単細胞生物の侵害に対する化学的反応と、複雑化した生物の疼痛は地続きで、どこからが疼痛という普遍的境界はない。知性も同様である。
ヒトは倫理・科学・社会的成長に応じて他者への権利を拡大する性質から免れないため、疼痛回避を含む権利範囲を倫理・科学・社会的成長に応じてその都度変更する必要がある(ヒトが科学的・社会的退行期に差し掛かれば逆の議論が必要になる)。一昔前はヒトでも含まれていない者たちが多数いたが現在は大多数のヒトは含まれるようになった。最近では愛玩動物や家畜、その他大型動物への権利拡大はだいぶ進んでいる。
科学的反応と疼痛や知性の境界がないため、権利者の拡大方法は徐々に広げる以外にない。その守られるべき権利者をどこまで広げるか、食肉用動物を含めるか、という議論をしているので、「植物も感じるだろ!」という主張をする人間は「植物も食べるべきではないだろ!」と言う主張であり、植物を権利者に含むためには、より疼痛の性質がヒトに近い食肉動物を先に権利者に含める必要があるため、「植物も感じるだろ!」という意義を唱える者は必ず食肉規制に同意する必要がある。当然、食植物もヒトの科学的レベルが一定に達すれば避けるべきだが2021年はその段階にないため食肉規制推進者が植物を食べることは許容される。
500年?1000年後?100000万年後?には無生物や鉱物、分子や、空間・光・重力にも権利を与えるべきか、の議論が行われているかも知れない。
植物を食べるべきでは無いにおつむがアレなヴィーガンがそもそも同意できてないじゃないですか 知性とか痛感に関する認識が100年くらい前で止まっていて元増田レベルの常識の共有が...