2021-10-05

客観的価値というものはないのに客観的美人存在する前提で増田議論が展開されていることがあるのはなんでだろうか。

ルッキズム関係で伸びてる元増田もそのツリー客観的イケメン美人存在している(規定できる)という前提で議論が進んでるものじゃん。あれは何でなの?

客観的価値存在しないということでだいたい一致しているのにね。たとえば1人しかきじゃない絵と1億人が喉から手が出るほと手に入れたいと思っている一品物の絵で客観的価値に差があるわけじゃない。ただ好きな人の多少という違いでしかない。そしてそれは客観的価値の反映であるともみなされていない。「客観的価値って誰が決めるの?神?」って話にしかならない。

そういう考え方を共有しているならば美に対する客観性も認められないものではないのだろうか。

イケメンとか美人といういうのもその要件のあり方が価値と似てる。つまりより多くの人にときめきを与える人がイケメンであり美人であるという話でしかない、んだよね?「この人イケメン(美人)ですか」って訊かれたときにどう答えるかの基準自分にとっての好き嫌いにあるのではなくて、多くの人に好まれそうかという経験値に基づく一種常識によって答えを決められているものだと思う。だからこそブス専みたいな言葉が生まれ得る(各々の好き嫌いに基づかなければならないのであったら、自らのタイプ(好きになる属性を持つ人)に対してブスというようなこの言葉矛盾している)。

真善美という言葉があるように、これらはセットで客観性を想定されていないわけだ。

エビデンスファクトはあっても真実存在しないとされているし、善、つまり何が善いかということはすなわち価値のことだ。

ならば客観的な美も存在しないはずではないかと思うのだが、でも存在するような前提に基づき勝手美人嫉妬するような元増田トラバ投稿されている。なぜなのか。

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