はてなキーワード: 児童とは
言ってしまえば日本の神仏倫理では小児性愛そのものに問題は無いんだよな 結果的に児童が絡むので児童虐待の方で倫理的に問題があるだけ
ポルノグラフィも同じで海外では「セックスの中でポルノは倫理的に如何わしい」という社会的圧力が存在するが日本では「性的なものは全て如何わしい」扱いなのでポルノと交尾に区別が存在しないしどうせ如何わしいからと「現在有効な刑法でどう定められているのか」だけが問題になる
このよく分からん倫理的雰囲気が存在しない特徴は中国ですら備えていない特徴で日本においては対外ソフトパワーとして極めて優位に働いている
子育て世帯等臨時特別支援事業という名目で、政府がぶち上げた「子供一人につき10万円」は我が家を置き去りにした。対象外であったのだ。
それだけ書くと収入が高いからだろう、となるかもしれないが、現実は厳しい。コロナの影響で仕事が順調とはいかず、直近年収は激減している。前年までの年収はギリギリ所得水準が今回のボーダラインぐらい。前年収入上がったときは「これから頑張ればいいか」ぐらいに思って、児童手当が特例給付というものに切り替わり、金額が減らされたことに不満は無かった。
さて、今年度だ。我が家には子供が3人いる。子供達もだんだんと成長をし、支出は増える一方だ。少なからず稼ぎ、子供を育て、人並み以上にこの国の経済に貢献している自負はある。だが、コロナの影響でしんどくなった家計にたいして、この国がくだした判断は「おまえら以外は対象な」ということだった。何でも対象世帯の1%だか2%だかは収入により対象外になるそうだ。
むかつくのは今年度の収入は、完全に対象になる水準の収入だということだ。コロナで収入が下がってしまった、我が家のような状況に対して、何ら救済される手段は用意されていないのだ。一番うえの子は今年から中学にあがった。出るものは多い。だが収入は減り、国の救済策からも外れた我が家は、とにかく切り詰めた生活をするしか無い。
「萌え絵は児童に見える」どころか「非実在だろうが児童ポルノは許さない」に同調するロリ萌え大好きオタクくんさぁ……なんでブロックされないどころか相互になってるんだい?
これもうどっちか本気じゃないだろ
自分が愛情注いで大事に育ててきた子供がロリコンに暴行され、学校に行けなくなり、利発で将来の夢は薬剤師だと語っていた活発な子が勉強ができなくなり、下の方の学校を卒業して今は地元のデイケアで働いている
自分の最愛の嫁がロリコンに暴力暴行され人間不信で鬱病で社会的に自立できなくなっていた
でも子供なので上手く警察に通報できずに通報できても立証できず時効となり、ロリコンは今も健やかに経済的に恵まれ社会的に成功した人として堂々と幸せに暮らしてる
こういうことにも想像めぐらしてる?
児童とセックスすることや児童ポルノを製造所持することは犯罪だ。
これは当たり前だし被害者になりうる児童のことを考えたら妥当だと思う。
でもこれを自分に置き換えてみると。
自分はたまたま成人異性とのセックスで興奮するタイプの人間として生まれてきたが、成人異性を性の対象とすることが異常なことだとされ、セックスやポルノの所持が違法になったら自分はどうするだろうか。
自分の性的嗜好を打ち明けることもできず、性的欲求に従った行為が軒並み犯罪になれば、自分は自分の性的欲求を胸に秘めたまま何食わぬ顔で健やかに生活できるだろうか
絶対に無理だ
私は、自分が到底できないことを小児性愛者に課している。私は小児性愛者を糾弾し、糾弾したその口で、その手で、自分の性的欲求を満たす行為をしている。
これも既存の項目と近くなるのだが。
結論から言えば『多様な食品』という項目をもってパン食を週2回にまで増やすことが正しいとは言えないだろう。
通達を尊重すべきとかそういうことは別として学校給食に対するメリットとして・・である。
ひとつは、この個所があろうがなかろうが米飯給食中心である部分は変わらないからだ。
https://www.mext.go.jp/a_menu/sports/syokuiku/1407704.htm
食品構成については、「学校給食摂取基準」を踏まえ、多様な食品を適切に組み合わせて、児童生徒が各栄養素をバランス良く摂取しつつ、様々な食に触れることができるようにすること。また、これらを活用した食に関する指導や食事内容の充実を図ること。なお、多様な食品とは、食品群であれば、例えば、穀類、野菜類、豆類、果実類、きのこ類、藻類、魚介類、肉類、卵類及び乳類などであり、また、食品名であれば、例えば穀類については、精白米、食パン、コッペパン、うどん、中華めんなどである。また、各地域の実情や家庭における食生活の実態把握の上、日本型食生活の実践、我が国の伝統的な食文化の継承について十分配慮すること。
単純に和食中心の給食のうち、スキマを使って「食パン、コッペパン、うどん、中華めんなど」と他の主食で取り合う事になりそうである。しかしそれは今起きていることに近い。それか多少増やしたとしてもパン食を週2回では多すぎる。
もう一つ。これは仮定に過ぎずはっきりしたことは言えないのだが。給食ひろばという団体の分析でいえば、どうもこの通知はパン業界の要望を反映したものであるらしい。
https://twitter.com/KyushokuJP/status/1159633373377073152
その成果も見えてきました。
大きなものとしては文科省から発出された学校給食実施基準の一部改正の通知文。この通知を読んだ瞬間に「あ、やったんだ」とわかりました。
この投稿の分析が当たっているかは文部科学省の担当者で無ければ分からない。
この通りパン業界の”成果”であるならば、『多様な食品』が盛り込まれている理由は学校給食で必要だからというよりは、各社に配慮した記述にしたから・・・という可能性を考えてしまう。
内容を重視するにしてもパンにとってはうどんや中華めんがライバルになり、パンは2回で麺は1回という目標は難しくなってくるのではないだろうか。
長くなり過ぎたので下記でも投稿した。
俺、男だけどオナニーのときは大体そういうジャンル選んでるな。
まあ大体はSMで女王様が鞭でビチビチ叩いてるのが出てくるんだが、俺は鞭で叩かれてる様子を見る気はないだんよな。
男が椅子やベッドに縛り付けられクンニ機能付きの肉バイブとして扱われているのを見ると非常に興奮する。
画面や紙面の向こうにいる目がガンギマリの逆レイプ女に対して「性欲をぶつけるための道具として物みたいに扱ってくれ」という懇願の感情が溢れてくる。
そうなんだよ俺は相手の性欲を満たすための肉バイブになりたいんだよ。
相手が性欲を満たすための道具でありたいんだ。
男性向けエロ漫画だと「オナホみたいに扱われて気持ちいい」みたいなキッショい台詞が出てくるわけだが、そういうのを女の側が言っても俺には刺さらない。
男が言っても刺さらない。
ただ黙々と性欲を処理するための行為に、生のバイブの方が気持ちいいからと扱われる作品が好きだ。
メスガキ分からせみたいなジャンルで最終的にオッサンの側が敗北してわからされるような作品だ。
たとえばJK援交物で「通報したら負けるのはオッサンの方」という社会的優位性によってオッサンが金を貢ぎながらついでに性欲過剰なJKの性欲処理に利用される可愛そうな性玩具とATMの融合体として堕ちていく展開を見ると海綿体が限界まではち切れてくれる。
なぜ世の中では「男が攻め」「女が受け」という雑な思考があんなに蔓延っているんだろうか。
性器の凹凸の形と、性行為における攻守を雑に結びつけられても困る。
たとえばカマキリなんて明らかにメスが圧倒的に優位な捕食者であり、その上でオスが本能に流されるままにヘコヘコしてしまう哀れな遺伝子の奴隷として振る舞っている。
食い物にされるということを理解しながら哀れさの中で射精するその姿を人間のオスも最演じさせてもらっていいはずだ。
チンコを入れる方が攻めであって、精神的にも社会的にも攻め込む側であるべきなんだというくだらない風潮が性癖的に全く刺さらなすぎて人間をやっているのが辛い。
こういう話をするとリアル恋愛では上手く行かないし、世の中のSMクラブもムチでビシビシする世界を雑になぞる分かってなさの凄さがヤバイので困る。
だから仕方なく分かっているAVを探して国外にも手を伸ばすわけだ。
個人的には女性が獣とやってるのなんかが最高に好きなんだが、アレやたら数が少ないんだよな。
獣は人間とSEXなんてしたがってないから、必然的に人間女による獣オスへの逆レイプになる。
無理やりチンコを勃起させられ無理やりお行儀よくチンコを向けさせられた動物に向かって、人間の女が尻を無理やりよせていく時の、完全に肉バイブとして扱われる哀れな大型犬とかの姿に凄い興奮する。
血が通った動物が人間の都合で妊娠なんて絶対にできないような組み合わせのセックスを薬漬けにされて強要される。
チンポ提供側の獣のあの嫌そうな顔、それに対して女優の演技とは言え興奮した顔よ。
変な話、人間の逆レイプ動画は男はなんだかんだそこまで嫌がってない顔してるのでね、燃えきれないのよ。
関係ないけどさっき藝大寄ったら障害児童によるアート展覧会みたいなのが開かれていたのだが、正直見てらんねえよって出来のモンばっかでげんなりしたぜ。
見てらんないクオリティなのは単純に巧拙ではなくて「アート(自分の魂を込めたナニカ)」に至ってる作品がほぼなくて、おそらく一つのアートを作るのに掛けた時間が2-3時間、多くても一桁時間位の「学校の課題だったからやった」クオリティで、質に関してもかけた時間に比例した程度のものしかなかったわ。
きっとあそこの空間にあった作品に「アートが好きで好きで仕方がない、承認欲求の塊」を表現したものは無かったし、引っくるめていってしまうと山下清画伯のように表現をしたいと思ってる障害者ってかなり少数派なんじゃねえのか? とか思っちゃったぜ。
児童手当どうしてんの?
反対派のアホは、「実在しないのだから、誰の人権も侵害されていない」とか言ってるよね
でも、「誰の人権も侵害してないけど、違法なもの」なんてたくさんあるんだよ。たとえば、脱税とか、道交法とか、麻薬取引とかもそうだよね
要するに、この問題の背景は
人命第一を謳うこの社会で便利だという理由で人が死ぬ原因となる車(装置)を許容するのはおかしい、という話かと思いますが
大多数の利便性を優先して、人命軽視を許容しているのではないか、という話になると思います。
一旦この解釈が正しいとすると
ブコメに多くあったメリットデメリットの話は若干回答がずれている、というかあまり良い回答ではないでしょう。
実はこの話、科学技術を世に出す際に倫理的に何が求められるのか、という話でもあり、
大学で科学技術と倫理(技術者倫理)という教養として習う範囲でもあります。
と言うわけで、ここでは科学技術と倫理の観点からなぜ許容されるのか話をしていこうと思います。
と、本題に入るまえにブコメで多くされていた
メリットが大きいからリスクが許容される、つまり最大多数の最大幸福であるという話について触れて起きます。
この様な功利主義的思想は局所適用にはあいますが、社会システムに適用されると非常に危険です。
言い換えてしまうと多くの人が益を受けるから少数者は被害を受けても構わない、という全体主義的システムになりかねないからです。
銅山から流れる鉱毒のせいでそこらへんに住む人は甚大な被害を受けるけど、
国家全体から見れば利益が多大なので仕方ない、みたいな話に繋がってしまいますよね。
なのでデメリットに対してメリットが大きいから、だけだと間違いを産む可能性がありあまりよくないということになります。
では次に本題の、人を死なせることはこの社会において許可されていないのになぜ人を死なせる可能性のある車が許されるのかの話をします。
シンプルに言ってしまうと人を死なせることと人を死なせる可能性がある、というのは大きく違うから、という話なんですが
車増田氏としてはそれに対し可能性があることを認識してるのであれば未必の故意いえるのではないかと考えているんじゃないかなと思います
これに関してはマックスウィーバーが著書「職業としての政治」で述べた心情倫理と責任倫理という考えが役に立つと思います。
心情倫理とは結果がどうあれ正しいと思うことを行動することで
ドイツ観念論のカントの「定言命法」に近く、物事がうまくいったとしても動機が不純なものであれば善としない考えです。
一方、責任倫理とは動機がどうあれその行為が不幸の結果を及ぼすことを予見できるのであればそれを避けるための最善の努力をし、
その結果を負わなければいけないという考えです。
ウィーバーはこの2つの倫理を兼ね備えることが政治家としての不可欠な資質としましたが、技術者倫理としてもこの思想は適用できます。
技術者として製品を世に出す際、その製品が世間をよりよくするものを目指すべきでありかつ
その製品の持つ機能が直接的に危害を及ぼすことがない様に想定できうる限りの防止策を講じるべきである、という考えです。
多分ですが、日本の車メーカーに車を作る理由を問い合わせた際に「弊社の利益さえ上がればいいと思っています」なんていうところは
基本的にないと思うんですよ。
内心はどうであれ、車の製造が利用者の利便性/快適性をあげるという公益性を目的にしているということを言うのではないかと想定してます。
そして実際、機能の研究開発の期間もさることながらテスト期間も相当長く、真冬の北海道に持っていって
寒冷地テストしたり、砂地や泥を用意してそこに突っ込んでスリップテストしたりと
事故を起こさない、人命を守るためのテストをすごいしているんですよね。なので大体開発に5年程度かかります
そしてメーカーだけでなく行政も運転免許という適正審査や安全講習、
小学生児童に対しても交通安全講習会も行い、技術と社会規則の両輪から事故を未然に防ぐ努力をしているわけですね。
つまり、車の利用に関しての「直接的な結果」として人命への被害を避けるための「最善の努力」をしている、とも言えるのです。
そして皆が交通安全規則を守り安全運転をすれば突発的な災害等が起きない限り人命を損なう様な事故は起きないだろうというところまで
この「最善の努力」を「完全に避けなければいけない」としてしまったり「間接的な結果」も責任としてしまうと
言い換えると企業がリコール訴訟を受けた際、事故と直接的な因果関係がないことはもちろんのこと
「最善の努力」をしていたということとが必要になると言うことでもあります。
(アメリカでプリウスが訴訟になった際、そこら辺が焦点になったと聞いています)
つまり、メーカー及び行政がさまざまな手段で事故を防ぐための策を講じてる事実があるので
当初の
人命第一を謳うこの社会で便利だという理由で人が死ぬ原因となる車(装置)を許容するのはおかしい、という意見に対する回答としては
人命に対するリスク対策を社会コストとして払っており、そもそも人が死ぬことを許容はしていない、ということになります。
というわけでまとめます
1. 危険性を伴う製品に関し、メリットデメリットの観点だけだと公害を許容しかねないのでよろしくない
2. 建前とは言えメーカー・行政の両輪で理論上事故が起きない様にする施策を打っており人命軽視しているという認識は間違い
ということになります。
念のため付け加えますが、努力しているから問題を起こしていい、責任がない言うわけではなく、
その開発当時にしりえる知識、技術を元に最大限の努力をしたかが問われるため「最善」と表現されます。
言い換えれば公知の知識の対応を怠った場合などは懈怠責任をとわれます。
つまり今後、科学技術の発展に伴い、危険運転でもリカバーする技術が発明されたらそれも実装が必須になっていくと思います(昔はエアバックとかなかった)
どうでしょう?車増田氏のどこで線引きをしているのか、という問いに対して回答になりえたでしょうか?
あと、死刑の話を絡めて聞いていますが、その話は犯罪者の更生の話や社会から外れてしまった人格をどう扱うかという話なのに対し
車社会の話は公益性を持つが危険性を伴う科学技術とどう付き合って行くかと言う話で根本が違うため
その話を混ぜると複雑になりますし長くなるので省きました。
そういうことか。
アフリカのとある地域や発展途上国では、いまだに「子供をたくさん産めない女性は石女と呼ばれる」に近い価値観がある。古き時代の日本には確かに、女は子供をなるべく沢山産んで育てることが仕事、多ければ多いほど優秀、という価値観があった。多産で、当時は兄弟が6人とか14人とかそういう家庭が多かった。
同時にこの時代この地域では児童労働も多かった。子供は労働者だった。10歳くらいから働いた。よく働く子が偉かった。死亡率が高かった。当時は、我が子が死ぬのは当たり前。それに生まれた全部が働き者の几帳面な子供とは限らなかった。たまに口の利けないのや、怠け者や、おかしいのが生まれた。そういう子供は売ったり、殺したり、隠したりして、間引かなければならない。死ぬこと前提で沢山産む必要があった。子供は大きくなったら親孝行をするものだった。子供は、産めば働いて家計を助けてくれ、子供を産めば産むほど老後に親孝行してくれる蓄えができる。
要するに子を産むとは、労働力を得ること、年収を増やすことであり、老後の貯金だった。
もうお分かり、当時の女性には大きなミッションがあった。わざわざ働きに出て小さな日銭を稼ぐなんかよりももっと巨額の安定収入を得るというミッションが。子を産み、労働力=年収=老後の貯金を得ることである。女性は神様である。金のなる木である。そして貴重な労働力を殖やせる重要な村の資源だった。
産める女性は神様だ。では、産めない女性は、乳の出ない牛と同じである。彼の言葉は100年以上も昔に形作られた、女性神話の系譜を現代にも継ぐ、貴重な歴史的メッセージなのである。