はてなキーワード: 植物とは
『左近の桜』『咲くや、この花』『さくら、うるわし』に続く、左近の桜シリーズ第4作目。
謎の引き寄せ体質というか拾い物体質というか、とにかくやたら異界の住民と関わりあっては「アッーー!」なことになってしまう、左近桜蔵くんが主人公の幻想小説シリーズ。初期の頃は「アッーー!」の回数がやたら多かったが、新刊が出る度に「アッーー!」成分は減ってきている。
祖父の墓参りをするために、霊園行きのバスをロータリーで待っていた桜蔵は、鍵を拾ってしまった。交番に鍵を届けようとしたものの、交番では奇妙な女性が巡査相手におかしな事を言っていた。ただでさえ引き寄せ体質で拾いもの体質の桜蔵は、また何か厄介なものを拾ってしまったのではないかと怪しむ。
バスに乗ってみれば、今度は「森」のいわれを語る妙な男がおり、いよいよおかしな事になってきたと思う桜蔵。その時、バスが交通事故に遭ってしまう。そして案の定、桜蔵は異界に迷い込んでしまうのだった。
本作は『咲くや、この花』までとはちょっと趣きが違い、まるで番外編のような話。ほとんど過去の話だし。桜蔵の祖父の遺品の一つ〈ざくろ〉という銘の碗、それと対になる〈しろうづ〉、そしていわく付きのお碗〈朱薇(あけび)〉を巡る謎。それに絡んで、柾の生家・白鳥家と、桜蔵の生家・左近家、そして白鳥家の縁戚にあたる白(つくも)家の系譜が明かされるのだが、超ややこしくて訳がわからん。新しく人物の名前が出てくる度にメモしておけばよかったなぁ。まるで『百年の孤独』を読んでるみたいだった。
物語の鍵となるのは「蛇」。互いに絡みあって一本の木のように育ったザクロや、テイカカヅラやアケビなど蔓性の植物、鏡、月、橋(水府の出入口とされる)など、蛇につながるモチーフがやたら出てくる。
何で蛇なのか、それが桜蔵にどう関係するのかというのは、何となくわかった。それからテイカカヅラ(定家葛)の別名から、柾と桜蔵の関係性がなんなのか……要は名実共に柾は桜蔵の保護者である、というのはわかったけど……、なんか核心の部分ははぐらかされたままだなぁ。
白鳥家と左近家の付き合いが今に始まったものではないのはいいとして、しかしそれが分かっても桜蔵の実父の正体とその人と柾の関係性の謎は放置されたままだし。
うーん、よくわからない。
そして今回も、相変わらず他人の悪夢を追体験させられるような読み口であり、更に超絶ややこしい系譜にも惑わされるので、ストーリーにちりばめられた謎を考察するどころじゃない感じ。森博嗣の『スカイ・クロラ』シリーズと同質の幻想文学調ミステリー。これって謎の深堀はしない方がいい感じのやつ? でも気になってつい何度も読み返しちゃうんだよなぁー。
植物の名前や神話伝承や伝統文化に関する知識を求められ、しかも登場人物が超上流階級の人たちばかりなので、頭が全然ついていかない。読んでいて眩暈がしてしまうが、『左近の桜』シリーズのお陰で私の教養は深まったので、頑張ってググりながら時間を溶かすぞ……。
https://www.tama5ya.jp/product-list/213
カルシウムが多いと植物はマグネシウムとカリウムが吸えなくなる。拮抗作用という。
カリウムは細胞の浸透圧の調整、マグネシウムは葉緑体の中心部にあるのでどちらも超重要な成分。
https://www.tama5ya.jp/product-list/213
カルシウムが多いと植物はマグネシウムとカリウムが吸えなくなる。拮抗作用という。
カリウムは細胞の浸透圧の調整、マグネシウムは葉緑体の中心部にあるのでどちらも超重要な成分。
元増田です。
窒素は空気から合成するのにエネルギーを使います。全世界の消費エネルギーの1.2%だそうです。
https://www.asahi.com/articles/ASM594WBSM59ULBJ007.html
火山灰土ではリンが反応して植物に吸われなくなるという現象があり、日本ではリンはとても大切な資源ですが、
残念ながら日本には資源がありません。100%輸入だったと思います。
一部では肥料工場も止まり、値上がりで済むのか、来年分が手に入るのかという状態です。
何にしても有限な資源であることは変わらず、リン枯渇という問題は随分前からあります。
過去にはグアノというコウモリの糞がリンの主原料でしたが、取り過ぎて枯渇して国家滅亡寸前までいった島があります。
有機の技術を使うと、例えば窒素はマメ科を栽培して共生菌である根粒菌に空気中の窒素を肥料に変えさせるという方法があります。
稲作の前にマメ科であるレンゲを育ててすき込んで肥料にするという方法は昔からあります。
リンは既に過剰投与と言われているので、共生菌などを利用して固定化されたリンを吸い出すなどができると思います。
近くで手に入るものは何より手軽で安い。カーボンフットプリントという観点では肥料成分が薄く量が多くなっても間違いなくエコです。
結論として、遺伝子に組み込まれた有毒動物・植物に対するアラートのようなものらしい。
あー長年の疑問がとけてスッキリした。
ブツブツが怖い「トライポフォビア」は、「皆が聞いたことのない、もっともありふれた恐怖症」なのだそうです。
ネットで恐れられている言葉に「蓮コラ」というものがあります。蓮の花托を模したコラ画像で、ぶつぶつとたくさん穴が開いたものです。人によっては見ると計り知れないダメージを受けてしまうため、“検索しないこと”が推奨されています。蓮の花托や蜂の巣といった穴の集合体への過度な恐怖症は「トライポフォビア」と呼ばれています。
英エセックス大学で視覚科学を専攻しているジェフ・コール博士とアーノルド・ウィルキンス教授は先ごろ、こうした症状は人類が進化する過程で得られた教訓かもしれないと発表しました。何でも蓮コラにゾワゾワするのは、毒を持つ動物の視覚的特徴と関係があるのだとか。詳しい研究結果は「Psychological Science」に掲載されています。
エセックス大学の研究チームが実施したある実験では、参加者の16%にトライポフォビックな反応があったそうです。しかしながら、トライポフォビアの認知度は低く、学術的な研究成果もほとんどありません。「もっともありふれた恐怖症なのに皆聞いたことがない」とコール博士は言います。
コール博士たちは、トライポフォビアの原因を探るため、インターネット上にあるトライポフォビアが関連付けられた画像(≒蓮コラ)76枚と、ただ複数の穴が開いた画像を比較しました。その結果、前者に特定の傾向が存在することをつかみます。
さらに、あるトライポフォビア患者の「ヒョウモンダコを見たときに、苦手な穴だらけの画像と同じ衝撃を受けた」という体験から、ヒョウモンダコをはじめ、オブトサソリやキングコブラなどさまざまな有毒生物の画像を分析しました。すると、やはりトライポフォビアの関連画像にみられる傾向が確認できたそうです。
ヒョウモンダコ(クリックで拡大。閲覧注意) image credit:Jens Petersen
これにより、コール博士らはトライポフォビアが人類が過去に遭遇した有毒動物に起因する可能性があり、我々は危険をもたらすものを警戒する生まれもった素質があると結論付けていました。
なお、コール博士は研究過程で多くの蓮コラ的な画像をみた結果、次第に鈍感になっていったそうです。このことは、トライポフォビアの克服方法を示唆しているのかもしれません。
https://togetter.com/li/1816350
なぜ有機は機械を使ってはいけないという発想になったのかわからないが、こんな誤解をする人はさすがに少数だろう。
僕は慣行農業でやっている。慣行農業とは、有機農業以外と考えてもらっていい。
では有機農業とは何かというと、化学合成農薬と化学肥料を使わない農法のことだ。ポイントは化学という言葉。化学合成とは自然界に存在しないということで、逆を言えば自然界にあるものなら農薬でも肥料でも使っていい。具体的には消石灰のような資材や、農薬としては塩化銅や微生物農薬としてバチルスチューリンゲンシス剤などがある。マルチのようなものは合成物でもよい。土にいれなければよいということなのだろう。有機には厳しい認証制度があるので、この認証を取らない限り有機農作物を名乗ることは許されない…はずだ。たしか。
僕の個人的見解だが、有機農業というのは肥料農薬を使いすぎた慣行農法へのアンチテーゼなんだと思う。四大公害とか出てて、沈黙の春とか書かれて、ベトちゃんドクちゃんとかそんな時代の話。
僕の近所で有機農業をやっていて名前が思い出せるのは農家は10名くらいだろうか。その範囲で見る限り、有機を稼げるからという理由で選択している人は一人もいない。共通しているのは、みんな有機農業こそが正しい農業だと信じているということだ。正しいというのは主観であって、それはつまり信念を持って農業をやっているということだ。それは意味がある素晴らしいことで、ほんと尊敬する。
稼ぐという点だけなら、有機より慣行の方が良い。そういう理由で慣行に転向した人もいる。これも一つの選択だ、全然悪いことじゃない。僕らが離農するということは、農地の放棄を意味する。無理してどうにもならなくなって放棄するぐらいなら、とりあえず稼ぐというのは重要なことだ。その土地の生まれであればもちろん、移住だろうと農業を長くやっていると、金銭とかではなく守るべきものが生まれる。簡単に廃業しますってわけにはいかない。
慣行農業であっても、有機の技術から学ぶことは多い。有機農業は基本的には土を大切にする農業だ。植物の土台はやはり土で、悪い土は肥料成分などの化学性を改善する努力ではどうしようもないことがある。柔らかく保肥力があり、水はけが良く水もちがいい土。その視点は有機農業にこそある。有機物が全くない土というのはただの鉱物だからだ。
有機農業の難しさは、その理論が本当に信用できるかいかがわしいということだ。でも科学的根拠なんて農家に求めるものじゃない、彼らは研究者ではないし現場では科学はいつも現実の後追いでしかない。科学的に否定されてるなら間違いは明確だが、否定も肯定もされておらず正しそうという農家の経験則の域を出ないというものが多い。僕らはそんな中から手探りで、正しいと思える技術を選択していく。どうだろう、こんなのAIが出てきても絶対取って代わられることはない、僕はそう信じている。
閑話休題。もう一つ、何かと敵視される農薬についてわかって欲しいのは、慣行農業であっても農薬はできるだけ使いたくないということだ。金はかかるし、手間もかかる。毒性はほとんど否定されていても、やはり体に良いものではない。みんな必要最小限にしているというのは理解して欲しい。それに心配するほど毒性が強いなら農家なんかみんなもう死んでるよ。僕らが1番浴びてるんだから。
センターピボットと言われても分からない人もいるかもしれないが、要は『円形の農地の中央にスプリンクラーを置いて灌漑するやつ』である。アメリカや中国の乾燥地帯などではこの方法を用いて大規模な穀物生産をしている。
このやり方、水効率は確かに良い。が、水の出所は多くの場合地下水であり、地下水は限られた資源だ。一方で灌漑に用いられた水は一部は植物に取り込まれ、一部は蒸発し、一部は地下に還っていく。
つまり、センターピボットによる農業を続けている限り地下水が減少していくのであり、大規模なセンターピボットを行っている地域で地下水が尽きたら農業生産が大きく落ち込む。明らかに持続的ではない。
もちろん、「だから今すぐセンターピボットを止めろ。穀物の価格が上がって貧乏人が餓死しても知ったことか」などと言うつもりはない。が、今のうちに持続可能なものにする必要はあるだろう。
植物を食べるべきでは無いにおつむがアレなヴィーガンがそもそも同意できてないじゃないですか
知性とか痛感に関する認識が100年くらい前で止まっていて元増田レベルの常識の共有が不可能
>フルータリアンとは?
>もっぱら植物の果実(フルーツ)をのみ食べる主義を取る人々。 フルータリアンは、菜食主義といっても、収穫が植物の生命を断つことに繋がる場合は敢えて避けるという考え方を根底に持つ。
単細胞生物の侵害に対する化学的反応と、複雑化した生物の疼痛は地続きで、どこからが疼痛という普遍的境界はない。知性も同様である。
ヒトは倫理・科学・社会的成長に応じて他者への権利を拡大する性質から免れないため、疼痛回避を含む権利範囲を倫理・科学・社会的成長に応じてその都度変更する必要がある(ヒトが科学的・社会的退行期に差し掛かれば逆の議論が必要になる)。一昔前はヒトでも含まれていない者たちが多数いたが現在は大多数のヒトは含まれるようになった。最近では愛玩動物や家畜、その他大型動物への権利拡大はだいぶ進んでいる。
科学的反応と疼痛や知性の境界がないため、権利者の拡大方法は徐々に広げる以外にない。その守られるべき権利者をどこまで広げるか、食肉用動物を含めるか、という議論をしているので、「植物も感じるだろ!」という主張をする人間は「植物も食べるべきではないだろ!」と言う主張であり、植物を権利者に含むためには、より疼痛の性質がヒトに近い食肉動物を先に権利者に含める必要があるため、「植物も感じるだろ!」という意義を唱える者は必ず食肉規制に同意する必要がある。当然、食植物もヒトの科学的レベルが一定に達すれば避けるべきだが2021年はその段階にないため食肉規制推進者が植物を食べることは許容される。
500年?1000年後?100000万年後?には無生物や鉱物、分子や、空間・光・重力にも権利を与えるべきか、の議論が行われているかも知れない。
自暴自棄になって自分のものを壊したり、逆に人に乱暴ふるったり、突然泣きわめいて混乱したりと言ったことがあった。大学くらいになれば大分落ち着いたが、それでも半年に一つくらいは壁に穴が増えていったし、1年に一回は家族に乱暴ふるってたし、2年に一回は携帯を地面に叩きつけて壊していた。
大人になってパワハラ企業で潰されて、うつを経由して、躁鬱の診断が下って、薬が処方されて以来、感情が爆発することがなくなった。そもそも感情の起伏自体がほとんどなくなった。喜怒哀楽に突き動かされることがない。植物のような穏やかな生活を送っている。人生でこんなに穏やかな気持が長く続いたことはない。
ひょっとして俺は、既に子供の頃から躁鬱を発症していたのだろうか。そうすれば過去の顔を覆いたくなるような数々の失敗も病気のせいにして逃げられるだろうか。
実際問題、葉っぱや果実と動物の命を等価に見ている人なんていないよな
我々動物が痛みを耐え難い苦しみとして感じるのは
痛みを回避する行動をとることに大きなインセンティブがあるからで
回避行動が取れない植物が耐え難い苦しみを感じ続ける仕組みになっているとは思えない
せいぜい「ん?どっか葉っぱ取れたか?じゃあ反対方向の葉っぱ茂らせてみるかー」
ぐらいの信号が出てるだけだろ
https://twitter.com/DividedSelf_94/status/1465862459244298244
みたいな意見になるんだろうか
「痛みを減らしたいから動物を食べない」まで行ったら、それは科学ではなく宗教だ
「痛みが規定されたのだから安楽死させるべき」ならば、それはぎりぎり科学だろうか?私はこれも宗教に思う
「痛み」というラインを科学的アプローチで規定しても、「それをどう扱うか」は思想であり、時に宗教だろう
これらの人は、家にネズミが出たとき、安楽死を約束する駆除業者を頼むのか?
「痛み」を与えないように、ネズミ避けを置いてみるだけなのだろうか?
昔は都内にもいたが、保健所が大活躍した結果、まず見なくなった
らしいが
食べるために安楽死が許されるから、住環境のための安楽死は当然に許される、みたいな感じかな
多分、この人が主張したいのは、虐待はだめだという事で、行政の殺処分は違うと切断されるだろう
さてこれらは切断されるだろうか?
「雑に断言する」とは何を指すのだろう?
「何喋ってるか整理」するのは、存外難しいのではないか。
「植物と動物が感じる『痛み(刺激)』は別物である」は科学であり客観である
「植物と動物が感じる『痛み(刺激)』は別物であるから植物は痛みを感じない」および「植物と動物が感じる『痛み(刺激)』は別物であるが植物なりに痛みを感じている」は科学であり主観である
「痛みを感じ得るかを基準に植物と動物を区別する」は科学的である可能性も宗教的である可能性もある
「痛みを感じ得るかを基準に植物と動物を区別して食べると食べないを分ける」および「痛みを感じ得るかを基準に植物と動物を区別はするものの全部食べる」は科学的または宗教的見地に基づいた主観である
「植物も動物も平等であり区別しない」は科学的である可能性も宗教的である可能性もある
「植物も動物も平等であり区別しないが食べたり食べなかったりする」および「植物も動物も平等であり区別しないで全部食べる」は科学的または宗教的見地に基づいた主観である
件のツイートで示される「日本人」「西欧」の考え方には大きな違いはないように見える
そしてどちらの考え方であっても「残虐に殺してよい」的な主張とは大きく関連しないように見える(どちらも優しい対応、残虐な対応それぞれに紐付けられるように見える)