はてなキーワード: 作品とは
・「最初の」云々はこちらの手落ちだね。以下そちらの文章を引用しつつ訂正する。
ニューシネマは旧来の映画とくらべて白人中心主義的な枠組みを脱してないといえば脱してないがそれは特徴とは言わない。変わってないんだから。
だからまずニューシネマの特徴といえばスターシステムから逃れて多様な価値観を提示できたというのが、まず特徴として挙がってくるのが正しいわけでそこをすっ飛ばして、ニューシネマは白人中心主義的だというのが先に来るのが論としておかしいの。
・あなたは「最初」は「白人男性中心主義がでっかく出てくるのはびっくり(おかしい)」という話をしていたのに、追って「スターシステムの崩壊より白人男性中心主義が先に来るのがおかしい」という順序の話に変えましたよね?そこは同意できるよね?「最初」ではないにしろ「先に」触れないとおかしいと。(でも特徴を語る際に他より「先に」触れる必要がある大きな特徴って、実質「最初に」触れないとおかしいと言っているのとほぼ同義だと思うけどね。まぁ言葉遊びが好きなら付き合いましょう)
・(痛いところを突かれたからだと思うけれど)「スターシステムの崩壊よりも先に白人男性中心主義に触れたのは、そもそもフェミニズムの見地から感想を述べる企画だから。故に白人男性中心主義に言及しても別におかしくない。加えて、単に白人男性中心主義に言及しただけで「これこそ特徴!」みたいな語り方はしていないよね?」の件にまったく触れないのはなぜですか?
・「前の時代と同じだと特徴だと言わない」のはなぜですか?比較対象が前の時代に固定されているのはなぜ?別に「現代の作品と比較したときに男性中心主義である」とか言えるよね?以下、自分で言ってるじゃん。
あのね、特徴ってのは他のものと比べてとりわけちがって目立つ点を言うの。
・「他のものと比べてとりわけちがって目立つ点」が特徴だとあなた自身が定義したのに、なぜさらっと比較対象を前時代に固定しているの?他のものと比べようよ
・「スターシステムの崩壊がニューシネマの特徴」について異論ないですとしているのにまだ長々とスターシステムの崩壊について語る目的が不明です。そこははじめから議論ないって。
・役者の例示の件も何が言いたいのかよくわからない。スターシステムの崩壊は女性にもメリットあったと思うよ?ただ(あなたの役者の例示が男性だけになっちゃうくらいには)男性ほどメリットなかったよねってだけで。
・やっぱり何にびっくりしている・キレているのか、北村氏を腐す必要があるのかわからないんだよな。やっぱり唐突に「学者のくせに」とか言い出すあたり学歴・アカデミアコンプなのかね
いやどっちもハッタショホイホイではあるんだけどさ。米津でさえハッタショなんだし
DTMだと絵でいえば生首絵とか大学ノートにらくがきレベルの作品として仕上げてないレベルの投稿(未完成で恥もなく投稿できるのは障碍者の所業)ってあまりないイメージなんだよね
男女関係ないよ。
作品への敬意が感じられないレッテル貼りに作品ファンが切れた、というよくある話でしかない。
さえぼーもお前も「アメリカン・ニューシネマは白人男性中心主義であった」という事実認識に争いはないわけ。それで終わりだろ。何にキレてるの?「僕の大好きなアメリカン・ニューシネマを白人男性中心主義と呼ぶなんてひどい!キー!」ってこと?いや知らんがな
ブラックスプロイテーションはニューシネマとは全く異なる潮流だし。ニューシネマとブラックスプロイテーションの作品が同時期に存在していても、後者の存在を持って前者が白人男性中心主義ではありませんでしたとはならないだろ。それとも当時の映画全体でみたら白人主義と黒人主義があったからプラマイゼロでーすみたいなことが言いたいの?アホちゃう?
なお、北村氏のいう「問い直してない」というのは文系学問によくあるレトリックで、須藤にわか氏の「運動の実態がないものに運動の責任を問う」ているように見えるというのは、本質を突いていると感じた。
『ダーティハリー』含む「ニュー・シネマ」と呼ばれる作品群は、「男性・白人中心主義」的であることを「問い直せていない」からダメな作品だという、作品ファンが反発を覚えるのも無理はないだろう素人批評を容易に生み出す。(なお、これは北村氏の主張ではない。北村氏はあくまでニュー・シネマが好きではないだけだ)
運動の実態がない云々はにわかや増田の独自理解だよね?北村氏が言っていないことを問い直してもそれこそ意味がないと思うが。
「問い直す」の意味は、運動に対してではなく、単に作品単体として見た際に監督が「問い直す」対象から男性・白人中心主義が抜け落ちているということでは?
かつ、男性・白人中心主義が「問い直す」対象から抜け落ちているのは事実であるし、多数の先行研究でもそれを指摘されているのに、それらを素人批評と根拠もなく断じているお前はどこの大先生なの?レッテル貼りとまで言うのならその論拠を示してほしい。
pixivは見たくない作品のアカウント事前に登録しておけば検索時そのアカウントから投稿された作品全て「なかったことにしてくれる」機能を実装してほしい
非表示にするだけで検索件数が変わらないとかじゃなくて無かったことにするのが肝な
ライトノベル系の作品は女の子を目立たせるためなのか、そもそもの対象読者が陰キャの若者で感情移入しやすくするためか分からんが男は黒髪デフォで服装も地味だしな。SAOにしろ、物語にしろ、リゼロにしろ
太田出版のWebマガジンにおける北村紗衣氏の連載に対して、須藤にわか氏という映画ブロガーが異議を唱え、それに対して北村紗衣が反論してホッテントリ入りしている。
私は須藤にわか氏のように映画を多く見ているわけではないし、北村紗衣氏のように多数の先行研究に実際にあたったわけではないが、発端となった連載と二人のやり取りをみて、話の主眼がずれていると感じた。同時に、二人とも結局、「ニュー・ハリウッド」という批評の枠組みに問題があることを浮き彫りにしているとも思った。
映画を見た後に「なんかよかった」「つまらなかった」という感想しか思い浮かばない人のために、フェミニスト批評家・北村紗衣さんが、初めて見る映画の感想を話しながら注目してほしいポイントを紹介する連載
①初めて見た『ダーティハリー』はサスペンスとして全然面白くなかった
②自分はアメリカン・ニュー・シネマが好きではない
③60年代後半から70年代に、アメリカン・ニュー・シネマ(英語ではニュー・ハリウッド)という潮流があった
④ニュー・ハリウッドは反体制的な要素と、あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴として挙げられる
⑤アメリカン・ニュー・シネマはかなり男性中心的な潮流
北村紗衣氏の素朴な感想は、末尾にある「名作と言われてみんなに愛されている作品でも今見て面白くなかったらけなしていい!」と結びつくが、③~⑥の知識を持っていると『「なんかよかった」「つまらなかった」という感想しか思い浮かばない人』でも理解が深まる、というのがこの連載の趣旨とみえる。
①「あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴」という認識は実際のアメリカン・ニューシネマからズレている
②アメリカン・ニューシネマはフィルム・ノワールと同様に映画批評家らによって作られた映画分類のカテゴリー
③アメリカン・ニューシネマは「ヌーベルヴァーグ」や「ドグマ’95」のような映画運動ではない
④「アメリカン・ニューシネマ」と「ニュー・ハリウッド」は分けて考える
⑥「ニュー・ハリウッド」もしくは「アメリカン・ニューシネマ」というカテゴリーは(白人の)批評のために作られた作為的なカテゴリー
⑦「アメリカン・ニューシネマ」もしくは「ニュー・ハリウッド」が差別的に見えるとすれば、それはそもそも批評的カテゴリー自体が差別的
須藤にわか氏の異議に対する北村氏の反論は、目次にわかりやすくまとまっている
①New Hollywoodの特徴のひとつにセックスと暴力があげられるのは当たり前
②New Hollywoodが男性中心的であるということは1970年代からずーっと言われている
例の著者は自分で決めた「これがニューシネマ」というカテゴリーを自分で見て「このカテゴリーには黒人映画や女性主人公の映画が入ってないから差別的」だと言っている
と述べているが、これは明らかに違っていて、
北村氏がいうように、
決めたのは私じゃなくて今までの批評家
つまり、北村氏は一般的な「New Hollywood」解釈を述べているだけなのだ。
ただし、須藤にわか氏が本当に主張したいところは上記にあるのではなく、「New Hollywood」というカテゴライズそのものに反発している。
北村氏は出典をたくさん挙げているが、須藤にわか氏の主張である「そもそも『ニュー・ハリウッド』が作為的なカテゴリー」への反証ではない。須藤氏のいう北村氏本人への批判、「知ったかぶりして、しかも知ったかぶりした上でこれは差別的だとかなんとか非難」への反証である。
(「たくさんの出典があってすごい!」的なブコメの反応は、ただマウント取りたいだけのリアクションに見える)
「ニュー・ハリウッド」もしくは「アメリカン・ニューシネマ」というカテゴリーが(白人の)批評のために作られた作為的なカテゴリーであることを度外視した上でそれを非難している。
と言っており、
北村氏は
という。ここは互いに噛みついていながら二人とも同じことを言っているように見えて混乱したが、批判対象の範囲が違うようだ。
須藤にわか氏はそもそも、「ニュー・ハリウッド」というカテゴリーそのものが、当時の映画作品群を評価するのに適切ではないと主張している。一方の北村氏がいう「批判されて当然」の対象は、須藤氏と同様にカテゴリーそのものであると同時に、カテゴリーに含まれる作品群も含まれると私は解釈した。
須藤にわか氏の論で一番重要なのは、元の北村紗衣氏の連載にあった以下の部分への反論ではないだろうか。
60年代後半から70年代の潮流であるニュー・シネマは、それ以前にあったいろいろな制約が外れ、暴力やセックス描写ができるようになり、そしてアメリカの秩序を問うような映画がたくさん作られた時代です。
これに対して須藤氏は、
だいたいニューシネマは映画運動ではないのだから「問い直していない」って誰に対して言っているんだろうか?運動の実態がないものに運動の責任を問うたところで、まるで意味がないと思うのだが。
「アメリカン・ニューシネマ」もしくは「ニュー・ハリウッド」が差別的に見えるとすれば、それはそもそもそうした批評的カテゴリー自体が差別的
この点、北村氏も、
>>New Hollywoodを決定づける作家主義的な監督の大半が白人男性であり、白人男性を主人公にした物語が代表作として受容され、研究も白人男性の監督だけを対象としてきたことはいたるところで指摘されています<<
と述べているように、「ニューシネマ」というカテゴリーそのものに問題があることは認識しているように見える。
つまり、二人とも、「ニュー・ハリウッド」というカテゴライズに問題があるという点では、共通の認識がある。そのうえで、北村氏は、「須藤氏のニューシネマ解釈は一般的ではないから、私を嘘つき呼ばわりするのではなく、自分で論を立ててね」としている。
しかし、「ニューシネマ」というカテゴリーそのものに問題があるなら、北村氏の連載における「『ダーティハリー』はニュー・シネマの影響下にある警察映画」という紹介の仕方も、「ニュー・シネマが男性中心的だ」というのも、安易に見える。元の連載において、ミステリ・サスペンス的にいまいちという北村氏の感想にはうなずけるが、「ニュー・シネマ」という潮流の紹介は片手落ちで、「研究も白人男性の監督だけを対象としてきた」ことも含めて紹介すべきだったのではないだろうか。
なお、北村氏のいう「問い直してない」というのは文系学問によくあるレトリックで、須藤にわか氏の「運動の実態がないものに運動の責任を問う」ているように見えるというのは、本質を突いていると感じた。
『ダーティハリー』含む「ニュー・シネマ」と呼ばれる作品群は、「男性・白人中心主義」的であることを「問い直せていない」からダメな作品だという、作品ファンが反発を覚えるのも無理はないだろう素人批評を容易に生み出す。(なお、これは北村氏の主張ではない。北村氏はあくまでニュー・シネマが好きではないだけだ)
文系学問(特に文学や社会学)においてありがちな、世の中の傾向や潮流を仮構して、ミクロな作品や人間を論じるスタンスは、使い方を間違えると、色々なことを損なう。その作品や人間がもつ、複雑さや豊かさが捨象されるし、俗流に応用されれば簡単に差別につながる。「この時代に生まれた人間は●●である」と決めつける世代論などを見ればわかりやすい。もちろん社会を論じるなら、そういう傾向を仮定して話を進めざるを得ないが、学者でもない人間が個々の作品や人間を評価するのであれば、マクロ的な枠組みでは拾えない面白さや豊かさにも目を向けるべきだろう。
少なくとも発端となった連載は素人が映画をより深く鑑賞する視点を提供するものだったはずだ。北村紗衣氏の視点と須藤にわか氏の視点を踏まえて、もっと映画を楽しみ人生を豊かにしたり、世の中を考え直すきっかけを得たりするのが、私のような素人にとってはいいのではないだろうか。
たとえば北村紗衣氏がいうように、
というところが、「ダーティ・ハリー」を考える上でおもしろそうな部分で、北村紗衣氏は第一印象がつまらなかったため深堀りすることはないだろうが、「ダーティ・ハリー」をこれから見て逆に「面白い!」と感じた場合には、ハリーを起点に「ニューシネマの影響下に本当にあるのか」などを考えるとまたおもしろそうだ。
そういう自分の知らないものとたくさん出会えるのがニューシネマの面白さで、あえて一時代のアメリカ映画をニューシネマとして括る意味があるとすれば、それはその作品群がこうした「新しさ」を観客に与えてくれるから
ということを踏まえて、様々な作品に触れれば見えてくるものもあるだろう。
serio フェミニストはありとあらゆる事象をフェミニスト的視点から語ってしまうので、たまにホームランを打つことがあっても、バットでキャッチャーを殴って三塁に走り出すみたいな大外しをすることがよくある。
→元連載は「フェミニスト批評家・北村紗衣さんが、初めて見る映画の感想を話しながら注目してほしいポイントを紹介する連載」なので、北村紗衣氏が好きに「ありとあらゆる事象をフェミニスト的視点から語ってしまう」わけではなく、そういう企画趣旨に基づいて仕事としてやっている
hazlitt アメリカン・ニューシネマってカテゴリーとして昔からよくわからんなとは思っている。わりとどうでもいいが野次馬的には町山某が反応すべき話題だな
→「わりとどうでもいい」と保険かけながら野次馬根性をさらけ出しているのがキモい
jassmaz 文学理論や批評理論を知らないオタクの見当はずれな批判。この時代にアメリカの価値観を完膚なきまでに破壊したことは十二分に暴力的である。87年出版のアラン・ブルーム『アメリカン・マインドの終焉』を読もう。
→「この時代にアメリカの価値観を完膚なきまでに破壊したことは十二分に暴力的」北村紗衣氏も須藤にわか氏も言っていない新たな論点。見当はずれはこのブコメでは
tokuniimihanai あちらの記事は批判相手の職業を間違えている時点で無知あるいは礼儀知らずなので読む価値がないと判断したが、やはり読まなくてよかったな。引用部分だけでも論外とわかる
takeda25 こういうの、詳しくなければとりあえず態度を保留するのが賢明なはずだけど(現にこちらのブコメはそういうのが多い)、女性叩き側のブコメでは調子に乗って叩く人間が大量発生するのが歪み
→態度を保留するって、どういう立場?後出しジャンケンに勝ちたいだけの姿勢が見えてキモい
ponkotsupon 須藤氏の批判記事は出典やら参考文献やら先行批評への言及が何もなかったのに対し、北村氏は複数の出典と研究史を出してるので、学術的には(須藤氏が再反論で論拠となる文献を示せなければ)これで勝負ありよなぁ
→そもそも商業媒体とブログの応酬で、学術的な議論ではない。かつ、出典と研究史さえ出せば「勝ち」というのは学術的でもないだろう。
二人に対するクソブコメの数々は
権威主義的で映画そのものにも映画史にも興味がなく、自分では頭を使わずに他人が貶されるのを娯楽として消費するだけを生きがいとする、野次馬根性と異常マウント欲、ハエ以下の精神性で駆動する人工低能群
ゲームはPC限定人気作品はいずれゲーム機に移植されるから理由としては薄い
しいていえば創作等何かを生み出すためにはPCは必要かもしれない
だが大半の人は何かを生み出すために選んでいるか、怪しい所ではある
そんな訳分からんスキームのせいで制作費が上がってる割に忖度し放題で無駄が発生するんだよ。
だいたいキャバクラや飲み屋でまともな人間に響く何が刺激されんだよ。あんなもん肯定してる連中が提供会社から大枚はたいて出させた金をどうしようもない頭の悪いビジネスに突っ込んだるだけじゃん。そんで実力もない奴を使い勝手よく使うために広告代理店や芸能エージェントが裏で手を引いて作品作りに口出し手出しして作る側が意図してなかった質の悪いドラマ見させられるんだろ。もういいからそういうクソみたいな流れ。日テレのセクシー田中さんとか思い出せよ。あれだって脚本家が作品の評価が極悪なのになぜか広告代理店に気に入られててバンバン仕事入れられててつまんねー作品ばっかり出してたのがデカい顔してた結果だろ。しかもクリエイティブな人を潰して。こういう仕組みのせいでデカい金が動いてるのにクソみたいなドラマばっかり流れる事が起きてるの。
そうこうしてる内に真っ当な倫理観も失せて社会的通念への問いかけも弱くて、ただ芸人上がりの役者出せば面白くできなるだろう(視聴者的に全然面白くない)みたいな制作費の無駄みたいな作品だけできてるの。他の国は役者や演出家が芝居の専門家や心理学や文学史学を学んで議論するレベルの知性をつけてる間にな。日本のギョーカイ人(笑)が飲み屋で遊んで挨拶回りが仕事と勘違いしてる間に国際的に作品として俎上にも載せられない位に品質が開けられちゃってるの。その国でビジネスするお情けで載せてる程度しか配信できない。
何が昭和だよ。バブル期みたいなあぶく金もない時代に引き合いにしてくんなよ。連れてってもらったってお前はどんだけ若い衆渡れ回せる位の立派な人生歩んだんだよ。大した事してないならすっこんでろ。
あんなもんが肥やしになるようなのは芸でもなんでもないんだよ。一般より金を使ったという記憶と自負による勘違い。ばっかじゃねーの。
小2か小3の頃で、母と母の彼氏に連れられて行った。
ちなみにその頃ジブリは子供人気そんなに高くはなかったと思う。(というかその頃まだジブリというスタジオは出来てないかも)
当時はらんま1/2とかドラゴンボールが人気で、あのジブリの絵柄は子供心にも「古臭い」「学習アニメっぽい」と感じていた。
で、確かトトロが先に上映されて、普通に面白かったけどメイにイライラしたり後半に出てくる電話が不思議で、なんで人の家で電話かけてるのかなと思った。
バス待つシーンの雨粒のとことか映画館でもみんな爆笑で、知らない人とみんなで笑う初めての体験だった。
その後が火垂るの墓で、小学校低学年の私には戦争をモチーフにした作品はこれが初めてで、死体の描写を見るのも初めてだった。とにかく怖くて、戦争が怖いとかじゃなくてグロ描写が怖いという感じ。
これがしばらくトラウマになってジブリ系のアニメは全部火垂るの墓に思えて、もう絶対見ないと思った。その後魔女の宅急便が公開されて母が見に行きたがったけど一回断った(けど結局行った)。
トトロと火垂るの墓の抱き合わせ公開はほんとどうかと思うけど、そういう機会がなければ火垂るの墓を観に行くこともなかっただろうしあれはあれでよい経験だったのかなあと思う。
やるとしたら、若手を留学させてる最新のデータの伴った作品づくりの手法を学ばせる、若手に作品を作らせる、クソ代理店やエージェンシー黙らせて金だけ出させる。期間を人間が働くにあたりリーズナブルな労働時間と休暇をいれる。倫理観がまともな医者とカウンセラーを常備させる。とかかな。ケータリングを外部のタニマチから出させるように営業かけるとかもあるか。おっさん好みのエログロも徹底的に潰してるよね。こういう事に政府が長期で資金を投入して空気づくりをするなら日本のドラマの質は上がると思うよ。レベルの高い一部の俳優の無理で成立させているような作品ばかりできつい。日本の作品。
金を投入しても良くならないでしょ。使い方が分かる連中が減ってるんだから。
韓国で演出で活躍してる人たちが金じゃなくて学を先に入れられているんだよ。
経営面でもだし、心理学とか舞台演出としてどう観客に印象付けるとかそういうのを体系的に米国で勉強してる。
日本はそういう人材がいても日本のドラマを作るポジションに来れないもん。
マネタイズだけで作品のしくみづくりが何もわかってない広告代理店や芸能事務所の言葉ひとつで変わる脆弱さでさ。
だから衰退するし、戻れないんだよ。
まず、結論部分で「面白ければよくない?」と主張しているが、これはあまりにも浅薄だ。表現の自由は確かに重要だが、歴史や文化に対する理解や尊重も必要だ。無責任な視点ではなく、もっと深く考えるべきだ。
次に、「俺、海外の"弥助"が出てくる作品をチラッとだけど見たんだ。それで、面白いと思った。」と言っているのに、具体的な作品名や内容について言及していない。具体的な例や根拠を示さない意見は説得力に欠ける。
続いて、日本の鎖国時代を引き合いに出しているが、その比較は的確ではない。日本の鎖国は特定の歴史期間であり、その期間における外国との関係性は複雑だった。軽い例えで済ませるのではなく、もう少し詳しく述べるべきだ。
さらに、「アイディアの宝庫じゃない?」のような漠然とした表現が多すぎる。具体的な事例やデータを挙げて、自分の主張を補強することが求められる。
また、「UBIsoftも歴史学者も滅びろと思うけど」といった過激な発言は、議論を建設的に進める上で不適切だ。批判するにしても、もっと冷静に、事実に基づいて批判することが重要だ。
最後に、「Fateのジャンヌの認識とかに対して色々海外から言われたとしても、うるせぇ!面白けりゃいいだろ!!!」という発言は無責任だ。創作物に対する批判や議論は、相互の理解を深めるためのものであり、無視することでいい結果になることは少ない。
結論から言うと、"黒人侍弥助"自体は叩くべきじゃなくて、面白ければよくない?という事が言いたい。
俺、海外の"弥助"が出てくる作品をチラッとだけど見たんだ。それで、面白いと思った。
だって、日本に置き直して考えればさ、日本が鎖国していたような時代に、海外で日本人の騎士がイギリスで暴れまわっていて、しかもそれがエリザベス女王に仕えてたとか、そういう話だよ?
そんなの面白いに決まってる!俺だったら絶対に創作のネタにするし、実際海外の人間は色々妄想したんだろう。
海を超えた向こうの創作者の頭の中では、いろんな日本があって、そこではいろんな"弥助"が活躍する。それって、とても良い事で、楽しい事だと思うんだ。
ここじゃない何処か、つまり海外って、アイディアの宝庫じゃない?例えばジブリだって海外(イギリスとかだっけか)を元にして魔女の宅急便を描いて、私達(日本)でも、海外でもない美しい楽園を創り上げた。そしてそれは、世界中何処でも評価されたんだ。自由な創作って、そういう物だと思う。
弥助も、きっとそうなれる可能性があったと思うんだ。例えば歴史上の坂本龍馬なんかは実際には色々あって最近では教科書から省かれたけれど、創作の中の"坂本龍馬"像ってのは残り続けるだろう。力のある創作物というのは、モチーフも何も失われても力を持ち続けるから。だから、今回の事件で"黒人侍弥助"という創作がおそらく無くなってしまうのが悲しい。
もちろん歴史学者の政治思想やら、UBIsoftがどうのとかはある。でもさあ、んなこと知ったこっちゃなくない!?いい例えが思い浮かばないんだけど、Fateのジャンヌの認識とかに対して色々海外から言われたとしても、うるせぇ!面白けりゃいいだろ!!!って言いたくなんない?UBIsoftも歴史学者も滅びろと思うけど、既におそらく海外で固まっていたであろう"弥助"概念を使おうとしていた創作者のことを勝手に考えてしまう。まあ全部妄想だけどさあ……