はてなキーワード: 憲法学者とは
元増田だけど俺の頭の中では憲法学者は今回の安保関連法案が「合憲」か「違憲」かを判断しているだけであって、集団的自衛権の行使の是非に関しては判断していない…という認識だよ。
だから俺の中では憲法学者は「喚いている人々」の中には入っていない。(集団的自衛権の行使の是非に関して意見を述べてる憲法学者がいたら後学のために教えてくれると助かります)
俺が「喚いている人々」と表現したのはザックリいうと政治家・マスコミ・政治団体…あたりの世論に大きな影響を与えそうな声の大きな人々の事を指してる。
特に与党と野党。どっちも話し合う気ないだろ、あいつら。この辺りの人々がもっと理性的に話し合ってくれないと俺の感じてるバカバカしさは解消されないんだよなぁ。
審議を尽くせてないのは明白だけどね.
内容に関わらず,数が多いほうは慎重になるべきでしょ.
上念司が「憲法学者にイラク-シリア-トルコ無防備ヒッチハイクさせろ」と言ってたが、安保法成立で自衛隊が完全武装ヒッチハイクで後方支援する可能性も
「スガくんとアソウくん」の喩え話も、実際は安倍じゃなくて自衛隊員が殴りに行くわけで、ボコられてケガしたり、やりすぎて事件になるかも
後方支援中に殺されたら殉職か戦死か知らんが、反撃して殺しちゃった場合正当防衛でも殺人じゃね?でもそれだと刑務官の死刑執行も殺人になっちゃうか
安倍曰く、
襲撃に遭ったらただちに退避する
との事。
アソウ君助けに行くときは戦闘地域行って任務遂行型攻撃してね?と思うが、友達保存型の攻撃で、アソウくん助けたら非戦闘地域に退避と考えればセーフかも。
その辺はなにをもって「憲法を遵守している」と言えるのかについての僕とあなたの意見のちがいかもしれませんね。
憲法学者が1,000人反対しようが10,000人反対しようが民主的な選挙を経ていない私的な人間のあつまりにすぎないと言う点では会社や政党とかわりません。
まして、日本国民であるという制約すら無い点では政党よりもゆるい集まりなわけで、僕としては彼らの意見は「ふーん」ってかんじで過剰な意味づけを見出す気になれません。
死体にとりすがって泣く取り乱した人々。もう四十年たってるんだからあきらめようよ。見苦しい。ほんとどうだっていい。
反対のための理屈だってほとんどはこっちの憲法学者の方が数が多いのにーとか印象操作とかレッテル張りとかじゃん。数で決まるんだったら議員の数で決めろよ。憲法学のセンセーは選挙によって選ばれてるわけじゃないんだから。
そんなんで「明らかになった」って、そらそう思ってる人たちもいるってだけだろ。
今般の安保法制そのものが、合憲かどうかといった議論はひとまず脇におく。
すくなくとも今までの憲法解釈はなんだったんだ、という気持ちにさせるのは確かだ。
が、落ち着いて考えればそれに対する批判の程度の低さがあまりに目に余る。
これでは、本気で法制化を阻もうとなど誰もしてないのでは、野党は論理的な反対などできないと割り切って政権攻撃のプロレスをやってるだけなのではと勘ぐりたくもなる。
以下、いくつか例をあげる。
数に訴える論証。もっとも基本的な詭弁のテクニック。「これこれこういう理由で違憲だ」という論理に説得力があれば大多数かどうかなんて関係ない。
しかし新聞紙面やその他報道で焦点があたるのはもっぱら数だ。読者もそれにしか注目していない。
こんなものを根拠にしたら国会議事堂の議員たちの数に訴える論証に反対できないことになる。
恐怖に訴える論証。もっとも安全保障というものは恐怖から逃れるためにあるのだから、安保法制自体が恐怖に訴えることによってなりたっているのではないか、という反論はありえる。
だが、まあホルムズ海峡が機雷封鎖されたら困るしそういうときに自衛艦が能力としては掃海できるのに法的にできないのは困るよねとかってのはわかるけど、安保法制を通したら徴兵制になるってのは論理のつながりが俺にはわからない。
ということになるのだが、一体どんな成り行きでそんなことになるか想像がつかない。
まずは、かつてソ連の着上陸侵攻が差し迫った危機として語られていたころにも徴兵制などまじめに議論されていなかったことを思い出すべきだ。
こんな軍事情勢の根本的変化がわが国の国内法制ごときが原因で起こせると本気で思っているのか?本気で信じている人がいるとしたら、日本ってそんなにえらいんだっけ?それこそ日本が中心に世界が回っていると思い込む誇大妄想というものだろうといいたいところだ。
むしろ、そんな種類の軍事的情勢の変化は日本人を守ろうとした米軍を自衛隊が見殺しにして、米国国民が日本など知るかとなったときにこそ起きるんじゃないかと思われてしかたないところだ。
こうしたことを踏まえると、より不合理でより悪質な詭弁は「安保法制→徴兵制→怖いヨー」論だと少なくとも個人的には思う。
(( 時代錯誤というか懐古趣味のじいさんが「近頃の若いモンは軍隊にいかないからしつけができとらん」とか言っていたのが今では懐かしいが、そんなものはまじめな議論とは呼べない。そう思うんだったら自分の孫を自衛隊に入れればいいだけの話だ ))
感情に訴える論証。大体、どういう状態だったら日本は米国の植民地でない、属国でないと言えるのだろう?
国際政治というものは相互の関係や力の大小があってあるときは言い分がとおり、あるときは通らないこともあるのは当然ではないか。より大きな力があればより多くの言い分を通せるだろう。わけても特別におおきな力を持っているのが覇権国家や超大国と呼ばれる国なわけだ。そうした超大国さえ、政権がふらついていたりすると時としてわが方の要求を飲まされたりする。
我が方の言い分が通らない場合や相手の言い分を受け入れる場合、相手に協力する場合のことだけをことさらに取り上げてやれ属国だ植民地だだのと言い張っていては、国際関係など成り立たない。どうしてもそういう主張をしたいのなら、どういう点でどのように我が国の主権がそこなわれ不当に不利な条件を強いられているか論証すべきだろう。その論証に納得がいくならば俺も安倍総理を売国奴と罵ろうでは無いか。
確かに日本は覇権国家でないし、核武装もしていない。そりゃまあそういうことをしたら胸をはって独立独歩と言えるのかもしれない。
でも、そうなりたいの?やっていいの?
こういう主張は、日本よ21世紀の覇権国家たるべし、とか核武装なくして独立なしといった危険な主張と紙一重と知るべき。
どうせ「あそこの国はこうだ、こうしてる」といったことを言い出すのだろうが、日本は日本なのだから、どこそこの国を真似しなければならんということになるならその国の属国か植民地ということになるだろうに。
ソ連があった時代からの論法だけど、カビ臭すぎる。愚民をアジるにしてももっと洗練された技法を勉強するべきではないか。
以下、追記。
軍事力だけで中国の脅威を食い止めることができないということと、中国の脅威から日本国の権益を防衛するには軍事力が不可欠なことは矛盾しない。
要するに反論になっていない。
前提が変われば、結論も変わる場合があるのは当然というものだろう。
この論理はソクラテスが人間である場合に限り有効なのであり、ソクラテスが犬のぬいぐるみのことだったり、不死の神だったなら異なる結論が導かれえるのは当然では無いか。
要するにこれも反論になっていない。
たとえ話というのは、抽象的な議論を身近な物事との類推で理解を深めるために用いる技術である。
「軽い」のは当然であって、それを「軽すぎる」などと非難するのは、要するに理解が深まってはこまる。国民の理解が進んだら自分たちの言い分のばかばかしさが明らかになると思っているのだろうか。
あるたとえ話が不適切だと難ずるのならば「軍部隊を個人になぞらえると、こういう場合の類推がうまくない。誤解を導く虞がある。けしからん」とやればいいのであって「軽すぎる」などというのは首相のたとえが「わかりやすすぎる」と賞賛しているのに等しい。
なんといえばいいのだろうか。どれもこれもため息がでるとでも評する他ない。こんなレベルの反論しか本当にできないのだろうか?
憲法がなんのためにある?って問いに、「国家の権力が暴走しないように」っていう高校生の社会の授業みたいな答えで満足できるうちはそう思えるかもしれない。
その答え自体は間違っていないのだが、せっかく大人になったのだからもうちょっと視野を広く持って深く考えた方がおもしろいことが見えてくる。
たとえば、「じゃ、憲法が規制しようとする国家の権力(=power=暴力=軍事力+警察力)はなんのためにある?」っていう問いにはどう答えるのか?自存自衛できることは国家の要件そのものだ。
憲法にはそもそも国家に自ら破綻を強いるようなことを書けるんだっけ?国家の権力が存在することを前提としてそれが暴走しないようにするためのものなのに。
憲法の直接的表現よりも優先される法的束縛力というものは確実にあるのだよ。外交条約もその一つ。
また、たとえば憲法を改正して「黒人は殺せ」とか「ユダヤ人は殺せ」とか書いたとする。その新憲法は法的に正当なものになるのかな?
このあたりまで視野を広げると、憲法を現実生活の中でとらえる一般国民と、空理空論で安保法制違憲論を唱える憲法学者、どちらがより健全な憲法のとらえ方をしているかが逆転してきてしまうのだ。
しかしそれは憲法とは何か、憲法がなんのためにあるかを考えるふりをして実は考えてこなかった報いだ。
甘んじて受けてほしい。
仮に憲法学が学問の名に値し、科学的な態度を尊ぶならば、安保法制を違憲と唱える憲法学者は安倍首相に感謝するべきだろう。
実験や観測で得られた「観察された事実」を説明するのが「理論」。
現在、受け入れられている理論(定説・通説)で説明できない事象が観察されたとき、それは学問が発展する大きな機会だ。
惑星の動きを説明するために天動説が唱えられていて長い間人々はそれに疑問を持たなかった。
ガリレオの地動説によればより簡単な理論で惑星の運行は説明できたが、その精度は天動説の周転円による理論と同じだった。
だが、ティコ・ブラーエにより観測された火星の運行を天動説の周転円理論で説明するのは困難を極めた。
そしてケプラーは、惑星の運行は惑星が太陽のまわりの楕円をたどるとする新たな世代の地動説を唱えた。
さらにニュートンは万有引力の法則を導入し、これに数学的根拠を与えた。これが新たな世代の理論となった。
さらに時代を下ると、地球の自転する方向である東西方向と南北方向で光速度が同じになることが発見された。
これは物体の運動速度には加法(足し算)が成り立つとするニュートン力学の前提を揺るがす観察だった。
これを説明する新たな世代の理論はアインシュタインの特殊相対性理論だった。
さて、憲法学者たちが今日、持っている理論で安保法制の合憲性を証明できないとしよう。
しかし、安保法制自体は現実の政治のなかで必要であるし(そのことは民主党すらも類似の法案を対案として出さざるを得なかったことで分かる)、成立の暁に最高裁に100回持ち込まれても100回合憲判決が出るであろう。
今後、現実の政治制度のなかで安保法制は合憲・合法のものとして扱われることになるのだが、それを現在の憲法学の理論は説明できないことになる。
すばらしいことではないか。
君らは今次の安保法制の合憲性を説明する新理論構築という新たな大事業に取り組むことができる。
憲法学は現状を追認するだけのつまらん学問もどきだという烙印を世間から押されることになるかもしれない。
しかしそれは憲法とは何か、憲法がなんのためにあるかを考えるふりをして実は考えてこなかった報いだ。
甘んじて受けてほしい。
大きな声では言わないが、自衛隊を合憲とした例の判決は連中にとっては「屈辱の極み」という事になってるらしい
あと個人的に思うが、憲法学者ってのはぶっちゃけ「後から発見されたり発掘されたりした物によって定説が覆る心配が絶対にない考古学」みたいなもんで、数年で業界のルールがガラリと変わるような世界の人間には完全に異次元の世界だよ
プログラマーに分かりやすく例えるなら、「COBOLだけが業界唯一のプログラム言語として誕生当初からずーっと存在し続けている世界」みたいな感じ
なんせ国連でも「人道に対する罪」に匹敵すると糾弾された拉致問題について、北朝鮮が「1年間で調べられませんでした」なんて言って、調査期間の延期を通告してきたのに、共産党などは赤旗で批判すらしないからな。
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「拉致」も「北朝鮮」も、影も形も見当たりません。ある意味、徹底しておりますな。
安保法案に多くの憲法学者が反対しているのは、その内容が現行憲法の解釈次第では憲法違反になるからという理由なわけだが
(あるいはそれにかこつけて法案内容が気に入らない左翼も混じっているだろうが)
法案に反対する反日マスコミや、そのマスコミの妄言を真に受けてしまった愚かな大学生たちは法案の内容が気に入らないようだ。
さらに後者には太平洋戦争の戦場を知っている老人まで混じっている。あえて言わせてもらうが彼らは老害である。
なぜそう言わなければならないのかというと当時の戦争を頭に思い描いて現代に戦争反対を叫ぶからである。
現代の戦争は70年前のようにジャングルに潜って歩兵がどうこうするようなものではない。戦闘方法のみはない、
戦闘行為の持つ意味、期間、経済面、どれをとっても過去の知識で語れるものではなくなっている。
彼らは戦争を忌避するがあまり知識がブラッシュアップされていない。
法案内容に反対する若者の中にも同じような感覚で戦争を捉えているのが多い、これは戦争=悪として戦争について考えることを
放棄したがために幼児のような思考でしか戦争を捉えられていないからである。平和を望み平和を考えるのであれば、
戦争を考えることは避けて通れない、法案反対デモをやっている奴らは本来の意味で平和がなんたるかさえ理解していないのだ。
百田氏と彼に乗っかった若手議員は相応の処分を受けるべきだと思うが、「民主主義の理念を根幹から否定」と言うなら、
先日の議事妨害を正当化した長妻代表代行もひとしく相応の処分を受けるべきなんでは?華麗にスルーされてるけど。
言うなればテロリスト宣言でしょ、野党第一党代表代行による。これがスキャンダルでなくて何なんだ。
結局、気に食わない勢力の主張や行動は強行採決であり数の暴力であり民主主義の否定であり、
それに反する勢力の主張や行動は民意や理念を反映したものとして正当化するっていうダブルスタンダードが諸悪の根源なんだよ。
たとえば、有り得ない仮定ではあるが、今回の安保法制に関する憲法学者の意見比率が合憲と違憲で正反対だったとしたら?
彼らの主張を錦の御旗のように掲げている人たちは、「違憲判定はわずか3人」と騒ぎ立てただろうか?
「最終的に決定を下すのは個々の憲法学者ではなく最高裁だ」と、まさに現在の与党が主張していることをそのまま主張したのではないか?
憲法の話をするんだったら一番エロいのは頭脳の無限の可能性を歌う13条なんだから,13条関連の憲法判例でも議論していればいいが,最近の馬鹿憲法学者は,9条がどうたらとうるさい。田舎のババアが調子こいてキラキラネーム1万件以上生み出したり,ガキが卑猥なことしてるのも察知できないで,国会議事堂みたいな廃墟でブツブツ言ってるような目の腐った人間なら学者辞めて隠居でもしろや老害。
スザクは正しくない方法で得られた結果はやはり正しくないと思ってる。
この溝は深い。
しかしのちにできる。そのときスザクはどうなるのか。また守るべき者を失った時スザクはどうなるのか。
自分個人の感情を言えば、国のトップにはルルーシュに立ってほしい。
なぜなら国家内には「正しい」方法や法律があっても、国家間には無いに等しい。自然状態に似た弱肉強食のバトルロワイヤル。
その中をスザクは守るべき者を守りながら戦うことができるのか。「正しい」方法と守るべき者の命の二者択一を迫られた時、どちらを選ぶのか?
つまり、集団的自衛権は違憲であるから国民投票を経て改憲すべきだという展開である。
だから、違憲であるから改憲すべきであるという展開になると困るのである。
ここで、国民投票で自民党案に打ち勝てば問題ないという意見があるだろう。
しかし、ここが言いたかったことなのだが、国民投票は改憲案の条文一つ一つに対して行われるのである。
自民党案という大きな括りではなく、一案一案選ばれることになっている。
こうなってくると議論が分散することは目に見えるし、おそらく議論が深まらないまま素通りしてしまう自民党案がいくつか出てくるだろう。
私はこれが怖い。