客観的な価値というものはないのに客観的な美人は存在する前提で増田の議論が展開されていることがあるのはなんでだろうか。
ルッキズム関係で伸びてる元増田もそのツリーも客観的なイケメンや美人は存在している(規定できる)という前提で議論が進んでるものじゃん。あれは何でなの?
客観的な価値は存在しないということでだいたい一致しているのにね。たとえば1人しか好きじゃない絵と1億人が喉から手が出るほと手に入れたいと思っている一品物の絵で客観的な価値に差があるわけじゃない。ただ好きな人の多少という違いでしかない。そしてそれは客観的な価値の反映であるともみなされていない。「客観的な価値って誰が決めるの?神?」って話にしかならない。
そういう考え方を共有しているならば美に対する客観性も認められないものではないのだろうか。
イケメンとか美人といういうのもその要件のあり方が価値と似てる。つまりより多くの人にときめきを与える人がイケメンであり美人であるという話でしかない、んだよね?「この人イケメン(美人)ですか」って訊かれたときにどう答えるかの基準は自分にとっての好き嫌いにあるのではなくて、多くの人に好まれそうかという経験値に基づく一種の常識によって答えを決められているものだと思う。だからこそブス専みたいな言葉が生まれ得る(各々の好き嫌いに基づかなければならないのであったら、自らのタイプ(好きになる属性を持つ人)に対してブスというようなこの言葉は矛盾している)。
真善美という言葉があるように、これらはセットで客観性を想定されていないわけだ。
エビデンスやファクトはあっても真実は存在しないとされているし、善、つまり何が善いかということはすなわち価値のことだ。
ならば客観的な美も存在しないはずではないかと思うのだが、でも存在するような前提に基づき勝手に美人に嫉妬するような元増田やトラバが投稿されている。なぜなのか。