はてなキーワード: 客観性とは
Capricornus この文章で人に伝わるのは増田が思ってるような正論じゃなくて、この増田、頭おかしいなって認識だよ。自分がそういうこと書いてることにすら客観性を持ててないよね。カウンセリングか何か受けた方が良いと思う。
客観的でないというならまだしも、頭おかしいとかよく他人に向かって言えるね? スターつけてる人も何なんだ… 道徳観を疑う。
主張のポイントはここにあると思う。なぜ著作権者が怒るまで権利侵害ギリギリのラインを詰めるのか。どうして嫌そうにしている段階で「性的表現はよしとこう…」ってならなかったのか。フリーライドされる側の気持ちを慮ったりはしないのか。
あのへんの性依存風の人達は禁書館だかなんだかだの萌え絵だの漫画だの含めて扇情的な女体すらどうでもよくて多分、今ここで興奮している俺の欲を否定されることがとにかく侮辱だと思ってるんだと思う。
欲望や感情を言葉に変換しないで生きてきたから女の具象を見てもただの興奮としてしか感じていないしそういう意味で自己が即物的な未熟な自己愛で客観性がないまま他人の感情も「フェミニストのお気持ち」と雑に処理しかできない
醜悪なオタクの絵を見ても自分がそういう風にカリカチュアされて描かれていると感じ取れないし、そういう意味で自己もわからないのだから他人や尊厳の意味もわからない、わかろうとしていないのだと思う。衝動で生きるだけなら昆虫でもできて
人間として生きる意味はまずは言葉そして音楽や絵画、で考えることなのに(そしてそこを踏まえて高度に理論抽象化する数学が最後にある)人間になれなくてかわいそうだなと思う。
80分約3万円で本番やるところだったんだが、後半10分ぐらい俺は断続的に泣いていた。
俺はバキバキの素人童貞で、自らの射精キャリアの殆どをオナニー(悪名高い床オナ、ここ一年ぐらいは床オナ封印して緩めのオナホ)でこなしてきた。
対人風俗歴は昨日入れて4回しかなく、デリヘル2回にソープ2回。対人で射精できたのはデリヘルの手コキ1回のみ。それ以外はいつも射精への挑戦と挫折を繰り返し、最後は抱き合ったりして終わっていた。(そしてそれを半ば言い聞かせるようにして自分を納得させていた節があった)
フェラや素股ではイクほどの快感はなく、中に入れてもしばらくするとフニャフニャになってしまう。(これは俺の「またいつものように中折れするかも」という不安が先立っている事も理由としてあるかもしれない)
昨日のソープも案の定中折れが発生し、心の中でいつも通り溜息をついたのだが、そこで俺は何故か「自分がイケた事がろくにない」と言う事を目の前のソープ嬢に吐露していた。
「ごめんね、しぼんじゃった。……実際、隠してもあれだから言うけど俺中でイケたことないんだよね。デリの手コキぐらい」
のような感じのことを一息に言って、それを聞いた嬢はえぇーと言っていた。
今まで昼の知り合いはおろか、風俗関係にも誰にも言ったことの無い秘密を、なんで今言っちゃったんだろう、とその時ぼんやりと思った。
ぼんやりの理由は、告白した瞬間に急に涙が滲み出してきたから。完全に予想外の涙だった。
涙の理由としてはイケない惨めさが大きかったけど、その中には少しだけど確実に、解放感があった。
こんな事言い出してキモいんだけどさ、と前置きして、俺は嬢に「イケないのが自分の中で凄くコンプレックスになっている事」「イケないという告白を何故か君に言ったけど理由は良く解らないこと」「抱きしめさせて欲しい、その上で泣かせてほしい事」をポロポロっと口走った。
嬢は泣かれると対応に困るから泣かないで〜と言っていたが、俺はお構い無しで嬢を抱きしめて涙ぐんだ。
嬢はそんな俺に対して、そんな事ありふれた事だから気にするな、泣くな、と言ってくれた。
ソープ嬢の仕事でイケない客なんて大勢見てきた。一回もイッた経験無いと言う客だっていた。気に病むほどのレアケースですらない、と。
自分の心の中でも「イケない男は実際いっぱい居るし……」という慰めはとうに作っていた。
でもそれは何処か空虚で、慰めにならない慰めだった。自己肯定感の低い人間が自分を自分で慰めたって元気付けられはしない。
でも嬢は今まで自慰に過ぎなかったその慰めに、同調する事で自分という存在をもってある種の重みを与えてくれた。たった1人分の客観性だけど、その瞬間に俺の自慰は「慰め」に変わった。
この問題に関して確かに存在する「個」としての味方が初めてできた事に、俺はまた泣いた。n=1だが、その嬉しさを初めて知って泣いた。だんだん流れる涙の意味が変わっていっているのをひしひしと感じていた。
最初と違って今は嬉しくて泣いていると伝えると、嬢はまた慰めてくれた。
朝からずっと待機してても1日客がつかない子もいる、プライベートで問題ある同僚の嬢もいる、でもみんなそれでも次の出勤している。
みんな色々抱えてるなかで、問題を解決するのには諦めないという事が絶対必要だから、あなたも諦めずHし続けるしかないよ。
最初に何の期待も不安も持たず、ただHして、イケなかったら「でも次はイケるかも」って考えるぐらいでいいんだよ。
それを聞いて、咀嚼して、俺は今日3万払って着て良かったと思った。
はっきり言ってソープ嬢としてはハズレの部類だった。ブスだし年齢詐称激しいし終始小馬鹿にした感じでプレイするし、なんかよそよそしくて時間稼ぎされてる様な感じもあった。何ならちょっとムカついてた。
でも、印象の良い嬢だったらイケない事告白して無かっただろうと思う。ましてや泣いてない。数十分経ったあとでも距離がある「他人」だったから、俺は自分の暗い部分をふっと投げつけられた。
「諦めない事」「フラットでいる事」「次を信じ続ける事」なんて模範回答すぎて陳腐ですらあるが、俺には刺さった。でももうその時には嬉し涙は出なくて、代わりに微笑みが出た。
今日来てよかった、感謝してる、ありがとうと言っていたら時間になった。
>「正しい」の定義は何だという話でもある。
それはな、確かにお前の言う通り。厳密な話をしだすともっともなんだよ。「正しい」とは何かを考え出すと、そんなものはない、としかならない。相対論を採用せざるを得ない。客観的など存在しない。
でもな、そうやって「科学的な正しい」を決定的に疑った哲学者ファイアアーベントの論は、いまでは、
科学的に否定されているからって幽霊がいないないとは限らない!
みたいな。
なせそうなるかというと、客観性と科学的正しさを否定した先には、不毛の荒野しかないからだ。
荒野にはお前の好む思想の自由があるかもしれない。お前は不自由が嫌いだと書いている。
だが荒野は、精神を苛み、生活を蝕み、利益を盗み、生命を損なうだろう。
twitterで話題になっていた例の高専プロコンの審査員の発言と態度の件
「言い方が悪かったのは明らかだが、発言の主旨は正しくて、これはハラスメントと言うほどではない」というような旨の発言をしていて意外だった。
なんとなく読み解くと、「態度と内容は直交している」というような発言もあったので、表題を思いついた。
ハラスメントを定義するためにハラスメントの程度を表すハラスメント度を考えてみる。
ある発言に対してハラスメント度を算出する関数を考えるとする。
この前提のもとにハラスメントであるとはハラスメント度が一定の閾値を超えた発言の事である。と言えそうな気がする。
とすると上の発言を正当化するにはハラスメント度は態度と内容の線形和で表せて、
件の発言は態度としてはアウトだけど正しさを足してみるとトータルハラスメント度としてはセーフという理屈に(発言者にとっては)なるのではないか。
でもその主張(ハラスメントではなかった)に異議を申し立てる人としては、正しさによって下がるハラスメント度はそんなに大きくなくて、「これはハラスメントでしょ」と言ってるように見える。
なんならハラスメント度と内容(正しさ)は直交していると言いたげなぐらいの人も居そう。つまり人それぞれに独自の係数を持っている。
ここからは個人の意見だけど、線形和で書いていくとしたら緊急性とか公益性とかとかも入りそうだなあと思った。
例えば何か工事現場のようなところで大きなものが倒れてくる時に、人間うっかり手で支えようとしたりしちゃう習性がありそばで見てる人が「馬鹿野郎!逃げろ!」みたいな事は割と現実にある気がするけど、これをハラスメントと言うことはそんなにない。
緊急性がめちゃめちゃに高く、内容としても正しいので態度を凌駕してハラスメント度が上がらないのである。
リアルタイム性のある仕事って割と傍から見ると怒号が飛びがちなイメージもあり、そういうもんかなと思う。
あと公益性を思いついたのは名誉棄損罪みたいなものの例でも良いし、あるいは感覚的な「ここで放っておくと冗長する」から「怒る/叱ることが必要」という主張をしてる人たちを正当化しそうなパラメーターだなと思ったからだ。
それでいて個々人の差が大きそうなパラメーターでもあると思う。
最初の例の人も言外にそんなニュアンスを感じたので、コミュニティに貢献するタイプはむしろこういう使命感が高めだったりするんだろうか。
ハラスメント度を表す線形和に組み入れたい要素、ほかに何か思いついたら教えてください。
「双方の合意」みたいなのは客観性が薄いのと、一方だけが合意してると勘違いしてるパターンが多そうなので(それが割とハラスメントの本質っぽくもある)別次元かなあと思っています。
いやいや、D亜門氏を全否定するつもりもないけど、これは酷いよ。
これのどこに「理」があるのよw
つまり何が差別かは未決の状態で、さあそれをこれから議論しましょうという時に、
客観的な価値というものはないのに客観的な美人は存在する前提で増田の議論が展開されていることがあるのはなんでだろうか。
ルッキズム関係で伸びてる元増田もそのツリーも客観的なイケメンや美人は存在している(規定できる)という前提で議論が進んでるものじゃん。あれは何でなの?
客観的な価値は存在しないということでだいたい一致しているのにね。たとえば1人しか好きじゃない絵と1億人が喉から手が出るほと手に入れたいと思っている一品物の絵で客観的な価値に差があるわけじゃない。ただ好きな人の多少という違いでしかない。そしてそれは客観的な価値の反映であるともみなされていない。「客観的な価値って誰が決めるの?神?」って話にしかならない。
そういう考え方を共有しているならば美に対する客観性も認められないものではないのだろうか。
イケメンとか美人といういうのもその要件のあり方が価値と似てる。つまりより多くの人にときめきを与える人がイケメンであり美人であるという話でしかない、んだよね?「この人イケメン(美人)ですか」って訊かれたときにどう答えるかの基準は自分にとっての好き嫌いにあるのではなくて、多くの人に好まれそうかという経験値に基づく一種の常識によって答えを決められているものだと思う。だからこそブス専みたいな言葉が生まれ得る(各々の好き嫌いに基づかなければならないのであったら、自らのタイプ(好きになる属性を持つ人)に対してブスというようなこの言葉は矛盾している)。
真善美という言葉があるように、これらはセットで客観性を想定されていないわけだ。
エビデンスやファクトはあっても真実は存在しないとされているし、善、つまり何が善いかということはすなわち価値のことだ。
ならば客観的な美も存在しないはずではないかと思うのだが、でも存在するような前提に基づき勝手に美人に嫉妬するような元増田やトラバが投稿されている。なぜなのか。
やまなみ工房という障碍者福祉施設があってそこに通う人がリハビリがてらに描いた文字を羅列しただけの絵に100万だかの値がついてる。
割と時間をかけた力作もあるがそれでも300万とか400万とかいう値がつくのは行き過ぎではないか。
他にもNFTだかいう技術の波に乗って小学生がWindowsのペイントで描いたようなクオリティの絵が万単位で売れていく。
その小学生は数か月で300云十万稼いでいる。どうにも海外の有名人の目に留まりSNSのアイコンに作品の一つが使われたことによって価値が爆上がりしたらしい。
俺はなんでも鑑定団をよく見るがあの番組では芸術に文字通り生涯を捧げた人達が紹介される。
画材などに財を全てなげうって、食べるものも切り詰める清貧の生活の中で芸術家として大成していく様が伝えられる。
そんな人が描いた絵なのに、たとえ本物でも「150万円」という鑑定額だったりする。
前はそれを安いとか思ったことはなかったが今の風潮に照らし合わせると過小評価な気がする。
あるいは逆か。障害者の描いた絵が数多の芸術家達の歴史を踏まえず評価されすぎているきらいがあるように思える。
なんで芸術家と比べてしまえば本気度が低いに決まってる人たちが悠々自適に描いた絵に悠々と大金をかっさらっていくのか。これでは芸術家が報われないのではないか。
別に「障害者が作り出すものは劣っている」とか言いたいわけじゃない。障害者どころか健常者の平均的な画家と比べても、なんでも鑑定団で特集される芸術家の芸術に捧げる熱量は、比較にもならないだろうが。
まあ作品が一品物だからということもあるわけで、たまたま金持ちがその障害者の絵を気に入ってそういう金額が買い取ったというだけの話かもしれない。
つまりそういう金額は一個人にとっての価値であるだけで、客観的な価値を反映したものではないのかもしれないというわけだ。
「客観的」という言葉を途端に胡散臭く感じるだろう?「『客観的な価値』ってなんだよ」と言いたくなるだろう?
脱線するがアレイスタークロウリーなる魔術師を自称した実在の人物は法の書という出版物のなかで「真の意志」という概念について説いている。
「真」という言葉も、客観性と同じようなうさん臭さを持っていると思う。
たとえば惰性で好き勝手に振る舞うことを真の意志とは異なるというようなことが書かれている。でも見方によっては、好き勝手に振る舞うとは何かしら律するものの影響下にないということで、そこで発現されている行動はありのままの意志の反映なのではないのか。
ありのままを「真」という言葉で言い替えれるとするなら結局それはそのまま真の意志という概念に対する反論になる。
それを退けるためにはこのような「ありのまま」が真というものに対する言い替えとはならないわけとともに、では真という言葉は具体的にどのような性状を指しているのかを説明する必要がある。
真とか客観とかいう言葉を使う人たちは往々にしてそこらへんを「当たり前のもの」として、分かっているものとして論を進めてしまうから胡散臭いのだと思う。
とはいえ、こうも当たり前のように客観とかいう言葉が飛び交っていると、その中身は素人にはブラックボックスながらも客観というもの自体は幻想ではなく確かに存在すると思うことこそが妥当で健全な生き方なのかなとも思えてきてしまう(こういやって長いものに巻かれる感じで客観や真などのような概念の存在を信じることにしたのは俺だけだろうか?)
俺は気象学が好きでその勉強をしているなかで「予報精度はモデル計算の不確実性に依存する」という文言が出てきたのだが、まあ不確実性って言葉もまた客観とか真という言葉と同等なあいまいさ、抽象性を帯びているったらない。
そりゃ人間が作ったモデルは現実の物理法則に完全に依拠したものではないだろうことはわかるが、不確実性って単語一つで言いくるめられてもしっくりこないわけよ。それでもまあ「モデル計算の不確実性」が在るものとして、そらんじれるぐらいに自分にとって真実になるように努力するわけ。科学的な文脈で語られていることまでいちいち無いものとして疑ってかかるよりも、とりあえず丸呑みにする方が妥当な態度な気がするから。学術的な文脈でも「客観」という言葉をよく見るから、とりあえず客観というものは存在するものとして妥協しておくというのと同じ。
話を戻すが、たとえば俺がモナリザとかひまわりを価値ないといったところで、それらの絵画の価値には微塵も傷がつかないだろう。
そう言うときの価値が客観的な価値だ。逆に言えば、一人の人間がいくら熱狂的に特定の絵を愛して大枚を叩いたところで、ただちにその絵の客観的な価値がそれに相当する客観的価値をもつものとして裏付けられるわけではない。個人の好き嫌いと客観的価値はいうまでもなく独立したものであるはずである。
ダヴィンチとかピカソみたいな大芸術家、あるいはバンクシーも含めてああいう人たちに作品の絵の価値は客観的価値を反映しているといえる。
それは同じ絵が(何度も)オークションにかけられるという過程を経てその経済的価値が民主主義的に固まっていっているからだ。これを実勢価格ともいう。
一方で障害者の絵に対するにわか景気はある個人にとっての価値の反映でしかない。それを指標としても客観的価値は見えてこない。
だからまあ結局、このような状況は五体不満足な障害者にせめて富がもたらされる機会が作り出されているだけであって、芸術家より評価されているというわけではないから、まあ誰も(故人も含めて)実体的そして精神的な被害者はいないからこのままでいいかなと思う。
これ自己客観性があったらそんなこと恥ずかしくてとてもできないって皮肉で言ったんだけど
だから相手がフェミ議連でも国連でも別に関係ない、意味読み取れてないよね
大元を正したら国連女性差別撤廃委員会の指摘があるんだからそっちを訂正すれば説得力が増すよという意図もあるけど、複数の意図があるのをいちいち説明しないとわからないわけ?
声に出して言ってみ?
「3Dの胸が揺れるのは本物の女性の身体と同じ表現であって女性を性的に表現し抑圧するものではない」って
今回の批判されてるポイントを肯定する人の主張を簡潔に文章にしたらこうなる
そんなことを真顔で主張できるか?できないよね?って反語で言ってるの(ちなみにできるならすればいいし、1.の安易な規制の基準への正当な反論になる、正当な反論をしないのがなぜかを多くの人は無言で察する)
アンフェな主張する人が反語を理解してなかったり皮肉を理解できなかったりする返信を返してくる率が高いの、わざと読み間違えてるんじゃなくて相手の主張を自分が思った内容にしか読めないんだろうなって思う……
われわれが『科学的客観性』と呼んでいるものは、科学者の個人的な不党派性の産物ではない。
そうではなくて科学的方法の社会的あるいは公共的性格(social or public character of scientific method)の産物なのである。
科学および的客観性はひとりひとりの科学者の『客観的』たらんとする個人的努力に由来するものではない(由来するはずもない)。
そうではなくて、多くの科学者たちの友好的-敵対的な協働に(friendly-hostile co-operation of many scientist)由来するのである。
ポパーがこんな事言ってるし哲学者や社会学者で似たような事言ってる人達は沢山いて
自分もこの手の主張にそこまで反対はしないんだけど、
ただ現実的に一定の手続きを満たした結果は正しいとする科学者が沢山いるのも事実だと思うんだよな…
コンピュータにチェック出来るような証明支援系システムを用いたものがある。
ある人間が支援システムに基づく証明を提出して、その前提と結論を理解出来る数学者が沢山いた場合
理解した数学者はその人間の証明を一切の疑いも無く正しいと言うだろう。
せいぜい存在するのは証明文が誰かのをパクったか等の証明の正しさに関係ない問題だけである。
証明文を提出した人間にどんな人格的・思想的・政治的・社会的な問題があろうと
証明自体は正しいと言う科学者が大勢いるのは当分の間は確実だと思われる。
記事の著者です。ごめんなさい、理解力がないのかもしれませんが、あなたの反論にすべて反論できてしまった気がします。
・まず「「作中に描写がないこと」を「作品に書いてあるかのように読める断定で書いた」」と言うが、鴻巣は「描写がある」と読んだのだから平行線で終わり。
→では、自分の主張を補強するためのツイートで「ICUにいる描写がある」という前提を設けた鴻巣が、「「Aは死んだ」という明示的な記述」に言及する合理的な理由を教えてください。この「明示的な記述がない」が「描写がない」を意味しないことを説得的に論じてください。「描写」と「記述」に差があるのだ、と言いたいのかもしれませんが、そこに差を設けるのであれば鴻巣の主張が成立するように注意してください。なお、この鴻巣の例で「「死んだ」と理解する」のは合理的だと思いますが、この例と「少女を埋める」の例を一緒にはできないと思います。
・鴻巣は「合理的」な読みの話をしているが、この記事の筆者は「客観性」と言い換えている。
→「描写の有無についての客観性」と「読みの合理性」は別の問題です。さもなくば「「Aは死んだ」という明示的な記述はなくても、「死んだ」と理解する合理的な理由があります」という表現は成立しません(読点の前が描写の話、読点後が読みの話)。また、言うまでもありませんが、描写についての「主観/客観」の語彙は当事者二人が用いているものを借用しており、元記事でも補論でも、引用部分を除く私の本文は読みについて「客観」という言葉を使っていません。
・誰かの「あらすじ」を先に読み当該小説を読むとして、読者はそのとおりに読んでもいいし読まなくてもいい。実際に小説を読んで鴻巣の「あらすじ」は「おかしい」「頓珍漢」と「わかる」人もいれば、鴻巣の「あらすじ」のとおりだと読む人もいる。どちらもあり得るのだから、「「読み」が閉ざされたことを意味」しない。
→私は「鴻巣の「あらすじ」のとおりだと読む」一人ひとりの経験的読者について、「「読み」が閉ざされた」と述べています。抽象的な読者群としてはおっしゃる通り「どちらもあり得るのだから、「「読み」が閉ざされたことを意味」し」ません。「どちらもあり得る」読者を排除して、桜庭解釈に「思い至りもしない」経験的読者に限定していることを明示的に記述するべきでしたね。反省しました。なお、全面的に閉ざされたとは言いません。鴻巣解釈が先行したことによって、桜庭解釈というひとつの解釈の可能性がある読者にとって「閉ざされた」という意味です。
・ある合理的な読みが誰にとっても一つ
→と、私が書いたかのように言われているんでしょうか? 明示的な記述がない部分を埋めるにあたって、合理的な解釈が複数あるのであれば、そのすべてが認められます。それがエーコの言う意味での「テクスト解釈の可能性」の「無限」さであり、また、空白を埋めるのは読者の「主観」でも経験的作者の意図でもなく「テクストの意図」に沿ってです。ただ鴻巣解釈、というか鴻巣の読みが合理的ではないだけ(「曲解」)で、桜庭とは別の合理的な解釈があるかもしれないし、それに思い至った人が桜庭解釈の視点を同時に持つことも可能なはずです。
・他の読み方(たとえば鴻巣のような読み方をした人も一定数いる)が合理的ではないということにはならない。
→「一定数いる」ことが「合理的」であることの条件、あるいは合理的であることの証明であると言いたいのでしょうか。私はその前提に乗りません。そのために「鴻巣解釈の検討」の項目を設けたわけです。また、非合理的な読みを複数の経験的読者がすることも当然あります。鴻巣の読解が合理的ではない(「曲解」)とするのは、鴻巣が削除したツイートの文言を借りれば、「どう見ても」テクストの意図にそぐわないからです。
・それが、開かれた「読み」
→ここは反論ではなく主張のようですが触れておきます。経験的にどう読むかという広い意味では、確かに、非合理的なものも含め、どんな「読み」をする自由もあります。ただしこの自由は自明(他人の思考=「主観」は制御できない)なので、せっかく「開かれた「読み」」というかっこいい言葉を使うなら、範囲を絞った方が有意義そうです。この意見に納得いただけたら、補論の最後に引用したウンベルト・エーコの諸著作をお読みになることをお勧めします。「結局多数派か少数派か(一人か)の主観ということになる」とおっしゃいますが、主観を排除できるように、「テクスト論」をはじめとした理論というものがあるのではないでしょうか。そうした解釈の方法を(体系的かどうかはともかく)学び、身につけた、かつ解釈をしっかり書くことのできる者が書評家や批評家を務めているのだと、私は考えたいです。
・「作中に描写がないこと」を「作品に書いてあるかのように読める断定で書いた」
・「描写がある」「明示的な記述はなく」という仮定は客観性を持たねばならない
・「直接描写されていないこと」は、主観ではなく客観としなければならない
・桜庭の言う「直接描写されていないこと」を「なに」という言葉に置き換え、「あるひとりの読者=作者の主観だ」としている
まず「「作中に描写がないこと」を「作品に書いてあるかのように読める断定で書いた」」と言うが、鴻巣は「描写がある」と読んだのだから平行線で終わり。
鴻巣は「合理的」な読みの話をしているが、この記事の筆者は「客観性」と言い換えている。客観的な読みとは、多数派が、合理性をもって読み、到達するような読みではあるが、合理的=客観的ではない。どのような「直接描写されていないこと」があるかないか、多くの人が「ない」と言えばそれは客観的な読みだろうが、だからといってただ一人が固有の合理性で小説を読み解くこともありえ、ある合理的な読みが誰にとっても一つ(閉ざされた「読み」)だとは言えない。多くの人が小説「少女を埋める」に「虐待」の描写がないと読む(この記事の筆者もそう読む)からといって、それは結局「主観」の集まりであり、他の読み方(たとえば鴻巣のような読み方をした人も一定数いる)が合理的ではないということにはならない。
もちろ特定の読み方い対して、それは合理的ではない「曲解」だと主張することは可能で、文学研究や批評においても後の研究・批評が先の研究・批評を否定することはある。それが「鴻巣解釈の検討」で行われていることだが、誰もがこの記事の筆者のように読むわけではなく、結局多数派か少数派か(一人か)の主観ということになる。それが、開かれた「読み」。
・あらすじに書かれた鴻巣の解釈だけを前提とし、桜庭の提示した(あるいは以下で私が説得的に示す「真っ当な」)解釈に思い至りもしない、という可能性はある
誰かの「あらすじ」を先に読み当該小説を読むとして、読者はそのとおりに読んでもいいし読まなくてもいい。実際に小説を読んで鴻巣の「あらすじ」は「おかしい」「頓珍漢」と「わかる」人もいれば、鴻巣の「あらすじ」のとおりだと読む人もいる。どちらもあり得るのだから、「「読み」が閉ざされたことを意味」しない。