれません。
「これからの時代は、女性も社会に出て男性と対等に働いていかなければならない。そのためには小さいころから努力しなさい」
「お母さんのように専業主婦になってはいけない、これほどむなしい生活はない」
と母から繰り返し聞かされて育ちました。
ですからわたしは、周囲に比べるとよく勉強していたほうの子どもだったと思います。
ローラ姫を助けたときに抱いた嫌悪感を、今でもわたしはよく覚えています。
「なんて依頼心の強い女なんだろう!こんな女にだけはなりたくない!」
努力が実り、わたしはまずまずの大学を出て、同世代の他の女性に比べるとわりとお金をたくさん稼げて、しかも長く続けやすい仕事に就くことができました。
今の仕事に就くまでにはずいぶんと紆余曲折があり、決して順風満帆ではありませんでしたが、まあとにかく、わたしは母が願っていたとおり、社会的に自立した女性になりました。
このポジションを得てから、わたしの自己肯定感は急激に強く満たされました。
いろいろ考えてみると、そのひとつに
「これで父の期待にも応えられたはずだ」
という達成感があることに気づきました。
この仕事は、女という性の特質、具体的には「母性」を発揮するのに非常に適した仕事でもあったからです。
自分の中で、ナウシカという強く優しい理想の女性への父のあこがれと、母から期待される「女としての自立」という目標とが混ざり合い、そのすべてを叶えることができた自分が、何かすばらしい存在に思えたのだと思います。
念のために書き添えておきたいのですが、多くの若者がそうであるように、親の期待や願望の言いなりではなく、わたしもあくまで、ときに両親に反発もしながら「自分の意志」で道を選び続けてきました。
今から自分の落ち度というか、重大な取りこぼしを書くのですが、それを両親の育て方のせいにしたくて書いているわけではありません。
この文章を書いているのは、幼少期からの親との関係性がどのように「自分の意志」の形成に影響してきたのかを自分なりに分析してみることが、これからの自分の人生にとって、なにかしらの糧になるだろうと思ったからです。
わたしの取りこぼしとは簡潔に言うと「努力が報われるのは、正しい方向に努力したときのみである」ことを失念していたことです。
仕事で成功したいのであれば仕事を頑張ればよい。スキルを上げることはもちろんのこと、上司や部下との円滑な人間関係の構築、根回しのやり方なども含めて、的確な努力を続けていればだいたい結果はついてきます。
当たり前ですが、仕事を頑張ってついてくるのは通常、仕事の成果のみです。
という話は、わりとあるように思えるかもしれませんが、そのふたつは直結はしていないと思います。
仕事を頑張る姿に惹かれて、というのはあくまできっかけでしかありません。
過程には必ず、純粋に「結婚を成功させるための努力」があるはずです。
ここを穿き違えていたことがわたしの失敗でした。
「彼女たちは、男性との関係以外にも、自分というものを持っている。たとえば『千と千尋の神隠し』では、10歳の千尋が両親を助けるために自分の身を危険に晒す。ストーリー構成に含まれるロマンスは、本題から外れており、千尋の生活の中心ではなく、両親を助けるという使命のサイドストーリーにとどまる。こうした特徴は、『ハウルの動く城』など宮崎作品の多くに共通する。
わたしはロマンスに反対しているわけではない。わたしの大のお気に入りである宮崎作品は、『ハウルの動く城』と『耳をすませば』の2作品だ(後者は宮崎氏は脚本を書いたが監督はしていない)。いずれも完全に公式に従った古典的ロマンスだが、この2作品のヒロインであるソフィーと雫はいずれも、異性との関係のほかに、関心事や自分の生活、個性を持っている。」
他ならぬ『風の谷のナウシカ』も、まさにそうです。
多くの宮崎アニメにおいて、ロマンスはサイドストーリーなのです。
わたしは自分の人生において、これをそのままなぞってしまったのです。
その結果、33歳独身、あんまりさびしいから猫でも飼うか、などと考えているマンション暮らしの独身女性がここにひとり、できあがりました。
ナウシカとアスベルは最後まで結ばれません。千尋とハクだって。
ハウルとソフィー、雫と聖司は結ばれますが、後者が前者と違うのは、やはり作中で「恋」「愛」そのものに向かい合った努力をしているところです(耳すまでは、その努力をしているのは主に聖司のほうですが)。
ナウシカや千尋は、恋い慕う相手と結ばれることを努力目標にはしていません。
心が通じ合う喜びを知りこそすれ、そこまでです(ナウシカは原作を読むとその辺の距離感がよりわかりやすいのですが)。
そもそも、風の谷のガンシップとアスベルの赤いガンシップが「おい待てよ~」「つかまえてごらんなさいよ~」なんて楽しく追いかけっこをしているようなナウシカなんて誰も見たくありません。
ナウシカは、みんなの姫様であると同時に誰も同じ境地を理解しえない孤高の存在でいるからこそナウシカなのです。
千尋も「ハクと離れるくらいなら千のままでいい!」なんて言ってしまったらすべてが台無しです。
ともすればストイックなまでの、あの潔さが宮崎アニメのヒロインたちの魅力を何倍にも引き立てているのです。
そしてくどいようですが、わたしは自分の人生において、これをそのままなぞってしまったのです。
そりゃストイックにならざるを得ない人生が待ち受けているに決まっています。
もともと、結婚願望はそれほど強くありませんでした。
でも、したくないわけではありませんでした。
結婚はまさに「サイドストーリー」として、おまけのようについてくるものだと思っていました。
自分の今やるべきこと(=仕事)を頑張っていればそのうち結婚もできる、と、両者を直結させて同一視していたように思います。
ディズニープリンセスも最近ではいろいろで、リンク先にあるように宮崎アニメとはっきり対極をなしているヒロインばかりではないようです。
「伝統的スタイルのディズニー作品は、古くからある「囚われの姫君」モデルに頼っている。『眠れる森の美女』や『白雪姫』、『シンデレラ』といった物語のヒロインは、状況を打開するための行動を、ほとんど何もしない。ヒロインは自分自身のドラマのなかで主体になっていないことも多い。ただ料理や洗濯、掃除をして、美貌で王子を夢中にさせるだけだ。そしてヒロインに夢中になった王子が、ヒロインが受動的に身を委ねている苦境から彼女を救い出す。
ただし、新しいスタイルのディズニー作品では、少なくとも、物語に登場する女性たちも主体になり、しばしばヒロインは王子を救うために行動する。だがプリンセスの行動は、もっぱら王子との関係のために行われるものだ。」
あくまで王子との関係性において力を発揮する、という意味で、ソフィーは極めてディズニープリンセスに近いヒロインだと思います。
そして「ハウルの動く城」のラストは、ソフィーとハウルのキスシーンで締めくくられます。大団円です。
「恋」「愛」に正面から向かい合ってひたむきに(そして的確に)努力し、苦難を乗り越えたからこそ、彼女たちは王子様と結ばれたのです。
彼女たちにとっては、それはサイドストーリーではなく、達成すべき目標そのものだったのです。
ソフィーのモチベーションが「ハウルを助けること」ではなくて「世界平和」だったら、きっとハウルとは結ばれなかったでしょう。
「昔ながらのディズニー・プリンセスも、新しいスタイルのディズニー・プリンセスも、男性を虜にして、ぜひ自分の妻にしたいと男性に思わせるだけの美貌と魅力を備えている。プリンセスが登場するどのディズニー映画でも、ロマンスは「引力の法則」、もっと率直にいえば性的関心に基づいている。
父親であるわたしがさらに不満なのは、ディズニー・プリンセスの性的魅力が、周囲の男性を変えていくほどの強い影響力を持つことだ。『美女と野獣』や『アラジン』、『塔の上のラプンツェル』といった映画について考えてほしい。ディズニーのおとぎの国では、性欲に駆られた結果として、男性が「いい人」になるのだ。
わたしは個人的に、自分の性的な魅力によって彼らを変えられると信じて、感じの悪い男性と性的な関係に陥る多くの女性たちを知っており、娘たちにそのような女性になってほしくない。これはディズニー映画の問題ではなく文化的問題ではあるのだが(われわれが購入しなければディズニーも販売しないはずだ)。 」
しかし実際、意中の男性を虜にするには、十分な性的魅力がなくては話にならないのです。
「感じの悪い男性」と関係を持つのは確かによくありませんが、だからといって性的魅力がないと王子様とのロマンスも生まれません。
性的魅力を磨くことと、「感じの悪い男性」に引っかかることは直結しません。
ディズニーの王子様達は女性にとっても魅力的な男性ばかりで、このような男性と結ばれるには女性にもそれ相応の魅力が必須である、というメッセージはなんら間違っていないと思います。
このように十分な性的魅力を持ったプリンセスたちがまさに王子様との愛のために奮闘する物語、この要素が、わたしには決定的に抜け落ちていたのです。
リンク先にもあるように、古典的なディズニープリンセスのモチーフである「囚われの姫君」は、極めて非力で弱々しく、受動的な存在として描かれます。
この弱々しいお姫様が王子様によって助けられ、めでたしめでたし。
なんて女性にとって都合のよい展開なのでしょう。
なぜ彼女たちは、助けてもらえるのでしょうか?
プリンセスの性的魅力は、王子様を意のままに操る絶大なパワーを秘めているのです。
そのことに気付いたのは、大人になってからでした。
思春期のわたしが彼女に嫌悪感を抱いたのは、美しいお姫様だから、というだけで周囲に何もかもお膳立てしてもらえるのが気に食わなかったからですが、ではなぜ気に食わなかったのか。
本当は、そういう存在にもあこがれていたからなのだと思います。
自分の中の奥深いところには、ナウシカが理想像として根付いてしまっています。
しかし、小学生女子が当たり前に生活していて、いわゆる典型的な「お姫様」的概念に触れないでいることはまず不可能でしょう。
自分の家にはなくとも、たいていの友達の家には少女漫画がありますし、ディズニーのビデオ(当時はビデオ)だって。
思春期、わたしはまさに、ディズニープリンセスになるべきか、ナウシカになるべきか、で葛藤をし続けていました。
今思えば両立も決して不可能ではありませんでした。
わたしはナウシカを選びました。
そのまま中学生になり、高校生活を過ごし、大学生になり、社会に出ました。
そして、ディズニープリンセス達の力がいかに強大なものかを知ったのです。
彼女たちは、同期ばかりでなく上司や先輩の男性に対しても、強大な力を見せつけてくれたのです。
そして彼女たちはいつでも「恋」と「愛」については全力投球でした。
努力は彼女たちをますます美しく魅力的な女性へと成長させ、そうして十分に性的魅力を獲得した彼女たちは、王子様のもとへと嫁いでいきました。
プリンセスにも、いろいろいました。
賢くて仕事がとてもできる人、そこそこ普通に仕事をこなしてる人、どっちかっていうとあんまり仕事ができない人。
でも、彼女たちの結婚に、仕事で頑張っていたかどうか、は関係しませんでした。
あくまで女性として魅力的かどうか、でした。
当たり前すぎる話です。
もちろん、プリンセス達にも悩んでいる人はいるかもしれませんけど。
かつてのわたしの母のように。
わたしも今の人生を後悔しているわけではありませんし、今からでもご縁がないわけではないのかもしれません。
けれども自分にもし女の子が生まれたら「美しく魅力的な女性になってほしい」というメッセージは発し続けたいと思っています。
仕事を「サイドストーリー」にするかどうかは本人次第だけれども、性的魅力を高めておくことの大切さを知ることは、非常に重要だと考えます。
長すぎました。
申し訳ありません。
そもそも私が女に生まれたのが残念で、それこそ幼児の頃からそう言われてました。親も私のことを「ブタ」だと言ってた気がする。女の子は可愛ければ頭が少々悪くてもいい、男の子は立身出世しなければならなという考えの親で、「女の子」として期待の持てない私は、(親の考える)「男の子」向けの教育を受けて育ったんだと思います。
そしたら旧帝大卒研究職高給取りと思いのほか大当たりしてしまい「男の子代わりとしては十分」と親は満足したようでした。しかも病気をしてから「スタイルいい美人」になったせいで、一気に「結婚して子どもを産むのが女の幸せ」という方に彼らは方向転換しました。しつこく結婚を迫り、「親の期待を無視するなんて親不孝者!」とののしられるに至って吐き気がして、親とはほぼ絶縁して現在に至ります。
そういう人はどのような考えをもって、受け取れないのだろうか。
そういう考察
これが一般的じゃないかと思う。
ちょっと選択理論心理学的チックだなー、昨日そういうサイト見たからかなーと思ったり。
でもそうじゃない人もいる。てか居た。
先日その人(以下Mと呼ぶ)について共通の友人と話していて思った。
「好きと言ってくれる人の言う事を聞かなければいけない」と思っていて、それで自分の行動に制約がかかるのが苦痛なのではないかと。
そういう考えに至った原因はいくつかある。
→ たぶん本人には自覚がないのか、それを隠しているのかわからないが、積極的に虐待されたのではなく、消極的な虐待だと思われる。端的に言えばネグレクト。この件に関して言えばMの親自身も虐待されたようなので、家庭環境の縮小再生産されたのだろう。
→ ネグレクトされながら、期待だけは世間並みという酷い状態。でもいくら虐待されても子供は親が大好きだから期待に応えようとしちゃうんだよね。親が「お前は大切な子供だから○○しろ」、「(お前が好きだから)○○を期待している」と言われて育ったんだろうね。かわいそう。
→ 上の応用系で「親は私の事が好きだから私に命令してくる。だから私も好きな人に命令する。」になったのではないかと思う。
→ 相手の事を察知する能力が凄いから、少しでも期待されたら気づくし、その期待を実現することに向けて筋道をたてて考えるのも得意。まあこれも上の親の期待に応えようとして育ったから身についたのだろう。
→ 躁鬱なんだけど、躁状態のときは凄かったな。出かけまくりで、人に会いまくり。逆に鬱の時はもう何も反応無い。だから行動の邪魔ってすごい嫌がってた。
まあこんな感じかな。
好きだと言われてそれに応えるという辛い経験を重ねていった結果、「好意を受ける事が苦痛」になったんじゃないかな。
筋道をたてて考えるのが得意だから期待に応えるために何をするかがわかるし、どれくらい苦労するかも容易に想像できるし。
しかも「好意を受ける事が苦痛」で察しがいいから、友人で少しでも好意を持った異性をどんどん切っていくんだよね。
俺も切られた側だけどw
先日、5年ほど付き合った彼女と別れることになった。
原因は些細なすれ違いから始まったことだったが、
振り返ってみれば、ぼくの心の中に彼女がいた痕跡なんてほとんどないような、
今まで付き合った女性は彼女を含めて3人だが、全て同じような終わり方になった。
結果としての愛情不足、結論としての不一致。
「あなたが見ていたのは、結局私じゃなかった……」
最初の彼女に振られた時は、まさかこんなドラマみたいなセリフを言う奴がいて、
実際に聞かされることになるとは……。
と少し耳を疑うくらいだったが、次第に彼女たちが言っていた意味を理解するようになってきた。
始まりは中学の頃だった。
もともとかなり奥手だったのもあってか、結局かろうじて告白らしい告白をしたのは、
これも今にして思えばだが、四六時中と言っていいほど一緒にいて、
ぼくたちはもうそんな、なんとなくな中で、お互いを想いあっていたのかもしれない。とすら思う。
結局その後は大学受験で離ればなれになった。
入学式からしばらくは記憶にない。それくらいショックがあった。
それでも一応真面目に単位を取り続け、半年くらいして合コンに誘われた。
結果的に彼氏がいる女性を寝取ってしまった訳だが、いざ付き合うと凄く冷めた気持ちになった。
それでも会おうだのデートに行こうだのとうざかったので、次第に避けるようになった。
背徳感が自分の性癖だと知って少し吐き気もした時期もあったけど、
将来的なリスクと結婚まで考えて見切りをつけ、付き合うことになったのがつい先の彼女だった。
多分相手もそうだったのだと思う。
とても尽くしてくれる女性だった。
仕事の愚痴を言ったりしても嫌な顔をせず、いつもぼくが帰宅するまで一緒にご飯を待っていてくれたり、
ぼく自身も凄く惹かれていったのが、よくわかった。
もともと教育熱心だった親の期待に応えられず、次第に希薄な関係になっていったぼくにとっては、
俗にいう母のような女性と言えたのかもしれない。
だけど、それでもぼくの心は満たされなかった。
どれだけ言葉を交わし、幾度身体を重ね、愛を紡いだつもりでいたけど、
愛情が重かったわけではない。価値観はぼくが生きてきた中で出会ったどんな女性よりも近かった。
そう、ただ違ったのだ。
「たくさんメールをして、お喋りとかもしてきたけど、あなたのことが何もわからない」
多少は感情的になっていた部分もあるとは思う。何も……という訳ではなさそうだけど。
そんな場違いな分析を頭の中ではしながら聞いていたのだけはよく覚えている。
今しがた見終わったところだ。
多分、二度と見ないだろう。
http://agora-web.jp/archives/1139854.html
それは彼らが選り好みしているからです。規模別にみると、図のように従業員5000人以上の大企業は0.47倍なのに300人未満の中小企業は4.41倍で、新卒に関する限り問題は絶対的な求人不足ではなく、需給のミスマッチです。中小企業(特に流通・外食)は慢性的に人手不足ですが、大学生は行きたがらない。それは、彼らが大学に進学したのは大企業のホワイトカラーになるためだからです。
実際知人でもあおりをくらい希望の職種(事務)が決まらず立ち仕事をしている人がいます(正社員)それ自体は偉いと思うし、えり好みしてる場合じゃないだろ。とは思います。でもなんかモニョっとする。それはそうなんだけど、同意はできない。
何故かなと思っていたら見つけた記事。
http://d.hatena.ne.jp/skicco2/20101208/p1
全部ではないけど、なるほどなと思った。
あと大学生がホワイトカラーの職種につきたがるのは見栄、親の期待、大学まででたんだから…等色々あると思うけど。ぶっちゃけあれだよね。
お金でしょ?
だって大企業で働いてる、働いてた友人と自分、比べて吃驚するほど違う。
給料も違うけど、辞めた後がぜんぜーーーーーん違う!!中小企業の社員ワロスwwwって書きたくなるくらい違う。
詳細は省くけど、こんな状況なら大学生がホワイトカラーばかり狙って、その下に行きたがらないのも無理ないと思う。
あとは、多分だけど、お金を度外視してまでやりたいことがない。っていうのもあるんじゃないかな。
先日、36歳の女性とセックスしてきたけど、よかったよ。女の賞味期限は30歳やそこらで切れることはない。
ただ、外資系というのがネックだろうね。
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/25610490.html
さて、結論から言うと彼女たちが売れ残る原因は需給の不一致です。
そこで「優れている」の定義ですが、これは社会一般で認められている定規を使わざるを得ないのです。
なぜなら、彼女たちは女同士の壮絶な見栄の張り合い競争の渦中におり、自分の女友達が認めるような人と結婚しなければいけません。
受験勉強のような競争を勝ち抜いてくる人たちですから、やはりその辺の「勝ち負け」には非常に強いこだわりがあります。
そこで自分より稼いでいて、自分より学歴が高い男性とすんなり結婚できるかと言うとそうは簡単に行かないのです。
例えば私の勤務する会社のアシスタントの女性は年収500万円ぐらいから下手したらアシスタントなのに年収1000万円ぐらい稼いでいる人もいます。
これだけで彼女たちのターゲットから80%以上の男性が脱落してしまいます。
さらに独身と言う条件をつけると20%が10%になります。
彼女たちの学歴は慶応や上智と言うのが典型的で、こうなってくると恋愛対象になる男性は全体の5%以下になってしまいます。
「年収800万円以上」and「早稲田、慶応以上の学歴」and「独身」でスクリーニングするだけで95%以上の男性が投資対象から外れてしまいます。
さらに、ここに「イケメン」という条件を加えると、もはや1%も残っていないと言うのが現実ではないでしょうか。
ただ、これだけでは高学歴キャリア女が売れ残る理由にはなりません。
このスクリーニングで選ばれた男性が、同じく自分と同じぐらい稼いでいて、頭が良い女性と結婚しようとすれば、世の中、似たもの同士が結婚すると言うことで高学歴女性が売れ残ると言うこともないでしょう。
しかし、男性が女性を選ぶ基準が全く違うことがこの問題の核心部分です。
男性は基本的に「若くて」「きれいな」女性が好きなだけで、実際、それ以外のファクターは非常に小さいものです。
男性は非常に単純で「若くて」「きれいな」女の人とセックスがしたいと思っているだけです。
本当です。
また、高学歴女が結婚したいような男性と言うのはもともと高収入で女性の収入などほとんど気にしません。
むしろ、専業主婦になってもらいたいぐらいに思っているのが普通です。
結果的にこのような男性は女子大を卒業して腰掛で一般職をしているような美人もしくは、準美人に全部もっていかれてしまいます。
そもそも、フェリスや聖心のような恋愛エリート養成校を卒業して、一流企業の受付のような恋愛専門職でプロとしてのキャリアを歩んで来たような人たちと、受験勉強をひたすらがんばって、会社では男性並みにバリバリ業務をこなさなければいけない人たちが同じ土俵で戦えばどうなるのか火を見るより明らかです。
例えて言えば、ちょっと運転がうまいタクシーの運ちゃんとミハエル・シューマッハーが鈴鹿サーキットで競争するようなものです。
このような恋愛エリート女性たちは親の全面的支援を受けているのが普通です。
親の願いも唯一つで「経済力があって、できればハンサムな男と結婚して孫の顔を見させてくれ」と言うことです。
親はそのためにはどんな支援も惜しみません。
英会話を習いたいと言えばすぐにお金を出し、ブランド物のバッグがほしいといえばすぐに買ってあげます。
言ってみれば、いい男をゲットすると言う業務のための強力なバックオフィスを持っているようなものです。
彼女たちは大学で効果的な合コン戦略とか化粧法とか言った基本的なことから、セックスの出し惜しみ方や与え方と言った高度なことまで徹底的に学習しています。
うぶなエリート坊ちゃんはこのようなプロに掛かればいちころです。
簡単に「一生奴隷or別れる時は財産半分」と言うとんでもない契約書にサインしてしまうのです。
こう言った現実をまざまざと見せ付けられる高学歴キャリア女はますますその理想を高くして行くのです。
しかし、「いい男」と言うリソースが限られており、そのほとんどが恋愛エリート女性に持っていかれてしまう結果、多くの高学歴女が売れ残ることになります。
世間体に基づく定規で測る「いい男」はこのようなエリート女性に持っていかれるとして、それでは高学歴女は2級品で妥協するのでしょうか?
2級品というのは例えば「明治大学卒、年収400万円、一部上場企業勤務」と言うような男性とか、年収や経歴は1級品なんだけど離婚暦3回と言うようなアウトレットで我慢するとかそういうことです。
恋愛エリート養成校の卒業生の多くは1級品の獲得に失敗したら、2級品で妥協して通常はまあまあ幸せな人生を送ります。
確かに現実を直視してその辺で手を打つ高学歴女も非常に少数ですがいる事はいます。
ところが、これはやはり高学歴女にとって非常に難しい決断だと言わざるを得ません。
なぜなら、それは彼女たちの人生そのものを否定することになるからです。
彼女たちは親の期待、先生の期待に答えるため、同級生の女が男遊びに勤しんでいる間、Z会の速読英単語で地道に勉強していたような人たちです。
その結果が軽蔑していた尻軽女が食い散らかして行った後に残った2級品だったとしたらプライドは保てるでしょうか?
よって、この選択肢はやはりほとんど取られることはありません。
現実的には高学歴女の多くが日本の一般的な定規で測れないタイプの男に流れて行きます。
いかにも片寄った意見だとは思うけども、私の中には『金が無いと幸せになれない』『学歴が大切』『○×の職業はダメ』という考えというか偏見というか・・・そういうものがある。
昔から、親は金がないことを後悔していて、よく私に『金がないと幸せになれない』と言っていた。
おそらくは自分の二の舞を踏むな、という意味をこめてそういっていたのだと思う。
毎日のように言われていたから、特に意識することなく聞いていたけど、
あれから数十年、いつの間にかそれが私の心に染み付いてしまっていた。
自立はしていたつもりだった。
しかしそれらの考えは私に染み付いていて、私はいま苦しんでいる。
親の言うことを全てきく良い子では決してないと思っていた。
でも結局は、親の期待裏切ってはいけないと思っているわけだし
『親が言うような子にならなければ嫌われてしまう』と本能的に感じていて、裏切らないように行動しているのだと思う。
親の考えから抜ける、という一歩が大きすぎる。
腐った大人になりたくないなんて有体な言葉を口にしていたんだけど、
今20にしてニート。
夢や希望を語ったり、潜在的にじぶんがなにかもってると思うのは自由だが
うごきださなきゃこうなるんだよなぁ。そして気付くんだ。自分の無能さに。
もう気力もわかない。
プライドだけが高くなって誰にも会いたくない。
捨てる勇気がほしい。
俺みたいにな人間は増えるだろうな。
こうなること自体はもちろん自分の責任だが、嫌なことから遠ざけられるような、自ら避けるような、そんな生き方を僕より年下の人間がたくさんしているみたいだもの。
高校卒業して英語をつかわないような仕事に直接就職するやつらがたくさんいる。
痛みを知らない人間が増えていくとして、大げさな予想をすれば国民性にズレが生じちゃうかも
教育は十年単位のものだから、早く抜本的になんとかしてあげてほしい。
教育ってのは学校を問題なく卒業すればいいってものじゃないと思う。
もっと危機や時間の有限さを知らせてあげたい。
悪い意味でサンタをずっと信じるような人間が増えすぎているよ。
先へ先へと動かないと。
でも親も親で変わらないとなぁ。
親がパチンコばかりいってダラダラしてたら子供もそうなると思う。
俺の親父は三国志が好きで横山光輝の本も全部そろってたから俺も三国志が好きになった
子供が納得するか怪しい。少なくとも親の期待するようにはならない
僕の場合はそうだった。だからか親が死んでもなにも思わなかった。
すべての未来に対する初動的準備が今のぼくたちに求められている。
人にではなく、この僕たちの暮らす生活の中に。
すこしづつ今以上に世の中金であるという風潮が広まっていくのかなぁ
俺がブログはじめたころは、家の商売の宣伝をしてくれるものとうちの両親は期待をしてくれて応援してくれていた。
最初はオレもそうするつもりだったよ。
しかし、現状は違う。
ネットでのくだらないおしゃべりに費やされて、商売繁盛にはまったく結びついていない。
いまや、オレのネット活動は両親から白い目で見られて迫害されるだけになった。
『PCぶっ壊す』と何度も両親に言われたよ。
両親が期待した通りにネットショップを立ち上げて成功していれば喜んでくれただろう。
しかし、掲示板やブログやmixiでのくだらない論争に興じてしまったのがいけなかった。
これで全てが狂っていった。
両親の期待を裏切ってごめんなさい。
オレは親不孝だよ。
去年の春、高校を卒業して、1年間自動車免許を取ったあと、療養していた。
最近余裕が出てきた。おしゃれが楽しくなった。就職活動を頑張ってみようと思い始めた。
でも、今までのダメダメな過去のおかげで、なかなか積極的になれない。
このままではダメだと思い、今まで目をそむけて黒歴史扱いしていた自分の過去と向き合おうと思う。
昔から引っ込み思案でおとなしい子だった。いじめられっこ気質だったと思う。
自分から他人に話しかけられない子だった。だから友達もほとんどいなかった。
小学生のときは担任に嫌がらせを受けていた。とある授業で手紙の定型文を書くという時間のとき
自分だけいつまでたってもやり直しだった。気付けば自分ひとりだけになっていた。
ちゃんとあっているはずなのに、どうしてだろう。何回も頑張って直した。でも駄目だった。
私はパニックになった。やけになってはじめに書いたものを出してみた。OKだった。
このとき、私は嫌がらせを受けていたことを実感してショックを受けた。
音楽の授業で、リコーダーのパート決めがあった。立候補してもいないのに、なぜか勝手にソロパートを
やらされることになった。(気付いたら黒板に書いてあった)
みんなの前で吹いてみろと言われた。私は、頑張って吹いたが息が続かず、失敗した。怒られた。
何回もやらされたが、駄目だった。そうしたら、その担任は他の男子にお前がやれと命じた。
「こいつは駄目だからお前がやれ」と。(ちなみにその男子は一発で吹けた)
これまたショックだった。勝手に決めておいてそれはないだろうと。恥をかかされた気分だった。
このときの救いは、その後あまり喋ったことのない女子が
「さっきのひどかったよね。勝手に決めたくせにね。」と言ってくれたことだった。嬉しかった。
まだまだいっぱいあるのだが、きりがないのでこの辺にする。
このとき登校拒否とか自殺とかの方向にいかなかったのは、私に特技があったからだ。
私は駄目な性格だったが勉強はできた。絵や習字も得意だった。良い賞をもらったこともあって嬉しかった。誇れることがあったから自分は生きていていい存在だと思ったから、辛くても耐えられた。
親に話せなかったのは共働きの両親に心配をかけたくなかったからだ。毎日愚痴をこぼす母には
とても言えなかった。
中学に入った。今度は男子にいじめられてしまった。くせ毛を馬鹿にされ、
わざと「○○さん、こいつ○○さんのこと好きだって」と明らかに笑いのネタにされたときは
耐えられなかった。授業の時間、私の名前が書かれたとき
「○○なんてこのクラスにいたっけ?」と大声で言われた。
クラスに笑いがこもった。これは辛かった。
小学生のときとは裏腹に、私この件で一年の二学期で保健室投稿になった。登校拒否だ。
私は両親にはっきりといじめられているからいきたくない、とは言えなかった。なぜか。
でも担任から話をしたりしていたからなんとなくはわかっていたと思う。
そのときの両親は登校拒否に理解がなく、私を困った子扱いをして、何かあるたびにいやみを言われた。
「学校に行こう!」という番組を居間で見ていると、学校に行かないくせにこんな番組を見るのかと
言われたりした。家にも自分の居場所が無くなった気がした。
その頃の私の性格はかなり暗くなってしまっていたと思う。
高校のときも、2年頑張ったが途中でリタイアした。友達にはなれられてしまって、孤独に耐えられなかったからだ。私はすっかり弱くなってしまったなあと思った。1年間休学した。
このときは理由を言ったし、中学の頃もあったので、両親は優しかった。休んでいい。と言ってくれた。
嬉しかった。
それからやっぱり高卒の資格が取りたくて、定時制の高校に入学した。
人数が少なく、基本的に皆一人で過ごしていたので気楽だった。
転入クラスは、やっぱり同じようにリタイアしてしまった子ばかりだった。
ある日担任が話してくれたが、気さくに話しかけてくれたクラスメイトの男子は、
自分でお腹をカッターで傷つけまくったらしい。彼のお腹は切り傷で真っ赤らしい。
話す機会が多い女の子も前の学校で友達関係で悩み、手首を自分で切ったらしい。そういえば彼女は
いつもリストバンドをしていた。だから多分本当なんだろう。みんな大変なんだ、辛いのは私だけ
じゃないんだと知って少し気分が軽くなった。
この高校は面白かった。私は教師に対しては小学校の経験でいい印象などゼロだった。
しかしひとりの教師は違った。おじいさん先生だったが、今日は天気がいいから勉強やめて
散歩に行こうと言い出したときは驚いた。ドラマみたいだと思った。
この先生はテスト対策に、手作りプリントを作ってくれて一緒に頑張ろうと時間を作ってくれたりも
した。私はこの先生が大好きになった。尊敬もしていた。人間的に素晴らしい人だったからだ。
このまま順調に行くと思っていたが、夏になり、なんだか学校に行くのが苦痛になってしまった。
これから就職のことも考えなくてはいけないプレッシャーに押しつぶされそうになった。
面接の練習で、自分の弱さを指摘されて(高校時代の過去など)わんわんと泣き喚いてしまった。
そうしたら担任が医者を紹介してくれ、精神科医へ通うことになった。
それから薬を飲みながら頑張った。もう途中で諦めたくないからだ。
そしてとうとう卒業式を向かえることができた。退場するとき、私は開放感でいっぱいだった。
「おめでとう」
その瞬間、私はその先生にかけより、顔も隠さずぼろぼろと泣き出した。これだけ大人数の前で泣くなんて初めてだったが止まらなかった。
多分ひどい顔だったと思う。でもその先生は何も言わずにっこりと笑ってくれた。
私はありがとうございました。と一言言って逃げるように去った。
私の学生生活はかなり遠回りだったと思う。
嫌なことも多かったが、学んだことも多かった。嬉しかった出来事だってあった。
だから私はもう過去を気にするのはやめようと思う。
これを書いていたら完全に吹っ切れた。これからすこしずつ、やっていける自信がついた。
書いていたら涙がぼろぼろ出てきて目が痛い。文章めちゃめちゃだ。
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20070326/1174898074
若いうちに恋愛をいっぱいしとくべきだった。
2.自分に誇れることなんてあるだろうか?
潔癖な倫理観で、ある年齢までは親の期待を裏切らずにいられたことくらいか。
3.自分が何か達成したことなんてあっただろうか?
納品物すべて。人生では特にない。
4.人生の最後が近づくのに今さら何かできることがあるだろうか?
ないだろうな。いまさらというのは間に合わないからこそ使う言葉だから。
5.難しくて挫折してしまったことの理由は?
そもそも立ち向かわなかったから挫折もない。
7.ずっとこのままでいる以上に恥ずべきことは何だろうか?
親より先に死ぬこと。
人生が変わる気がしねえええええ