2023-09-23

かにとっての手段は誰かにとっての目的なのでは?

凄いデカ単位で「手段目的になってる」という人が結構いるんだけど、それってちゃん主語が揃ってるのかなと。

たとえばインボイス制度

納税という手段目的になっている」みたいに言われてたりするけど、これを考えた税務署からしたら納税こそがまさに目的のものなんじゃねえかな。

納税のもの目的から、その作業結果的日本の国力を下げることになろうが、将来的な納税額を下げようが、直近の納税額さえ伸びれば税務署仕事目的を達成したことになると思うんだよな。

少なくとも直近の10年ぐらいを逃げ切ってその間の評価退職金が決まる税務署トップ人達にとっては。


集団全体で見たとき手段が、それを担当する小さな集団の中では目的のものになりがちなときにこういうのは起こりやすいんじゃないかな。

コストカット部門にとってコストカットした実績こそが目的だけど、組織にとっての目的利益を増やすことでコストカット手段しかないはずなのに、とかね。

同時に組織利益追求は投資家にとっては利鞘を得るための手段しかいから、無理にそれを進めた結果その組織崩壊しようと彼らはさっさと売り逃げればいいだけと思ってたりする。

そういった生存競争を煽っているのは個々人の消費者集合体である市場経済なわけで。

そしてまたそういった個人はそれぞれの組織の中でそれぞれの組織目標を達成するための構成員でもあって。

こうやって順繰りに見てくとグルグルループしているのかなと。

ある集団にとっての手段はそれを達成することを目的とした小さな集団によって行われ、それがある程度小さくなってくると今度はそれらの目的意識がマクロな集合として機能していく流れ。

主語主体)を少しずつ変えながら手段目的化が行われるのはそうした循環における当然の帰結なのでは?

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