はてなキーワード: 集合体とは
人間の集合体である社会は、物理的に可能とか効率的だということとはまた別の力学に支配されている。
道路啓開とか緊急の物資配布のような作業にはリスク管理やリソース配分といった調整作業と応分の費用がかかる。誰がそれを担保するのか。
ボランティアは問題解決型の思考をする。ゴールから具体的に必要な施策を逆算して「それなら自分たち有志でやれる」「じゃあやろう」となる。
ヒマなお人好しをとりあえず呼び集めて命ずればそのとおりやるだろうというトップダウン型では何も動かない。
現場ニーズから逆算して自分の手持ちカードにつながった時にボランティアという選択肢が生まれるのだ。
ダメ元で呼びかければ誰か奇特な人がやってくれるんじゃねえの?というような夢想はどこにも繋がってない。
被災当事者にとっては、そういうコタツでうつらうつらしながらの夢想のタネにされること自体が、どこにも吐き出せない毒を少しずつ胸にためることにもなる。
そう、たいしたことないんだよ
俺が半年間必死になってどでかいストレス抱えてやってる仕事なんて、本当はたいしたことないんだよ
自分がつらいって思うからつらいだけで、落ち着いて考えてみればたいしたことない仕事の集合体なだけなんだよ
他の会社では他の人が同じようなことを易々とやっているんだよ
だから俺も易々とやればいいんだ
そういう気持ちでやれば、それはなんてことないことになるのだろう
初めてこの仕事に向かい合ったときは新鮮な気持ちで楽しく速やかに手を動かせていたよね
でもだんだん同じことの繰り返しな毎日に飽き飽きし、また、他者の怠惰な仕事っぷりにうんざりし
いつしか重たい気持ちを背負いながら仕事をするようになり、仕事の効率が下がり消化しきれない仕事が積み上がり
それがまた俺の気持ちを重くしていったんだよなぁ
俺に必要なのは仕事の見えるかとかToDoリストなんかではなく
でも原作を改変され約束を反故にされ、当人に訴えても聞き入れられなかった被害者が世間に「約束を反故にされた。原作者であり自分の作品ではあるが本意の形ではない」と声を上げ
ファンや視聴者、TVを見る潜在顧客(番組を成り立たせるテレビCMを打つスポンサーの潜在顧客)が「それはおかしい」「いじめを見ているようで不快である」「弱いものが守られる社会であるべき」と意思表明することは自由ではないか?
大きな騒ぎにしたのは外野、騒ぎすぎ、というが、TVが成り立っているのはスポンサーがあるからであり、スポンサーはCMを打ってテレビの前の顧客に商品を買わせることで益を得ているわけだ。
ならば出資者が問題視するように「弱いものが守られる作品でなければCMも番組も見ない」「弱いものいじめするキャストや作家を使わないで欲しい」と表明するのは正しい抗議ではないか。
原作者さんは誰にも守られなかったからもう声すら上げられないのに、追い詰めた発端を作った人々は守られて「環境から変えるべき、誰かを非難すべきではない」と言われるのか?
その集合体の中で強い権力を持つ個体の認識が偏って、誤っていればこのような事態が起きるのは必然ではないか?
◆
誹謗中傷(「殺人鬼」と呼んでみたり「お前が殺した」と責めること)は良くないが、過ちを過ちだと問題にすること(本人に向けてではなく本件の問題点をつぶやくことやSNSのトレンドにして社会問題にすること、スポンサー、業界に伝わるように抗議すること)は過ちではないのではないか。
誰をも責めてはならないと言う話になってしまえば、力の弱いものは抗議する力を持てない。
ストだって誰かの不便を強いたり、誰かを傷つける。交通のストのせいで死に目に会えず人生が変わる人もいるかもしれない。でも誰かを傷つけるならやらないべきだと言うのか?そうじゃないと思う。
難しい境界線だが過ちに口をつぐんで、定義もできてない「環境」のせいだ「業界」のせいだと、対象をふんわり濁してしまうのは良くないのではないか?
凶悪な事件を起こした犯人の家庭環境が悪いときに、こんなに可哀想なんだからしょうがないだろうという論調がある。
これが適用されるのは犯人が親を殺したときの場合のみだと思う。
何年か前に祖母と母に虐待されていた子どもが二人を殺害したときに周囲から減刑の嘆願書を出されていたと思う。(記憶が曖昧なので詳細は違うかも)
自分を壊した直接的な人間を殺したときは同情の余地があるけれど、全く無関係な人間が被害に遭ったときは厳罰を受けるべきだろう。
社会が悪いというが、社会は集合体。社会が間接的にあなたを傷つけても、ネームドの個人が傷つけたわけではない。
ただこれを曲解する人もいるかもしれない。例えば特定少年のような考えの持ち主は、あの女が自分を傷つけたから厳罰を与えてやるというようになる。
その村は、実に奇妙な村だった。
おおよそ布と呼べぬようなボロきれを最低限、身にまとう格好で生活し、浅黒な肌は古来の原住民を思わせ、ぱちりとした大きな目と背の高い鼻は相手を威嚇するようであった。
こうした彼らアングロサクソン系に属さぬ種族の暮らす集落は、全体の人数はおおよそで百人前後。
森林に囲まれた場所に集落を築き、たいして大きな村とも言えず、互いの顔を知り合い、共存して暮らしている。
まさに一個の家族、巨大な集合体のようなもので、かれらは時計的時間に暮らさず、出来事時間によって生活をする。
つまり村のF氏と午前11時に会う約束をするならば、「11時に会おう」と言うのではなく「子牛を散歩に連れ出す時間に会おう」という必要があった。
尤も、11時ならば彼は散歩に行くので会えないことにはなるだろう。
然しこうした出来事時間を持つ社会的集団は少なくなく、それはむしろ、急激に進歩を遂げた我々とて同じ。
以前、といっても数百年ほども前だが、とにかくそのころは我々先進国であろうと正確な時計は持たず、正確な時刻を知らずに暮らしていた。
故に、時間、というものは絶対的なものに成り得ず相対的であり、さらには個人的。
各町、各村によって時間は異なり、時計がずれている事さえも常識であった。
だからこの町が奇妙だと、
そう評するのは何も、こうした出来事時間に添って暮らすためではない。
彼らは我々との認識が、著しく異なっていたのだ。
そう、”死”に対する認識が。
彼らは”死”を恐れない。
いいや、そうではなく、むしろ彼らは”死”を喜んで受け入れるのだ。
まるでそれが大層めでたい事のように。
その事に気付いたのは、滞在三日目の朝だった。
日の高さが頂点付近にまで登り詰めた頃に起床すると、いつもと違う雰囲気に戸惑い、太鼓の音などが聞こえ、辺りには明るい民謡のような、陽気な歌声が響いて回った。
それからテントのような簡易的な宿を出ると、村の人々はみな笑顔で、子供などは小躍りしている。
「なにごとかね?」
するとその男は「ああ、あの家あるだろ」といって軒先の一軒を指差し、あそこの爺さんが、雄鶏の鳴く頃に死んだんだ、と私に言った。
満面の笑みでだ!
私は奇妙に思い、「どうしてみな笑い、騒いでいるのだ?」と訊ねた。
すると男は不審者を見るような視線を私に向け、「めでたいからに決まってるだろう!」と言った。
私はますます分からなくなって困惑したが、同時に彼らの習慣にえらく興味が沸いては、滞在予定の一週間を変更し、長期に渡って居続けよう、という気になった。
彼らが何故 ”死” を祝福し、そして恐れないのか。
そもそも、私が間違っていたのだ。
”死”は恐れるものではなかった。
私は彼らに訊いた。
「どうして”死”がめでたいのか?」と。
すると彼らの一人は笑顔でこう言った。
私は人間だ。
そして、私は既に死んでいたのだ。
それだけに過ぎない。
片割れの私は既に死んでいて。その死んだ片割れこそが ”死” だったのだ。
もしこれまでの私と今の私とに違いがあるのだとすれば、それはその事に気付いているかどうかの違いに過ぎない。
私は教わった。
誰もが、いや、どの生物も、不完全で生きてるのだということを。
それは半身が欠けているからであり、人間なる生き物は、そうしてかけた半身に
”死”
という名前をつけたのだ。
誰もが死を恐れながら、死に惹かれ、死に関して興味を示すのは無理もないこと。
理由が分ければ明白で、それは自分を求めていての行動だったのだ。
誰もが自分のかけらを求める。
それはそうだ。
すべてのことを。
私の半身、それが持つ、きおくのかけらは、いのちのかけらなのだ。
今の私は好意的に ”死” を向い入れよう。
いいや、これでは言い方が適切でない。
”自分”
を受け入れる。
ただそれだけのことだ。
私は枝木のように細まった腕を床で十分に見つめた後、ゆっくり目を閉じる。
やあ、こんにちわ。
そんなふうに声をかけて、
そんなふうに思いながら、
私は安らかな表情をして、意識を失った。
タマネギ微塵切りをベースにしたトマトヒヨコ豆インのスープ3回目よ!
3回目なので手順も手慣れたものよ。
パパッと作っちゃったわ!
鍋より楽かもーって思うほど、
手間がその都度都度かかるじゃない。
だけどスープの方が一度最初に全部具材を入れてしまって作ってしまうので、
あとは温めて食べることが出来るから
逆にこっちの方がうんと楽かも!って思うのよね。
なので、
今シーズンは鍋のベーナーの季節だけど
レシィピを書いておくと
タマネギは4玉、
ヒヨコ豆も2缶
シメジは1ふさ。
とりあえず味付けはブイヨン3つね。
ニンニク1欠、
そしてオリーブオイル。
ときに、
シメジとかのわさっと出来ているパックのやつってあるじゃない。
あれの数え方ってどう数えるの?
1ふさ?なんか違うような気がしないでもないけど、
キノコノ数え方シメジの特にまだ軸にくっついている時のあの集合体での数え方は
1勝したら一山本!
2勝したら二山本!みたいにその場所中で成長の度合いが一目で分かるような感じなのかしら?
だからあのシメジのまだ軸についている集合体のあの1つの数え方。
なんていうのか募集中よ!
なので、
でさ、
ここで真面目にレシィピを書いて記して記し記しておかないと、
夏川りみさんばりに古いアルバムめくり~って歌い出せないじゃない!
忘れたときにあのレシィピなんだっけ?って
思い出せないときココを振り返ってふざけた分量を書いていたら困るでしょ?
だからここはしっかりとボケずに間違わずに真面目な分量を記して記し記ししておかないといけないのよ山脈に向かってヤッホー!って叫ぶのよ。
あとこれまでの反省点として
出来上がっても飽きちゃって食べなくて全然鍋が減らなかったので、
今回から出来立てをもうすぐ寝かさずに味が馴染む前の
逆に言えばそうよ!
フレッシュな感じのトマトの酸味がまだあるような落ち着いていないソワソワした感じのトマト味を味わうには出来立てがそう言うフレッシュさがあることにも気付いたわ!
あとさ、
ヒヨコ豆もサラダで食べるのと煮て食べるのではメーカーのブランドの種類によっては仕上がりの固さが違ったりするので、
私はサラダでいただくときはちょっと硬めのメーカーのヒヨコ豆を好んで食べるのよ。
なんかヒヨコ豆に詳しい人みたいでしょ?
全然詳しくないけど。
そんでフレッシュ出来たてのそのスープはトマトの旨味とタマネギ色になるまでタマネギを炒めた良い塩梅のところまでになった、
そのタマネギの旨味も相まって、
これから
味がまとまってきて落ち着いてくるから
微かな舌で感じるダイレクトな味わいのテイストが変わってくるのよね。
そう考えると
スープ作ってしまってしまうほうが手間が色々が省けていいかなーって思うのよね。
で鍋のベーナーから小鍋の小ベーナーに移して
これも新たな発見よね。
今シーズンはもしかしたらこの鍋のベーナーのレシィピ1本で乗り切れるかも!って思うのよ!
うふふ。
いつになったらあのリッチな味わいのハムタマゴサンドを取り戻すことができるのかしらね?
久しぶりかな?
久しぶりだとセクシーヤミーさが増すわね!
美味しくいただいたわ!
レモン炭酸ウォーラーに追いレモンポッカレモン買ってきたので、
喉渇いたときの爽快さはそれに勝るわね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
いやこれは面白いわ。
俺の個人評価だとグリッドマンは☆3.5(ラストのトリックが「で?」にしかならんかったので)、ダイナゼノンは☆3なんだけどこの映画なら☆4出していいな。
まあ正直、最近見たゴジマイのガッカリ部分との対比でめっちゃよく見えてるだけかも。
適切なテンポで入る戦闘シーン、物語全体に存在する一貫性、過去作に対しての理解度、そういった基本的な「ここちゃんとやってくれないとやっぱマイナス評価なんすよね~~」が入り込む余地バリバリだったゴジマイに対してこっちはそういうの全部埋めてある。
序盤のうちに自己批判して「グリッドマンと怪獣?そんなことあるわけないやろ?なっとるやろがい!」とか「ダイナゼノンって要するに「ミイラが蘇って恋人が出来ましたってことね」いやいやそうだけど」とか言ったりしてたのが着地点に対しての情報共有として上手く成功してたな。
まあ全編通してこれやっておけば受けるやろの集合体みたいな所あるんだけど、娯楽映画でそれ以外のことやる必要ってないんですよね良く考えてみたら。
2時間しかないんだから客に受けることだけしかやる時間なんてないんだよな本来。
でもこれ1クール作品2本見てないと何がどう起きてるのか分からねえ感じはあるな。
グリッドマン→ダイナゼノン→グリッドマンで差し戻ししてることでエモくなってるシーンが結構多いからなあ。
まあでもそれでいいんだよな。
ぶっちゃけこれ見るのってダイナゼノンまで全部見たやつだけだろ。
つまりこの映画ってファンしか見てないアイドルのコンサート動画みたいなもんか。
あれも☆5多いジャンルだしなあ。
アマプラの点数ってガチで「特定の母数の中での平均点」なんだなあ。
まあでもそれで点数高いってことは「どういう客が見に来るかを考えてそれに合わせて作った」ということだよな。
それって凄い立派なことだよ。
可処分時間を奪い合う現代においてとにかく誰でも良いから顧客にしちまえが横行する中そもそもの敷居を高くしてそれに応えるってのはフェアだねえ。
ゴジマイもシンゴジも「ゴジラを見に来た人」「庵野を見に来た人」「ALLWAYSを見に来た人」をごった混ぜにしてたのアカンのやろなあ。
まあそもそもの話として座組みの仕方が客の数を増やすためになんでもごった煮抱き合わせにしてたのが客に対して不誠実な態度だった感じよなあ。
有名アイドル使ってることを客寄せに使って演技後回しにしてる映画みたいなことしてる時点でゴジマイはアカンかったんやなあ。
そっすね
動作として"入ってるデータのみ"を使った出力ならば、盛り込んだデータ数に関わらず「引用部分が従である」が成立しないので引用が成り立たないという話。
「学習モデル」って書き方は混乱するか。ここでは生成過程に注目していたので「モデルデータ」とかにしたほうが分かりやすいか。後で書くけど「すり替えて」はおらず「学習する段階の話」ではない
AIは新たに自分の頭で考えた要素を付け足さず、モデルデータから選んで切り貼りする以上の動作を行っていないので「著作物を引用した新たな著作物」とは言えず「転載物の集合体」として扱える(と考える)。モデルデータの中身が全部無断で使われた著作物なら、モデルデータの中身が6組なら無断転載6件、100億組なら無断転載100億件ってこと
なんで引用かそうでないかを考えたのかは「引用が成立するなら権利侵害ではない」は無断転載か検証するにあたりだいたい確認するから
多分「学習と引用をすり替えてる」前提に立ってこれを書いてて、かつ「AIの学習は人間の学習と同じ」にこちらが乗っかったからめちゃくちゃ面倒くさいことになってると思うので、もう「AIの指す"学習"と人間のやる勉強とかの学習は全く別」って観点で話進めるね
「著作物だけでイラストの描き方を学んだ」場合というかだいたいがそうだと思うが、絵の描き方を勉強する過程でサルまねやトレースを行う行為自体は著作権法では制限してない。トレパクとか模写自作発言とか無断転載(+自作発言)くらいの事態が起きたら著作者の権利を侵害した行為として評価がくだる
"画風パクり"が著作権含めどの権利を侵害してるのか?みたいな話は生成AI以前もたまにやってたが、だいたい特定の絵についてトレースや模写をしてなくて"参考にした画風の持ち主の名を騙っていない"ならとくに問題なしという結論が出たはず
じゃあ「生成AIは画風パクりだからセーフやろ」という話が上がってくると思うが、これは先に上げた「転載物の集合体」であることを考えれば"画風パクり"とは全く違うものであるので、画風という観点で判断してはいけない
AIに便宜上"学習"(Training)って言葉を使っているのでややこしいのであって、いわゆる学習モデルも実態は「入力パラメータ用ファイル集」なので"学習の成果"とは意味合いが違う
かなり前の方の増田でやった「学習モデルの再頒布禁止」という話については「生成AIを動かすために学習モデルを作る」ことは権利侵害にあたらないが「無断転載素材入り学習モデルの頒布」はガッツリ権利侵害だぞって話(これに"学習"って言葉つけないといけないからややこしい)
ただ生成AIのシステムもコンピュータープログラムである以上「プログラム動作時のデータ処理の流れを追うログ出力コードを盛り込むことは不可能」なんてことはない
だからそんなことできないの
まさかそちらから具体的なアルゴリズムの名前を出してくるとは思わなかった
ニューラルネットワーク(以下NN)の内部動作は、人間が指示を出してNNから返された出力を見て「どんな考え方したらこんなアイデア出てくるんだよ思考回路マジわからん」というのがだいたいなので、これも便宜上「ブラックボックスだね~」と言っているにすぎない
NNがたとえば古代アステカ文明の遺跡から発掘された謎の箱をパソコンに繋いだらAIになったとかいう代物なら間違いなくブラックボックスと呼んで差支えない
だが実態は"アルゴリズム"なので、NNはなんでも作れる不思議な箱ではなく、入力層・多層の中間層・出力層を設けた計算手順にすぎない。NNの参考書読んで人力で計算しても(時間かかるし高難易度関数のオンパレードだが)再現可能ではある
参考にしているStableDiffusionも動作原理もアーキテクチャも明らかなので、人間に再現不可能なブラックボックスではない。プログラムを実装してるのがエリートのプログラマであるってだけの人間だし
生きていることに意味もなければ、子孫を残さなければならないこともない。
恐竜が絶滅(絶滅してないとも言える)したように、人間が絶滅したところで何も問題ない。地球上の生物の一種がいなくなるだけだ。
何の因果か知能というものを持ってしまった為に、あれこれ悩んだり、苦しんだりするが、だらだら生きるだけに焦点を合わせれば気楽に生きれたりする。
あれもしたい、これも欲しいと人間社会に適応したり、競争したりすると負荷がかかる。
良い人間になりたいとか、立派な人になりたいとか、成長したいとか言っていると、とても大変だ。
そうは言っても現代社会の人間という思想をインストールされている我々には、それを選択しないということは難しい。
思想を狂信的に実行すれば社会で地位を得られるだろう。しかし、思想内競争に勝てないと分かると惨めな思いをする。
惨めな気持ちから抜け出す方法は思想を捨てることだ。すぐには難しいだろうが、ひとつずつ価値観(思想は価値観の集合体)捨てていくことだ。
よく考えたら別にこの価値観はいらないな、この価値観を維持するの面倒臭いな、この価値観を得るのに努力したくないな、と。
勝てない負け犬の逃げ戦略と考えるか、仏教の解脱と考えるか悩むかもしれない。
私が言えることは知能が高い個体、身体が丈夫な個体、社会に適応しやすい性格を持って生まれたと生物の個体差でどうしようもないことがある。どうしようもないことを悩んでも解決することはない。
必要ないもの、得るのが難しものはさっさと捨てて、自分の出来ることだけを見定めて気分良く生きた方が楽しいということだ。不幸せの為に時間を使うのはもったいない。
社会はいつでも思想に染まれと誘惑し、時には暴力的に拷問をしてくる。強い言葉で感情を揺さぶり、美味しそうな餌を見せてくる。
だが、それはカロリーオーバーだ。美味しいものはカロリーが高い。
自分の消費できるカロリーを超えて食べてしまえば、贅肉が付き、動きが鈍くなり、不健康なものになっていくだろう。