はてなキーワード: ニューロマンサーとは
直接を受けてはこれ。
http://fanfiction-novel.com/archives/544
ただし、別に反論とかそーいう代物ではないです。
http://lightnovel.g.hatena.ne.jp/REV/20100128/p2
も参考にしてます。
web小説のVRMMORPG物とかが書籍でまであふれていて、いくつかのそういうラノベの状況への批評を読んで、そういうのに対してもにょもにょとした感覚を持ってたのだが、アウトプットしてないなと。で、アウトプットしたいなという感覚がとっても大きくなってしまったので落書いてます。
で、自分の領域だと ?D も ?H も Tw も読む人が皆無なので、自分のところよりは読む人が多いであろう増田借ります。
結局のところ独りよがりなチラシの裏なので、嫌いな方はページを閉じてください。
また、ねたばれを平気で入れます。
よござんすか?
よござんすね?
そんじゃ、チラシの裏を徒然なるままに。
ぽすてぃぶさんが
としていたのですが、これの SAO を疑問に思いました。
SAO の最初は、ゲームの仮想世界に閉じ込められて、命がけのデスゲームを行うというものです。
そこで、確かに世界の作り方は SF なのですが、では「物語の世界」を考えると、これは「ファンタジー」の方が近いのではないかと考えています。
ぽすてぃぶさんが持ち出した SAO の要素として
とあるのですが、作中でこれらのギミックが「SFとして」活用され始めるのは、少なくともアインクラッドを抜けた後になります。ユイのボディを現実につくるためには?など。
そう考えたとき、少なくとも最初のアインクラッドでは、彼らの世界はファンタジーと同一の代物でしかありません。行き過ぎた科学により魔法と見分けがつかない代物です。そして彼らにとっては、それだけが「世界」です。
ダンジョンの中に閉じ込められ、クリアするまでログアウトできない。ゲーム中の死はそのまま本人の死につながる。
作中のスキルは「ゲーム」という設定なので「SF」ではありますが、キャラクターは世界にとらわれいることから、ゲームの中だけが知覚できる「世界」になっています。そしてその「世界」の中には SF ギミックは問題ではありません。
これらに比べてログホラで違うのは「キャラクターの死」が「プレーヤーの死」と直結していない、というルールが典型でしょうか。
しかし、作中キャラクターにとっての「世界」とは何か?を考えたとき、彼らの世界はもともとの現実と全くつながっていない、「世界」はいま生きているそこだけ、という意味では、同じになります。
このように設定された「世界」であるのではないかと考えています。
となると、これらはすべて「貴種漂流譚」の系譜とみるべきではないかと最初に思いつきます。
しかし貴種漂流譚とした場合、物語の類型としては明らかに違うものがあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E7%A8%AE%E6%B5%81%E9%9B%A2%E8%AD%9A
VRMMORPGやMMORPGの場合、主人公は貴種というわけではなく、また、多くの同様の他人と一緒に異界に漂流しています。
これは明らかに貴種漂流譚とは違う特徴です。そもそも貴種漂流譚は神話の類型で、英雄譚のいくつかにみられる特徴なので、そのまま当てはまるものではありません。
となると、他に近い分類を考えると、「行きて帰りし物語」というのが出てきます。
http://hiki.cre.jp/write/?YukiteKaerisiMonogatari
これは乱暴な言い方ですが、貴種漂流譚から「貴種」の特徴をとっぱらったものといえます。
結果残るものは
多くの場合、冒険に駆り出される理由は「日常からの欠落」が起き、「冒険の中でその欠落したもの、あるいは替わるものを見つけ」「日常に帰ってくる」というものです。スターウォーズなんかこれの典型ですね。
ここまで来ると、物語の類型であり、一方で物語論として「読者に受ける物語とは何か」という話にもなってくるのですが、そちらの論は話の方向性が微妙に違うので割愛。
さて、では素直に「行きて帰りし物語」の類型としてまとまるでよいのでしょうか?
ところがここでも問題が、行きて帰りし物語の場合、冒険に投げ出されるのは「主人公」とかその周辺がせいぜいです。
また、「日常に帰ってくる」というのも重要になります。ログホラの場合、ゲーム中に行われている冒険では「日常に帰ってくる」のですが、「現実世界」の意味では帰ってきていません。
では、さらに共通項をと考えた時に残ってくるのが「集団漂流物」というジャンルになります。
個人的に思い出すのは、空飛ぶ!竜峰学園(ラノベ)とか、勇者110番(NG97)とか、かなりマイナーどころになるわけですが。
ということでもう一度元に戻り、SAO、ログホラ、.hack で考えてみた場合
という分類になるのではないか……と考えたのであります。
なお SAO ですが、実際には細かく変わっていて
異界へのギミックや、異界で使う技術は「ゲーム」がベースであるため、一見 SF なのですが、実際なところはあれらは「魔法」と物語上ほぼ変わらないものがほとんどです。
となると、物語の類型を見る場合にはもっと重要なギミックがあるのではないか?ということで、このような分類を夢想しています。
ここで気になったのが、では「ゲームという題材が特殊なのか?」ということです。
で、最初の方に戻る。
web 小説や、そこから現実の書籍になったものが、いろいろと「似通ってるな」という印象は、はたして「本当なのか?」。そして「似通ってるな」と思ったものは「何か?」。
個人的に多くなったなと感じているのに、確かに VRMMORPG に取り込まれるってのがあります。そして俺TUEEEEE。
しかし同様に、異界漂流物も多くなってるなとも思うわけです。ファンタジー世界で「生まれ変わる」とか「召喚された」とか。そして俺TUEEEE。
で、これらを考えた時、ある意味昔っから変わってないのではないかと思うわけです。ファンタジー世界に行って無双っての。ゲートも戦国自衛隊をファンタジーにしただけだ、と乱暴に切り取ってみたり。
結局「無双の理由づけ」に何を使っているのかという部分で、VRMMORPG というのが身近になったのかなと。
そもそも「コンピュータを用いたゲーム的異世界」で冒険というのであれば、いろいろと話は出てきます。
それこそ、最初は「ジャックイン」でしょうか。ニューロマンサー('84)。これのジャンルだと SF のサイバーパンクですね。この場合、マトリクスは現実世界の裏にある(人工)異世界という視点で見れば、ファンタジーの一種とみることも不可能ではありません。
同じくサイバーパンクで電脳世界があるもので、漫画で有名になったのがサイレントメビウス('88)でしょうか。
他、こちらはハビタットのような電脳街という感じの世界ですが、BOOMTOWN('92)という漫画もあります。AI が住み、自己増殖する電脳の世界に入り込み、バグ退治を行います。表現は SF 側です。
そして、ゲームといっても電源不要で東京N◎VA('93)なんかが思い浮かびます。サイバーパンクなTRPG。
一方、完全にゲームの味付けでは、クリス・クロスが '94、クラインの壺だと'89ですね。
そしてこの「ゲームな味付け」で「異世界」となると、コンピュータを捨ててファンタジーにぐっと寄ったものとして思い出せるのが遥かなる異郷ガーディアン('90)。死亡無し、バイト感覚でファンタジー世界で魔王を倒そう!という話です。あるいは、日帰りクエスト('93)なんかも近い代物でしょうか。これらは日常の延長として異世界でちょっと冒険してくる代物ですね。
これらと .hack が似てると思ってて、ギミックに「異世界」が絡む程度なんですよね。物語世界の構築法の話であって、物語としてはその異世界は重要なのですが。
そして、完全にファンタジーに話を持って行ってしまえば、作品は一気に広がります。
個人的には魔法使いになる方法(ダイアン・デュアン著)を持ってきたいです。翻訳がまた止まった……。こちらは、現実世界の「裏」にある世界なので、ナルニアのように現実の世界の「隣」にあるのとは違っていますが。
ここで VRMMO を題材に使っているのを考えてみますと。
VRMMO は現実世界の「隣」にしかなれません。アクセルワールドのように現実世界を模した世界であっても、現実世界に影響は与えていません。
その中で主人公やプレーヤー集団が「命」であったり「記憶」であったり「思考」であったりの影響を受けるという、世界以外が対象になります。
となるとこれは別にゲームではなくファンタジーであっても同じなので、ここの類型からは考慮しないでも済みます。
一方、魔法使いになる方法では、魔法使いだけに見える世界というのは、現実の世界と表裏一体です。魔法世界で変化があれば、それは現実世界にも影響を及ぼします。
これは電脳世界を用いた場合でも同じギミックがあるように作ることもできます。
このような違いを見るに、ようするに「VRMMO などに見えるゲーム世界・異世界」というのは「現実に影響を与えない箱庭」という概念でくくれるように見えます。
異世界漂流のファンタジーもその多くは「現実に影響を与えない箱庭」的世界です。
このように、完全に切り離されている異世界かどうかというのが重要なポイントなのかもしれません。
「無双の理由づけ」です。
VRMMO 、あるいは「ゲーム的ルールがある異世界」を用いた場合、「俺 TUEEEE」に対してこじつけが作りやすいのが、この分野が氾濫している理由なのかなと思ってみたりしてます。
どういうことか?
多くの場合、対象となる異世界は、技術的文化水準が現代より低いです。
FPSやSLをベースにした場合は逆もありますが、氾濫しているのは多くが「ファンタジー世界」として「中世西洋」がベースです。
そこで俺TUEEEとして従来のファンタジー・神話や伝説、英雄譚、ファンタジー小説などがとった手法が「貴種」です。
これは現実にも祭事が政であった時代に、「神の信託を授かる巫女」(卑弥呼など)とか「神(竜)の血統」(中国皇帝や日本の天皇)とか「神に認められた」(キリスト教や同影響下の国々の王など)が用いた手法で、何か特殊な存在が力を認めているから「偉い」という考えから来ている物と思われます。精霊信仰や祖霊信仰なども同様なので、世界中で行われた、あるいは現在進行形の考え方ですね。
そして、漫画やアニメやラノベでもこの手法はいくらでも使われています。作品は割愛。
では、一般人ではダメなのかってところから始まったのが、異界に行った時に「異物」なので強くなったというものです。この場合だと貴種である必要性がなくなります。
この場合重要になるのが、多くは「機転」や「思考」だったりします。その世界にない視点で物事を考えることで、打開するなどもありますね。
VRMMO の場合、この後者の考え方を用いて俺TUEEEをするというのが基本ですね。
ログホラがわかりやすいですが、異世界にはないけど現実世界にあったものを再現することで、異世界でのアドバンテージを得る。蒸気機関はこのギミック。
この手の異世界で発想で先手を取るってのが、他だとアウトブレイク・カンパニーであったり。あるいはくじびき勇者さまを思い出してみる。他にも新書であったような記憶があるのに、題名が全然出てこない。
まおゆうも「その世界になかった概念を持ち込む」事で「世界に影響を与える」という部分で、ログホラとそっくりなことを味付け変えてやってます。
てなところで、俺TUEEEの源泉をあれこれいじってきてるのは増えてきてはいるなとは思った。
続きも別に考えてないで投げっぱなし。
人の知を機械的に再現できるのではないか、これが人工知能の当初の夢でした。
でも「人の知」を解明しそれを実現するというアプローチは突き詰めて考えていくと、袋小路に陥ってしまいました。
チューリングテストとか中国語の部屋とかフレーム問題とか、聞いたことあるでしょう。人工知能の挫折と苦難の時代ですね。
困った人工知能研究者は、「知とはなんぞや」という疑問はとりあえず保留にして、「とにかく今できていないことに挑戦しようぜ」精神で研究を進めました。
結果、多くの成果を上げて、今日でも一つの学問領域として存在しています。
そのため、いまの人工知能学会の中の人たちの目的を最大公約数的にまとめるならば、
「今までコンピュータや機械でできなかったことをできるようにするよ(したよ)」というところでしょうか。
この程度の緩い集まりなんですよ。実際。全員がアンドロイドを目指しているわけではないんです。
とはいえさすがに何でもありでは話にならないので、この学会に所属するためには暗黙のキーワードがあります。
それが「知」です。「こんな知的振る舞いができるようになりました」少なくともこれがアピールできなければ
逆に「知」であることが認識されたなら、個人の「知」どころか集団の「知」すら研究対象になります。
だから人工知能は何をする学問なのか、これについて、できるだけ簡潔に言うならば、
「知」を人工的に実現する学問
でしょうか。知を解明するじゃなくて、知を実現するというところがポイントですね。
え?「知」とはなんだって? そんなこと聞かないでください。そんなの研究者の数だけ意見があるのですから。
というのがあるかもしれません。
そう考えると、他人に同意してもらうための戦略として、視覚的に人間に模すのは当然ですよね。
人は何に知を見出すのか。これだけでいくらでも文章が書けそうですが、普通に考えれば、
ルンバが知的振る舞いをするよりアンドロイドが知的に振る舞った方が一般の人には受けがいいですよ。きっと。
つまり、人工知能屋の一部がアンドロイドを目指すのは、それが目的だからではありません、
「ボクガボクタチガジツゲンシタサイキョウノ知」をアピールするのに最適だから、
あくまで手段にすぎないのです。
と、タテマエと理論武装はここまでにして、
だってしょうがないじゃない。少なくとも日本で人工知能やっている人の原体験って、
アトム、ドラえもん、あーる、タチコマ、マルチ、まほろさんなどなど、魅力的なキャラクターなくしてありえないのだから(暴言)
それに要件をギリギリで満たすよりも能力的に余裕を持って振る舞う方が知的でしょう?
機能美は工学的に正しいアプローチだけど、余裕あるなら外観にも凝りたいし。
そう考えると、情報(機械)工学と人工知能の違いはロマン成分の割合なのかもしれない。
そしてロマンは人によっては妄想と言い換えても間違いじゃない。
結局この長々と書いた文章で何が言いたいかというと、
もっとこうさハードでスチームでパンクで電脳な感じの・・・(妄想垂れ流し)
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これまた長くなっちゃたので言いたいことを以下にまとめますね。
むしろこれだけ読んでもられば十分かも
そしておやすみなさい!
小学生の時に「こんにちはマイコン」を読んだことを除けば、自分がプログラミングに最初に触れたのはWindowsME上で動くHSPだった。
多分友達の家で「なんかパソコンあるし面白いこと出来ないかな」と話していて触ったのだと思う。3日ほどHSPを触っていたが、スプライトが動いてゲームっぽい何かが作れそうな予感がしたところで飽きた。導入としては良かったが、すごい偽物感があった。
次に目に入ったのはDelphiだった。当時、無料で入手でき、やりたいことがそれなりに出来そうで、かつ理解できそうな開発環境がそれしか無かったからだ。AphexTwinやAutechreにあこがれてDSPをやりたかったので、(1)とりあえず何か音を出そうといじくり回していた。
何日か触っていて、ようやくDelphiのGUI上で設置した「Button1」と関係がありそうな場所に、Webで見つけたコードをコピペすると、それが実行されることがわかった。実行された結果、エラーの文字列がIDEに表示されるか、運が良ければ音が出る。文字通りただのノイズがスピーカーから出ただけだが、とても嬉しかった。
さらに試行錯誤を続けているうちに、MSDNからコピペして"="を":="に書き換え頑張っていると、MSDNのサンプルコードのうちのいくつかは実行出来て何らかの音が出ることがわかった。楽しかったが、偽物の開発環境を使わされている感じもしていた。
またしばらくして、Delphiと同じ開発元からC++Builderというものが売られていることを知った。世の中ではpascalよりC++のほうが使われているらしいことは知っていた。なおかつ、(censored)したけどよくわからなかったVisualC++5.0よりDelphiに似ていて、ずっと使いやすそうだった。買った。8000円くらいだったと思う(2)。
C++はまったく意味がわからなかった。仕方ないので図書館に行って関係がありそうな本を片っ端から借りてきた。まったくの勘違いから、本屋で見つけた3000円くらいするDSPボードの解説書を買ってきて、自分が欲しいものとまるで違うとわかって枕を濡らしたりもした。
この頃借りた本の中に、「エキスパートCプログラミング」という本があった。ジョーク過多な原文を無理やり翻訳したような、典型的な翻訳技術書で、読んでいる間は楽しかった。内容は大雑把に言うと「これこれのコンパイラの場合メモリのアドレスがこうやって使われるのでスタックが云々ヒープが云々。あとCの仕様書書いた奴はタヒねアーグヴィーーアーグシーー」というもので、同じ頃図書館で借りたニューロマンサーのほうが100倍わかり易いと思った。
それでもなんとかポインタの操作くらいは出来るようになり、最終的にはBC++上で、wavファイルを読み込んでメモリに展開するプログラムと、コピペしたFFTのコードを元にソノグラムが表示できるプログラムが出来たと覚えている。今、それらのコードは手元には残っていない。
この後、3年ほどプログラミングには触れなかった。生活に忙しかったのと、人として腐っていたのと、あとは単に飽きたのだろう。
腰を痛めてコンビニのバイトが辛くなり、なんとかデスクワークがしたいと思ってテクニカルサポートの派遣業務を始め、紆余曲折、今はWebアプリのエンジニアをしている。普段はおもにPerlとJavaScriptを書いている。
ちょっとした処理をループ書くか再帰で書くか、といった時に、C++を触ってた時の経験がふっと役に立つことがある。
[1]この時にはまったく無意識だったが、新しい環境に飛び込むときに大事なポイントは、凄く低レベルな目標を決めてとりあえず進んで見ることだと思う。
最近の作品は、一般ウケする要素が無いんだよ。
小松左京とか、星新一とか、筒井康隆とか、そこらへんが「若手」だったころは、編集さんも「誰にでもわかるように書け」って言ってたし、実際、「日本沈没」とか「時をかける少女」とか「ボッコちゃん」とか、特にSF好きじゃなくても理解できて、楽しめる作品があったんだけど。
誰とは特定しないけど、SFとして「濃い」のが書ける、スゴイ新人がぼんぼん出てくるようになってから閉鎖感が増して。
ニューロマンサーあたりから、古参のSFファンは新規の作品の良さがわかんなくなってきたように思う。
だから、SFの「入り口」としての作品を勧めようとすると、古典ばかりになってしまうんだ。
お薦めヒロインを考えてみたら、「たった一つの冴えたやり方」の主人公の少女はなかなか、とか、我ながら(これじゃダメじゃん)と思った……。
ラノベ読め。
カレー、ボードゲーム、ラノベときて、日本酒か。どうしてみんなそんなに語れるんだろう。すごいな。
リドリー・スコット監督は大ファンだし、映画「エンダーのゲーム」のトレイラーが公開されたりで、今SFなんじゃないか?と書こうとしたけど、
続かない。ジェイムズ・ティプトリー・Jr.をお勧めしたい外国人作家として、サンリオSF文庫を落ちとして軸に置いたけど、
肝心の作家名がマイクル・コニイだったりル=グィンだったりしか出てこないことに気づいた。あと、リチャード•パワーズ。
あのコピペの背景、つまりジャンルを全然知らない人間としてはすごい楽しめたのだけど、
書く側に回って初めて、あのコピペがジャンルの酸いも甘いも全て知っていないと書けないものなんだって気づいたんだ。
あの配置は「狂ってる」、そう言っても良いと思うの。
SFで言えば、ハードSFを先頭に出して、両翼を社会派SFとサイバーパンクで固めて、後塵に「少しファンタジー」という構成全てに
しかし、ハードSFで書かせないはずのジェームズPホーガンの著作はほとんど知らなくて(ごめんなさい)、アシモフの作品も「夜来る」しか読んだことがないし、
これならわかるリングワールドで代替しようかなと思ったくらい。
社会派SFでいえば私も大好き、ロバート・A・ハインラインの書籍はほぼ読破したと思ってたら、「異星の客」は読んでないことに気づいた。
サイバーパンクの代表作家、ウィリアム・ギブスンの「電脳」三部作はニューロマンサーしか知らない。。
少しファンタジーのル=グィンは、ラファティは、ゼラズニイは。。。
そう考えると、もう僕の知識はぼろぼろと穴がありまくりで、コピペとして完成できなくなった。
ジョン・ヴァーリイの「残像」とか、 人類補完機構の「シェイヨルという名の星」とか、
http://anond.hatelabo.jp/20130207121644
どうかな。むしろ一時期に比べると良くなってる気がするが、それは自分がまた読み出したからかもしれない。
だから取り込み取り込まれ、そしてSFって何だ?と論争が起こる。
てな感じでですよね。
http://anond.hatelabo.jp/20130207134633
SFの一般化で歴史物、推理物、ジュブナイル物とかとか沢山出てきました。
パラサイト・イブとかループはホラーだけどSFだと思うのです。
背景たるSF要素を組み合わせ、綿密にシミュレーションすれば、また新たなSFが生まれると思います。
宇宙とかロボットとか人工知能とか、物理や科学技術の幻想的世界というのは難しくなっているかも知れませんが、
科学と人との関わりとか、インターネットと同じで、普及すればよりソーシャルな面に目が向かい、
人格とかアイデンティティ、生命や哲学なんかはフロンティアです。(でした?)
http://anond.hatelabo.jp/20130207131847
でもロバート・J・ソウヤーはいまいちついていけなかった。
一方、舞台背景として宇宙とかロボットとか人工知能とかネットワークが一般化してるのも面白いと思います。
漫画ですが、ぼくらのよあけは面白かったです。ジュブナイルですが。
でも、ピアピア動画とふわふわの泉をよんで、これがライトノベルか、と思ったのです。楽観的明るさが。
あれ?違いました?
http://anond.hatelabo.jp/20130207235440
ドラゴンランスは暗かったです。キティアラはちょっとエロかったっけ?
http://anond.hatelabo.jp/20130207165456
そんなお年頃です。
http://anond.hatelabo.jp/20130207165456
まあお約束が受け入れられないとこんなことになるようですが。
http://anond.hatelabo.jp/20130207135507
それで、ニューロマンサーの話だっけ。エンダーのゲームでなく。
サイバーパンクは好み?
それが原因じゃないかな?
ニューロマンサーは新しい上にリアリティがあるんだよね、説得力がある
宇宙開発SFのころの「新技術でみんなしあわせに暮らしましたとさめでたしめでたし」的なとこに帰着するんじゃなく
SFてなんか新しいSF的世界観が提出できないとあんまり評価されない
というか、こんなのニューロマンサーとかで尽きている的なこという人が多い気がするんだけれど・・
マトリックスの元ネタみたいな位置付けなのはたぶん本当。wikipediaに書いてある。
監督はホントはニューロマンサーやりたかったけど映画化に当たってスポンサーがつかなくてああなったという経緯らしい。
読むと判るけど主人公チームの構成がまんま。
これは当たってる半分外れてる半分みたいな気がする。「現実の科学技術」っていうけど、分野とか方向性の問題もあるし。
科学技術が進むと逆にSFは狭められていくっていうしね。あまりにも現実の理論と離れてるとまずいから。
SF全盛期って主に宇宙進出とか未知との遭遇だけど、ニューロマンサーはそれとはまったく別でしかも芳醇で雑多な世界観を描いてみせたってので「サイバーパンク」ジャンル確立って感じだし、他に時間旅行ものとかも分野としてはあるし。
時代に応じた形かどうかはともかく、発想次第でまだ何か出てきそうかなーという期待はある。
自分はにわかSFファンでまだ未開拓地がたくさんあるからこの先も全然飽きることはないと思うんだが、
構造(historical innovation?)の方はちょっと気になる。
SFマニアっぽい増田がそう言うってことは、やっぱりエッセンスはもう出尽くしたってことなの?
あとはそのエッセンスが時代に応じた形で再現されていくだけなのかな。
ニューロマンサーで言えば、「新規読者開拓のためにリメイク、主人公はアウトローすぎるので普通の会社勤めのハッカー、敵は人間を支配して電源に使う悪いコンピューター」ってやったらそれは既にニューロマンサーじゃないでしょマトリックスでしょ?という話。
マトリックスが好きか嫌いかとは別問題として、冬寂もTAも出て来ないなら要らねーよってのはあると思う。
それと真面目な話、自分ニューロマンサー既読ですけどスプロール三部作と橋の三部作を延々読み直し読み直しして二年くらいは新規SF摂取しなくてもイケる気がする。
「今まではシマウマを倒して食ってたがこれからは草を消化できるようになれないとライオンに未来はない」
↑これ、シマウマが絶滅しかけてたら親切な忠告じゃないか?ライオンの未来を案じての。
「まだシマウマ以外の動物だっているんだから、馴染むのが困難であろう草を例に出してくるなんて極端すぎるだろー」ってこと?
どういう経緯でこの例えが出てきたのか説明しておくれ。
あと、ニューロマンサーだけでこの先満足できるかっての。
既読の人はどうすんだよ。
もうやりつくしたという意味では完全にオワコンなんじゃないだろうか?
あとは何をやっても、すべて歴史的な文脈に回収されていって対して評価されない気がする
こういう「終わった」とか「未来がない」とか言ってる人々ってそうやって檄を飛ばすことで実質何を主張しているの?
例えばニューロマンサーだけど普通に増刷かかってるし手元にも図書館にもあるから好きな時に好きなだけどっぷり読めるし何も終わった気がしないんだけど。
「今まではシマウマを倒して食ってたがこれからは草を消化できるようになれないとライオンに未来はない」みたいな言い草に聞こえて意味不明。
単にサイエンス・フィクションからスペキュレイティブ・フィクションに移行しただけなんじゃね?
好きすぎて吐きそう。
いや、まだ『ニューロマンサー』と『クローム襲撃』読み終わって『カウント・ゼロ』が終盤に入ったくらいのとこなんだけど。
ねえなんで文庫本ニューロマしか出てないの? 残りが絶版とか出版社の目は節穴なの?
もうこの際多少オタク系萌え絵でもいいから誰かコミカライズしろよ。そして一大ブームを巻き起こして映画化までこぎつけろよ。
そしたら流石に重い腰が上がって再版かかるだろうがよ。
ああでも待ちきれない。待ちきれないそんなの。古本でもいいから買っちゃおうかな。しかし今月カード支払い厳しいしな。でも図書館の本じゃイヤだ。手元に置きたい。
カウント面白いけどああ終わっちゃうよう、とベソかきそうな心地になりかけるがまだ『モナリザ』が残ってると思うと生きる気力がリンリンと湧いてくる。
大学生だった頃、ぼくはかなりとんがったやつだったと思う。
とんがるといってもとても格好いいとはいえないとんがりかたで、世界を敵にまわしているような、一人で戦争をしているような、敵意を剥き出しにして斜に構えるような、そんな生意気ながきだった。
自分の好きなものだけに触れて、世の中間違っていると言い張った。
作り出される自分のアイデアが、とても素晴らしいもののように思えて、それだけに夢中になってあれこれと作った。
ハードボイルドの主人公のように両肩で風を切って、ギャングのように何か面白いものはないかと物色しているような、そんなたぶん二十歳ぐらいの自分を思い出すとなにか冷や汗が出るような気がし、その一方で、なかなかに冴えていたなとも思う。一切を閉ざしてしまって、自分だけの世界に閉じこもって、世の中のものをせっせと自分の世界に取り込んでいたような気がする。
ほとんど誰とも話さずに過ごし、たぶん話していてもかなり機械的な反応しかできなかったと思う。その頃のメールの下書きのテキストが残っていて、それを読むと、官僚的というかガチガチな隙のない文章を書いていて、なんだこいつはサイボーグみたいな文章を書くやつだと、なつかしくなって笑ってしまう。
その文章の中にいる二十歳のぼくはいつも完全武装なのだ。
そんなことになってしまったのは大学一年の頃に起こった事故のせいで、ある事件をきっかけにぼくは人間というものが信じられなくなり、社会を敵にまわすようになった。数ヶ月は立ち直れず、それでも本を読んでいるうちにだいぶ立ち直っていき、読書欲に駆られながら読みふけるうちに、復帰していた。
好んで読んだのはハードボイルド。
チャンドラーとか、ジャック・ヒンギスとか、ギャビン・ライアルとか。
ハードボイルドを読む人なら、この手の小説が汚れきった社会を渡り歩く勇気(社会に絶望していたのでそういう勇気を必要としていた)をもたらしたこともわかりやすいと思う。ぼくはあろう事か、ギャングや、探偵や、元軍人や、スパイに社会との渡り合いかたを教わってしまい、いつも鞄のなかには拳銃が入っているようなそんな心地で、復帰していったのだ。
それは今からしてみれば、常時戦場にいるような緊張感で、そんな状態でまともな会話など出来るはずもないし、たぶんしても鋭すぎる態度で、相手を居心地悪くさせてしまっただろううと思う。それでもギャングだが、探偵だか、スパイだか、元軍人気取りのぼくは、そんな完全武装であちこちを歩き回り、あれこれと色々作って、仲間に見せたりしていた。
それは今から見ても、あの頃に作ったものはすごかったと思うほどで、錯覚ではあるのだけど、本当にたったひとりで世界を相手に戦っていたのだと思うし、シャープで甘えがなく、手を切りそうなほどの切れ味あるものたちを作っていたのだと思う。
だから、こう言いたい。
完全武装の時代もそんなに悪い時代じゃなかったって。
その当時にどのように世の中と接していたかと言われて、ふと思い出した言葉がある。
著名なSF小説「ニューロマンサー」の続編「モナリザ・オーバードライブ」の解説にその言葉はあって、それらの作品を評して「鏡に覆われた(ミラーシャーデッド)表層」と言っている。
この感覚。
ガラス越しという言葉があるのだけど、それよりもシャープな感じで、こちらの表情が見えないようにスモークガラスで覆っている感覚。そして、社会もスモークガラスに覆われていて、お互いが冷たく冷淡で、それが日々すれ違っているのだけど、完全に別け隔てられている。
あちこちのバイトを短期でまわって、世の中のいろいろな風景をスパイしながら(そういうつもりだった)、いろいろに世の中の仕組みを知っていくようになった。会話をしなければならないところでは当たり障りのない、そしておそらくかなり素っ気ない会話を交わし、とても冷淡にその体験だけを盗んでいくスパイのように働いていた。
もちろん、その短期バイトをあちこち回ったことが、のちのちまともに社会に出て、効率的な現場のまわしかたみたいなところでとても大きく効いてくることになったのだけれども、誰もが短期なだけにコミュニケーションらしいものは皆無で、煙草を吸いにいってせっかく話す機会があっても、他の誰かがはなしているのを聞いているだけという、なんという非コミュ。
あの当時のぼくはとてもプライドが高く、口を開くにしてもなにか高級な事を言わなければと思っていたように思う。例えばハードボイルドの主人公のようなセリフなど、いま思えば、現場にまったく必要のない言葉以外話したくなかったのであるが、結局の所それは自分の我が儘で、自分の価値観以外のコミュニケーションを仕事場でさえしたくない、もしくはそれをしなくて良いようアンドロイドのように、時間貸しのロボットのように、ただ効率的に現場をまわすにはどう動けばいいか、だけを考えていたように思えてくる。
ボトルネックを事前に発見して、誰も気づかないうちにそれを埋めていく、それで今日の作業は30%ぐらい効率化できたと悦にいる。そんな毎日。それはリアルシュミレーションゲームのように思えていたし、コミュニケーションなどなくとも、出来る遊びではあった(そしてこの経験はのちのち凄まじい威力を誇った)。
しかし、その当時のぼくはやはりゲーム感覚で、いつでもスイッチを切ってさよならできる現場でしかなく、ミラーシャーデッドどころか、液晶パネルの中の駒でしかなかったのかもしれないと思ってしまう。
そんな事をしているうちに、交通誘導の仕事をやってみることにした。
これは簡単に言えば、工事現場に立っている警備員で、たぶんやってみないとわからないが世の中の潤滑油的な仕事である。仮設の信号機でいいのではないかと言われれば、まあ、そうかもなのだけど、ぼくはその辺の議論はどうでもいいし、もう交通誘導をするはずもないので、あんまり関係がない。
で、いきなりやってくるのは、研修。
法定で4日だったかの研修が義務づけられているとかで、ひたすらに、交通誘導がどんな仕事かをたたき込まれる。そこで言われるのは、ひたすらに危機対応、そして、顧客である工事現場の人たちを守るか。酔っぱらい運転で工事現場につっこんでくる車から顧客を守るのが、交通誘導の第一の責務だとか何とか。まあ、ねえ、顧客だからねえ。
そうやって始めてみるしょっぱなに言われた。
「あれさ、お互い遠くに立ってるじゃない。互いに孤独で。8時間とか、12時間とか。そうするとね、話せないから、上手くいかないと不満がたまってどんどん上手くいかなくなるんだ。そうするとたいへんだよ。向こうはぷりぷり怒ってさ」
これはチームワークなのだと、コミュニケーションなのだと、ぼくはあなたのことを信頼していますと伝える事が重要なのだ。あなたが怒らないように、要らぬ誤解を抱かないように、あなたがぼくが心配ないというシグナリングをしなければならないんだって、あの赤く光る棒を振りながら、ずっと伝えなければならないんだと、それはプレッシャーだったのではあるのだけど、それまでの自分とは違うことが価値があるのだということを、思い知らされた事ではある。
交通誘導に業務効率化する要素などなく、どうやってチームワークをよくしていくか以外に改善点はない。そういう意味では完全コミュな仕事であり、ぼくはあんまり自信がなかった。
それが初めての集合で、煙草を吸っていて結構くせがありそうな人に言われた。
ぼくは、どれだけハードボイルドな世界でショートピースが標準か語りたかった。
「香りがいいんです。それでくせになっちゃって」
「どれ、吸わせてよ。うわ、きつ、なにこれ」
その人は笑う。
「缶で吸ってたときもあるんです。あのときは肺に穴が開いたのがわかりました」
ぼくはきっと「ショートピース野郎」と記憶されたことだろう。それでもその瞬間に、ミラーシャーデッドが融けたのを感じた。ぼくの世界に入ってくる人がいた。確かにさりげないのだけれども、それで勇気づけられたのは確かだ。
そういう感じ。
その瞬間に、一緒に仕事をする人々の世界観もわからないとと思って、一瞬にしてぼくのミラーグラスは破壊された。
同じ人と同じ現場になって、その頃はきつい両切り(ショートピース)はやめていて、もうすこし穏健なロングピースになっていたけれども、その人は、仕事が終わってヘルメットを長時間かぶっていたせいで髪型がめちゃくちゃになっていたけれども帽子をかぶって、自転車に乗る。
そういって、現場から明るくたちさる。
あの職場で、いろいろな人々と、その職場を暖かくする事にどれだけ尽くしただろうか。誰もがその底辺で生活しているわけだし、いつの間にか、それは自分の片足だけつっこんだ居場所になりかけていた。世界がガラス越しではなくなったのこの職場だったし、それはなにか守らなければならない暖かいチームワークの場所だった。
底辺などというべからず。
その後の十年近いキャリアを通しても、素晴らしいチームワークだったと断言できるし、この1/5000ぐらいの荒涼とした、無生産な現場は大量に見てるし、基本的に言えるのは底辺ほど効率的で、上層ほど無能であるということだ。のぼるほど無能になっていく。
機能不全とすべての罪は上層にあるのだけど、わかっているか。
ちょっと言い過ぎた。
ぼくが言いたいのは、底辺を経験してすばらしく暖かく機能的で、ここは問題がまったくない、ということなのだ。ここには何の問題もない。すばらしい経験だった。ぼくの非コミュも解けた。
貴族趣味なぼくは結局ほぐされて、そして紹介で別の職場に入ることになる。
本格的な就職に近い形で、人事のトップに笑われる。
「いや、こんな真っ白な履歴書を見るのは初めて」
その履歴書は真っ白だろうか?
数こと話すと人事の最高責任者は頷く。
じゃあ、採用するけど、明日からちゃんときてね。
配属されたのは実務の最精鋭部隊が集まっている部署で、そこで、笑い合いながら、冗談を言いながら、学びながら、いろいろ効率的なオペレーションを学んだ気がする。それで、特別なプロジェクトが立ち上がって、それにたったひとりで派遣されて、その現場監督(ただし、実権はまったくなし。不安にさせるな)で、まったく見知らぬコミュニティーにぶち込まれる。
「山崎まさよしさんに似てますよね、雰囲気だけ」
「あー、そう言われたのは初めてで」
(ブルースは好きなんだけどねえ…)
そうやって、あ、これで大丈夫なんだ、これで上手くいくのだと、そう安心した。
http://anond.hatelabo.jp/20090503233005
これは二次裏でもimg鯖でまとめられたオススメ本一覧2008年度バージョンだったらしい。
元は「中高生のため」と限定したわけじゃなく単純に他の人に薦めたいというものだとか。
1年毎にまとめられているようで、これの2007年度バージョンを見つけたので貼ってみる。
4 シラノ・ド・ベルジュラック エドモン・ロスタン
9 風が吹くとき レイモンド・ブリッグズ
10 黄金の法 大川隆法
15 パンセ パスカル
20 シブミ トレヴァニアン
22 もの食う人びと 辺見庸
26 愛に時間を ロバート・A・ハインライン
30 マルドゥック・スクランブル 冲方丁
32 薬菜飯店 筒井康隆
34 変身 カフカ
35 チリの地震―クライスト短篇集 ハインリヒ・フォン・クライスト
40 恋のかけひき他11篇 マルキ・ド・サド
44 ロリータ ウラジーミル・ナボコフ
47 最悪 奥田英朗
50 泥流地帯 三浦綾子
57 魂の駆動体 神林長平
60 エルマーとりゅう-Elmer and the Dragon ルース・スタイルス・ガネット
65 一万一千本の鞭 ギヨーム・アポリネール
66 暗闇のスキャナー フィリップ・K・ディック
67 夏草冬涛 井上靖
68 家守奇譚 梨木香歩
72 アリス―Alice in the right hemisphere 中井拓志
74 かめくん 北野勇作
76 てのひらの闇 藤原伊織
77 極大射程 スティーヴン・ハンター
78 初秋 ロバート・B・パーカー
84 インスマス年代記 スティーヴァン・ジョーンズ
85 鬼麿斬人剣 隆慶一郎
90 サムライ・レンズマン 古橋秀之
92 死者の代弁者 オースン・スコット・カード
95 ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち リチャード・アダムズ
98 されど罪人は竜と踊る 浅井ラボ
雨宮ねいさんがチラ見してくれたようなので脊椎反射してしまいました。
みなさん、よいお年を!
ニコラス・ルッカ(Nicolas Rucka)
様々な風景を見せるようになった日本アニメにおいて、押井守は彼独自の場所を築き上げるに至った。SFエンターテイメントという枠に捉えられる事もしばしばだが、彼の仕事はその要件を遙かに凌いでいる。押井はジャンルという括りに疑問を投げかけ、SFと現代の生活との間にまっさらなリンクを構築してみせた。彼のこうした姿勢は、アニメーションという体裁の境界を拡張するアプローチ・スタイルと結びついている。それは「攻殻機動隊」のすばらしい続編である「イノセンス」に見てとれよう。
ルッカ: あなたの作品は第二次世界大戦前後のヨーロッパの様式、とりわけ東側諸国の影響が大きいかと思います。それはどのように培われたのですか?そしてこれまでの作品で表現されてきたあなたの世界観にどのような位置を占めていますか?
押井: 若い頃からヨーロッパ映画を見て、楽しんできた。古典的で、古いスタイルの様式、雰囲気といった東ヨーロッパ的なものは静謐で美しく、そしてノスタルジックで、ひどくそそられたね。
ルッカ: もうちょっと続けますけど、あなたの映画で言及される70年代終わりから80年代にかけての欧米産サイバーパンク小説や映画、ウイリアム・ギブソンの「ニューロマンサー」やリドリー・スコットの「ブレードランナー」などは日本の街並み、風景、そしてテクノロジーの影響を強く受けています。で質問なんですけど、こうした話法を引き続き採用するのか、それともより高位のゴールでこれら要素を取り入れるかって事なんですけど?
押井: 僕の作品はサイバーパンクに分類される事が多いけど、個人的はそうじゃないと思う。「ブレードランナー」みたいに本当に楽しまされた映画があって、映画作りの上である程度役に立っている部分もあると思う。でも僕以外にもっと影響を受けている人ってたくさんいるんじゃないかな?人間とサイボーグを題材にした映画を作るなら、「ブレードランナー」にふれないわけにはいかない。このテーマに関する先駆けだからね。こうした話法を採用するか、それともしないのかなんだけど、僕のゴールは未だかつて誰も見た事のない新しい映画を作る事だからね。それは「イノセンス」で証明できたと思ってる。
ルッカ: あなたの作品、とりわけ「アヴァロン」なんですけど、タルコフスキーを偲ばせる要素が多く見受けられる。そうした影響は?
押井: 今はそうでもないけど、昔はすごい好きだった。でも「ストーカー」や「惑星ソラリス」、「鏡」は今でも好きだね。
ルッカ: 押井さん、これは私見なんですけど、犬との交わりを人間より優先させているかと。こうした傾向は主題的化身の選択、それとも人間という形態はもはや必要ではないという人間意識のあり方のどちらと結びついています?
押井: 僕個人的には犬との結びつきを優先させる。でもそれは人によってまちまちだと思う。人間が「主体」の一部を失い出すと、己が何者かを知るために他の何かと関わらざるを得ない。それは僕のように犬だったり、猫や他の動物かもしれない。生き物である必要はない。機械、車、コンピュータ、街、自分以外だったら何でもいい。それが失われた「主体」を見つけ出すって事です。
ルッカ: 人類というあり方は時代遅れのものですか?もしくはそうなると?
押井: おっしゃりたい事に確信はもてないけど、間違いなく人類というあり方は失われつつある。動物は常に同じであったし、これから先も変わらない。でもテクノロジーの発展によって人類は常に変化するし、変化せざるを得ない。でも、変化や進化を恐れてはいけないし、それを受けいれ、共存する事を学ぶ必要があると思う。
ルッカ: 映画作りの際には何から手をつけますか?印象的なイメージ、本、音楽から着想します?まずは脚本から?
押井: 僕の頭の中には違ったアイデアがたくさんある。それをどうやって映画で生かすか、って事なんだよね。企画が来る頃にはすでに何かが頭の中にあるんだ。発想の多くは小説や写真集に目を通したり、いろんなクリエイターと話す事によって生まれるけど、実際の具体的なアイデアや映画の基礎といったものは作品作りの前に決まってるんだ。
押井: いつもって訳じゃないけど、だいたいそうだね。実写か、アニメかによるけど、中核となるグループはたいてい同じ。彼らは本当に才能があって、辛抱強いと思うし、あ、でもわがままで頑固だけどね、ぼくは十全の信頼をおいている。彼らがいなかったら、映画は絶対に作れない。
ルッカ: 制作準備にはどのくらいの時間をかけます?そこでは何を?
ルッカ: 「イノセンス」では実際の制作、そして編集ははどれくらいかけました?