はてなキーワード: 大卒とは
タイトルのとおり。
3月30日で現任校の任期が切れて、4月2日付で80キロ以上離れた県立高校に異動することになった。
20日に教育関係の人事異動が発表されて、校内は歓喜の声や悲鳴で賑わった。
その後、学校間や教育委員会とのやりとりが行われ、「○○(教科)の先生が足りない」となり、自分たちのような非正規教員(臨時登用名簿に載っている者)に連絡が来る。
(生徒指導部長、進路部長といった分掌長を担当する場合、その先生の担当コマ数は軽減されるので、先生の人数は定数でもコマ数が足りなくなるという現象が起きる)
ちなみに、去年は3月28日に連絡が来たので、今回はかなり早いということになる。
断れるはずがない。
この県で教員採用試験を受け続ける自分のような者が、県からの内示を蹴るはずがないのだ。
今年35歳を迎えた男、独身。
「来年こそは!」と共に対策を練った仲間は、正規になったか、疲れて別の道に進んだか、自分のように毎年学校を転々としながら講師を続けているか、だ。
臨時教員の異動について連絡が来たあと、事務職員に呼ばれ、「月末で健康保険証を返却してください、翌月支給の手当があるので口座はそのままにしておいてください、任期が半年を超えた人には退職手当相当金が支給されるので別途書類を渡します」などと指示を受けた。
「今年新卒なんですよ」と言っていた若い彼女は、自分の仕事のある種の残酷さに気づいているだろうか、などと思った。
どんなに遠方に異動することになっても、正規の教員のように引越し代や赴任手当が支給されることはない。
4月2日からの任用ということになっているので、4月分の通勤手当は支給されない。
4月1日に最初の大事な職員会が開かれるらしいので、暗黙の了解で参加する。
任用があるだけマシだとは思う。
臨時教員とはいえそれなりに給料はあるので、任用がなかった年は住民税や国保の支払いにえらく苦しんだ。
いつまで続けるのだろう。
考えかけては、気を逸らしている。
自分の教え子に「体育の先生になりたい」「教育学部のある大学に行く」などと言われて、「先生はいい仕事だ!頑張れ!」と素直に言えなくなって何年が経つだろうか。
ギターにしてもギブソンが経営難となるってことは、数十万単位でも買う人はあまり居なくなって、もっと安いのでいいとなっているはず。
スマフォも1000ドル辺りでハードルありそうなので、それ以上のものは出てこないって感じかと思う。
で、ふと気になったのは、家のローンは数十年ローンを組まないと返せないままだ。
これに関してはベイエリアも一緒なので、GoogleもFacebookも解決できていない。
スマートスピーカーのように各社同じようなスペックのものを出して価格競争をさせるといったことも出来てない。
家賃も家の価格に影響しているので、給料の3分の1までに押さえるといった、大卒の初任給から逆算して家賃こんなもんなんですよと
んー、身分じゃなくてさ、いまどき大卒なんて誰でも取れるものを取ってないって時点で育ちと能力は疑問符がつくよ、ふつうに。
それで今年の敗因など色々親と話し合って通信制大学に行けば良いじゃんと親に言われたのだが、理解していても納得できないのだ。
私自身何故大学行きたいかというと興味のある分野の勉強がしたいのと1人で生きて行くための賃金が稼げるであろう大卒という資格が欲しいのと頑張ったという成功体験で自信をつけたいからだ。
それで私は通信制の学部に入学しても頑張らなかった人なんだというレッテルを一生貼られ自分でも背負って生きていくのは辛いし嫌。
だって入学試験は無しで作文と書類と入学金だけで入学出来るようになってる。同じ大学の1部の学部に通う学生からも世間からもあー勉強頑張れなかった人なんだねと一生思われる。もう嫌だ。何回も逃げ出したくなる。
ッあぁ~~~これ書いたら大人の人にめっちゃ怒られるかもしれない。でももういいや。もういい。もう嫌だ。だから書きます。 口調とかもあまりきれいじゃないかも、ごめんなさい。 私は自分が絶対に正しいとは思わないし自分と違う考え方の人に対してどうこう言うつもりもないのでそこだけご承知願います!
人間って生まれてからたくさんのものを獲得して生きていくものだと思ってる。 たくさん選んでたくさん捨てて積み重ねてきた時間がその人を作る、よく聞く話。そんな中で生まれた瞬間から決まっていてどうしても覆せないものって一つだけある。
親
って言われているもの。誰から生まれるか、どこで生まれるかなんて誰も選べない。
逆に親も子を選べないのもまた事実で、これを皮肉って『ガチャで出てきたはずれが自分だ』みたいなこと言う人もたまに見かける。
そういうわけで『親を好きになれなかった』話について。
その引っ越し、自立とかきれいごと抜かしてるけど親との同居に限界を感じて決行したものだった。 実家がどういうところだったか、少しだけ書くと 2017年夏(当時20歳)の時点で
•自分の部屋がない
•昼間は机が置いてある2.5畳の仕切りのないスペースで生活
•就寝は祖母と一緒の布団
•窓を開けてはいけない
•カーテンも閉め切る
•オーブントースターの温度設定は使い終わったら母親の使う温度に戻さなければならない
などなど。
母親も祖母も私がいうことを聞かないとすぐに怒鳴り散らすのでとにかく怒らせないように生活するのに必死だった。それで今でも大声で人を怒鳴りつける人が苦手。
これでも成人してよくなったほうで小学生頃なんか今思えば地獄度段違い。
母親が19の頃にデキ婚で私が生まれて小学生のころに離婚していて、次の男が一時期実家に住んでいたこともあった。いわゆる『ママの彼氏』。
「これから私たちの生活を支えてくれる人」って紹介されたこと。
誰だったんだろうあいつ。
見た目的にはホストっぽかったけど今となっては素性はよくわからない。 私が8歳当時なら母親はちょうど30手前くらいで離婚もしてまだまだ遊べる年だったんだろうな、と。
最初のほうは仲良くしてたと思う。私の目の前でいちゃついてて、それ見てたら男が母親いじめてるみたいに見えて止めに入ったら怒られてのけ者にされたりした。懐かしいなぁ。 そんな生活も長くは続かず1年経たないうちに仲が悪くなって男は出て行った。
そっから家に男が入ってくることはなかったので本当に父親という存在を知らずに育ってきた。 だから好きになった人や付き合った人に父親みたいな安心感を求めがちなんだって最近になって気づいた。
祖母も同居することになったのはそのあとで働く母親の代わりに家事全般をやってくれた。 それだけでも本当は感謝しなきゃいけないというか、感謝はしてるんだ。それは本当。 働いて私を育ててくれたのは母親で、そのことも理解しているつもり。
祖母は祖母で私が拒食症になって口に入れたもの目の前で全部吐き出してしまった時はブチ切れて木の棒で全身あざだらけになるまで殴ってきたけど書くとさらに長くなるから割愛。(重視すべきは体調不良よりも作ってくれた親への敬意 という考え方)
そういうわけで『産み育てた恩があっても殺す権利はない』というのが持論で、言ってしまえばこの世に生まれた瞬間から、 へその緒を切られたその瞬間から私は母親の体の一部ではない一人の人間になったはずなんだ。 その事実を『感謝』とか『育ててくれた恩』とかとごちゃまぜにして見えないところに押し込むことは私にはできなかった。
そして労働に費やした分子供と親が触れ合う時間が減ることで親子という関係に不具合が生じるのもまた事実だ。
私は本当に親がわからない。
親もしばしば私のことを「わからない」と怒鳴りつける。
今歩み寄れないのは間違いなく幼少期に信頼の基盤がつくられていないからなのにまるで私が親を突き放しているかのような物言いで、 そこに「親不孝者」という便利な言葉を着せてことあるごとに罵られてきた。
母親の中には親子とはかくあるべし、という理想像があって、何もしなくてもそこに収束するのが普通だと思っているようだった。 だから自分は普通で私が異常なんだと言って私を矯正したがった。
生まれて何年たっても私はまるで親の一部かのように扱われていた。 いい学校に入っていい会社に入っていい大人になるための第一歩として幼稚園のころから通信教育の教材をやらされた。 幼稚園の頃病弱で、入院している私のベッドのそばで
「こんなに頭の悪い奴なんか見たことない!」と叫んで帰っていく母親の姿はなぜか今も鮮明に思い出せる。
小学生のころは学校のすぐそばに煙草を買いに行かされて、同級生に見つかって噂されて、勇気出してそれが嫌だと親に伝えたら 「身勝手な奴だ」と怒られ、「親のためにこんなこともできないなんて」と貶されたことがあった。
服は短くても1週間同じものを着せられてた。長いと1〜2ヶ月くらい同じものを着てたと思う。当時皮肉抜きで「その服本当に好きなんだね」って言ってくれた友達のことをたまに思い出す。大人になっても1度着た服を洗おうとするとめちゃくちゃ怒鳴られた。
私はとにかく母親の思い通りにならないと怒られてた。当時はよく泣く子供で泣くとさらに怒られた。 私が大きな声を聴くと自然と涙が出てくるなんてことを親は知らないみたいで、もうそのころからまともに意思疎通をはかろうなんて気持ちすら持てなかった。
中学生になるとひたすら成績を気にしだした。テストの成績はクラス順位5位以内でないと怒られた。「他の人はできるのにお前は何でできないんだ」が常套句だった。
幸いそのころは勉強が楽しかったので学校の成績は良かった。 しかし受験勉強が始まると私は親ではなく私のために勉強しなければならなくなった。過去問は学校のテストよりはるかに難しくて思うように点数が取れなかった。 もう手一杯で親のご機嫌取りのために数字を気にしている暇なんてなかった。数字が下がると怒鳴る頻度は上がって以前みたいに勉強が楽しいと思えなくなった。
結局中学の好成績を生かして公立の高校に推薦で入学した。 ひざ下まであったスカートをひざ丈まで上げたら烈火のごとく怒られた
「そんな恰好をするな!不良め!誰とつるんでいる!」 挙句の果てに「そんなに妊娠がしたいか!」と。 スカートの丈をひざまで上げただけで。 意味がわからなくて怖くてたまらなかった。
親のなかでは
ひざ丈のスカート
=男にもてたい
=恋人ができる
=セックス
=妊娠
という式があるらしい。
一番成績がいいのは1組、悪いのが7組だと信じて疑わなかったので3組になったときも説教された。いくら違うといっても聞く耳は持たなかった。
大学は必ず行け、しかし国立以外許さないと言われた。自分でも裕福じゃないのはわかっているから学費の負担を少しでも減らしたくて志望を国立に絞った。 しかしここでも親の謎理論は炸裂、大学に行ったこともないのに「私大は頭の悪い人間が行くところ。落ちこぼれが金で大卒の資格を買っている。」とご高説を垂れる。 この辺まで来るともう物事の判断がつく年齢になってしまった私には親のめちゃくちゃな説教は気持ち悪くて仕方なかった。 知らないものをぼろくそにこき下ろすのも、進路の悩む私に寄り添うどころか選択肢を狭めて重圧をかけるのも鬱陶しい。
結局興味のある分野に近いコースの国立大に入学して3年が経とうとしている。 実家から離れた大学に通うことも気に入らなかったらしい。 「もっと近くにあるだろうが」
帰りが終電になればまた怒られ、
「美術なんかやって何になるんだ」
といった風な小言も絶えなかった。
掘り返せばきりがないくらいこの手の嫌な思い出は出てくるのでこの辺にしておこう。積もり積もって今の私を形作っている思い出たちだ。
場所もない、理解もない、朝は母親と祖母による自分の悪口で目が覚める。 ストレスばかりが溜まって心も体も限界だった。
2年次の後半はほとんど学校に行けなかった。 家にいると親に対する嫌悪感で頭痛や吐き気が止まらなかったので出来るだけ外にいた。
学校終わりはバイト、予定のない日は大きい本屋をうろついてたまに本を買って近くの喫茶店で読んだ。
もうどうしようもないと思って3年次は休学手続きを取って1年間フリーターみたいに働きながら家を出た。
講評の当日深夜につらくて泣きながら教授に「授業を休ませてください」という旨のメールを送った日からもう1年が経ったらしい。
実家を出ることに関しては強行突破でかまわないくらいの心意気だった。 どのみち自分には帰る場所なんかないのだから居場所を作るしかないと思ってのことだった。
親には一言も伝えずに休学、
お金を貯めて部屋まで決めて、
もう後に引けない状態で家を出ることを伝えた。
自分の判断能力と精神的の限界、苦しみ続けた20年間を鑑みてもうこれが自分に残された最後の、そして最善の手段だと思った。
「自立したくて家出た」なんていうと「行動力があるね」と言われることがあるけれどその実
ただ「実家にいたらいつ精神崩壊するかわからないから生きるために逃げ出してきた」くらいが正しいんだろう。
少なくともこの半年、
「家に帰りたくない」なんて1度も思わなかった。
時間潰すために夜の公園で電池なくなるまでスマホいじることもなかった。
自分だけがいる部屋で誰の目も気にすることなく笑ったり泣いたりできた。
窓を開けて部屋の換気ができた。
たったそれだけの事だ。
私はたったそれだけのことをするのに21年苦しんだ。
春の暖かい風が部屋の中に吹き込んできたとき「生きててよかった」と心から思った。 ようやく自由になれた気がした。
家を出たら出たで大変なことはあるけど、少なくとも今のところは後悔なんかしていないと言い切れる。 誰かが掲げてた『苦労はできるだけ少ないほうがいい』という主張はまったくその通りだと思う。 部屋の窓を開けるのに21年かかるなんてばかばかしくてやってられない。
ただ、21年かけて開けた窓からは確かに未来が見えた気がした。 自分の人生はこの1度きりしかないのだから、自分が幸せになるために生きなければもったいない。
4月から大学に戻る。仕送り0で学びながら働きながら「家賃を払わず整形手術のローンを組む同居人」と共生、というか矯正。それから休んだ1年分の学費を貯めなければならないのでやることは山ほどある。大好きなお絵描きができないかもしれないがそういうフラストレーションは学校の課題へのモチベーションに変えよう。
レールを外れて生きていくっていうのはそれ相応の覚悟が必要で、残念ながら社会はそういう人間には優しくない。
こんな文章垂れ流したら知らない人に「この程度で甘えんな」「自分なんかもっと大変だ」「大学まで行かせてもらってるくせに」って言われそうだけどそれでもいいや。
イケメンかキモメンかでそこの判断するのってせいぜい高校生までで、フツメンでもコミュ障で格好がオタクっぽければ無かったことになるし、ブサメンでも陽キャオーラビンビンならカウントくらいはしてもらえるよ
みたいな感じだな
30歳の2人の子持ち(2歳&4歳)の大卒職歴ゼロ女(パソコンはある程度使える)が正社員として採用されるまでの話をする。
少しでも希望になればになればと思って書く。。
実家も車で一時間ぐらいで普段の手助けはなし。夫は残業多いけど家事育児に協力的。
ある日のこと、子育てが嫌すぎて専業主婦をやめて働こうと思った。まずは子供を認可外保育園に預けた。
人口20万人の都会でも田舎でもない地方都市だと、仕事の選択肢もそうそうあるわけではない。
保育園児抱えてて遠くに働きに行けないというのなら、尚更だ。
ハローワーク行っても、
介護士…
そんな求人ばかり。私は何も持っていない。
優良企業の事務職なんて、派遣会社が全部買い占めていて、残ってるのは月給手取り12万ボーナスなしの事務職とかそんなんばっかり。
子供の保育園のこともあるし、最低でも土日休み希望。そして夜勤はできない。あと体力に自信がないので肉体系の仕事も無理。となるとやっぱりどうしても事務職になる。
試しにエリアを東京にしてみると、都会は求人が多くて羨ましくなった。
確かに私は国立大卒で昔は勉強もよくできたが、文系なので手に職はないし、稼げる資格はゼロで、職歴ゼロだと応募しても応募しても本当に採用してもらえなかった。
頭の良さなどクソの役にも立たない。国立大卒実務経験ゼロより、簿記の専門学校卒業して経理3年やってます、って人の方が需要があるのだ。
正社員はとりあえず無理だなーと判断し、そのうち転職すれば良いやと思って得意な英語を活かして派遣社員になった。
派遣期間中は、周囲の目を盗んで仕事をしているふりをして資格の勉強を始め、それまで最高650点だったのだが、TOEIC920点を取得。
派遣先の企業は本当に働きやすかったけれど、ボーナスなし交通費なしで給料が安かったので1年ほど働いてから予定通り転職を決意。
DODAなどの転職エージェントに登録するも、職歴薄すぎて、ほとんど転職先を紹介してもらえず。
仕方ないから求人の出ていない家から通える範囲の企業に自分の職歴添えて片っ端から問い合わせしまくったら、正社員として雇ってくれるところがあった。営業がんばった。
めでたく一部上場企業の一般職として転職が決まったが、入ってみたら仕事はないし、人間関係が超絶ブラックでメンタルを病んで2ヶ月で辞めた。
家から近くて人間関係良くて、それなりの給料が貰えるなら仕事内容に贅沢は言わない、と決めて、30社ぐらい応募して、断られ続けた。
どうせ落ちるだろうけど、別にいいやと思って気軽な気持ちで応募。
男性は自分の経歴が求人条件を40%満たせば応募するのに対し、女性は100%満たさないと応募しない傾向にあるそうだ。
Facebookのサンドバーグさんのリーン・インって本で読んだ。
それを知ってたから、求人条件を20%でも満たせば応募することにしていた。
結果、年間休日125日の中小企業でエンジニア(ITではない)として採用された。
30歳にして理転。無謀に思えたが、案外何とかなった。
ボーナスも年6ヶ月出るし、職場の人間関係も良くて、仕事は毎日楽しい。
スペック高くて参考にならんわ、って言う人もいるかもしれないけど、一番のポイントは求人条件を見て怯まなかったことだと思う。
とにかく応募しよう。
そのうち何とかなるかもしれない。