はてなキーワード: 働かざる者食うべからずとは
もう一回書いてやるから本当によく読め
飢え死に寸前の人間に「働かざる者食うべからず」と言っても反感買うだけ
「健全」じゃない位他者からの承認がないって時にいうことじゃない。
飢え死に寸前の人間に「栄養バランスがー」とか言うくらい愚か。
キミとワイは別の人間で、ワイがキミをどう思うかは、
キミをどう思うかはワイが今までで積み重ねてきた経験や生まれ持った性質や体調である
相手がどう思いどう判断するかはキミがコントロールできる事ではない
それはKKOに限らない
何を当たり前のことドヤ顔で言ってんの?
そのルールになってないルールのなかで、とりわけ承認を得られなかったのがKKO。
偏ってるんだよ、お前や俺や誰の判断も。
その偏りの犠牲者が飢えに苦しんでるときに上から目線でマウント取るのが正しいと?
カウンセラーは万能ではない。
じゃあ犬を飼うで解決だろ
利害関係。
これは非の打ち所打ちどころがないって話じゃね?
なのに利害関係関係しかないんだーとかさ誰でもいいとか言いながら
何言っちゃってるの?
金でいうことを聞かせるのは「承認」とは言わない。
それが分かってないからこういう頓珍漢なことをいつまでも言ってる。
KKOが求めてるのはSEXじゃなくて「承認」だって言ってんだろ。
「利害関係」じゃなくて「承認」な。これを無視するならもう話すことはない。
あと、もう一回言っておくけど飢え死に寸前の人間に「働かざる者食うべからず」と言って何になるの
事業者の"わがまま"と被雇用者の"わがまま"。お互いの"わがまま"を許容できるマッチングシステムをつくるほうが先で、移民(に準じるシステム。外国人を受け入れること)はそれからじゃないかとぼくは思っていました。
でもこのタイミングで外国人を受け入れることが、ぼくたちの苦しめてきた精神を壊す起爆剤になるかもしれません。
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残念なことに、日本ではいまだに「働かざる者食うべからず」の精神が根付いていて、それはずっと日本人に刷り込まれ続けています。
無職であることを無意識に非難し、生きていることさえ否定してしまう自虐思想は、いま働いている被雇用者たちや、働かせている事業者たちにすら、「四六時中働かないといけない」というふうに、大きなプレッシャーをかけていないでしょうか。
このプレッシャーは、いずれ受け入れる移民にも悪影響を与えると思います。もっというと、先の外国人実習生の失踪の気持ちの裏側だと思います。もしぼくが外国からやってきたとして、日本人が「食うべからず」の精神で迫ってきたなら、拒絶するし、必死に逃げます。そしてやりたいことをして暮らすと思います。
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ぼくはいじめや成績不良から学校を二度も(高校と大学で)ドロップアウトして、引きこもりになってからずっと、「どうして自分はダメなのか」ということばかり考えてきました。
・・・もっと真面目に人と接したら良かったのかとか、成績が落ちてももっと頑張れば良かったのかとか。皆よりも劣っているからダメだったんだろう。そんなぼくに生きている価値なんてあるのか。・・・
あるとき、こんな思考の大本が「働かざる者食うべからず」にあると気づくのです。働けない者を、社会は許さない。
・・・この『社会』とはなんなのか、よくわかりません。そしてこの価値観がどこからやってきたのかもわかりません。でもなぜか、『働いてないのだからダメだ』というふうに仕向けるのです。自分のまま、"わがまま"に生きることを許さない。ただ「働け」と。金を稼げなくても働け。身体がダメになっても、死ぬまで働け。・・・
そうして好きでもないことに自分を働かせ、気づいたら身体はボロボロになっていて、一度は選んだはずのパートナーからは冷たい目で見られ、離れ、しあわせからはほど遠い場所にぽつんといる自分がいるのです。
本当のぼくは、いったいどこにいるんでしょうか。
・・・どうやら、"わがまま"に生きたいようだ。休みたいときに休みたい。昼寝したい。好きな人といちゃいちゃいたい。遊びたい。自由で、ありたい。子どもの頃のように。思うままに。"わがまま"に。・・・
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いまの日本はそんな"わがまま"を実現できるシステムをこしらえているでしょうか。もしそんな精神的な余裕のあるシステムを実現するなら、きっともう少し笑顔の数が増えるはずです。『お金がない』ひとたちですらしあわせを感じられるはずです。
お金がないひとたちは、お金がほしいのではなく、"わがまま"がほしいんです。お金は"わがまま"を叶えやすくするツールですけど、となりのひとに"わがまま"を聞いてもらえたら、お金なんていらない。でも『きっと』"わがまま"が認められないと思うから、違う何かにすがろうとする。その一つがお金です。
だから、いっそのこと、"わがまま"を許容する。たとえ無職のままであろうと、明日したいことに転職しようと、国家資格を無視しようと、公務員をしながら副職しようと、今日だけパートナーと仕事を交代しようと、一ヶ月推しのライブツアーのためにずる休みしようと、"わがまま"であることを一切許容して、ひとの"わがまま"を実現する方向にフォローする気持ちをつくるところから、はじめませんか。
やることはとても簡単なことです。あれはダメ、これはダメ、と思っていたことをひとつずつオッケーするだけ。なかには許せないと思っていることだってあるでしょうが、許せない自分だって"わがまま"のひとつなんですから、そこからオッケーする。
上に書いてあることは「ダメ」だとされていることばかりだけど、だからこそオッケーする。オッケーしたからといってするわけではないので一切犯罪ではありませんよ。ただ自分のなかにおいて"わがまま"を裁こうとしないだけです。まずは、そこからはじめる。
いずれは人を殺したいと思う自分も、万引きしたい自分も、放火したい自分も、おかす/おかされる自分も、すべての分野において範囲を広げていくわけです。ちなみに、許せる範囲=自分の受け取れるものの大きさに反映されるので面白いです。普通の人が気づかない『愛』を感じる感性も強くなります。
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さて、話を戻します。人手不足っていうんですけど、それは事業者の"わがまま"と被雇用者の"わがまま"がマッチングしていないからだと思うんですよ。
「いま働きたい」でも「明日は働きたくない」「休みたい」、「あの人の下につきたくない」「我慢したくない」「発表するのが嫌だからスピーチ役を回して欲しくない」とかの被雇用者の"わがまま"を、事業者はきっと受け入れないと思っている。
反対に事業者も「給料払いたくない」などの"わがまま"を聞いてもらえないと思っていて、もう仕方がないから外国人に頼ろうとするけれど、きっと外国人も同じ"わがまま"な反応を示す(日本人よりももっと"わがまま"に生きる)と思います。
つまり、外国人を入れたところで結局同じ問題にぶつかるはずです。これはぼくたちの"わがまま"を受け入れるまで続く問題です。
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お互いの"わがまま"を許容できるマッチングシステムをつくるほうが先で、移民(に準じる、外国人を受け入れるシステム)はそれからと書きましたけど、システムをつくるとは、そもそもぼくたちの意識が"わがまま"を許せるようになることです。
ぼくたちが変わらないと、システムは維持できないし、そもそも生まれない。"わがまま"をダメだと思っているうちは、うまくいかないでしょう。
だからこのタイミングで外国人が入ってくることで"わがまま"に生きる外国人を見て、日本人の意識が変わるのを期待するというトップの考えなら。どうして「このタイミングで改正するのか」の真意が、分かってくるかもしれません。
リストラされた。
本当にすべてを最低限に切り詰めている会社で、
確かにもう私を切る以外ないだろう、と
私でさえ思うような所だ。ここ数年、業務縮小以外してない。
数年描けて取り戻せなかったのに今から巻き返しは無理だろうし、
それが今だと思うとやっぱりものすごく辛い。
働かざる者食うべからずって言うしそのとおりだけど、
死ぬまで働き続けるんだなあって考えたらなんだかどうしようもなく辛くなった。
働きたくね~wとか言って笑ってたけど、いざ仕事を失うとなると
働きたくないのに働きたい
でも、仮に今1000000億降ってきたとして、働かない生活を手に入れたら何するんだろう。
前に友達が、働くのって暇つぶしのためでもあるよね。って言ってたけどそれも分かる気がする。
あーあ面倒だなとか今日は頑張ったなって思いながら
次決まるかなとか辞めなきゃいけなくなった理由が本当にもうどうしようもない事なので落ちこむ。
「働かざる者食うべからず」だけはなくすというか、教育者が子供に教えるべきではない言葉だと思うね。
原始的かつ非倫理的な社会集団にだけ通用する原理で、とくに社会主義的な思考のベースになってしまうから。
聖書が由来のことわざだが、実際にこのことわざはソ連共産党のレーニンがこれを実践的戒律としていた経緯もある。
さらに悪いことに、ナチュラルに社会主義気質な日本人はこれを資本主義的な弱肉強食の原理と読み替えてしまうケースが多いように見受けられる。
資本主義・自由主義経済下であれば労働を強いることはないし、弱肉強食になりがちだからこそ法(ルール)を洗練させ、機会を平等に、セーフティネットを十分に、そうやって多様な境遇の人を受容できる社会に、というのが現代の資本主義国家の常識であるのに。
もちろん、そこまで思想的な意味を考えずに「貢献することなしに与えられるだけの存在になるなよ」という意味で使われる事がほとんどだろう。
でもそれを言いたいのであればもっと別の言い回しをした方がよい。このことわざを使ううちに、社会主義的なマインドセットが強化されていってしまうような気がする。
思ってることと言ってることが違くて人を傷つけている
ここに的を絞って書く。
相手「なんか手伝えることあったら言ってくれ」
などなどから、相手がキャンプの予定に前向きなのは分かる。元増田も楽しみにしていたようだし、応答の感情として「感謝」「同調」の言葉を加えていきたい。
従って、入るワードとして
の要素が入ってくると、感情の交換ができる。
元増田の応答「手伝ってほしいことは沢山あるぞー 笑 働かざる者食うべからず! 当日は〇〇と△△をよろしく!」には、「笑」しか感情の要素が乗っていない。特に、多くの人は喜怒哀楽の「喜・楽」などのポジティブな表現は鈍く、「怒・哀」などのネガティブな表現は過剰に強く受け取る傾向があるので(元増田もそう。相手の楽しみよりも、相手の不快感を強く受け取っている)、ポジティブな感情こそ強く乗せていかないと受け取ってもらえない。
対面なら表情や声の調子で伝わることが、文字でのやり取りでは伝わらない。文面でのコミュニケーションの弱点を理解して、それを埋め合わせるように文章を組もう。会話と同じように言葉を選んでも、同じようにはうまくいかない。
日本語の構造では、文章(正確には句)が伝達する"意味"と、語が表現する"感情・関係性"が分離している。例えば、
などは、伝えたい"意味"は「委託」で近似しているけれど、感情や関係性の面で差がついていることがわかる。つまり、意味をチョイスできているだけでは表現としてはひと押し不足していて、できるだけ「感情・関係性」もセットで調整したい。
相手は「なんか」と曖昧な限定しかしていないので、ここですれ違いが発生する可能性がある。
手伝ってほしいことがいろいろある場合は、誤解を防ぐために
もしくは、「つもり」を共有するために
などの手段がある。
例えば実例は
のような内容が考えられる。これをやっておくと、相手の考え違いを防げる。
言葉って本当に難しい。増田のやり取りのように、ほんの少しのうかつな発言で思いもよらない形で人を傷つけたり、誤解されたり、発言した自分のほうが驚いてしまうこともあるよな。自分も日々精進してるから、増田も少しずつうまく使えるようになっていけますように。どうかあんまり落ち込まずに……今後の良きコミュニケーションを祈ります。
8月は雨ばかりで夏っぽいことができなかった。
9月になると晴れの日も多くなり、まだまだ暑いのでキャンプへ行きたくなった。早速友人に声をかけたら快くOKもらえた。やったね。
誘った後、「なんか手伝えることあったら言ってくれ」とLINEがきたので、「手伝ってほしいことは沢山あるぞー 笑 働かざる者食うべからず! 当日は〇〇と△△をよろしく!」と返した。
そしたら「そんな言い方しなくても働くよ!誘われたからって何もしないわけないだろ!」との旨の返信がきた。
自分では、「キャンプだし一緒に沢山遊んで準備で汗かいた後にメシ食って楽しもう!」みたいな意味で送ったつもりだった。怒ること言ってなくね?とは思った。でも、自分ではそう思っていても、相手が傷ついたり怒ったりしたのならば自分の言葉に問題があったということ。
何だか最近、思ってることと言ってることが違くて人を傷つけていることが多いなぁ......
落ち込みながら一人反省会。調べたら「働かざる者食うべからず」は、
If any would not work, neither should he eat. 「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」
という意味だそうだ。
つまり、友人が「何かしようか?」と声をかけてくれたのに、俺が「何もしないつもりだったのか?何もするつもりがないのなら飯食うなよ」って言ったということ。親切にしてくれたのにマウント取って殴った感じ。
そりゃ嫌な気分になるわな......友人には本当に申し訳ない......。
今回もだけど、自分では良かれ・いい意味として言っているつもりでも、相手に伝わってなかったり、知らない間に傷つけていたりするのはすごく悲しいし辛い。
昔、「言葉がきつい。人を見下したような喋り方だ。」と注意されたことがある。それを聞いてとても落ち込み、極力強い言葉を言わないようにし、丁寧な言葉を選ぶようにした。誰からも注意されなくなったので治ったつもりでいた。治っていなかった。もう呆れられているのかもしれない。今回も、実は違うところが悪いのかもしれない。「だぞー」が見下してるようで良くなかったのか。「よろしく!」が上から目線だったのか。
働かざる者食うべからず、働かずに金や地位で金を生むだけの奴らは社会の邪魔だ。
そう言ったのはどっかの時代の真っ赤な頭の共産主義者だったとか。
そんな事は置いといて、俺たちは最低の人間かも知れない。
俺はエンジニアにも単純労働者にもなれてないまま経営者の指示通りに彼らに鞭を振るだけの仕事をしている。
表面上は必死に頭を下げて、心の中でも頭を下げて、それでも彼らに報いようとはしていない。
頭を下げて経営者の命令通りの仕様書を押し付けていきゃいい、そんな俺達の態度に経営者はご満悦だ。
辛い。
俺達はまともに生きている人や価値を生産している人間の前に転がった石ころだ。
もっと重たくて鬱陶しくて、相手におんぶ抱っこで押しつぶすような、そうだ、子泣きじじいだ。
石ころ程度の価値しか無く、赤子のようにわがままで、無力な癖に握力だけは鍛えに鍛えた老害だ。
俺達はそこまでして生きたいのか。
生きたいのだ。
生きたい。
何もしなくても生きていけるならこんな事もうやめたい。
だけど俺たち無能が今更ちゃんと働けないんだ。
技術者になれるような知能はない。
肩書以外は何もない。
ただほんのちょっとの肩書きだけで無理やり生き延びているんだ。
ニートが遺伝子が半分一緒だという理由だけを印籠にして実家に居座り続けているのと何も変わらない。
ダニだ。
俺達はダニだ。
でも死にたくはねえんだ。
《追記》7/14、追記を書いたのでぜひ読んでほしいです。
https://anond.hatelabo.jp/20170714184542
ーーー
在学中に受けた県の教員採用試験には不合格だったので、臨時登用の名簿に登録していたら3月30日に連絡が来て、4月1日から県立高校で非正規教員をしている。
まず前知識なのだが、非正規教員と一口に言っても「期限付(任期付)講師」と「時間講師」に区分されることは案外知られていないのではないか。
前者は常勤。半年や一年という任期付きではあるものの、クラスの主任を持ったり、部活動顧問や校務分掌(進路指導、生徒指導など)も持つ。
お給料も正規と同じく月給制で、ある程度の年齢までは毎年昇給があるらしい。
後者は非常勤。塾の大学生アルバイトのイメージが近いのではないだろうか。
週〇コマと決められていて、時間単価と勤務コマ数の掛け算で給料が支払われる。
「県立〇〇高校、週〇コマで講師をしていただけますか」と電話がかかってきて、幸い実家から通勤できる距離の学校だったし、「現場で経験を積みながら合格を目指そう!」なんて希望に燃えて二つ返事で快諾。
厳粛な任命式も、指導や研修(正規の新採用はほぼ毎週あるらしい)も何もなかったが、他の先生たちと同じように1人で担当クラスを持ち現場に立っている。
手探りの日々で頭を抱えることもあるものの、生徒から反応が返ってくるこの仕事に誇りや充実を見出している。
ところでもうすぐ夏休み。
子供の頃は「先生はいいよね、生徒と同じように夏休みがあるんでしょ!」と思っていたがそんなはずもなく、当然他の月と同じように出勤して仕事に取り組む。正規の教員は。
正規の教員で足りないコマ数を補って授業を行うために雇われているのだから、授業がなければ当然仕事はない。
授業だけが教員の仕事ではないので、正規の教員や常勤講師は研修会、企業訪問、会議、行事の調整、部活動指導、調査への回答…など山積みの仕事を行う。
しかし、授業だけが業務とも言える我々時間講師の場合、授業がなかったら仕事はなく、仕事をしていないのだから当然給料もない。
(ちなみにそのときは試験期間で、通常の授業がないため時間講師の仕事はごっそり削られたのである)
働かざる者食うべからず、とは聞き慣れた言葉である。
また、「仕事がないはずがないだろう、選ばなければどんな仕事でもあるはずだ」と最近まで私も思っていた。
しかし、本当に8月は仕事のしようがないようなのだ(生徒の補習や夏期講習は正規教員で事足りるらしい)。
私は抜けているところがあるので、「授業を行ったぶんだけお給料が出ます」の裏にある、「授業がないなら無給だよ」の意味に最初気が付かなかった。
気が付いたあとも、「時間数は減るだろうけど、夏休みなら補習もあるだろう」と思っていたのである。
8月、どうやって暮らせというのだろう。
幸いなことに私は実家暮らしで、家族も「正規合格を目指す」という私の目標を理解してくれているので、すぐさま困窮する事態には陥らない。
一人暮らしの家賃や光熱費を払い、日々家計のやりくりをしなければならない状況だったとしたら?
ちなみに非常勤なので社会保険にも加入できず、自分で国民年金16000円を払っている。
「1コマ3000円で週10時間、だいたい月12〜14万円か」と分かってはいたが、ここから保険料や税金を支払い、最低限の仕事服や通勤定期を買い(一律で定額支給の通勤手当は雀の涙ほどだった)、働き出してからは貯金も全くできていない。
こんな月収でも年額130万円を超えてしまうので、親の扶養にも入れない。
他のことをして収入を得ようと思ったこともあるが、「正規の教員で不足するところを補ってね」と時間割を割り振られたので、月〜金全ての日に授業があるし、「4時間目だけ」「2時間目と6時間目」のような振り方なので、時間が全く自由にならない。
2時間目と6時間目の間の数時間、何をしているのかと言われると教材研究や生徒の課題のチェック、試験後にはその採点、成績表のデータ入力などである。
しかしあくまでも「週10時間」の任命なので、これらの空き時間についてはもちろん無給。
1コマだけ授業があるような日でも、その時間だけ学校に行って終わったら即帰宅というわけにはいかないし、何時間働く日であっても通勤にかかる時間は同じである。
文章の収拾がつかなくなってきた。
まだ1年目の1学期を終えたところでこれだけ思いつくので、これから先どれくらいこの身分の恐ろしさを痛感するのか、未来が真っ暗である。
そもそも来年度以降も同じ学校に勤められるとは限らず、そもそも任用があるのかも分からない(おそらく3月末の連絡がそれなのだろう)。
他にも時間講師の人はたくさんいるが、新採用の正規教員のように1箇所に集まって研修を受ける機会などはなく、年齢も担当教科も割り当て時間数もバラバラなので、話す機会がほとんどない。
中には現役を引退したベテラン教員、夫の扶養に入れる範囲で勤めている子持ち女性などもいるようだが、この仕事だけが生計の手段であるような若者〜中年も少なくないようだ。
「(モンスターペアレント、部活動指導、教育改革などになる)教員のブラック労働」と「(民間の)非正規労働者」の問題については注目が集まっていると感じるが、「非正規教員」はその合わせ技といえるのではないだろうか。
なら、食うのをやめよう。
清水富美加の騒動を見てて思うけど、清水の行動が増田には悪いようには思えない。
日本は仕事に対して「全人格労働」を求めすぎ。別に降りたっていいじゃない、っていう選択肢が、「人間辞める」的な極端な考えしかない。
「働かざる者食うべからず」とか言うじゃん、あれって要するに仕事してないと生きてる価値ないってことでしょ。
だから自分が嫌なものでも無理して仕事して、清水みたいに限界に来ても受け皿がない。そうなってもみんな「働け!」「働け!」って言ってくる。
みんなそれが正しいって思っている一種のカルトだから、その極端な考えに対抗するために幸福の科学に行くしかなかった。
契約も大事だよ?社会的には大事だけど、個人の問題としてはどうだっていいでしょ、仕事の契約なんて。で、それを社会の名の下に圧殺しようとしてばかりいるから、カルト(極端な方向)に行くしかない。で、それがきっかけに「これからどうすんの?」的な「迷惑」が発生してるわけでしょ。マッチポンプだよね。