はてなキーワード: 植物とは
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なぜ有機は機械を使ってはいけないという発想になったのかわからないが、こんな誤解をする人はさすがに少数だろう。
僕は慣行農業でやっている。慣行農業とは、有機農業以外と考えてもらっていい。
では有機農業とは何かというと、化学合成農薬と化学肥料を使わない農法のことだ。ポイントは化学という言葉。化学合成とは自然界に存在しないということで、逆を言えば自然界にあるものなら農薬でも肥料でも使っていい。具体的には消石灰のような資材や、農薬としては塩化銅や微生物農薬としてバチルスチューリンゲンシス剤などがある。マルチのようなものは合成物でもよい。土にいれなければよいということなのだろう。有機には厳しい認証制度があるので、この認証を取らない限り有機農作物を名乗ることは許されない…はずだ。たしか。
僕の個人的見解だが、有機農業というのは肥料農薬を使いすぎた慣行農法へのアンチテーゼなんだと思う。四大公害とか出てて、沈黙の春とか書かれて、ベトちゃんドクちゃんとかそんな時代の話。
僕の近所で有機農業をやっていて名前が思い出せるのは農家は10名くらいだろうか。その範囲で見る限り、有機を稼げるからという理由で選択している人は一人もいない。共通しているのは、みんな有機農業こそが正しい農業だと信じているということだ。正しいというのは主観であって、それはつまり信念を持って農業をやっているということだ。それは意味がある素晴らしいことで、ほんと尊敬する。
稼ぐという点だけなら、有機より慣行の方が良い。そういう理由で慣行に転向した人もいる。これも一つの選択だ、全然悪いことじゃない。僕らが離農するということは、農地の放棄を意味する。無理してどうにもならなくなって放棄するぐらいなら、とりあえず稼ぐというのは重要なことだ。その土地の生まれであればもちろん、移住だろうと農業を長くやっていると、金銭とかではなく守るべきものが生まれる。簡単に廃業しますってわけにはいかない。
慣行農業であっても、有機の技術から学ぶことは多い。有機農業は基本的には土を大切にする農業だ。植物の土台はやはり土で、悪い土は肥料成分などの化学性を改善する努力ではどうしようもないことがある。柔らかく保肥力があり、水はけが良く水もちがいい土。その視点は有機農業にこそある。有機物が全くない土というのはただの鉱物だからだ。
有機農業の難しさは、その理論が本当に信用できるかいかがわしいということだ。でも科学的根拠なんて農家に求めるものじゃない、彼らは研究者ではないし現場では科学はいつも現実の後追いでしかない。科学的に否定されてるなら間違いは明確だが、否定も肯定もされておらず正しそうという農家の経験則の域を出ないというものが多い。僕らはそんな中から手探りで、正しいと思える技術を選択していく。どうだろう、こんなのAIが出てきても絶対取って代わられることはない、僕はそう信じている。
閑話休題。もう一つ、何かと敵視される農薬についてわかって欲しいのは、慣行農業であっても農薬はできるだけ使いたくないということだ。金はかかるし、手間もかかる。毒性はほとんど否定されていても、やはり体に良いものではない。みんな必要最小限にしているというのは理解して欲しい。それに心配するほど毒性が強いなら農家なんかみんなもう死んでるよ。僕らが1番浴びてるんだから。
センターピボットと言われても分からない人もいるかもしれないが、要は『円形の農地の中央にスプリンクラーを置いて灌漑するやつ』である。アメリカや中国の乾燥地帯などではこの方法を用いて大規模な穀物生産をしている。
このやり方、水効率は確かに良い。が、水の出所は多くの場合地下水であり、地下水は限られた資源だ。一方で灌漑に用いられた水は一部は植物に取り込まれ、一部は蒸発し、一部は地下に還っていく。
つまり、センターピボットによる農業を続けている限り地下水が減少していくのであり、大規模なセンターピボットを行っている地域で地下水が尽きたら農業生産が大きく落ち込む。明らかに持続的ではない。
もちろん、「だから今すぐセンターピボットを止めろ。穀物の価格が上がって貧乏人が餓死しても知ったことか」などと言うつもりはない。が、今のうちに持続可能なものにする必要はあるだろう。
植物を食べるべきでは無いにおつむがアレなヴィーガンがそもそも同意できてないじゃないですか
知性とか痛感に関する認識が100年くらい前で止まっていて元増田レベルの常識の共有が不可能
>フルータリアンとは?
>もっぱら植物の果実(フルーツ)をのみ食べる主義を取る人々。 フルータリアンは、菜食主義といっても、収穫が植物の生命を断つことに繋がる場合は敢えて避けるという考え方を根底に持つ。
単細胞生物の侵害に対する化学的反応と、複雑化した生物の疼痛は地続きで、どこからが疼痛という普遍的境界はない。知性も同様である。
ヒトは倫理・科学・社会的成長に応じて他者への権利を拡大する性質から免れないため、疼痛回避を含む権利範囲を倫理・科学・社会的成長に応じてその都度変更する必要がある(ヒトが科学的・社会的退行期に差し掛かれば逆の議論が必要になる)。一昔前はヒトでも含まれていない者たちが多数いたが現在は大多数のヒトは含まれるようになった。最近では愛玩動物や家畜、その他大型動物への権利拡大はだいぶ進んでいる。
科学的反応と疼痛や知性の境界がないため、権利者の拡大方法は徐々に広げる以外にない。その守られるべき権利者をどこまで広げるか、食肉用動物を含めるか、という議論をしているので、「植物も感じるだろ!」という主張をする人間は「植物も食べるべきではないだろ!」と言う主張であり、植物を権利者に含むためには、より疼痛の性質がヒトに近い食肉動物を先に権利者に含める必要があるため、「植物も感じるだろ!」という意義を唱える者は必ず食肉規制に同意する必要がある。当然、食植物もヒトの科学的レベルが一定に達すれば避けるべきだが2021年はその段階にないため食肉規制推進者が植物を食べることは許容される。
500年?1000年後?100000万年後?には無生物や鉱物、分子や、空間・光・重力にも権利を与えるべきか、の議論が行われているかも知れない。
実際問題、葉っぱや果実と動物の命を等価に見ている人なんていないよな
我々動物が痛みを耐え難い苦しみとして感じるのは
痛みを回避する行動をとることに大きなインセンティブがあるからで
回避行動が取れない植物が耐え難い苦しみを感じ続ける仕組みになっているとは思えない
せいぜい「ん?どっか葉っぱ取れたか?じゃあ反対方向の葉っぱ茂らせてみるかー」
ぐらいの信号が出てるだけだろ
https://twitter.com/DividedSelf_94/status/1465862459244298244
みたいな意見になるんだろうか
「痛みを減らしたいから動物を食べない」まで行ったら、それは科学ではなく宗教だ
「痛みが規定されたのだから安楽死させるべき」ならば、それはぎりぎり科学だろうか?私はこれも宗教に思う
「痛み」というラインを科学的アプローチで規定しても、「それをどう扱うか」は思想であり、時に宗教だろう
これらの人は、家にネズミが出たとき、安楽死を約束する駆除業者を頼むのか?
「痛み」を与えないように、ネズミ避けを置いてみるだけなのだろうか?
昔は都内にもいたが、保健所が大活躍した結果、まず見なくなった
らしいが
食べるために安楽死が許されるから、住環境のための安楽死は当然に許される、みたいな感じかな
多分、この人が主張したいのは、虐待はだめだという事で、行政の殺処分は違うと切断されるだろう
さてこれらは切断されるだろうか?
「雑に断言する」とは何を指すのだろう?
「何喋ってるか整理」するのは、存外難しいのではないか。
「植物と動物が感じる『痛み(刺激)』は別物である」は科学であり客観である
「植物と動物が感じる『痛み(刺激)』は別物であるから植物は痛みを感じない」および「植物と動物が感じる『痛み(刺激)』は別物であるが植物なりに痛みを感じている」は科学であり主観である
「痛みを感じ得るかを基準に植物と動物を区別する」は科学的である可能性も宗教的である可能性もある
「痛みを感じ得るかを基準に植物と動物を区別して食べると食べないを分ける」および「痛みを感じ得るかを基準に植物と動物を区別はするものの全部食べる」は科学的または宗教的見地に基づいた主観である
「植物も動物も平等であり区別しない」は科学的である可能性も宗教的である可能性もある
「植物も動物も平等であり区別しないが食べたり食べなかったりする」および「植物も動物も平等であり区別しないで全部食べる」は科学的または宗教的見地に基づいた主観である
件のツイートで示される「日本人」「西欧」の考え方には大きな違いはないように見える
そしてどちらの考え方であっても「残虐に殺してよい」的な主張とは大きく関連しないように見える(どちらも優しい対応、残虐な対応それぞれに紐付けられるように見える)
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/DividedSelf_94/status/1465862459244298244
人間は「痛み」を感じます。動物、特に系統的に人間に近い種ほど、人間と似た神経構造を持っており、人間に近い「痛み」を感じていると科学的に考えられます。
また、植物は動物と違って神経を持たないため、人間とその他脊椎動物が共有しているような意味での「痛み」をそもそも持ちません。
植物が傷つけれた場合にある種の化学反応を起こすことは知られていますが、それを人間や哺乳類が共有しているような「痛み」とは根本的に異なるものです。
「植物は痛みを感じている」というのは、ヒマワリの花がそのてっぺんに咲いてるのを見て、ヒマワリは人間やキリンのように頭があるというようなものです。
一方、人気のはてなユーザは何を言っているでしょうか。
その理屈だと植物の痛覚が証明されたら詰む。植物の葉が虫に囓られると他の葉に刺激が伝わることは既に分かっている。植物にも痛覚はあるという前提で踏み倒す方が合理的だろう。もっと生物殺しの顔をしよう。
植物には痛覚があることが証明されることは永遠にないでしょう。神経がないのだから。もちろんヒマワリが歌を歌ったり、キリンが原子力発電所を作る可能性を夢見るのは悪いことではありません。
痛みを感じるかどうかも科学的でもなんでもなく人間の想像を基にした宗教だけどね。とはいえ、痛みが苦しみであるは共感を得られやすい宗教ってだけで、異宗教は虐殺していいがキリスト教含めた一神教の原理主義
痛みを感じるかどうかが人間の空想、宗教なら、麻酔治療はおまじないなのでしょうか。
葉っぱちぎると植物全体から化学物質が出てくる。これを痛みを感じてるとしない理由を科学的に教えて欲しい。嫌がって必死になってるなら広い意味で痛みを感じてると言えるだろう。文系の連中は度し難い
「植物が痛みを感じてる」という感想の方が、どう考えても比喩であり文学の領域でしょう。
何でこんな幼稚で非科学的な意見に☆が集まるのかといえば、「ヴィーガンや動物愛護活動家は非科学的・宗教的な信念を持っている。肉を食べている我々は科学的である。」という強い偏見を多くの人が持っているからかもしれません。冷静に常識的に考えれば「植物は痛みを感じている」という主張はおかしいことに気づくとは思うのですが。
もちろん、事実の認識が科学的で正確かどうかと、その認識に基づいた判断が倫理的に正しいのかは別です。
肉食を正当化するなら、「確かに動物は植物と違って人間のような痛みを感じている。しかし、動物を殺すことは~~という理由で正当化できる。」というような主張をした方が良いと思います。
「『痛み』なんか人間の想像でしかない」みたいな極端なことを言う人もいますが、もう少し日常的なレベルでものを考えた方がいいでしょう。他人に大きな「痛み」を与えることは一般的に法的に禁じられていますし、「痛み」を緩和させるために様々な医学的知識が使われています。
「痛み」だけを倫理の基準になるのも明らかに良いとは思われませんが(安楽死さえすれば人を殺してOK?)、現代日本の倫理の物差しにおいて「痛み」が重要なのは言うまでもない。
「動物愛護法」という法律があります。日本の国法レベルで、植物と動物は違う取り扱いをしてね、と言っていますから、西欧と日本の倫理観にそこまで大きな違いはないように私は思います。
「第二条 動物が命あるものであることにかんがみ、何人も、動物をみだりに殺し、傷つけ、又は苦しめることのないようにするのみでなく、人と動物の共生に配慮しつつ、その習性を考慮して適正に取り扱うようにしなければならない。」
やっぱり動物にむやみに苦痛を与えたらダメだよ~と言っていますね。
動物の殺処分方法に関する指針(平成19年11月12日環境省告示第105号)
管理者及び殺処分実施者は、動物を殺処分しなければならない場合にあっては、殺処分動物の生理、生態、習性等を理解し、生命の尊厳性を尊重することを理念として、その動物に苦痛を与えない方法によるよう努めるとともに、殺処分動物による人の生命、身体又は財産に対する侵害及び人の生活環境の汚損を防止するよう努めること。
第2 定義
この指針において、次の各号に掲げる用語の意義は、当該各号に定めると
ころによる。
(1)対象動物 この指針の対象となる動物で、動物の愛護及び管理に関する
法律(昭和48年法律第105号)第44条第4項各号に掲げる動物
(4)苦痛 痛覚刺激による痛み並びに中枢の興奮等による苦悩、恐怖、不安
(5)管理者 殺処分動物の保管及び殺処分を行う施設並びに殺処分動物を管
理する者をいう。
殺処分動物の殺処分方法は、化学的又は物理的方法により、できる限り殺処分動物に苦痛を与えない方法を用いて当該動物を意識の喪失状態にし、心機能又は肺機能を非可逆的に停止させる方法によるほか、社会的に容認されている通常の方法によること。
もっといろいろ読むなら
https://www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/1_law/baseline.html
ヴィーガン側の動物云々を全部植物に変えてもヴィーガンはそれを明確に否定出来ないってことを言ってるのであって共通認識が生まれてるかどうかは関係ないし生ませたいとも思ってない
痛覚がどうこうは科学的に証明できるのかもしれないけど、人間の豊かな生活のために他の生物を苦しめたり命を奪ったりすることをどれだけ許容するか考えることは結局”価値判断”の領域の話だからね。
増田の書いた
たとえば死刑のときでも「苦痛なく殺すのが人道的」という指針があるわけで、
日本人も多くはそれを支持していると思うんだけどな。
この辺りも全部、価値判断の話だよ。
最後は科学っぽいけど、痛覚に類する反応の有無ではなく”苦痛”というのならそれはやはり主観でしかない。
だからその社会で一般的な感覚を超えて、自分たちの考えを押し付けてくるならやっぱりそれは「宗教やエゴ」という表現が一番しっくりくるよ。
まあ、提案レベルなら社会の側も耳を傾けた方が良いかなとは思うけど、たいてい活動家かぶれのヴィーガンの人は自分の考えを人道だなんだ絶対正義のように語ってくるからウゼーってなる。
ジャップっていっぱしの文明人面して「ペットの生体販売は禁止すべき」とか言うのは好きなくせに
家畜とアニマルライツが結び付けられそうになると「じゃあ植物はいいんですかー?勝手な線引きしないでくださーい」とか幼児退行起こすよな
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/DividedSelf_94/status/1465862459244298244
痛みを感じるかどうかは人間の主観で決めているところが大きいので結局どちらも実質宗教というかエゴかなと…痛みを科学的に分析するための研究も世の中にはあるけど、皆がそれに基づいて考えてるとも思えない。
それに基づいて考えてるから
「イカやタコに痛覚があることが分かったから生きたまま茹でるのは非人道的」
https://tabi-labo.com/302046/wt-octopus-welfare-uk-2021
みたいな話が出てくるんだよね。
「殺すのは仕方ないけどなるべく苦痛なく殺してあげようね」という話にすぎないんだけど
「俺たちから肉を奪うのかー!」って脊髄反射で憤ってる感じはあるよね。
アニマルウェルフェアとかも「畜産をやめよう」なんて話ではぜんぜん無いし、
ヴィーガンに近い人でも「人道的に育てられたことが証明されていれば動物性の食材を食べてもいい」という派閥だってある。
それと「仕方なく殺すときはなるべく苦痛なく」という話を聞いて
「苦痛がなければ何をどれだけ殺してもいいのか」とか言い出すのは
たとえば死刑のときでも「苦痛なく殺すのが人道的」という指針があるわけで、
日本人も多くはそれを支持していると思うんだけどな。