はてなキーワード: 近代国家とは
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政府はこの方針にそって、近代国家の建設には人材の育成が急務であるとして、
明治5年学制を公布し、全国的に学校を設置して義務教育の制度を確立し、
教育の普及に努めました。しかし当時は文明開化の風潮により洋学が重んじられ、
我が国伝統の倫理道徳に関する教育が軽視される傾向にありました。
このような実情を深く憂慮された明治天皇は、徳育の振興が最も大切であるとされ、
わが国の教育方針を明らかにするため明治23年10月30日、教育勅語を渙発されました。
勅語には、日本人が祖先から受け継いできた豊かな感性と美徳が表され、
人が生きていくべき上で心がけるべき徳目が簡潔に述べられていましたが、
(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1091519200)
この様な事らしい。
ただ、教育勅語が排除されたからといって、問題が多発するものだろうか。
先祖、親兄弟を大切にしろ等々、倫理的、道徳的な事が廃れてしまうことは、
人間が荒んでいくことと直結すのだろうか。
キリスト教徒に限らず、海外の人間は親兄弟を大事にしていることが良く分かるから、
それが無くなっても、倫理的な事柄や道徳的な事柄を教育してゆくべきなのであって、
韓国の88歳の大学教授がハングルで書いた文章です。日本語訳します。
http://yeoksa.blog.fc2.com/page-0.html
"私は88才です。 もう事実を話したいと思います。" [チェ・キホ伽耶大学客員教授]
朝鮮末期の私は1923年の生まれです。もう韓国のためでも、日本のためでもなく「事実」を話したいと思います。
それは相当な覚悟が必要です。生命の危険も覚悟しています。しかし、これは私の使命であると信じています。
私はソウルに住んでいました。 そして、時々、平壌や東京に行きました。
その当時の韓国人は「日本人以上の日本人」でした。劇場に行けば映画の前に、戦争のニュースがありました。
例えばニューギニアで日本が勝った映像が流れ、拍手と万歳の暴風雨でした。
私は映画が好きで、東京にも行きましたが、日本人は冷静でした。
しかし、韓国人は全員が狂ったように喜んでいました。 それが普通の姿でした。
なので「親日派」という言葉は使用できません。その「使用できない言葉」を使って、先祖まで批判しています。
「親切でやさしい日本人」という印象を、必死に消すために「反日」を指導者はそそのかしてきました。
韓国と日本の歴史教育を比較すると、日本が10%の歪曲といえば、韓国は90%が歪曲です。
朝鮮末期の正常ではないで政治腐敗を教えず、日本が関与しなければ独立ができたことのように使われています。
韓日合邦によって「教育」 「医療」 「工業」 「社会インフラ」が整備されました。
その実績を「日本帝国主義の侵略政策の産物だ!」と糾弾する韓国にはあきれます。
より一層「日帝が民族産業を停滞させた!」という主張にはコメントする気持ちもなくなります。
民族産業を殺したのは、朝鮮王朝です。 近代化を主張する先進的な思想家は反逆者とし、親族までも処刑されました。
韓国人は「日帝の虐待! 性奴隷!」と叫んでいますが、私は信じることができません。 歴史の真実を知っているためです。
朝鮮末期は「地獄」でした。 それは大韓帝国時代になっても同じでした。
1904年、日本は朝鮮の惨状を救うために、財政支援を決断します。
https://anond.hatelabo.jp/20181020134642
とりあえず反論を考えてみた。おそらく、所々ボロもあると思うので、そこは指摘してくれ。
まず、
元増田は郵便配達モデルをIPブロッキングと比べているが、少し指摘したい部分がある(瑣末かもしれない)。
ここでは、北朝鮮という"国"がブロックされる宛先の例として挙げられているのだが、これは認識がズレている気がする。
・住所 = ドメイン
と並置されるので、「特定の緯度/経度(住所)への郵便配達が禁止となる」という感じだ。
"国家"を対象にすると、話が大きく変わる(特定の国同士のネット通信遮断みたいな話になる)と思うので、第一にここは正確に比較すべきと言いたかった。
個人間の通信(信書・電話・電波・電子メールなど)の内容及びこれに関連した一切の事項に関して、公権力や通信当事者以外の第三者がこれを把握すること、および知り得たことを他者に漏らすなどを禁止すること。通信の自由(つうしんのじゆう)の保障と表裏一体の関係にある
とある。
通信の秘密は、「通信の自由(つうしんのじゆう)の保障と表裏一体の関係にある」というところに注目したい。
近代国家的な構図としては、初めから"国家権力(権力領域増やしたい)"と"市民たち(自由にできる空間増やしたい)"が対立しているところから、話がスタートする。
なので、郵便と構造が似ているからといって、それは国家が介入することの妥当性を意味しない。
それは明確に別の領域であり、参照こそすれど、別に考えるべきだと思われる。
(あと、やはり "物理" と "情報" の違いは大きい。"裸で街を歩くこと"と"裸の写真を街に置くこと"くらいに違うと思う。)
もうネット空間はソドムとゴモラ並みの無秩序だから、規制もやむなしという意見はもちろんありうる。
しかし、それは国に「"特定のIP"へのアクセスを暴力的に排除する」権利を移譲することであり、副作用が懸念される。
正直、この国が法律に関して、
ってのを、きちんとやってくれるならいいんだけど、Coinhiveの一件などを鑑みるに、国家にIT絡みの権利を渡すとあんまいいことなさそう...という不信感も反論の一因である。
https://www.asahi.com/articles/ASL9V41MQL9VUPQJ004.html
確かに世の中には自然権というアクロバティックな概念を理解してない人たちがいるから、「なんだこいつも自然権を知らないのか教えてやろう」という気持ちで書いているんだと思うが、小林よしのりがその程度なのだとは私は思わない。本当のところは知らんけど。
自然権は、しかしやはりアクロバティックな概念だ。だって人間が生まれたとき既に誰か周りにはいるんだから、権利もそういう人たちから与えられるものだと考えるのが普通じゃないのか。みんな最初はそう思うでしょ?
でも、「自然状態」という誰もが誰をも支配していない仮想的な世界を思い描くこと、本当はないはずのゼロ地点を見つけて、そこからゼロベースで考える手立てを手に入れることで、本来各人が持っているはずの誰にも制限されない権利ってあったはずよね〜と考えることができる。わからんけど、きっとできる。
自然権とは、だからそういう「自然状態」という無重力フィールドで「権利」を発動させたらその考え方のパッケージが裏返ったような概念であって、なんていうか、やはり、足場がないと脆い概念だ。
もちろんこうした考え方をもとにポコポコ近代国家体制を理論的に後ろ盾てきたのだから、これはこれでたいへん尊い考え方だしおれは好きだからブコメの人たちの気持ちもわからないではない。
でも、そもそもその「自然状態」って正しいの?とかみなさんは思わないんだろうか。ゼロと設定したそこは本当にゼロなんですか?自然権は自然状態に依存するんだから、ゼロ地点が間違ってたらその時点で自然権とかそんな確固たる地位を持たなくなるんじゃねーの?
いや別に思わないならそれでもいいんだけど、未だにホッブズとか持ち出してきて(古典は批判的に乗り換えるためには大切だけど)、教理解説するみたいに援用するのダサくないですか?というようなことを思った。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1256426
このまとめに関するブコメを見ながら、強い疑問を感じている。
たしかに無謬のものなど存在しない。誰もが間違えるし、誰もが過ちを犯す。
だからこそひとつの失点ですべてを否定するべきではないし、ひとつの加点ですべてを肯定すべきでもない。
優れたプレイヤーであるにもかかわらず、たったひとつ失策をしただけでそのプレイヤーを追放してしまえば、むしろゲーム全体が劣化することになるだろう。
だからこそ僕らはプレイヤーに対して、「是々非々」で対応すべきだ。
僕はこれを、とても正しいと思う。
では何故、今回のこれらのブコメに疑問を感じたのか。
端的に言って、僕の疑問はこういうことだ。
「ルール違反のなかで為された物事と、ルールの上で為された物事を、等価に置き、是々非々とするのは、果たして正しいのか」
・立法事実の捏造、および捏造が認められた立法事実に基づく法案の強行(高度プロフェッショナル制度)
などの出来事を指している。
このどれもが近代国家、法治国家、民主主義国家において、重大なルール違反であることは、言うまでもないだろう。
どれも自民党がこれまで成し遂げてきたこと、そして成し遂げようとしていることだ。
「ルール違反のなかで為された物事と、ルールの上で為された物事を、等価に置き、是々非々とするのは、果たして正しいのか」
僕はこれについて、正しくない、と考えている。
何故か。
民主主義国家において、ゲームの主導権を持つのは、常に国民だ。
だから、ゲームが成立する限り、どのようなひどいプレイであれ、どのような優れたプレイであれ、諦めることも、やり直すことも、継続することも、改めることも、国民の手によって行うことが出来る。
だからこそ、本当に僕らが恐れるべきは、ゲーム自体が崩壊することに他ならない。
そうなった場合、諦めることも、やり直すことも、継続することも、改めることも、僕らの主体的な意思では、決して行うことが出来なくなる。
だからこそ、重大なルール違反が行われたなら、いかにルールの上で優れたプレイが行われて居ようと、退場しなければならない。
そうでなければ、ルール自体が軽視され、より力の強いプレイヤーのやりたい放題になり、ゲーム自体が崩壊するからだ。
ひとつの失点ですべてを否定するべきではないし、ひとつの加点ですべてを肯定すべきでもない。
けれどそれはルールが守られているからこそ機能する態度でもある。
僕らの多くが「基本的にはあなたを応援しているけれど、これについては改めてほしいな」と声を挙げれば、少なくとも議論が巻き起こる、そういう状態であるからこそ、有用なのだ。
どんなに支持者が声を上げても、議論の一つも起こらない。すべては無風状態で粛々と進められる。
さらに、その状態がもっと進めば、今度は、非を唱えることさえ、「是々非々」であることさえ許されなくなるのだ。
事実、現在の中国や北朝鮮では、自国のトップへの批判はできない状態にある。
こういったゲーム崩壊の行き着く先が、ユダヤ人の虐殺や、天安門事件と言った、基本的人権を蹂躙する暴虐であることは、歴史にある通りだろう。
正直なところ、我が国もまたゲーム崩壊の瀬戸際にあるように感じている。
そのように首相近辺が公言したことは周知の通り。これは「非」が許されない状態とほぼ等しい。
この状態に「そう言うことは許されない」という声が自民党内部から何故、噴出しないのか。
森友加計問題。高度プロフェッショナル、水道民営化、サマータイム。といった問題もそうだ。
どれも、党内で多くの異論が撒き起こって然るべき類のものであり、支持者の間でもこれらを否定する意見は噴出している。
議員というのは本来、一人一人それぞれが国民が選出した代表だ。「その党だから」以上に、「その人だから」選ばれた存在だって少なくない。
ならば、より自民党内からの異論や反対意見が、活発的にニュースを騒がせるべきだろう。
それなのに、自民党内は無風のままだ。
僕はもう、自民党と言う組織の中で、完全にゲームは崩壊しているのだと認識している。
そして、権力者の身内で行われているこのような状態が、僕ら一般市民まで適応されないなどとは、僕はどうしても思えないのだ。